第六話 最低の日々にアンダーライン
「お前、何言ってんだよ」
山下が不可解なものを見ているかのように、怪訝な視線を向けてきた。いつものふざけた様子は微塵もなく、真剣に薫の言葉の真意が掴めないことに苛立っているようだった。
病室の前の廊下、簡易的なベンチがぎしりと軋む。
山下が俯いている薫に身体を近づいてきたせいだ。
「もう一回言ってみろよ」
薫としては何度でも言ってやるつもりだった。
「だから、あの事故は俺のせいだって言ってるんだ」
つぶやくように念じるように薫は断言する。
「はあ? ふざけるのも大概にしろよな」
いつもふざけている山下にそんなことを言われるのは甚だ心外だったが、今はそんなことを彼に言い返せるときではないことは分かっていた。そもそも薫には何かを言い返せるだけの気力がない。
山下はベンチから立ち上がる。そして、熱くならないようにか、大きく溜息をついた。
「なんで、そう思う?」
その声は穏やかさを取り戻していた。
薫はゆっくり、事故の瞬間を思い出しながら話した。
「あの時、事故にあう直前に、俺が須藤さんに手を振ったんだ。それで、彼女の注意がこっちに向いた、もし、そうしなかったら、彼女は近づいて来てる危険な車に気づいていたと思うんだ」
「つまり、事故を未然に防げた、と? そう言ってるのか?」
「それに、迫ってきた車も視界に入ってた。俺の判断が鈍くなけりゃ、彼女に危険を伝えられたのにさ。だから、それが出来なかった俺のせいだ」
見上げた山下の顔は呆気にとられているというか、薫の言葉を本気だと捉えてないのか、薄笑いをしているようだった。
「いったい、どんな理屈でものを考えればそんな結論に至るのやら……」
そして、彼は前にしゃがみこむと、俯いている薫の顔をのぞきこんできた。
「だから、小野村のせいじゃないって。あれは間違いなく信号無視で突っ込んできた車が悪い。間違いなく、な。事故を防げなかったことはお前が気に病むことじゃない。とんだお門違いってやつだ」
山下に慰められている、と分かった。それは嬉しかった。いつもお茶らけている彼でも真面目に誰かに優しく出来るのだと知った。
でも、薫としては、持論を押し曲げるつもりはなかった。誰が何を言おうと、断固としてだ。
「俺が悪いんだ、俺のせいで彼女は動けなくなった」
その言葉が何かの引き金になったようだった。山下の顔色がさっと変わった。すっと右手が伸びてきて、薫の胸倉を掴んだ。
強い衝撃。
壁に押し付けられたのだと分かった。
痛みで小さく薫は呻く。
「だから、何度言ったら分かる? お前のせいじゃないって言ってるだろ!」
彼の声は病院に響き渡る大声だった。
何事かと周囲で気がついた看護師たちが駆け寄ってくる。
「わけわかんねえよ、お前。なんだよ、悲劇のヒーローのつもりかよ!」
彼の顔は怒りに歪んでいた。こんな彼の顔は見たことが無かった。なのに、薫はなんとも思わなかった。怖いという感情さえ、浮かんでこない。
突然の騒ぎに、近くの病室から顔を出している病人や、見舞い客の姿が見える。近寄ってきた看護師たちは山下の肩を掴んで、薫から引き離そうとしていた。
「何があったんだ。喧嘩なら外でやってくれ」
しかし、山下はその言葉を無視したまま、鼻息荒く薫の顔を見ていた。
「何か言え、この馬鹿!」
彼の唾が飛んできて頬を垂れる。でも、薫は何も言わなかった。無表情に山下を見返している。
すると、腕の力が抜け、薫の体は再びベンチの上に戻った。山下が説得を諦めたのか、それともか、本格的に薫のことを見放したのかもしれない。
腕を垂らし、止めに入っていた看護師や医師の手を振り払うと、出口の方へ向かって数歩歩いた。
そして、立ち止まると、
「お前、ここ数日変だぞ。俺にはお前がなんでそんなに思いつめてるのか、それが分かんねえ」
吐き捨てるようにそれだけ言って、彼の姿は通路の先に消えていった。
残された薫に看護師たちは大丈夫か、などと声をかけてきたが、
「放っておいて欲しい」
と素っ気無く返事をしておいた。心のうちで、どっかに行け、と思っていた。
しばらくしてから、山下の消えた方向から背の高い堂野が歩いてくるのに気づいた。薫を見つけ走ってくる。正直、今は彼の存在すら煙たかった。
「薫?」
そう呼びかけてきたが、返事をしないまま、首を僅かに傾けて反応を示した程度だった。
堂野は薫の前に立つと、数回何かを言いかけ、ためらって、それからしゃべった。
「山下の奴、すごい怒ってた」
「そう……」
「あいつから話を聞いた。ここで何があったのか、全部」
「そうか……」
そして、沈黙。
「薫、あのさ……」
「堂野、説教するつもりなら止めてくれ。今は誰の言葉も聞けそうにない」
薫は彼の言葉を遮って、拒絶した。
言ってから、さすがにこれには、堂野も自分に愛想を尽かすかもしれないと思った。勝手にしろと怒って帰ってしまうと思った。
しかし、堂野は静かに首を振り、こう提案した。
「なあ、少し、散歩でもしないか?」
事故の翌日の放課後、薫たちは文化祭の準備が一段落したのを見計らって、学校を抜け出して彼女の見舞いに行った。
近くの総合病院。
病院の受付で病室を尋ねると、愛想の良い若い看護師の女性が答えてくれた。
「西棟の303号室よ。実はさっき、診察に行ったんだけど、ちょうどご両親が帰ったところで、暇そうにしてたわ。きっと友達が来たと知ったら喜ぶんじゃないかしら」
十名以上の大所帯で病院に押しかけていた薫たちはその看護婦から、大騒ぎだけはしないようにと注意を受け、さっそくエレベーターに乗り込んだ。もしかすると、重量オーバーになるのではないか、と誰かが心配したが、なんとかエレベーターは作動した。
目的の階で停まり、我先にと友人たちは出て行く。
その中で薫は浮かない顔で堂野の隣に居た。確かその様子に気づいた堂野から、
「どうかしたのか?」
と訊かれたが、
「なんでもない」
と、そう返した。
だが、このときの薫の心情は間違いなく沈んでいた。ただ単純に事故のことを思い出して暗い気持ちになっていただけではない。
君恵に会うのが怖かったのだ。
彼女がどんな顔をしているのか、見るのが嫌だったのだ。
あの事故の後、薫は彼女が主役を演じる予定だった劇に出演することはほぼ絶望的だということを知った。なにしろ、骨折しているのだ。完治するまでにどう見積もっても一ヶ月以上かかるそうである。もちろん、仮に動けたとしても、松葉杖で舞台の上を歩き回ることは出来ないだろう。
突然の事態に、演劇部の部長である有川が奔走しているということも耳に入っていた。劇の代役を探しているらしいのだ。
当然、君恵も聞いているはずだ。
それを思うと、薫はやりきれない、眼を背けたくなるような気持ちになる。
彼女はその事実をどんな思いで受け取ったのだろうか。そして、今、どんな心持ちでいるのだろうか。
通路の先を進んでいくと、クラスメイトの話し声が聞こえてきた。間を置いて、笑い声も届いてくる。
病室の前、303の文字の横のネームプレート、「須藤君恵」の名前を見つける。個室のようだった。
歩みがためらいがちになる薫を気遣ってか、堂野が背中を押してくれた。
そして、入り口をくぐった先で、薫は事故後、初めて彼女の顔を見た。
窓際のベッドの上、友人たちに囲まれた彼女は笑っていた。まるで、何事もなかったように、手を叩いて。
足は痛々しく大きなギプスに固定され、頬には擦り傷を覆う絆創膏が貼られていたが、そのほかは普段の彼女と変わらない。
その無邪気さ、屈託のない澄んだ笑い声に、薫は嬉しいのか、悲しめばいいのか、よく分からなくなってしまった。その場に固まったまま動けない。
「あ、小野村君に堂野君」
君恵が、薫たちに気づいた。場が空気を読んでか、さっと静まった。彼女が手招きするので、おずおずとベッドの前まで歩く。
すると、彼女は垂れていた前髪を払い、
「事故の時は助けてくれたよね。本当にありがとう」
と丁寧に会釈をしてきた。
「あのとき、二人が居なかったら、私もっと大変なことになってたかもしれない」
そして、にっこりと微笑んだ。
薫は彼女の言葉を否定したかった。あれは違うのだと、薫は何一つ、君恵のために出来ていなかったのだと。
自分は意気地なしで、目の前で何かが起こると、パニックになって、何も分からなくなって、駄目な奴なのだ。それを自覚していた。
誰かが拍手をはじめ、それが次第に周りに伝播していく。
「よくやったぞ」などと褒めてくれるが、薫には受け取れない賞賛だった。
止めて欲しかった。
もう薫には真っ直ぐに君恵の顔を見れなかった。自分が虚構で作られた薄汚い衣装でスポットライトを浴びていることに誰も気づいていない。
その後ろめたさが、薫の首元にまとわりついて離れなかった。
その後の面会時間、薫は終始部屋の隅で女子生徒の話すどうでもいいテレビの話や、山下の根も葉もない噂話、そんなものに適当に相槌を打って後は、沈黙していた。
帰り際、一緒に帰ろうとする堂野に謝って一人で帰宅した。そんなことは初めてのことだった。堂野も困惑しているようだった。
でも仕方なかった。胸の内でのた打ち回る苦しみがふとした瞬間口を衝いて出てきそうだったのだ。
今日薫が実感したのは、惨めなほどの自分の弱さと正反対に光る君恵の強さだったのだ。
どうしてあんなに君恵が自然に振舞えるのか、不思議でならなかった。
なぜなら、薫は知っていた。
君恵があの劇の主役をどんなに心から喜んでいたか、演じることを楽しみにしていたか。
事故の数日前、薫は堂野を誘って彼女の練習を見学に行った。あの綺麗な声で台本を片手に演じる彼女は本当のお姫様のようだった。あの時、薫は彼女が本当に演劇が好きなのだと実感したのだ。
そして、事故の直前、最後に会ったときも、
「絶対に『白雪姫』見に来てね」
と念を押されたほどだった。
それなのに、どうして彼女は落ち込んでいないのだろう。どうして平気で笑えるのだろう。
自宅に帰って、悶々と薫は自室に籠もっていた。苛立ちながら考えていた。
自分が最低に恰好悪く思えてならなかった。暗い考えは夜が色濃くなるに連れて、どんどんと心の中に蓄積され、重力を持ったかのように薫の身体を上から押さえつけているようだった。
アンダーラインを引いたわけでもないのに同じ言葉が何度も何度も脳内を行き来した。
「お前は弱い、最低の人間だ」
それは嵐の暗雲を連想させる妙に低い自分の声だった。もしかすると、知らず知らず自分の内で育ってきた劣等感の声なのかもしれないとも思った。
それから数日は、意気消沈して暮らしていた。山下が指摘していたのはそういうことなのだろう。
自分が悩んでいることを誰にも話さなかったから、余計周りの人間はおかしいと思ったに違いない。だから、優しく接してくれていたのかもしれない。
だが、結果的に薫はそれにも気づかず、山下を傷つけてしまった。
ますます最低な人間だな、と自嘲的に思う。
ああ、馬鹿な男だ、嫌気がさす、と。
俯いたままの薫の手を引いて、堂野が向かったのは、病院の非常階段の踊り場だった。散歩だというのに、歩いたのはせいぜい階段を上って扉を開けるまでの百メートルにも満たない距離だった。
「本当は屋上でも行こうかと思ったんだけど」
彼は鼻の頭を掻く。
「危ないから立ち入り禁止なんだってさ」
「そうか」
別に期待していたわけでもない薫は素っ気無い返事だ。適当にドアの付近で腰を下ろす。
堂野は錆の浮いた手すりに寄りかかり、景色を眺めているようだった。地上四階から眺める町の様子はそれなりにいいものだ。空が晴れていればもっと良くなるだろう。残念だが、今は曇っている。
こんな人気のない場所に連れてきたのだから、何か話すつもりなのだろうが、堂野は一向に話そうとはしなかった。身じろぎもしないで、薫に背を向けたままだ。
五分も経っただろうか。さすがにしびれを切らした薫は堂野に言った。
「用がないなら、俺は帰るよ。須藤さんにはよろしく言ってもらえないか? 病室に行けなくて御免って」
実は、あの日から薫は彼女に会うのが怖くて一度も病室に行けていなかったのだ。せっかく病院に来ているのだが、意味のない行動だった。
堂野から返事がない。生きているのだろうか。服についたほこりを払って立ち上がった。
「久しぶりに聞きたいな」
ドアのノブに触れたとき、背後から声が聞こえた。
「薫が俺の声まねするところ」
妙なタイミングでリクエストが入り、薫は戸惑った。
「まさかそんなことをさせるのに俺をここへ呼んだのか?」
「いいじゃんか。たまには聞いてみたくなったんだよ。薫の声まね」
「……やればいいんだな?」
薫はいったい堂野が何のつもりでそんなことをさせるのか、理解できなかったが、とりあえず、彼のいうことに従ってみた。
軽く咳払いして、喉の調子を整える。
「あー、あー」
いつものように、以前アンダーラインを引いていた彼の言葉のイメージを脳内で呼び起こした。そして、少し俯いて声を出した。
「それならからあげ定食でいいんじゃない? なんていうかどうでもいいけど」
自分の興味のない質問をされたときの堂野の返答を想定してまねをしてみた。
「すごい、やっぱり似てるなあ」
彼は拍手をしている。
「自分の声をまねされて楽しいものか?」
薫は自分のまねをされるなんて考えるだけでも気恥ずかしいだけなのだが。
「他の人のまねもして欲しいな。例えば、生徒会長の高橋とか」
「高橋?」
「もしかして、出来ないのか?」
珍しく堂野が意地悪な言い方をする。
「そんなわけないだろ」
意地になって薫は答えた。
この声まねの技術は長年自分が研究を重ねて培ってきたものだ。こんなことが出来るのは学校に自分くらいしかいないと自負している。
もう一度声の調子を整える。
「あー、ごほん。生徒会長の、高橋です。き、今日は、晴天にめぐれ、恵まれまして、絶好の、体育祭日和となります、じゃない、なりました」
我ながら完璧な声まねだと思った。堂野を見ると、手を叩いて笑っている。
「すごいなあ、どもってるところまでそっくりだ」
「リアリティがあるだろ?」
「ああ、全く高橋そのものだ。じゃあ次は、吹奏楽部の部長さんやってくれ」
彼がタクトを振るまねをする。
「あ、ああ」
調子に乗ったのか、堂野は次々にリクエストをしてきた。薫としては断わってもよかったのだが、久しぶりに声まねを他人に披露する機会とあってか、悪い気分はしなかった。
自分が試行錯誤の上、手に入れた能力を評価されるのは気持ちがいい。
知らないうちに、堂野がリクエストを言う前に自分から声まねを始めていた。駆け込み乗車を注意する駅員や、球場に響くうぐいす嬢の声、日々の生活の中で取り入れた特徴のある声を次々に聞かせた。
「どうやらいつもの薫が戻ってきたみたいだな」
しばらくしてから堂野が口を開いた。途中から彼は一方的にしゃべる薫に相槌を打つだけとなっていたのだ。
「え?」
思わず、薫の動作が止まる。
「薫と俺じゃ、俺の方が無口だもんな。それが最近じゃ逆転してた。俺が何かをしゃべっても薫が話すのは二、三言。だからいつもより、一杯話して……これでも場が沈黙しないように結構気を遣ってたんだぜ」
「そうだったんだ」
そして、大きく息を吐き出して、自分の罪を認めるかのように、
「ごめん」
と一言謝った。ようやく素直になれたみたいだった。
「いろいろと自信喪失してたんだよ」
「自信喪失、か」
「ここ数日、自分の中で悩んでた。自分の弱さが浮き彫りになって、急にはっきりと認識できるようになって、それで、怖くなったんだ。周りには自分より強い人間ばっかで、こんなちっぽけな自分が到底太刀打ちできるような世界じゃないって思えてきてさ」
「山下に事故は自分のせいだって言ったのも、その理由からきてるのか?」
薫を気持ちを極力刺激しないためか、彼は控えめに訊いた。
「……自分が悪い空気の根源だって気がしてならないんだ。もちろん、冷静に考えれば、山下の言うとおりで、事故に俺の責任はないんだろうと思う。自信を無くして、少し自暴自棄気味になっているんだろうな、俺」
そして、余裕を見せるために、薫は苦笑いをしてみせた。でもそれはすぐに力の抜けた空しい笑いになってしまう。
胸の内にある濁った水は簡単に浄化されないのだろう。
そこで、薫はあることを思い出し、堂野に訊いてみた。
「そういえば、少し前に言ってくれたよな、堂野。自分のいいところを見つけろって」
「ああ、確かに言ったな」
薫はあの夕暮れの教室を思い出している。
「堂野は、俺のいいところって何だと思う。一つでもいいから、教えて欲しいんだ」
「俺が言うのか?」
堂野はきょとんとしている。
「他人の意見を聞くことで参考になるだろう? ああ、俺、そういうところがあるんだってな」
「それなら、そうだなあ……」
彼は口元に手を当てて、少しの間考え込んでいたが、指を鳴らして人差し指を立てた。
「俺と友達になってくれたこと、かな」
「堂野と友達になったこと?」
「そうだよ、何か変か?」
「変というか、そんなことなのか?」
「重要なことだよ。薫が俺の友達になってくれたことはさ」
そして、彼は物思いに耽るような遠くを見るような目つきになる。
「きっとまともに友達なんて呼べる人間に出会ったのは薫が最初だと思うからさ。俺と話をするようになってくれた初めての人だ」
「そ、そうなのか?」
これには薫は目を瞠った。そんな事実は全く知らなかったのだ。
「正直、友達なんて別に必要ないと思ってた。一人で居たって、特に問題なく生きてきたし、これからもそうなんだろうなって思ってた。でも、薫が友達になってくれてその考えは変わった」
「どんな風に?」
「いや、なんていうか、上手く話せそうにないけど、楽しいんだ。薫と一緒にいれて、本を読むだけじゃ分からないような知らないことを一杯知ることが出来たと思う」
生き生きと話す堂野を見て、薫は不思議な気持ちになっていた。自分が堂野と友達になろうと思った明確な理由は思い出せなかったし、そこに重要なことなどないと考えていた薫にとっては新鮮な驚きだった。
「だから、薫には感謝してんだ」
そう言ってくれた彼に対し、自分が知らぬ間に、誰かのためになっていることだってあるのだと、薫は実感していた。自分の行動が誰かに作用して、その人を意識を変えているなんて、思いもしなかった。
そして、自分にも何か出来ることがあったのだと知って嬉しかった。
自分は何も出来ない、そう思っていたことは間違いだった。
「薫はそのままでもいい奴だよ」
堂野の言葉は背中を押してくれるようだった。
これまで鬱々と悩んできた自分を全て打ち払うことは出来ない。でも、少なくとも前に進むための準備が出来た、と薫は目を閉じて、思う。思い悩むのは、やーめた。
そう考えたから、堂野に感謝した。
「こっちこそ、ありがとうだ。亮介」
突然自分の名前を呼ばれた堂野は目を丸くしていた。これまで、薫が堂野を名前で呼ぶことなど一度もなかったのだ。当然の反応だろう。
「今日からは堂野のこと、亮介って呼ぶよ。そっちが俺のことを名前で呼んでくれてたのに、こっちは苗字っていうのは変だからな。やっぱり友人同士なら名前で呼び合うべきだろ?」
「ああ、俺もそれがいいと思うよ」
ほぼ即答で堂野は頷いた。
「これからもよろしくな、亮介。また助けてもらったよ。もうこんなことで悩んだりしない、誓うよ」
「そうか、ならよかった」
そして、薫たちは握手を交わした。改めてそんなことをするなど気恥ずかしかったが、それは、これまでの友情をさらに深く繋ぐために必要な一つの約束でもあった。
非常階段への扉が開いたのはその時だった。こんな場所であるから、昼日中、人の来る場所ではないはずなので、ぎょっとしたのは言うまでもない。
もしかすると、人の話し声を聞きつけた病院関係者がここには来るな、と注意をしに来たのかと思った。
しかし、ドアの隙間から顔を出したのは意外な人物だった。
「あら、こんなところにいたのね。小野村薫君」
そのどこか、人を見下しているような偉そうな物言いにはやはり聞き覚えがあった。眼鏡を
かけ、その内側に鋭い眼光を光らす、長髪の少女。
有川久美だ。
「ど、どうして有川さんがここに?」
いまいち事態が飲み込めない薫。しかし、口ぶりからどうやら彼女は自分を探していたようだ。
「お友達の山下君から聞いたのよ。あなたがいま病院に来てるってね。私は君恵の見舞いもあったから都合がいいってことであなたを探してたんだけど。まさかこんなところにいるとはね、見つけるのに苦労したわ」
彼女は額の汗を拭う素振りを見せる。
「何か用、ですかね?」
訊くと、彼女はまるでそれが至高の幸福であるかのような満面の笑みを浮かべた。
「そうよ。とても重要な頼みがあってきたの」
同じクラスメイトでもない彼女がわざわざ自分に何の頼みごとをするのだろうか。薫には見当もつかない。しかも重要な頼みごとだと言う。
「な、何さ」
「いい? よく聞きなさい」
彼女は薫の肩を掴む。そして、ふっと一呼吸するととんでもないことを口にした。
「あなたには、君恵の代わりに劇で白雪姫を演じてもらうわ」
さすがにこれには薫も卒倒するかもしれないと思った。予想外にもほどがある。
気が動転してしまった薫は、無意識に彼女の言葉にアンダーラインを引いてしまった。