1:クリーニング屋の話
この胸を貫く苦しみを、誰か分かってくれないか。
視界の白さに気が付いた。それが自分の吐いた息である事を悟った。思えば身の回りの景色に意識を注いでやることなど、数か月ぶりかもしれない。首を傾け、上の方に目を向ける。空は雨こそ降っていないが、白とも黒ともつかぬ雲が太陽の光を包み込んでしまっている。何処を見ても代り映えのしない景色だ。僅かに動いているように見えるのも、自分が歩きながら青のないそれを見やっているからかもしれなかった。
しかし、今歩いているこの道は、実に寂れた道だと思う。都会の道なら、忙しなく動く人でいっぱいだ。或いは土肌のある山道でも、開放感に溢れているし、誰かの歩いた跡の様なものがある。足跡であるかもしれないし、若しくはちょうど植物が避けて出来ている通り道そのものかもしれない。だがいずれにせよ――この道からはそのような物が殆ど感じ取れない。この道を通るのが二回目だからなのか、その事実が一層強調されて映る。
確か、この辺りには道路を引く計画がされていたが、資金難で中止、今も途中までの道が残されたままなのだ、と何処かで聞いた覚えがある。その通りと言うべきか、道路になるはずだったこの道は、両端を土と雑草に食い荒らされている。だがこの道の漂わす雰囲気は。これだけが原因ではないだろう。――凡そ、自分がこれから向かう予定の、この奥にある鬱蒼と茂る森、通称『黒の森』のせいだ。
なおも足を進める。無心に近かった。やがて歩いている感覚が消え、景色への興味もすっかり薄れた。後ろを振り向いても自分の後を追う人は見えず、ましてすれ違う人などいるはずもなかった。ただ手先の冷たさが身に染みて、息を吹きかけて温めようとした。だが息そのものが冷たくなっている感覚が伝わって、視界を手元から外した。
前方にカーブミラーが見えた。全く手入れをされていないのだろう、汚れていて向こうの景色が殆ど確認できない。木々に遮られ、日照りだろうと太陽の光が僅かにしか入ってこないこの地ならではの暗さも影響しているのだろう、と思った。その暗さは、特に今日の様な天候の日には顕著だ。にも拘わらず、手元には懐中電灯はない。否、そもそも必要が無かった。
そして目の前に、それは有った。ただ黒と静寂が全てを包み込み、日の当たらぬ世界がこの場所に入る全ての人々に共有される。舗装はそこで途切れていた。正しくその地は、目的地そのものであった。
――『黒の森』――
その言葉が頭の中を反芻して、次の一歩を留めかけた。しかし、次の瞬間には足が自然と森の中へと吸い込まれていった。
静かな冷たさが、均一的に身体を駆け巡っていくのを感じた。そうして、心には木々の与えてくれる安らぎだけが残った。歩みを止めるものは、最早どこにもない。
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一つの足跡を見つけた。それは彼に、仲間がいるのだという安心感を与えてくれる。こんな感覚は久しぶりで、奇妙にさえ思った。足跡を追ったのは、自然な欲求だった。ただ、仲間が実際にこの地にいる事を、確認したかった。
そうして間もなく、それは姿を現した。
伸びきった脚の下には土で汚れたポーチが有った。小柄だがブランド品であると彼には思われた。足には紅いハイヒールが見えた。まだ土が付着していて、それがつい最近のものなのだと分かる。首より上は木の葉に隠れて見えなかったが、その胴体の着けているドレスが見えた。淡いピンクで彩られた、そのドレスにロゴがはっきりと確認出来て、彼はああやはり同類だ、と思った。このロゴは、ああ間違いがない、きっとあの店のマークに違いなかった。
――死装束専門店。この世にはそんな店が有る事を、知ったのはつい最近だ。調べてみて驚いた。最近の死装束には、かつての白装束とは似てもつかないものが多く有る。それこそウェディングドレスと見間違うような、華やかで煌びやかなものが有るのだと。黒の映えるスーツと言うものも揃っていた。子供服も有った。
――どんなに長く生きたくても、蜉蝣の様に短い生命しか与えられない人がいる。それは紛れもない、悲劇なのだろう、少なくとも周りから見れば。だからこそ、これはせめてもの慰みなのだ。その死を、美しく着飾ってあげさせるという事は。
それを、あの時知っていればどんなに良かったことか、そう彼は思う。と同時に、今知っていて良かった、とも思う。
――何せ、今彼が着ているスーツは。紛れもなくこの店で購入したものだからだ。
彼が払ったスーツ代の内、一割は、先の大地震で家や家族を失った人々への寄付へと回されるらしい。実に素晴らしい。こんな人間の屑が、最期に人の為になる行動が出来た。それだけで、彼には十分すぎた。
彼はゆっくりと、女の首吊り死体を後にした。その目は、死場を求めて彷徨っていた。
木漏れ日の差さない所で死を迎えたい。それが彼の最後の願いだった。死ぬ前になんて欲張りなのだろう、とは思うが、誰だってその死に際くらいは心安くありたいものだ。
案外と早く、その場所は見つかった。この天候のお陰かも知れなかった。手元にはロープが握られていた。首元に吸い付く幻想が見えた。間もなくそれは現実となるに違いない。
――彼が黒の森を最期の地に決めたのには、二つほど理由が有った。
一つ目は、自分の死で誰にも迷惑をかけて欲しくないという思いからだ。電車に飛び込めば、多くの乗客達が電車の遅延に見舞う事になるだろう。それに、飛び込みの瞬間を見た人にトラウマを植え付けてしまうかもしれない。転落死だって同様だ。その土地の地価は間違いなく下がるだろうし、自分の死体の処理だって面倒だろう。
彼は多くの人間が人の死で迷惑を被ったことが有る事を知っている。知っているからこそ、その時の彼らの表情が浮かんでしまうのだ。あれは明らかに、嫌悪が含まれている顔だった。一度踏切を見かけ、電車の前に吸い込まれる想像が彼の頭を覆った時、彼を現実に引き戻したのは、紛れもなくその表情に違いなかった。
そして二つ目は、これがより大きな理由だが、ここならば死が受け入れられるだろう、そう思ったからだ。
――この世は余りにも息苦しい。
幼くして格差を知った。自分には到底できない、どうにもならない事が有ると知った。クラスには当たり前の様にいじめが蔓延っていた。人気者が居て、その言動は絶対だった。担任は何もしなかった。彼の中の大人の像は、あっけなく砂屑と化した。
制服が変わる頃、彼は社会の理不尽を知った。同じ縮図を見させられていると気付いた。気付いて、そして尚彼は行動をしようとしなかった。早々に諦めていた。学校の教育理念なんてものは、吹けば飛び散る紙切れだった。
そして彼が社会に出る頃、彼は最早自分を見捨ててしまっていた。仕様書を読み、仕様通りの事を実行する出来損ないの機械に成り果てていた。
仕事に出れば『労働は美徳』『一生働け』『勝手に休むと皆の迷惑』の標語が自分を覆う。ウェブでかつてのクラスメイトを見れば『人生満喫中』『人生チョー楽しい』『生きるってサイコー』という文言が大きく宣伝されている。写真や絵などのイメージは、ポジティブというものに毒された、狂気じみた顔で溢れている。
皆、皆、皆。強き姿しか求めていなかった。その過程で、弱きを連想させるものは淘汰されていった。――特に、『死』なんていうものは。だから社会は、『強く生きろ』としか言わない。それだけを、至る所を通して日がな喚いている。
どんなに苦しかったことか。嗚呼それでも、自分はまだマシな部類に入るだろう。親から継いだクリーニング店は、大企業の御眼鏡にかない、傘下に入る事となった。心を許せる人が出来て、やがて恋人になった。苦しかったけれども、頑張っていけた。
嗚呼、それがずっと続けば良かったのに。
彼の身を焦がした人はもういない。彼の人生を預けたはずの大企業は、不況を理由に彼の子会社を切り捨てた。そうして彼は全てを失った。
もう、生きようと思えるだけの気力は、何処にも残っていなかった。
だから、ここに来た。ここだけは、死が当たり前の事として受け入れられている。何故ならここは、自殺の名所であるから。それが彼に、どれ程の安心感を与えてくれた事か。
彼には遺書を届ける宛てもない。それがかえって彼を気楽にさせた。ロープを頭より少し高い所にある木の枝に巻き付ける。そして、落ち葉が積もった土の上に小さな台を配置する。両足を徐に台の上に乗せ、首元にロープを巻き付けた。
彼の瞳が、一瞬世界を捉えた。――光の差さない暗い森に、ただ茂っている木々。
見納めをした。首を吊っている間に景色を見ていたら、未練が湧いてしまいそうな気がした。安らかに、ただ安らかにこの世を去りたかった。
得体の知れない茶色とも黒ともつかぬ塊がその視界に突如として映り込んできたのは、正に偶然としか言いようが無かった。
それは、大声を出して彼の方に走るようにして近寄ってきた。明らかに、彼を驚かそうとしているに違いなかった。
違いなかった、が、彼の反応は全くの想定外であった。
眼を大きく見開いて、その人型の塊を睨みつけるように見ると、たまらずその動く物体の方へ駆け寄っていったのである。
「……なんだその滅茶苦茶に汚れた服は!?来い、クリーニングしてやる!」
――余りにも汚いその服は、仮にもクリーニング店を営んできた彼が見るには耐えかねた。そいつの腕をぐいと引っ張る。手に伝わる感触からは、冬と同じ冷たさがした。
「……おい、ちょっと待った、確かに服が汚いのは認めるがこれは職業柄で、って引っ張るな、何処へ連れていく、人の話を聞け……うわああああああああああ!!」
哀れにも、人型の物体は彼に引きずり連れ去られてしまったのであった。その叫び声が、冬空によく響いた。
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二人、いや正確に言うなら一人と人型の何かが一つ、はクリーニング屋の方の家にいた。
「……俺が悪かった。悪かったけれどもよ、ゾンビって見た目が汚くないとダメだろ」
あの後彼は聞く耳も持たず速攻で汚れた服を脱がせ、あろうことかクリーニングに掛けてしまったのだ。今その被害者が着ているのは、同じ様な土の色で塗れた予備の服だ。
「……すまない」
流石に過ぎた真似をしてしまったと反省した。にしても奇妙だった。自分がああも一心不乱になれるとは、思ってもいなかった。
しかし、ゾンビなんていうものがこの世に本当に存在したとは。映画かアニメの中の産物とばかり思っていたが。確かに、腕を触れた時に妙に冷たかったのを鑑みるとその通りかもしれない。それに、顔色も青白く脈すら感じられなかった。違う所と言えば、普通に両足で立って歩いている所だろうか。
ゾンビを名乗るそれは、意外にも人間を襲うことも無く、更には言語を通じた意思疎通が出来るらしい。人間と同程度の知能は有りそうだ。
――そう言えば。何処かで若い女性の二人組がゾンビを目撃したとかで騒ぎになっているというニュースを思い出した。何か関係でもあったりするのだろうか。
「おい、暖房付けていいか」
「ああ……ってお前寒さ感じるのか」
「あ、言われてみればそうだな。悪い悪い。つい生きていた頃の癖が出てきてな」
「……お前、生きていた頃が有るのか」
「勿論。仮にもゾンビを名乗るからには」
ならこいつは、本当に動く死体という訳だ。それも人間の。
「……何で死んだ」
「誤って転落死してな。もう二十年は前の事だ」
「二十年」
つい鸚鵡返しをしてしまう。そんな長くゾンビをやっているのか。顔つきは二十代半ばの青年に見えるが。
「まさか子供の頃に?」
「違う違う。ゾンビは成長なんてしないさ。酒を飲んで羽目を外していたらうっかりな」
……聞く限り、同情の余地のなさそうな死因だ。この口調も、生きていた時そのままなのかもしれない。
電気ポットを引っ張り出して、お湯に茶葉を浸した所で、今ここにいるのは客ではなくてゾンビな事を思い出す。一応、聞いてはみる事にした。
「ゾンビって、飲み食いするのか」
「しないし、そもそも消化器官が働かないから出来ないな。味も香りも分からんし」
「……寧ろ目が見える事の方が不思議に思えてきたな」
「だな。死んでいるのに体は動く、目も見える、確かに奇妙だ」
そう言うや否や、ゾンビは一人で大笑いする。と言っても、声音が低すぎて、声だけでは呻いているようにしか聞こえないが。
「……で、だ」
ゾンビは更に声のトーンを落として、彼の方を見る。
「お前さん、なんであんな所に来た。なんでだ」
その目つきは。明らかに答えを知っている、しかし出来れば違っていてほしい、そういう目つきだった。だが、自分から言う事は決まり切っている。
「……自殺しようと、した」
ゾンビは静かに頷いた。目を閉じ、何かに思いを馳せたような表情を暫くの間浮かべていたが、やがてぱちりと目を開き、彼の目をじっと眺めた。そして、
「で、一旦落ち着いてみて、今はどうだ」
そんな問いが場に投げられた。
「明日、今度こそ本当に死のうと思う」
それは彼の率直な思いだった。死ぬ以外の選択肢が無かった。
何度も死のうと思った。その度に死に損なった。思い知った、自分には死ぬ勇気さえないのだと。その事実に彼は絶望した。死に損ない、そう嘲笑する声が耳を駆け抜けた。
黒の森に来たのも、これで二度目だったのだ。一度目は途中まで行ったものの、人に呼び止められて、結局そこで意思が遠のいてしまった。
だから、今度こそは。人生に終止符を打たせてやるのだ。
場が、一瞬にして凍り付いたのを彼は感じた。相手の目つきが、さっきまでの陽気なものから、震える程に険しいものに変貌している事を悟った。
ゾンビは機嫌を悪くしたように言う。息に熱が籠っているようにさえ感じられる。
「それは一番ダメな考えだ。いいか、それだけはダメだ。お前さんが死にどんな期待を持っているかは察しようもねえさ。だがな、一度死んだ身から言わせてもらうとな、そんな自殺だけは絶対にやめたほうが良い。本当に後悔するぞ」
「……何が言いたいんだ。人の事情も知らないでご高説垂れて。自分には死ぬしか方法が無いんだ」
嗚呼そうか、こいつも同じなのか。死にたいと言うと、決まって『死ぬのは良くない』と言って偽善者が寄ってくる。そういう奴のやりたい事は決まっている。『強く生きろ』と正論を吐き、精神論と根性論で相手を罵倒する。そして自分は人ひとりの命を救ったと悦に入るのだから、迷惑なことこの上ない。そんな連中は見飽きたと思っていた所に、こんな奴が来るとは。実に苛立つ話じゃあないか。
ゾンビは彼の反論に、ますます機嫌を損ねたらしかった。口調を強めて言い返す。
「何が原因で死ななけりゃいけないんだ?死刑囚でもあるまいし。他人の言葉なら、そんなもんとっとと無視しちまえ。命ってのは発言一つと釣り合うほど軽くはないぞ」
「違う!自分が人間社会に不要だと言っているんだ、生きる価値が存在しないんだ」
「生きる価値、ねえ…………」
阿呆らしい、とゾンビは顔を顰めて言う。
「価値を求めて他者からの評価ばっか伺っても、得られるのはお世辞の上手さだけだがなぁ。それに価値がないなら死なないといけないって論理もおかしい。お前さんは他人に向かって『価値が無いから死んで下さい』とでも言えるのか」
「それは……」
言えるはずもなかった。こんな人間が他人様に向かってその様な侮辱を畏れ多くも口に出来ようか。――だが、自分の死にたさとそれとは、何処か論点がずれているだろう。そんな感覚が否めなかった。
「……自殺とは関係無いだろ。自己評価なんだから」
相手から不快感は消えていた。代わりに、憂う様な眼差しが有った。
「こんな事は言いたくないんだがよ、お前さん」
天を仰ぎ見るように首を回すと、相手は言葉を連ねる。
「……自分の死で何か変わると思っているんだろう。それが真であれば良い。だが残念ながら、人の世は余りにも死に無頓着だ。人一人死んだところで、ニュースにすらならない事なんて嫌と言うほどある。誰からも憐れんでもらえない無駄死には、余りにも辛いぞ。それにだ……死はどこまで行っても、生の後付けにしかならないんだ」
生の後付け。それははてさて、さっぱり理解しようもない言葉であった。死というものは明確な終わりであり、その続きはない。少なくともそれが、大部分の人間の考える事であると彼は思う。もしかすると、このゾンビとやらは、なまじ一度死んでしまったばっかりに、死を軽んじているのかもしれないとさえ思えた。
彼の怪訝な表情を確認すると、一拍おいてゾンビは身の上話をしよう、と言った。
「死んで最初に俺が感じたのは、猛烈な痛みだった。それは生の名残だったかもしれないし、突然の死に追いついてない脳の幻覚だったのかもしれない。どっちなのかは分からずじまいだがな。ただ、その痛みは徐々に引いていった。俺はここで本当の死を迎えると思った。
――何時まで経っても視界がぼやけてこないから、俺はびっくりした。
俺は死体となった。死体として処理された。されている過程が、嫌というほどはっきりと目に映った。勿論、俺の死体は火葬された。だが火の熱を感じねえ。ここで俺は、自分が何か決定的におかしくなっていると悟った。悪夢だと思ったが、頬を叩いても醒めなくて、それが紛れもない現実だと知った。
肉体を焼かれて骨だけになったはずの俺は、それでもまだ体を動かしている感覚が有った。奇妙な事だが、俺は既にその時肉体を得ていた。息苦しくて土の中を藻掻いた。その内に俺は、やっとの事で地表に這い上がった。
それから俺は、意味もなくゾンビとしての『生』を過ごしていた。
――余りにも虚しい日々だ。こんな姿じゃあおいそれと町中に出かけることも出来ない。かといって、あんな場所で出来る楽しみなんて有りもしねえ。
気の遠くなるような時間、俺はただ、ぼんやりと何もない空間を眺めていた。心は虚空に塗れて、静寂が俺を包んだ。俺は目を閉じた。眠ってしまえばいいと思った。だがゾンビに、眠るという概念は無かった。たちの悪いことにな。
空っぽの脳みそを、やがて一つの考えが覆った。――俺はあんなくだらない事で死ぬべきじゃあなかった。それに気づいた時、ゾンビになってから初めて、俺は後悔した。そしてふと、外を見やった。幸せに笑う親子の姿が、偶然俺の瞳を横切った」
そのトーンは、余りにも淡々であった。伝えたい何かを、寸前で押し止めているような。然し、次の瞬間には、その堰は崩壊していた。濁流が、彼に押し寄せる。
「嗚呼!どうして外の世界には、こんなにも幸せが満ち溢れているのだろうか!憤りとも、嫉妬とも、悲哀とも、何ともつかぬ感情が俺を襲った。その幸せは、最早ゾンビとなった俺が享受できるものではないんだよ!!この事実が!どれだけ惨めか!!
――俺は生きていない。だが死ねてもいない。余りにも辛く苦しい日々に喘いでいる。こんな『死』を迎えるくらいなら、生きていた方がはるかにマシだと俺は断言する」
空気が、声に呼応して、明確に揺らいでいるのを感じていた。その口調は、嘘を含んでいるとは思えない真剣な口調だ。彼の決意は、一瞬揺らいだ。
だが一度死に取り憑かれた者が、そう簡単に元に戻る事はない。そう、それは彼も同じであった。
――自分は死んだほうが良い人間だ。死んで苦しんだ方が良い人間なんだ。
それは自己嫌悪の究極の形であったし、生の放棄でもあった。
「……知らないよ。自分は最低な人間だ。楽に死ねるとも思っていない」
多分に諦めに近い感情を含んだ、台詞だった。
ゾンビは、これほどまでに心外な事はない、とでも言いたげな表情を見せた。そして、深いため息をついて、呟くように小声で言った。
「……そんなに死人になりたいって言うのなら、もう止めようがねえ。だが、これがせめてもの情けだ、一度死人というものを体験してくれ」
死を体験。それは一体、どういう事だ。
「――ゾンビになるんだ。俺が元々着ていた服が有るだろう、あれを着ていくんだ。期間は明日一日、いいな」
ゾンビは、さも当然の事の様にその台詞を語っていた。
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翌日の早朝。先日の寒さとは打って変わって、太陽が存分に顔を出し地面を照り付けている。小春日和。そんな言葉が似あう天気だろうか。
だがやはりであろうか。この道の醸し出す雰囲気は変わらない。そう彼は思う。『黒の森』の創り上げるものは、天候一つで打ち消せるものではない。
ただ、ほんの少し道脇の草に視線がいった。三回同じ道を繰り返したが、その茂り具合が違って見えたのは、気のせいなのだろうか。
ゾンビの脚は意外と速い。曰く、疲れを知らないらしかった。それだけは羨ましく思える。一方の自分は息をやや切らせている。
生前の恋人が、歩調の速い人だったことを思い出した。他人の歩調に合わせるのは、随分久しぶりだ。かつての姿を空に浮かべる。今ここに、戻って来てくれたら、どんなに嬉しい事か。叶わぬ願いだけれども、願わずにはいられなかった。
「この服は、結構凄くてな。着ている人間を他人が見ると、恐怖を覚えるのさ。実にゾンビ向きの服だと思わないかい」
ゾンビが陽気に言う。確かに、じっと眺めてみると怖そうな模様だ。
「だから、お前さんの行動には、驚いたんだぜ。まさか猪よろしく真っ直ぐ向かってくるなんてな」
――正直な所、それは彼が余りにも匂いにうるさいからかも知れなかった。事実、彼が着ている服からは、仄かにラベンダーの香りが立ち込めていた。
入り口近くまで来て、ゾンビの歩みは止まった。そこには、墓石が有った。周りの人工物が土を被り植物の根城となっている中で、この石は妙に綺麗さっぱりしていると感じる。
――此処で死んだ全ての人を弔う為の物だと、墓石の隣にある木の立て札に小さな文字で書かれている。余程の聖人が昔居たのだろう。前までは、気にも留めなかったが。
ゾンビはそこで膝を地面に付けた。そして顔の前に合掌をし、目を閉じて祈る様な姿勢を取った。彼もそうしないわけにはいかず、その場でゾンビの表情を伺いながら真似るように顔を作り、手を重ねた。
こいつは意外と律儀なのだろう、と彼は思う。ゾンビの動く音がして目を開き、立ち上がった時、墓石の下に供えられた花が見えた。――赤と黄色が暗い森に映えた。黄色は中央から沢山の花びらを伸ばし、小ぶりながら厚みのある姿だった。赤は茎に蕾が有り、頂点に花びらが何枚も重なった美しい波打ちを魅せていた。
「さて、ゾンビになったお前がやる事は二つある」
ゾンビの師匠が弟子に向かって語り始める。弟子は、その次の言葉を待つ。
「一つ目は、ここに冷やかし目的で入ってくる奴を、追っ払う事だ。ああいう連中は、ここに来てもろくな事をしないからな。この前来た連中なんか最悪だったぜ。火葬だ何だと言ってこの辺中にガソリンをぶちまけようとしてやがった」
……正気を疑う。そう彼が思ったのも無理はない。きっと『強く生きる事』を是だと思い込み過ぎたに、違いなかった。そしてその末に、死を迫害対象と捉えてしまったのかもしれない。そんな頭の螺子の外れた人間の思考なんて、彼に早々理解できるものではないし、理解したくもないが。
ふと、心当たりが有って、彼は一つ質問を投げかけた。
「なあ、この前若い女性がゾンビを見かけたってニュースを見かけたんだが……」
ゾンビは心当たりがないという顔をしたが、少し腕を組んだ後、
「……すまんな。仲間がちょっとやらかしたかもしれない。それは悪かった」
「あ、いや」
彼は戸惑った。ここまで素直に謝られるとは。第一、謝罪すべきは自分ではない。
仲間とゾンビが言ったものに、会いたいとは特段思わなかった。さほど興味がないし、ゾンビはこの一体で十分すぎた。単純に煩わしい。
「で、二つ目は」
「ああ、言い忘れていた。此処で一生を終えようとしている奴を、此処から追い出してやるのさ」
「……はぁ?」
それは、大変侮辱的な発言だった。何より、自分とここで死を迎える人とを重ね合わせていた彼にとっては。
「彼らの死ぬ権利を、ほんの少しでも考えているのか?」
「そりゃあ海よりも深く考えているとも。のっぴきならない理由に追い立てられて自殺するよりは、親しい人に見守られながら安らかにご臨終を迎える方がよっぽど良い」
「そんな勝手な理由でか?そんな理由でやっているのか?」
「嘘は言っていないぜ。何より、他にする事も無いからな」
――こいつは、今、なんて言った?他にする事がないから?暇だから人助けをしている、そうとでも言いたいのか?
「ふざけるのも、いい加減にしろ」
含羞だ。そんな身勝手な理由で助けられた自分の、この命自体が。そう叫んでいた。
「そんな身勝手な理由で助けられて、誰が喜ぶと思っている?誰が感謝すると思っている?お前がやっている事は、此処に冷やかしでやってくる連中と変わりない」
もし変な受け答えをしたら。その時は一発殴ってやろうと思った。たとえゾンビが痛みを感じない代物だとしても、この腹の中の怒りが収まらなかった。
ゾンビの答えは、彼の予想の的を見事に外した。
「医者って職業が、有るよなあ」
「……有るが。それがどうしたって言うんだ」
虚を突かれたような反応になりながらも、彼はゾンビに言い返す。ゾンビはその応答を待った後、話を続ける。
「瀕死の人を救いたい。そういう思いで医者になった人間がいたとしよう。それは実に素晴らしい事だ。きっとその志を存分に発揮してくれるだろう」
「……異論はない。それで」
「……だがその人物は、やがて日々の激務のうちに初心を見失ってしまった。人を救いたいという意志無しに、ただその日の給料の為に人を手当てする様になった。――ここで質問だ。彼は医者を辞めるべき不道徳な人間だろうか?」
「…………」
その質問に直ぐに答えられるほど、彼は思考の浅い人間ではなかった。
人を救うという志を持ち、それを成し遂げる事。それがどれ程難しい事か、そしてどれ程褒め称えられるべき事か。幼稚園生の頃、成りたかった職業が消防士だったことを思い出した。火事場に入って人を救出するという英雄的なイメージに、ただ純粋に憧れていた――今ではクリーニング屋としての矜持すら失っているというのに。
だから、尊敬こそすれ、馬鹿にする選択肢は脳内に微塵もなかった。
「そんな人間ではないと、思う」
「だろう。確かに志だとかやりがいだとか、そういうものは重要だ。だがそれだけに縋るというのはまずい。ベンサムだったっけか、そんな名前の哲学者も言っていたよなあ。どの様な意図であれ、善行は善行だってな」
彼はそこで口を噤んだ。噤んだが、それは何も全てを納得したサインではなかった。違和感の様なものが有った。ゾンビの答えが、何処かでずれている様な、そんな気がした。
だから、彼はこう思った。
――もし死のうとしている人が来たとして、邪魔はしないであげよう。それこそが、少なくとも彼等にとっては救いに違いないのだから。
あのゾンビには悪いが。しかしこれはもう仕方がない。自分と同じ心境の人間すら分かってあげられなくて、一体何になるというのだ。
だから彼は、首を吊る場所を探している人を木の陰から見かけても、何もしなかった。そうしようと思っていた。
――故に、彼がその陰から動き、走り出したのは。その人が正に首を吊り、最期の呻き声をあげている丁度その時だった。




