序章3´ ガワの街とカラの空
背負う月が大きく迫る。
それを最初に思い出した。
謎の異界【交差点】に迷い込む直前の記憶。手探るにしては浅瀬の記憶。
確か空はとっくに茜色を通り過ぎ、完全に夜になっていたはずだ。頬をなでる風は心地よかった。
夜空の半月と弱々しい街灯に照らされて。食欲を微かに刺激する薫香と、輪郭のボヤけた団欒の声が何処からか。
そんな住宅街の路地を、二人は歩いている。
「いや〜、やっぱり行って正解だったろ。久しぶりにこんなに駄菓子買ったぞ、オレ」
誇らしげに掲げられたビニール袋には、駄菓子がいっぱいに詰まっている。明らかに買いすぎだ。
スナック類から食べてチョコ類を温存。それが誠人の常套戦術だ。
「まあ、たまには悪くないかもね」
素直な感想を返答として、シガレットを咥える。
「フムフム、もっと感謝したま――てそれ!! オレのシガレット!!!」
「取られる隙を見せた方が悪い」
こっそり抜き取った菓子をかじる。ほのかなココア味が、なんとも微妙な口当たりだ。だが、不思議と嫌な気はしない。
ギャーギャー喚くその声は、裕也の耳を右から左へと通過していった。
左右に並ぶ住宅群は、歩くほどに景観を変える。
不用心に自転車を投げ出している家もあれば、謎の大量のダンボールが駐車場に山積みされた家もある。
明らかに過剰に思える数の花壇には花のない植物。それを道端に並べに並べ、しかも壁には蔦が這うという、一角がジャングルと化しているような家もあった。人が住んでいるのかも怪しい。
「うわぁ、今どき絶滅危惧種じゃないの。青いポリバケツのゴミ箱」
「そうかぁ? あるだろ」
「え? ないよ」
「あるある。オレん家の近くとか絶対ある」
「マジか。勘違いじゃないの」
「ユウこそ勘違いだろ。お前忘れっぽいしよぉ。オレの頭を信用したまえよっ!」
「……そう」
「んだよ、ノリ悪ぃなぁ。――ちょっくら走るか?」
「それこそ、ノリ悪いだろ。てか悪ノリ?」
「それはYESと――」
「取らない。NOだ」
「は! まあ、ここは大人なオレが折れてやんよ。なんせ、オ ト ナ だかんな!!
……………………あ?」
「大人強調するとかそれこそ――――何?」
「いや、なんかよぉ………」
思えばこれが始まりで、もう後戻りなんて出来やしなかったのだろう。
「この道。……ちょっと白くね?」
次の瞬間。
彼らは意識を失った。
――――
夜空に月はない。
街の家々には明かりがない。
それが現在の【交差点】だ。――だというのに、見渡す景色は薄暗い程度に明るい。足元ぐらいは容易に把握できる。
光源は頭上でチカチカと微かに息をする電灯以外には見当たらないが……考えすぎるだけ無駄か。
深夜に文明の灯りがほとんどない。
それはきっと自然に近い状態であるはずなのに、現代においては不自然極まりない異常に思えてならない。
「おい、ユウ」
「何? 今ちょっと」
「でもよぉ……」
投げかけられた問いを裕也は黙殺するが、誠人は数秒唸った後、やはり我慢出来なかったらしく、
「ユウ、それさぁ……」
「あぁもう! なに!?」
苛立ち混じりに勢いよく立ち上がった裕也の後頭部が、誠人の顎に炸裂した。
激痛でぐらつく視界に涙が滲み、互いに苦悶の声を漏らす。必然的に緩められた手からは、石のようなものがこぼれおちた。
「ぐぉぉぉぉぉ……」
「いってぇぇ……は、何やってんだよ」
コロコロと蛇行しながら転がるそれを、誠人は顎をさすりながら拾い上げると、裕也へと投げる。
淡い菫色の石だ。どこか色はくすんで見え。風化して魔性が削れてしまったかのように。
裕也はそれを、後頭部を涙目で抑えたまま片手で受け止める。
そしてまるで何か祈るように眼前で石を握りしめると、物陰に向かって放った。
菫色の石はアスファルトを多少ジグザグに転がると、物陰の手前で停止する。
それだけで、特に何か起こると言った様子はない。
「…………よし」
「なぁ、だからよユウ」
「さっきからなんだよ? いいからちゃんと色の変化を確認して――」
「だからそれだよ! 何の意味があるってんだ教えろ!!」
裕也は先程から、何か死角を見つける度にその石を放り込んでいた。
石に何かしらの反応――例えば光るとかがあれば教えろと、それだけ誠人に念押しして。
十メートルほど歩く度に行われる石転がし。反応は今のところ一度もなく、ただただ試行回数だけが高く積み上がっていく。
その歩みは、亀の行軍と言って差し支えないほどにノロマな進行だった。
誠人は痺れを切らしている。
「何って……おまじないみたいなモノだよ。運が良ければあっち側に対して反応を示すかも」
「あっち側? ……は! なるほどオカルト的な!」
「とにかくよく見てくれよ。それだけでいいから」
「まあ、そういうのはオレの管轄じゃねぇわな。――ちゃんと見といてやるから、なんもねぇなら早く進もうぜ」
渋々といった調子で誠人は従う。
裕也は変化のない石を拾い、ようやく先に進む。
しばらく歩いているが、異常という異常はどこにもない。
目下のところ、理不尽な『命の危険』が舌舐めずりして狙っている……なんて展開はないらしい。
「ホラー映画だったらそろそろ後ろからガブリ! って一発いかれるらへんだよなぁ! 尺的に!!」
無視した。
どれだけ言っても黙らないし、それなりに喧しい方が気が紛れる。
チカチカ瞬く蛍光灯は瞳を焼くようで、足裏のアスファルトの感触は身体から大切なものを吸い取ってるようだ。
目の前の物陰には『ナニカ』がいる。今横を過ぎた脇道から『ナニカ』が見ている。後ろから『ナニカ』が詰めてきている。そして次の瞬間に襲われて――
妄想に果てはない。
いつか自分が進んでいるかどうかもわからなくなって、縋るように見上げた夜空の黒に、自らの全てを押しつぶされてしまって。そんなイメージが浮かび上がる。
暗闇は原初の恐怖で、空っぽの静寂もまた暗闇。
だからこの場で一人でないというのは、それだけで大きな意味を持つ。
「マサ。覚えてるか?」
「は! オレはなんだって覚えてるぜ」
「この道が……【交差点】がこんなふうになる前、霧が出てたよな?」
いつの間にか意識を失って、気がつけばこの脱出不能の【交差点】にいた。
だが記憶を何とか手繰り寄せていると、思い出せるギリギリの範囲に、霧が出ていたという話題があった気がする。
隔絶された特異な空間。普通でない場所。
神隠し。異世界。常世。隠世。黄泉。陰府。死者の国。
関連しそうな名前を浮かべてみるも、全部だいたい同じで語彙の貧弱さが浮き彫りになる。
我らが部長がここにいれば、その知識を余すことなく披露してくれたことだろう。
ただ言えることは、普通でない場所には、同じく普通でない入口が似合うであろうということ。
例えばその入口は、立ち込める霧の大扉であった。
要素としては悪くない気がした。
「は! なんかマジで探偵やってるみたいだな、ユウ! 手慣れてる感っていうの? やっぱこういうのも部活の一環なわけ?」
「……いや、初めてだよ、こんな非常識な状況。
こんな異常事態をホイホイ経験できるなら、うちの部活は存続の危機になんて陥らないし。この街は今頃オカルト観光地だよ」
「ま、変な噂とか? しのか経由で結構聞くし。よくある事じゃねぇの?」
「そんなわけないよ。結局ただの噂で、実体なんかない」
「今日も――いやもう昨日なんか? わざわざ例の幽霊の話聞きに行ったってのに。夢がねぇなぁ。【勇者伝説】とか好きだったろユウは」
「昔の話だよ」
――なんで……そんなくだらないことばっか、覚えてるのに。
石を放る手には、少しの苛立ちが混じっていた。
「……あっ」
裕也は何かを見つけると、そのまま青いそれへと駆け寄った。
「あぁ? ユウん家の周りにはない青バケツさんじゃねぇか」
「霧が【交差点】の入口なら、その直前にあったものもループにも含まれてるんじゃないかって。ビンゴかな――」
意識が途切れる直前に霧に気づいた。
それが出入り口だとして、ならば霧が出ていた場所を突き止めるのが急務だ。
確か霧が出る直前、青いポリバケツがあるとかないとか、そんな話をしたはずだ。
石を転がし、反応はない。そのまま勢いで青いポリバケツ製のゴミ箱へ。
少し溜めてから、一息で蓋を取り払った。
「――っ」
「……は?」
尋常ではない量の紙くずが詰まっていた。
思わず。妙に重たい息が零れる。ブラック企業のシュレッダーにだってこれだけの量は詰まってはいないだろう。どこか不気味な光景だ。
石を近づける。
変化はない。
少し躊躇しながら、試しに中身を全てひっくり返してみた。
紙くず以外には何も入っていない。
「は! これアレだろ。『ホラースポットで吊り橋効果を演出!!』……てなやつ! ドキドキしたか?」
「……次っ」
さらに少しだけ進んで、今度はダンボールがすし詰めにされた民家の車庫を見つけた。これも見覚えのある景色だ。
相も変わらず手元の菫色の石に変化がないのを確認してから、これ見よがしに不自然なその山に手をかける。
蟻の一穴という言葉があるが、今起きたのはまさにそれだ。
一つのダンボールを山から引き抜くと、雪崩のように全てのダンボールが崩れた。
跡は不格好な階段建築となり、その中身も、吐き散らかされて地面を埋め尽くす。
「おいおいコレ……」
「また『紙』か」
ダンボールの中には、さっきの青ポリバケツと同様、大量の『紙くず』が詰め込まれていた。
その大きさやら形は千差万別。
一見して同様なのは、紙の端から焦げたように煤けていること。
等間隔に行を区切る線が入っていること。大学ノートか?
焦げたのか汚れなのか、至る所が黒くなって、何が書かれているのか、大半が識別できないこと。
あとは素材か。拾って親指で擦ってみると、ノートやメモ帳などに近い材質なのがわかる。やはり大学ノートだ。
そして多様な黒塗りの中で、唯一読める文言があった。
「『■■を忘れるな』……?」
これだけが、焦げたような消しゴムをかけたような汚れの中で、判別することの出来る言葉。
書き殴られたようなそれは、一度見つけてしまうと、至る所で目に入る。『■■を忘れるな』『■■を忘れるな』『■■を忘れるな』『■■を忘れるな』『忘れるな』『忘れるな』『忘れるな――――
「うっへー、マジでホラーっぽいなこういうの。オレ繊細だから結構シンドいぜ、まったくよぉ」
「……僕もだよ。シンドいな」
尋常じゃない量の紙くず。気味の悪い文言。恐らくほぼ全ての紙くずに書かれているのだろう。
あからさまに不自然で、人為的なものを疑わせる。
裕也は『■■を忘れるな』の黒塗りで読めない部分を指で擦ってみた。
だいたい二文字分位で、何か書いてあるのだろうが、煤がこびりついていて取れない。
爪の先を使って、ガリガリ削り取るように擦る。少しずつ、煤が剥げていく。
そうしてクシャクシャになった紙から現れた二文字に、裕也はゆっくりと、噛み締めるように呟いた。
「『勇者を忘れるな』……?」
「んだぁ、それ? 全然意味わかんねぇんだけど」
つまらなそうに言う誠人に、「その通りだな」と一言で同調する。
しばらく調べてみたが、脱出の手がかりになりそうなものはなかった。
紙をポケットにしまい、先に進む。