第三話 薫の憂鬱にアンダーライン
他人の声まねが上手くなったのはいつからだったのか、と周りから問われると、薫はいつも言葉を濁らせてしまう。
幼い頃に見ていたアニメのものまねをしてみたのが一番最初だとか、ラジオのDJの珍妙な喋り方が耳に残っていてそれを自分でも実践してみたとか、猫が大好きで一緒にいつも過ごしているうちにいろんな鳴き声が出せるようになったとか、そんな適当な嘘をついてなんとかやり過ごしてきた。
薫にとって、声まねが出来るようになった理由とは、誰にも知られたくない極秘事項だった。
もしも誰かに知られてしまったら、と思うとぞっとしてしまう。このことに関しては親友である堂野にすら告白したことはなかった。きっと気味悪がられてしまうに違いない、という不安があったのだ。それに、何より死にたくなるほど恥ずかしいと薫は思う。
そもそものきっかけは今から数年前に遡る。まだ薫が小学生だったころである。自分と同じクラスにある日転校生がやってきた。
それが、須藤君恵である。
「こんにちわ、皆さん。転校してきた須藤君恵です」
薫は今でもはっきりと思い出すことができる。それが教室に入ってきた彼女の第一声だった。
そして、そんな彼女に薫は一目惚れ、もとい、一聞き惚れとでも言うのだろうか。その透き通るような、まるで鈴の音を思わす綺麗な声に胸を貫かれた思いだったのだ。
その声を他のクラスメイトはどう感じたのかは知らないし、分からない。特に反応をしていなかったところを見れば、どうとも感じなかったのかもしれなかった。
けれど薫にとって、それは、まるで天使の声のようにも聞こえたのである。過言だろうか。いや、そうではない。
なぜなら、あの時確かに薫は彼女に恋をした。
同じ教室内で聞く、彼女の笑い声を聞くだけで幸せな気分になれたし、話しかけられれば、鼓動の高鳴りを自覚した。これを恋と言わずして、なんと呼ぶだろう。
そして、いつしか薫は彼女が喋る言葉に、無意識にアンダーラインを引くようになったのだ。
「アンダーラインを引く」
それはどういうことか、と言われれば説明に困るが、薫の中で起こっていることを一番しっくりくる表現で表すとそうなる。
ええっと、彼女の言葉を会話の中からピックアップすると言えばいいか。たぶん、そういう感覚なのだろうと薫は思う。脳にそれを蓄積させ、録音をするみたいなことだ。
そして、その能力は、薫が学校から帰宅し、自室に戻ったときにいつでも彼女の言葉を脳内で再び取り出すことが出来た。いつでも彼女の声を聞くことが出来るのである。
「人間テープレコーダー」と表現してもいだろうが、なんとなく薫は違和感があると思っていた。どう言えばいいのか、まったく不思議な能力である。
いったい何が原因でそんな能力が目覚めたのかは知らないが、薫はそれを駆使するようになった。さっきも言ったように、君恵の言葉にアンダーラインを引くようになったのだ。
アンダーラインを引くのは本当に何気ない言葉だと思う。
朝、登校してきたときの「おはよう」だったり、帰り際の「バイバイ」、他には「私もその番組みてるんだ」とか、そんなものもあった。そういったものを会話から抜き出しては、脳内で繰り返し聞くのである。
断わっておくが、もちろん薫はよく理解している。それは自分の行動を傍から見たときに発生する変態性のことである。自分の今までの行動を客観視してみて、気味が悪いと薫は自覚していた。好きな子の声を頭の中で再生して聞いているなんて。これじゃ、変態だ。本当に変態だ。
でも、誤解しないで欲しいのは、この能力をいやらしいことに利用しようとしたことなど一度も無い。微塵もない。純粋に彼女の声が好きで、聞いていたいのだ。こればかりは信用してもらうしかないが、「断じてない」と薫は誰に弁解しているのか、そう思っている。
ともかく、薫がそうして言葉にアンダーラインを引けるようになるのとほぼ同時に、声まねが出来るようになった。それが、声まねの始まりだ。
彼女以外の人間にその方法を応用し、言葉にアンダーラインを引くようになってから、自分の声でそれを再現可能なことを発見したのである。
薫は医者ではないし、体のつくりや仕組みに詳しいわけではない。しかし、声まねとアンダーラインの能力に関してはつながりがあるというか、相互に作用していることに気がついた。オーディオ機器で例えるなら、アンダーラインが入力だとすれば、声まねは出力といったところだろうか。
そして、最初は不慣れだったその能力も、精神集中を行うことによって精度を増していった。今では、男の声であろうと女の声であろうと、かなり広範囲のまねをすることができる。それは薫としても自信を持って言える。
しかし、そんな薫にも唯一納得のいく声まねが出来ないものがある。
それが、須藤君恵の声だった。彼女のような透明性の高い声はどうイメージしようとも上手く再現することが出来なかった。
きっとあの音質は彼女だけが唯一所持した天賦のものに違いないと薫は思っている。そして、そのことを知り、ますます彼女に魅力を感じるようになった。
だが、その想いとは裏腹に、薫は依然としてその想いを彼女に伝えることが出来なかった。一年が過ぎ、二年が過ぎ、中学校に上がっても、普通に話すときでさえ緊張してしまうという有様である。
全くもって度胸がない。
馬鹿にするなら馬鹿にしろ、笑いたければ笑うがいいさ、と薫は誰に向けているつもりなのか、そう思っている。
でも、そんな薫でも弁解したい部分はある。薫には彼女が振り向いてくれるだけの魅力がない、と考えているのだ。それが彼の自信を支えてくれない。だって、背は低いし(下手をすれば彼女より低い)、体つきも子供っぽい(声もそうだ)、周りにはそれをからかう輩はいるし、もう恰好悪い。
そんな自分に彼女が好意を寄せることなどまずありえないと思うわけである。
だから、今日も薫は自宅に帰って牛乳を飲むと、自室で回転椅子に後ろ向きでまたがり、アンダーラインを引いた言葉を目を閉じて繰り返し聞くのだ。
ともかく、以上のことを考慮してもらえればわかると思うが、これが声まねが出来るようになったきっかけを語りたがらない理由である。
「堂野までとは言わないけれど、もう少し、背が高ければなあ」
自室の天上を見上げてそう彼はつぶやく。
暇になった薫はしばらくしてから、階下のリビングに向かい、ゲームを起動させると、続きからやり始めた。
堂野に言われた点を考慮しながら、なぞを解く。すると見事、彼の指摘した通りだった。
先の扉が開き、嬉しかったことは確かだが、なぜか素直に喜べなかった。
おそらく部屋に戻り、たまたま自分のコンプレックスを思い出して、憂鬱に染まっていたせいなのだろう。村松先生を怒らせたことも記憶の隅で関係しているかもしれない。
薫は大きく溜息をつくと、そのまま背中から床に倒れこんだ。そして、気がつけばそのまま眠っていた。