第十話 二人きりの特訓にアンダーライン
土曜日の朝。いつもなら自宅でごろごろと過ごしている時間に薫は病院へと向かっていた。
もちろん、君恵が入院している病院である。
人のまばらのバスの窓側席に座り、手にはもらったばかりの劇の台本を持っている。薫はそれを見るわけでもなく、丸めて握っているだけで、窓の外を眺めていた。
彼はこれから会う君恵のことを考えていたのだ。
一昨日、有川からかかってきた電話。
「もしもし、小野村君?」
「有川さん? こんばんわ。どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ。劇のことで電話したの」
「ああ、それでどうなったの?」
「小野村君に言われた通り、君恵に連絡しておいたの。彼の練習に付き合ってくれるかって。そうしたら、彼女、すぐに快諾してくれたわよ。断然オーケーだって」
「ほんとに? 嘘じゃない?」
「なんで嘘つくのよ。あ、そうか。君恵に会えるからうれしいんだ」
「げえっ、そうか、知ってるんだったよな」
「今からでも、もう一階君恵に電話しようかな。明日、小野村君が話したいことがあるって」
「……お願いします。やめてください」
「こ、これは面白い。小野村君をこのネタでゆすったら、百万円でも出してくれそう」
「からかうのは止めろって」
「はいはい。ともかく、そういうことだから、明日は病院に行って。忘れないでよ」
「分かった、明日だろ?」
「それじゃ、ね」
受話器の置く音、がちゃり。
病院は休日ということもあり、人影もあまりなく、閑散としていた。薫は駐車場を突っ切って歩く。入院棟には正面玄関からではなく、裏の通路から入った。
自動ドアが開き、エントランスに入る。
そこで、薫は一度深呼吸をしてみた。知らず、心臓の拍動が高鳴り、どこか息苦しくなっていたのだ。
思えば、君恵とまともに顔を合わせるのは事故の翌日見舞いに行ったきりである。それ以来気まずくて会っていなかったのだから、緊張しても仕方ない。ましてや、今日は自分の他に付き添いはいなかった。
一対一で彼女と話をするなど、薫の人生経験において、皆無だった。
普通に会話をするのだって、いろいろと一苦労してしまうのに。精一杯なのに。
薫は俯きながら歩く。広いエントランスに自分の靴音だけが響く。
君恵に練習を手伝ってもらいたい、と自分から申し出ておきながら、いざ来てみるとこの様か。笑えるな。
エレベーターのボタンを押し、彼女の入院している階まで向かった。降りると、すぐ脇のナースステーションの看護師たちに挨拶をして、通路を進んだ。
「須藤君恵」
数日ぶりに見るネームプレートだった。
薫はそこで立ち止まる。
あれから、彼女は元気にしているのだろうか。足の具合はどうだろうか。学校に戻りたくて
寂しがっていないだろうか。
様々な思いが頭の中で交錯する。そのせいでか、足が前に進まない。ノックするための手が挙がらない。
病院の個室にはドアはなかった。薄い水色のカーテンが敷かれ、廊下と仕切られている。
それを、薫は、しばらく眺めていた。
ふいにそのカーテンが風を受けて膨らむように舞い上がった。どうやら、部屋の中で誰かが窓を開けたのだろう。吹き込む風がカーテン越しに薫に吹き、前髪が揺れた。
そして、見えた。カーテンの隙間から、ちらりと君恵の姿が。
彼女はベッドに身体を横たえたままで、窓を開け、腰から上を捻る形で外の風景を眺めていた。その横顔は、薄っすら微笑んでいるようで、どこか、何かを探している風でもあった。
『自分を待っているんだ』
薫は直感した。
彼女には自分が来ることを有川が事前に告げてある。だったら、たぶん間違いない。
そして、そのまま踏み出して、部屋の壁をノックした。
「須藤さん? 居る? あの、小野村です」
彼女の声はすぐに聞こえた。
「小野村君? いいよ。入って」
今日の彼女の声は一段と澄んでいるように聞こえた。思い違いだろうか。数日間一度も彼女の声を聞かなかったせいだろうか。
カーテンを開け、おずおずと部屋に入った。君恵はベッドからあまり動けない様子で、近くに置いてあった椅子を指差した。薫に座るよう促す。
「どうぞ、そこに座って」
「あ、ありがとう」
礼を言って、座る。その時、薫ははっとした。せっかくこうして彼女に会いに来たのだから、見舞いの品の一つでも持ってくるべきだったのだ。薫はそのことをすっかり失念していて何も持ってきていない。なんて自分は気がきないんだろう。
「ええと、足の調子はどう?」
ごまかすように、薫は彼女の足のギプスを見た。
「うん、まだあまり動かすなって医者からは言われている。ベッドに寝て出来る限り安静にし
てなさいって」
彼女は動けなくてさもつまらないという風に、目を伏せがちに言った。
「そういえば、事故の時の相手の男の人はどうしたの? 警察からはあれから何かあった?」
「あの人、事故の後すぐに病院に謝罪しに来たんだ。話を聞いたら、あの時、その人連日の徹夜仕事でかなりの寝不足だったらしくて、そのせいで車の運転が雑になってたんだって。それで、ブレーキを踏み遅れて……。今は親と話し合って示談ってことで話しはついてるんだ」
「そうだったんだ」
「劇に出られないのは残念だけど、別にこれっきり出られないわけじゃないし、また、がんばって主役狙えばいいからさ」
それ以上、何も言えず、薫は頷いて終わった。事故のことを聞いてまた、あの時の暗い気持ちが浮かび上がり、目を逸らしたかったという理由もある。
「小野村君、ねえ、そんな変な顔しないで。今日は劇のことで来たんでしょ」
「ごめん。そうだったよね」
自分の暗い表情に彼女のにいらぬ気を遣わせてしまった。薫は首をぶんぶんと振る。
もうくよくよするのはやめると堂野に言ったではないか。そう自分に渇を入れる。
「小野村君が私の代役してくれるんだよね」
「えっと、うん。一応そういうことになってさ。その、皆が俺なら、姫の役が似合うとか、須藤さんの声のまねが出来るとか、そういう理由でこんなことになって」
「きっと久美ちゃんに無理強いされたんでしょ?」
君恵は思いついた顔でそう訊いた。
「そう! そうなんだよ。分かった?」
「一緒に部活してたら、どういう人かってのはそれなりに承知してるつもり。強引なところがあるからねえ。一度こうだって決めたら、相手がイエスっていうまで帰らせなさそう」
「そうなんだよ、俺も弱みを握られて、それで否応なく男なのに、姫の役をやらされることに……」
薫はぐでんとうな垂れる。
すると、君恵は目を丸くした。
「弱み?」
「え?」
もしかすると、余計なことを言ってしまったのだろうか。
「ねえ、小野村君の弱みって何?」
なにやら興味がありそうに彼女はベッドから身を起こして、薫を見つめる。
「え、えっと……」
唐突な質問で、動揺に目が泳ぐ。まさか、君恵のことが好きだったことなど、本人の前で言えるはずもない。一気に顔に血が昇るのが分かった。
「それは無理。教えられないよ」
両手を振って拒否する。
「どうしても、駄目?」
「他人に知られちゃまずいから、弱みなんだって」
「でも、久美ちゃんには教えてるのに」
「まさか、俺が教えたわけじゃないって。好きでそんなことするやつはいないよ」
薫は否定したが、結果的には薫が自分から彼女に教えた形になっていたという情けない事実をすっかり忘れている。
「まあ、いっか。今度久美ちゃんに教えてもらおうっと」
そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は小悪魔だ。
「困る。それは非常に困る。それだけは勘弁して」
頭を下げて、懇願した。彼女が有川に聞けば、あの有川のことだ、きっとすぐに教えてしまうだろう。そうなれば、もう薫は彼女の顔をまともに見れなくなる。廊下で出会っても声をかけられない。生活に支障をきたすことは間違いなかった。
「ふふ、嘘だよ。そんなことしないってば。誰にだって知られたくない秘密の一つや二つ持ってるものね」
彼女はそう言って鈴が転がるような綺麗な声で笑う。
「それより、練習しなくちゃいけないんでしょ。お話しばっかりしてちゃだめだよね」
彼女がベッドの脇のテーブルに置かれた置時計を見た。薫も腕時計の針を見た。ここに来てからしばらく経ったようだ。
「危うく、目的を忘れるところだった」
台本が膝の上に置かれたままになっている。それに手を伸ばしてぱらぱらと開いた彼女が訊いた。
「それで、私は何をすればいいんだっけ?」
「簡単だよ。ただ須藤さんの台詞を、劇で演じるときのように一度読んでくれればいいから」
「まさかと思うけど、それで、私のやった通りにまねが出来るの?」
薫は自信満々で頷いて、ぽんと胸を叩いた。
「一字一句違わず、正確にね」
「それって、本当に? これまでいろいろ噂では聞いてきたけど、小野村君って、すごいんだね」
彼女は目を輝かせて賛嘆の声を漏らす。これには薫、謙遜して、「大したことじゃない」と言うが、どうにも顔が緩んでいる。
最近、自分の能力のことで様々な人間たちから賞賛の声を浴びたが、やはり、意中の女の子から言われるのでは、ずいぶん気分が高揚する。この辺り、容姿には関わらず、薫は男の子だ。
大したことじゃないと言いながら、本当は自分はすごい奴なんじゃないかと思えてくるのだ。
「でも、どうやって覚えるの? 特別な暗記法があるとか?」
「まあ、あることはあるけど、それは秘密」
薫としては、今回、言葉にアンダーラインを引く能力をフルに使用して、台詞を覚えようという魂胆だった。
実は、この能力も何から何まで、際限なく言葉にアンダーラインを引けるわけではない。パソコンに内臓されているハードディスクの容量のように、限界値が決まっているのだ。
薫はそれを長年の経験で知っていた。ノートの古いページから破りとられていくように、アンダーラインを引いた言葉はいつしか消えていくのだ。
その量はどのくらいなのかと訊かれると、これまた説明が難しい(なにしろ、時間経過によって自動的に消えていくものもある)。
ともかく、その容量を多く使って、劇の台詞を頭の中に叩き込もうという作戦なのだ。
「それも秘密なんだ。なんだかずるいなあ」
君恵は不服そうにそう言って頬を膨らます。しかし、すぐに気を取り直したのか、
「まあ、いっか。じゃあ行こう」
と提案した。
「どこへ?」
何も考えてなかった薫はクエスチョンマークが浮かぶ。すると、彼女は天上を指差した。
「屋上。さすがに個室とはいっても、お隣の部屋にも患者さんはいるし、こんな場所で劇の台詞なんか喋ってたら立派な騒音だよ」
「確かに、そうだね」
「看護師さんに事情を話して連れてってもらおう? 車椅子があそこにあるから」
見ると、部屋の隅に折りたたまれた車椅子が立てかけてある。
「今日だけ、特別ですからね」
年配の看護師の女性は屋上の鍵を開けながら、そう何度も念を押す。
薫たちは渋るその看護師に無理を言って立ち入り禁止の屋上に行かせてもらえるよう頼んだ後だった。
迷惑そうに「他にも仕事があるんですけどね」と愚痴りながら扉を開けると、怒ったように足音強く響かせながら、階段を下りていった。
薫はすれ違い様、その女性が舌打ちをした音が聞こえた気がした。
それが、患者に対する態度かよ。薫は背が届くならその襟首を掴んで引っ張り上げてやりたかった。
「ずいぶん、機嫌が悪いみたいだったね」
足音が遠ざかり、後ろから車椅子を押してあげながら薫は言う。
「気にしなくてもいいよ。ナース長だかなんだか知らないけど、いつも不機嫌だから。かわい
そうに、きっと長年患者さんにこき使われてきたんだね。機嫌が悪くなる病気なんだよ、きっと」
彼女は勝手に想像している。
「ふうん」
屋上に出てみると、まず、雲ひとつ無い快晴の空に目がいった。綺麗な秋晴れというやつだろう。清潔でひんやりとした微風が吹いている。その空を小鳥達が二羽か三羽、戯れるように飛んでいった。
しかし、そのさえずりが聞こえない。脇にあるエアコンの室外機だか、ダクトなのか知らないが、うるさく回転する音がするのだ。
全く清清しい気持ちが台無しである。
「小野村君、向こうの方に行こう」
君恵は車椅子の方向を変えようとしている。彼女が目指す先は何もなく、ひらけていて、転落防止のフェンスの前にはプランターに植えられた植物が見える。
いったい誰が世話をしているのか、花々はきちんと咲いていた。
薫は彼女をその手前まで押していく。
「この辺りでいいよ。少しは静かだし」
そして、薫から台本を受け取ると、
「じゃあ、準備はいい? 始めるけど」
そう言って最初のページを開いた。
「ちょっと待って、集中しないといけないから」
薫は息を大きく吸い込んだ。そして、ちょうどいい場所を探して、彼女の正面のフェンスを背もたれにして、しゃがみこんだ。目を閉じて、頭の中の雑念を捨てる。
今回は特殊で、彼女が話す全ての言葉にアンダーラインを引かなければならない。そのためにはそれなりの集中力を使うのだ。
薫は体操座りをして、頷いた。
「それじゃ、須藤さんの台詞の部分だけ、朗読して」
「うん、了解」
再び目を閉じて、薫は深い深い意識の海に沈みこんでいった。
体全部を投げ出すように、浮力を失った体がぬくもりの中に溶けていく。そんな感覚に包み込まれる。
身を束縛するものがなく、普段頭を締め付けている硬い紐が解かれたようにリラックスしている。
その中で薫は顎を挙げる。呼吸をするように。
遥か上方に燦然と輝く陽光が見える。それが、きっと君恵の声だ。
水面を揺らす、風の戯れ。
そして、全てを照らし出す、黄金の光。
柔らかな旋律のように彼女の声は薫の中を漂っていた。
その全てをインクに染み込ませた薫は、今、ペンを握っている。彼の中の部屋で、机に座って。
そして、使い古した、色あせた表紙のノートを開いている。そこには、彼女が話す全ての言葉が記されていた。
薫はそこに手に持ったペンでもって、線を引いていく。一字一句、漏らさないように。文字が擦れてしまわないように、時折、気をつけて、インクを付けながら。
優しく、穏やかな時間が過ぎていった。
「小野村君?」
誰かが、そう呼んで体を揺すった。
「ねえってば、寝ちゃったの?」
薫は慌てて目をこすった。
「もう、終わり?」
見ると、彼女が車椅子から身を乗り出して、薫の肩を揺すっていたのだ。
「うん、これで全部読み終わったよ。でも、本当に聞いてた?」
「もちろん、問題ないよ」
薫は自分の脳内ノートをぱたりと閉じた。立ち上がって両手を掲げ背伸びをした。固まっていた身体をほぐす。長い間集中していたので、半分、体が眠ったような状態になっていたのだ。
「なんだか、怪しいなあ」
「本当だって、これだけで全部台詞は覚えたから、協力してくれてありがとう」
「そ、それはいいけど。じゃあ、試しに問題を出してあげる」
「え?」
君恵は台本を適当に開く。
「15ページの最初の台詞。魔女の命令によって、命を狙いに来た狩人に命乞いをするシーンね。言ってみて」
挑戦的な彼女の視線に薫はえへんと咳払いをした。もちろん言える自信があった。
「もちろん、私の声そっくりに出来るんでしょ。ものまねも聞いてみたかったし、ちょうどいいね」
「いいよ。じゃあ、15ページの最初の台詞」
薫は声の調整をする。そして、彼女の目の前で彼女の声まねをしてみせた。
「どうか、どうかお願いします狩人さん。命だけは助けてください。もう二度と、お城には戻りませんから、この深い森の奥に行って戻りません。だから、どうか助けてください」
薫はそれっぽく身振り手振りも付け足してみた。言い終わった後、彼女を見ると、なんというか呆気に取られた顔をしていた。
「出来てた?」
「う、うん。台詞も完璧。声も多分かなり似てるんだと思う」
薫は彼女のその曖昧な表現が気に掛かった。似ていると思う。それはいまいち確信が持てなくて断定するのを避けているようだったのだ。そんな言い方をされたのが初めてだったので、動揺する。
彼女には薫自身が完璧に君恵の声を出せていないことが分かったのだろうか。しかし、それでもかなりの精度のはずだ。
彼女は困ったような顔で説明する。
「なんていうか、自分の声って普段聞く声と、テープなんかで録音したときに聞く声って感じが違うでしょ」
「ああ、なるほど」
それならば薫にも覚えがある。
「だからさ、なんだか違和感があって、変に聞こえて、ちょっとよく分からない」
「確かにそうかもしれないね」
「っていうか、何だか恥ずかしくなっちゃった。私って普段そんな声をしてるんだ。な、なんだかさ、変じゃない? 妙に間延びしているような……」
「そんなことない」
「ええ、本当に?」
「そうだよ、須藤さんの声は変じゃない!」
気がつけば、薫はそう強く否定していた。
「そうなの?」
「俺にはすごく綺麗に聞こえる。口笛みたいな、鳥が鳴いてるみたいな、邪魔なものがない透き通った声だと思うんだ」
「……」
彼女は突然のことに言葉を失ったようだった。薫はそこで我に帰り、慌てて謝る。
「ごめん、いきなり大きな声だして。その、ただ、須藤さんの声はおかしくないんだ。むしろ、普通の人よりも良いって、それが言いたかったんだ」
「ううん、ありがとう。私、声を褒められたなんて初めてだったから、ちょっと驚いてるだけ」
そういう彼女の頬はほんのり色づいている。
「そうなの? 俺は、須藤さんと初めて会ったときから、綺麗な声をしてると思ってた」
そう言ってから、薫は自分が言った言葉が恥ずかしいことに思えてきた。
まるで、これじゃ告白してるみたいだ。
二人きりというこの空間では、下手に笑ってごまかせそうにない。こんなとき、どうして堂野も呼んでいなかったのだろう。
「うれしいな、そう言ってもらえると」
そう言って、彼女は足のギプスをじれったく邪魔なもののようにさする。それから、寝癖もないのに、その髪をなぜか両手で包むように何度か撫で付けた。
まるで、それは何かをごまかしているような……。
「気がつかないものだね。自分の良さなんて」
彼女がつぶやく。
「え?」
「自分の中ででこうだって思っていても、それが結局自分の中で作っていたありもしない妄想だったってことや、むしろ気がつきもしなかったことってあるもの。例えば今の声のことみたいに。自分のことって、見えてるようで、すごく盲目になってる部分ってあると思う」
薫は話している彼女を無言で眺めている。彼女はさらに続けた。
「小さなことでくよくよして、それを誰かに聞いてみたら、なんだそんなことって笑い飛ばされるみたく、ね。外の世界と内の自分ってこんなにも認識が違うのかって驚かされることもある。特に病院に来て、いろいろと励まされてると、普段、皆から言われないようなことを言われるから。小野村君も、そう思わない?」
「うん、そうだね。きっと俺も、須藤さんと同じだと思う」
薫だって、自分自身の劣等感を抱えて生きていて、悩んで、苦しくなって、馬鹿みたいに思えていた。自分など、何もできないのだと。
でも、それは違った。
堂野は、こんな自分でもいいところがあると言ってくれた。
そして、今はなにより、こうして劇の代役を務めさせてもらっている。自分の能力が誰かの役に立っているのだ。
それに、彼女の言葉で気がついた。
もしも、自分が嫌いで、落ち込んでいる人がいるならば。薫は思う。
変てこに聞こえる自分の声を録音して、誰かに聞かせてみればいいかもしれない。きっとその相手は、それが普通だと言うに違いない。それがどうした、と首を捻るかもしれない。
変じゃない。落ち込むことなんかじゃない。
むしろ、それが本当の自分らしさなのかも、しれない。自分の良さかもしれない。
そういうこと、たくさんあるんじゃないかな。薫は思った。
「そう、だよね」
彼女は優しく微笑む。
「じゃあ、話を戻すけど、もう劇の台詞は大丈夫だと思っていいんだよね」
「うん、それは大船に乗ったつもりで。保障するよ」
「じゃあ、ここで改めて」
「え?」
「まだ、私は退院は出来ないと思うけど、劇の代役、よろしくお願いします」
椅子に座ったまま彼女は丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、一生懸命やらせてもらいます」
そうだ、自分は彼女のためにこそ、やりたい。
薫も心を込めてお辞儀を返した。
その後、彼女を病室に送り返し、その日は帰った。
帰ってから、なんとなく後悔したのは、彼女に聞かなかった質問があったのだ。
彼女から見て、自分はいったいどう映っているのだろう。自分はどう見えるのか、聞いてみればよかった。
そんなことを思い出しながら、薫は堂野に報告を兼ねて、電話をすることにした。