2:ゾンビの話
ただ眺めていた。首を吊る様子を。そして踏み台を蹴り飛ばすところも。
その後に聞こえてきたのは。断末魔を彷彿とさせる、低く重々しい音に雑じった、黒板を爪で引っかいたような耳をつんざく甲高い音。
――彼はその光景をただ黙って見ているには、余りにも優しさが勝ったのかもしれない。
脚が何かに突き動かされているのを感じた。咄嗟に草をかき分け、一直線に走り出していた。何より、この音に、この光景に、堪えることが出来なかった。
薄汚れた服を着た生き物は、木の枝にぶら下がった人間の胴体を持ち上げ、首に締めついた紐を緩め強引に取り外し、そしてその手元に奪い取った。酷い息の荒さが、直に伝わった。
今正に死のうとしていたその人物は、突然の事に、茫然自失としていた。が、改めて彼の姿を見ると、恐怖に顔を引きつらせて、逃げようと後ろを振り向きかけた。が、あまりの事に腰が抜けてしまい、その場にへなへなと座り込んだ。
彼は何かを言おうとして、口を金魚のごとくパクパクと動かした。――が、言葉が一向に出てこない。頭の中が、真っ白だった。何を、伝えればいい。
そこに、ゾンビの師匠が、彼の後ろから現れた。その手には何故か、白い封筒の様なものが握られていた。
「あんたは馬鹿か。こんな所でひっそりと死んで、自分をこっぴどく振った恋人への復讐に本当になるとでも思ったのか。こんなもん自分で破り捨ててしまえ。そういう屑への復讐は、自分がもっと幸せになってやる事しかないんだからな」
そう言うと、ゾンビの師匠は丁寧に手に持っていたものを差し出した。『遺書』、と記されていた。目の前の人物は、得体の知れないものに囲まれた恐怖に、身をなおも震わせていたが、差し出されたものを恐る恐る受け取ると、一目散に黒の森を出る方向へ逃げていった。
手が、まだ先程の感触を覚えていて、指先にじんわりとこびりついて離れなくて、彼は困惑していた。己の行動に現実味を覚えられず、ただ泳いだ目つきで突っ立っていた。
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昼を過ぎ、夕方になろうとしていた。
「六時間。ご苦労、今日の仕事はこれでおしまいだ」
ゾンビの師匠が弟子に言う。弟子は、先程から悩みの表情を浮かべていたが、思い切って、師匠に聞くことにした。
「……驚かすってのは、必要ないんじゃあないか」
「これが大いにあるんだな。そもそも怯えとか怖れとかいうのは、生きたいという本能の表れだからな。それに気づかせてやる事はとっても大事なんだぜ」
「……。もう一つ、聞きたいことが有るが」
「なんだ」
「なんであの人の死のうとした理由が分かった」
「まあ、遺書が少し透けて見えた、っていうのも有るんだが」
ゾンビは先程の現場に行くと、何かを取り出して戻ってくる。
「……これは」
「見てわかる通り、毛編みの帽子だ。成分表示とかのタグの跡もないし、大方恋人の為に編んでやった物なんだろう。まあ、でも、良かったと思うぜ」
「それは、どういう理由だ」
「この帽子を取らずに帰っていったことさ。怯えが有ったとはいえ、未練を断ち切れたのは良い事だ」
どうもこのゾンビは、物事を都合よく解釈する癖が有る様だ。とはいえ、彼もその発言を完全に否定する気にはならなかったが。
ゾンビの持っている帽子を、手に取って間近で見た。帽子は青い糸で丁寧に編まれていた。冬に着けたら、とても暖かそうに思えた。――ふと思ってしまった。これを編んでいる間、あの人物は、一体どんな気持ちだったのだろう?
きっと、あの頃の自分と同じだったに違いない。彼はそう思う。幸せを身にしみて感じていられた。だから、決して楽ではないはずの編み物を、やっただろうに違いなかった。
――そしてその幸せが。ガラスの様に脆く壊れやすい物だと知った時の、心臓ごと空気も何もない真っ白な空間に投げ飛ばされてしまった様なあの感覚も。
嗚呼、同じだ。なのにこの胸には、昨日ドレスを着た死体を見た時の様な、ひんやりとした安心感など何処にも生まれなかった。代わりに、目まぐるしい勢いで回る自分の記憶と共に伝わってくる深い、深い哀しみがあった。そして同時に、彼は強い後悔を覚えた。
――止めなければ、良かった。
あんな苦しみと悲しみを背負って、それでも生きろという事の方が、余程残酷ではないか。生きる事に疲れた人から、死の選択肢を奪う権利など、誰にもないはずだ。
なら、何故自分は愚かにもそれを止めてしまったのだろう。衝動的にやってしまった事だけは、この手の感触が覚えている。最悪だ。最悪な理由で、最悪の事をしてしまった。
ゾンビの冷ややかな目線に中てられた。そこで彼は、『止めなければ良かった』、その台詞が、思わず口をついて出てしまった事に気が付いた。
はぁ、とゾンビはため息をつきながら語る。
「本っ当に、お前さんは強情だな。まさか、自分が同じ状況だったら、間違いなく死を選んでいたとか、そう言うんじゃあないだろうな?」
ゾンビに図星を突かれ、彼はまごついた。瞳があらぬ方向を向き始める。
「呆れた発想だぜ。そんなもん、相手が本当にそう思っている保証でもあるのか?単なる自分の感情の押し付けに過ぎないじゃあないか。それじゃ無理心中とそう変わりないぜ」
次に何と言えばいいか、彼には分からなかった。予測変換が、そこで止まった様な。
ゾンビは、間を取らずに話し続ける。ゾンビ自身、話さないといけない気がしていた。
「それとも、お前さんは自分と同じような境遇の人間に向かって、これ以上生きていても何の望みもないから迷惑を掛けないうちにさっさと死んで下さい、とでもいう気かい。
――それが嫌だから、他人の自殺を止めようとした。そうじゃないのか」
いつの間にか、ゾンビの会話の腰が柔らかくなっていた。だが、その口から語られる内容は、真剣みを大いに帯びていた。
ゾンビは、敢えて彼の返答を、じっくりと待った。僅かに漏れる光が、二人をくっきりと照らし出している。
「…………」
彼は、意識と無意識とをひっくり返したような奇妙な感覚に襲われていた。
矛盾。矛盾。相反する二つの思考が、今濁流となってその脳裏に顕現した。
――彼が、いや人間そのものが。常に矛盾を抱え、葛藤し、苦悩し、その末に何かを選び抜く。そんな生き物であったのも、理由の一つとして有るのだろう。
己の亡くなった恋人には生きていることを望み。
その傍ら、自分と同じ様に生きている人には亡くなることを望み。
己は何度も何度も死にたいと思うほどの苦しみに襲われ、死のうとし。
その反面で、名も知らぬ人の自殺を止めようとし。
死は救済だ。そう、彼は理由もなく信じていた。
死に、憧れた。死に、願った。死に、縋った。
それら全てが、自分の中で砂の城の様に崩れて砂漠と帰していくのを、彼は感じていた。
嗚呼。結局のところ、そんなものは空虚な妄想に過ぎなかった。単なる現実逃避でしかなかった。
分からない。何も分からない。宛ら目印を失った船の様。何が正しいんだ。何処に向かって生きればいいんだ。抑々、突然自分が投げ込まれた、この海は何だ。
「……どうやって、自分はこれから生きていけばいいんだ」
――かつて彼が同じ考えを浮かべた時。その記憶が呼び起こされる。
事の発端は、恋人が重い病気だと診断されたことだった。
余りにも意外だった。彼の中で恋人は、気丈な人だったから。
心配ないよ、そう恋人は自分を励ました。励ますべきは自分の方であるはずなのに。余命数ヶ月と診断されて、それでも普通でいられるはずがないのに。
自然と、その優しさに、彼の心は深く染み入った。彼が愛し、親しみ、抱きしめていた、その温かみそのものに他ならなかった。
たとえ自分一人で歩く事が出来なくなって、病院の一室で寝たきりになって、自分では食事も満足に出来なくなって、点滴が必要になり、声も次第にか細く弱まっていき、その生命の蝋燭の火が刻一刻と明るさを失い消えようとしていても。その健気さは、何処までも健在だった。
死の二週間ほど前。彼は恋人に、婚約指輪をはめた。
動きの少なくなっていた顔が、はっきりと動いた。目は、感動の余り大粒の涙を流していた。ありがとう、その声がか細くも心のこもった響きを奏でた。
結婚式を挙げたいね、そう恋人は彼に告げた。それは本心の表れだった。
彼は、勿論、と快く応じた。それは彼の本心でもあった。
長い仕事時間の合間を縫い、恋人を見舞いに行き、家に帰ると結婚式の為の会場を探した。恋人の様な重い病気の人の為に結婚式を行ってくれる場所が、何処かに有ると信じた。そして、幸運にも条件にぴったりな病院が有って、彼はすぐさま挙式の予約を取りに向かった。
――その予約を取りに行く最中に、彼は恋人の死の知らせを聞いた。容体が急変し、応急処置虚しく亡くなった。そう聞いた時、彼は全身から力が抜けていくのを感じた。身体が崩れ落ち、そして次の瞬間には、目から大粒の涙が噴き出ていた。
号泣に違いなかった。夜通しで泣き続け、遂には顔の色が赤から不眠も合いまった紫に変貌してしまった。それでも彼は、ただ泣く事しか出来なかった。
彼は、自分を激しく恨んだ。恋人の死の間際に、立ち会うことが出来なかった。恋人の最後の願いを、叶えてあげられなかった。なんて酷い人間なのだろう。自分は、最低で、最悪な人間だ。そうやって、運命を、そして自分を、ただ呪った。
やがて彼が泣き止んだ頃、彼は大会社から、災害で工場が一つ丸ごと壊れた事に起因する業績悪化の為、切り捨てられたことを知った。その時、もう彼に流す涙は残っていなかった。そして、空っぽになった頭で、こう考えた。
――どうやって、自分はこれから生きていけばいいんだ。
ゾンビは、彼の感情の発露を、ただ間近で受け止めていた。それが精一杯なのかもしれなかった。その悩みは、かつて遂に彼が解決出来なかった悩み。それをどうするのが最適か、そんな事は彼には分からなかった。
――ただ、分からないからと言って、なら寄り添うことも出来ないのかというと、それは明らかに偽であろう。
「どうすればいいか、か。具体的な事は流石に分からないが。お前さんの場合は、まず『死を背負う』事だ」
「死を、背負う。それは、どうやって」
「お前さんは、恋人の死から逃げてきた。現実と向き合いたくなくて、逃避の道を選んだ。でもそれじゃあいけないんだ。その死を忘れず、記憶に残して生きる事。それが死に向き合い、死を背負うという事だ」
――その時、彼は自分を覆っていた海が、今まで必死で隠していた現実そのものだと知った。彼の心の船が、漸く、エンジンをかけ始めたように思えた。だが、まだ方角が分からない。
「ああ、背負って、……そして何をすればいいんだ」
ゾンビは暫く考えた後、こう告げた。
「それは自分で決める事だ。お前さんは自立した大人なんだからな。
――ただ、この前の災害で、まだ断水が続いている地域が有るっていうニュースを、俺がお前さんの家にお邪魔していた時に聞いた気がしたなあ。さぞかし、そこの地域の人達は洋服とかの洗濯に困っている事だろうよ」
それを聞いて、はたと気が付いた。あのスーツを買ってその一部を寄付するよりは、直接支援した方が、余程社会貢献になるだろう。何故そんな事さえ気づかなかったのか。
自分は現実を見ようとしない余り、己の視野さえも死ぬ以外の選択肢が見えなくなる程に狭めてしまっていたのだろう。
彼の思考の中に、もう森の姿はなく、代わりに日差しを存分に受けて碧く輝く海が在った。新鮮な空気にさらされて、船は帆を揚げて自分で動き出した。
「有難う、御座います」
「おう、二度と会わない事を祈っているぜ」
彼は、後ろを向き、そして一度だけ、ゾンビの方を振り向いた。そして、二度と彼は振り向くことなく、黒の森を去っていった。最早、その姿は確認出来ない。
恐らく。彼は死を背負っていけるだろう。そして、今度こそ外の世界を見て生きていけるだろう。――誇らしくもあったし、羨ましくもあった。
何せ、彼は自分と同じなのだから。
嗚呼、許してほしい。自分は彼に大きな嘘をついてしまった。それは偏に見栄の為だ。許してほしい、自分もかつて死を望み、そして本当に手に入れてしまった人間である事を。
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昔、子供向け番組で凄腕の医師を主人公にしたアニメがあった。未だにテーマソングを覚えている。同じ内容を何度も見返した。あまりにハマるもので、親が心配したと後々語ってくれた。
勿論、その腕は凄まじいものだった。飛行機の中で大統領夫人が突然倒れ、飛行中で揺れる中で緊急手術を行い、そして飛行機がエアポケットに入るなどのアクシデントに見舞われながらも無事手術を成功するその姿は、多くの子供を虜にした。
だが、自分は違った。子供だったころのゾンビを虜にしたのは、かの医師の離れ業ではなく、その中で語られる生き様であった。
医師はその目に映る全ての死にかけの命に対して、それが死ぬことを許さなかった。それが専門外のはずの獣だったり、トリアージュで黒、つまり生存の見込みなしと判断された人だったりしたとしても。ある時は患者を人質に取られた。その時医師は只、治療を目的に、その中に果敢にも立ち向かった。
医師はまた、誰もが笑顔で生きられる為に全力を注いだ。ある時は遠く離れた国で基金に苦しみ死にかけの村人の為に、水道を引く事業を興した。街のシンボルの老齢樹が枯れかけた時は、土壌ごと取り替えて活気を取り戻させた。
嗚呼、その高潔な生き様に、俺は憧れたんじゃあなかったのか。何故、俺はこんなにも穢れた魂を漂わすだけの身になってしまったんだ。
あの医師の様になりたい。その志を、持ち続けた。ひたすら勉学に励み、優秀な大学の医学科に晴れて進学できた。そして知識、実習を積み、研鑽を重ね、医師として地方の病院に配属される事が決まった。
――ゾンビにとっての悲劇は、この時始まったのだ。
病院は、酷い人手不足だった。元は総合病院だったそこは、人員が回せないという理由でやむを得ず小児科や産婦人科等を閉鎖していた。毎日の様に患者はやってくる。自分にも、初めのうちは気力が残っていた。多少の身体の無理をしても、へこたれない精神を持っていた。
だが、数日病院で寝泊まりが続き、睡眠時間も四時間確保できればいい方で、診察をせかす声がひっきりなしに聞こえる。そんな中で、まだ若手だった自分は、徐々に精神を蝕まれていった。耳鳴りが止まなくなり、しまいには夜中に奇声を上げるようになり、そこで院長に暫く療養生活を送る様に言い渡された。
その言葉通り実家に戻った彼は、確かに奇行はぱたりと止まったが、代わりに塞ぎ込む様になってしまっていた。食事を摂る回数が減り、睡眠不足で赤黒く腫れ上がっていた顔は今の様に青白く、血の気のない顔にすっかり変貌してしまった。
――脱落者。落ちこぼれ。足手まとい。
そんな言葉が耳の奥に引っ付いて、何度も何度も繰り返し思考が遮られた。何もかもが自分への罵倒に聞こえて、それがまた新たな罵倒を自分の中で生み出した。彼はテレビを見なくなり、スマートフォンの通知すら無視しはじめ、目覚まし時計さえ投げ壊した。朝日を恐れ、布団の中で毎日を過ごしていた。自分の心の中に在った自信とか志とかいったものは、瞬く間に淘汰されてしまった。
その内に、院長から戻って欲しいとの声が掛かり、自分は病院に復帰する事となった。それは、間違いなく吉報だったのだろう。
――だが、一度自信を失ってしまった自分は。医師としてこのまま仕事を続けていくことが怖くて、怖くて、仕方なかった。治療ミスの光景が何度も脳裏を掠めて、その度にかき消そうと頭を壁に打ち付けた。だが、霧をかき分けてもまた霧が覆う様に、最悪の予想図が意識するほどより明確に、明確に見えてきて。泣き喚く様にして頭を覆った。
復帰の前日。風に煽られてふらふらと揺れる紙切れの様に、自分は当てもなく街中を、寝間着姿で彷徨った。そして、吸い寄せられるように、高いビルの屋上へ来た。
――今ここで飛び降りれば。全てが消えて楽になれる。
悪魔が取り憑いた。悍ましい考えだ。しかしあの時、追い詰められていた自分にとって、それは天国へ辿り着く黄金の糸だった。悪魔は、即座に脳を支配した。気が付くと、自分はフェンスを乗り越え、人通りのない道路が真下に見えた。風が冷たく吹き荒れていた。
最期に彼が見たものは。時計台だった。身体が浮かびあがる様な奇妙な感覚を受けながら、大学で毎日見かけた大きな時計台を、思い出した。
――嗚呼、あの頃に戻れたら、良かったのに。
そうして自分は、あの日、地面に飛び降りて、死んだ。
それからゾンビになるまでの経緯は、彼に話した通りだった。だが、そこからは、余りにもゾンビの口が話せる内容ではなかった。それはゾンビ自身の罪の告白に、他ならなかったから。
ゾンビとなった後、真っ先に心配したのは、両親の事だった。だからゾンビは、初めに実家へと向かったのであった。疲れを知らない身であるから、自分の墓から走ってそこに向かうのは、一晩も掛ければ出来る事であった。そして出来る事なら、その姿を見せようか、とさえ思っていた。だが、近所まで来て、ゾンビは現実を知る。
ゾンビの両親は、我が子を突然失ったショックで、家に閉じこもり、二人とも外に出なくなっていた。扉を固く閉ざし、カーテンを閉め、ノックやベルにも反応しない。ゴミ出しにすら出てこない。近隣住民の噂に、初めは疑っていたゾンビも、実態を目の当たりにして、信じるしかなかった。
それから二週間、待ったのだろうか。流石の事に警察が来て、何度も応答を求めた後、反応が無いのでガラス窓を割り、侵入した。その様子を、ゾンビは外から見ていた。そして、彼は聞いてしまった。知ってしまった。
――荒れ果てたゴミ屋敷の中で、自分の両親が餓死していたという、事実。
形容し難い感情の群れが、ゾンビを襲った。倒れ伏し、地面に顔と肘をつけた。手で歪になった顔を覆い、涙を掬おうとした。
――ゾンビという生き物に、涙というものは存在しなかった。
何時までも伝わってくる冷え切った手の感触に、ゾンビは噎せ返る様な嗚咽を上げた。激流のごとく流れ込む悔恨と、悼んでも悼み切れないひび割れた心臓が、朽ちた身体を荒れ狂う様に叫ばせた。
やがて眼を覆う手を離した時。ゾンビは、何もかもを失った、空虚な心になっていた。二度と育たず、動かず、話しもしない物体に、ゾンビは成り果てていた。そして自然とゾンビは、自分と同じ様な雰囲気の場所、黒の森に運ばれていた。気が付いた時には、そこに居た。心はすっかり薄れて、虚空に溶け込んでいた。瞳は一切の輝きを失い、生前話していた言葉すら忘れかけていた。そうやって、生きたまま死ぬ運命だった。本来なら。
或る日、その目で、一人の人間を捉えた。左腕に不自然に刻まれた赤い筋が見え、そして手にロープを持っているのが見えて、不審に思った。そのロープは、直ぐに自殺用だと分かった。
突然、思い出すだけでも身を引き裂きそうな暗いものが、頭の中を吹き荒れた。あの時と同じ様に叫ぼうとして、ゾンビは思い至った。
――あの自殺を、止めてやれば良いじゃないか。
こんな経験を、誰にも味わわせてやるものか。それがゾンビの、原動力に違いなかった。
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――嗚呼、俺は。何故彼に赦しを求めようとしたんだ。仮にも医師を名乗った俺が、三人の命を奪ったなんて、誰が赦してくれるのだろうか。俺は、卑怯者だ。誰の死も許さない高潔な魂に比べてみろ。独り善がりな行動の為に生みの親を殺しておいて、命は大切だなんて恥知らずな事を良くも言えたものだ。こんな舌、噛み千切ってしまいたい。
きっとこの姿も。ゾンビは思う。その罰に違いなかった。
背後から、物音がした。その音を成す存在に覚えがあって、ゾンビは後ろを振り向いた。そこには、やはりと言うべきか、彼の馴染み深い顔が在った。仲間だった。
嗚呼よかった。今日は、ちゃんと此処に留まってくれた。
ゾンビは、土で汚れた仲間の顔を拭う。茶色が剥がれ、青白い肌が露わになる。
そう、この仲間も、またゾンビに違いない。
それも、自分と同じ、重い過去を背負った生ける屍。
嗚呼、彼が何をやったというんだ。神がこの世にいるのなら、どうかこの嘆願を聞いてくれないか。
――そのゾンビは、かつて会社員だった。普通の事を普通にこなせるだけの才能を持っていたので、普通以上の生活を問題なく過ごせていた。ただ、それは周りと同じ様に見えてパッとしないという欠点でもあった。だから周囲から彼への評価は、いつも個性に欠けると否定的なものであった。
そういう訳で、彼は二十代後半の時にまだ独身だった。本人はそれで構わないし、寧ろ今のままでいいとすら思っていたが、独り身に世間の目というものはそこまで優しくなかった。冷ややかな目線を肌が感じ、毎日を窮屈に過ごすようになり、遂には親までも孫の顔が見たいと急かした。世間に合わせる事で普通以上を保ってきていた彼に、断る選択肢は何処にも無かった。
適当にお見合いを重ねた後、彼は結婚というものをした。彼はその行為に、感動を殆ど覚えなかったが、兎も角これで普通で居られると安心した。
彼の人生にとって致命的だったのは、彼が四十代の時だった。
会社に不祥事が起きて、その責任を彼一人で背負わされた。――蜥蜴の尻尾切りだった。ただ現場の主任であったという理由で、彼は若き人生を捧げてきた居場所から冷酷に切り捨てられた。彼は自主退職を余儀なくされた。
彼の収入をあてにしていた結婚相手は、すぐさま離婚届を出した。子供もいたが、母親の方に行きたいと言った。――彼はもう一度、独り身になった。
それでも彼は、意外にも再就職先を探すだけの気力が有った。彼は普通をこよなく愛していたし、それを取り戻すために尽力した。――が。
結婚相手は、離婚の後直ぐに別の男と再婚した。彼は何となく嫌な予感がして、自分の子供のはずの人間と自分とのDNA鑑定をしてもらった。
――結果は。二人は、親子ではなかった。
その時、彼はやっと、自分が不倫されていた事、我が子でもない人間に養育費を支払っていた事、そしてその不倫相手こそが再婚相手である事を察してしまった。
自分が普通だと思っていた事が、音を立てて崩壊していく。そのショックがどれ程の事だったか、誰に理解できよう。何一つ不便を感じずに吸っていた空気が、突然毒を帯びた。
――息苦しい。喉が痛い。助けてくれ。空気が汚染されている。
彼は、自らの首を絞めた。ただ空気を吸うのが苦しくて、吸いたくなくて、両手で自らの首元を潰すようにした。爪が食い込み、血が流れ、そんな状況が続いた。
そして、物言わぬ骸と化した体が床に倒れ、暗い夜を静寂が覆った。
――窒息死したこのゾンビは、死ぬ前に脳が酸素不足の影響で重い障害を負った。だから、俺の様に生きていた頃と同じ知能は残っていない。
唯、自分から普通を奪った結婚相手を思い出させる、女性の姿を見かけては、獣の様に吠え、襲い掛かろうとする。そんな人形に、成り果ててしまった。
彼を自殺に追い込んだ者共は。きっと彼の自殺すら知らずに、今日も陽の光を浴びて、幸せに暮らしているのだろう。――余りにも残酷な現実だ。これでは、無駄死にと変わりないじゃあないか。何故彩られ輝く人々がいる中で、自分達は理不尽を己の身で味わわなければならないんだ。きっと彼がその事実に気づけるだけの知能を持ち合わせていたら、それこそ絶望するに違いない。そしてもう一度死のうとして、そう簡単には死ねないゾンビとなってしまった事に、さらに深く絶望するに違いない。違いないから、そうでなくて良かったと思う。
――いや、この理不尽な真実に気づけない方が、たちが悪いのかもしれない。
そんな考えが過った。その通りかもしれない、とゾンビは自分で納得する。
――だから俺は、せめて俺の様な。彼の様な。惨めな生き物を、もう二度とこの世に生み出して欲しくないんだ。あの高潔な医師だって、間違いなくそう思うに違いない。
俺は馬鹿で、盆暗で、そして無力だ。でも、この現実に堪えられるほど強い心も持っていない。――だから、ゾンビとして生き続ける限り、この哀れな記憶を持ち続ける限り、この疲れを知らぬ体で、動き続けよう。そして、
――救い続けよう。
丁度その時、風が吹いて、森の木々が揺れた。その隙間を縫って、夕陽が差し込んだ。青白い肌に木漏れ日が当たって、僅かに熱が灯った。
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クリーニング屋の彼は、黒の森の入口を通り過ぎようとしていた。赫赫と輝く夕陽が、前方に見える。飛行機が空を翔け、白い線が赤い空を横切った。胸の内のすっきりした感覚とは裏腹に、手の違和感がまだ何かを訴えている。それで、あの人物はどうなったのだろう、そんな事を考えた。
思えば、自分が衝動であの人物の自殺を止めてしまったのは。弱い己自身の表れでもあったのだろう。死を背負いたくなかった、ただそれだけだ。名も知らぬ人間の死だけれども、それを黙って見届けるのは、その死を背負ってしまう事だと感じたのだろう。
――だが、それでも背負うべき死が、自分にはあるのだ。
彼は家に帰ったら、恋人の遺影をしかるべき所に飾ろうと考えた。ずっと見向きすら出来なかったそれに、向き合うべき時は彼にとっては今しかあり得なかった。
ふと、彼は目の前に、人がいるのを見つけた。その人は、ただその場で、待っているように見えた。
見覚えのある顔だった。確か、此処を最初に通った時だ。この人が「大福でも食べていきますか」と言って、彼はそれに応じた。応じて、甘い香りが口の中に広がると共に、彼は何となく死のうという心持ちが逃げてしまって、それで諦めたのであった。
その人は、彼を見て、そして声を掛けた。
「朝此処を通るのを、拝見しました。――旧友がご迷惑をお掛けしました」
「旧友……?もしやあの、ゾンビですか」
「そうです。彼奴と私は、同じ夢を持った同志でした。――お話ししても、宜しいでしょうか」
彼は首で頷いた。単純に興味があった。あの口うるさい奴の、正体が知りたかった。
「――此処の道は。こちら側から見ると、夕陽が映えてとても綺麗でして。誰も、気が付かずに通り過ぎていってしまいますけれど」
その時二人は、僅かに視線を傾けて夕陽を眺めた。そして遠い日の、思い出を空に思い描いた。夕方の光景には、どうも過去を回想させる何かがある、そう彼は思う。
「――これ、宜しければ。中に胡桃を交ぜているのです。他のナッツ類も試してみたのですが、どうにも私には、上手く口に合う様に合わせられなくて」
そう言って、その人は彼に白い紙でくるんだ薄桃色の饅頭を手渡した。長椅子に腰掛け、彼に向かって話し始める。
「話は、私が大学生の頃まで遡ります」




