バケモノがあらわれた!!
騎士たちに伴われてしばらく道なりに進むと前方に木々が見えてきた.鬱蒼と生い茂る木立が高々と伸びていてその先にも道は続いている。ここからは森に入るようだ。日差しが厳しかったうえに水分も取らせてもらえなかったので、光がさえぎられる森の地形はありがたい。
女は女神様の手をとり、楽しそうにガールズトークに励んできた。というよりも一方的に女神様がまくしたてられていた。空港で異邦人を出迎えて、自国のあれこれについて身振り手振り交えて説明する様に似ていた。女神様も「へー」とか「ほー」とかつまらなさそうに反応を返してあげる当たり、根はいい神なのかもしれない。
それにしても、女神様は人間と体の構造が違うからいいとしても、騎士も女も疲れ知らずで、休憩をとらずに歩き続けている。それは森に入ってからも変わらず、少しでも私が歩を止めると、後ろの騎士から背を押されるという制裁が待っていた。
倒れることも休むことも許されず、私の体力が限界を迎えてきたところで、「カーーーッ」という森の外でも聞いたよく通る、けたたましい鳥のような鳴き声が聞こえ、ぬっと大きな影が木々の隙間から出現した。
それは熊の姿に似た化け物だった。全身は黒い体毛でおおわれているが、いたるところにこぶこぶとした赤黒い筋肉が浮き上がっており、黒と赤のコントラストが作り物めいた雰囲気を与えている。黒くつぶらな瞳はぬいぐるみにはめ込まれたガラス玉のように光っており、顔にキョトンとした間抜けな印象を与えている。
口からは鋭い牙がのぞいており、ぬめぬめとした唾液を口端からしたたらせている。体長は人間の三倍ほどもあり、生身で太刀打ちできないことは一見して明らかだった。
「でっかい熊ね」
『何なのよ、あれ!』
『見たことのない魔獣です!』
『逃げるぞ!』
女神様ののんきな感想の後に、女たちが驚愕の声をあげる。その瞬間、腰のあたりをつかまれたと思うと、体が宙に投げ出される。受け身も取れずに地面に追突する。騎士たちが私の体を投げつけたようで、軽い痛みを覚える。
顔をあげると眼前に先ほどの化け物がいた。立ち上がろうとするも、恐怖で脚がすくんで、ちぐはぐな動きとなる。口中からすさまじい勢いで唾液が分泌され、頭の奥がジーンとしびれる。
「カーー」
なぜこの図体からこんな声が、と思わせる大きな鳴き声を発する。その声を間近で聞くと、歯はがちがちと鳴り、腕は震え、全身の力は萎えてくる。
横目で、騎士たちが女神様と女を連れて走っているのが見える。女たちが逃げるための人身御供にされたようだ。異世界に来て早々に獣のえさになるなんて想像もつかなかった。獣の動物的な瞳は明らかにこちらの姿をとらえており、もはや逃げることはできない。
「ひい」
半開きになった私の口から情けない音が漏れる。弛緩した股間からも温かい液体が漏れる。頭では逃げられないと悟っていても動物としての本能から手足をじたばたと動かす。
化け物は私の行動を不思議そうに眺めている。だがそれに飽きたのか、巨体には似合わない俊敏な動きで私の横から半身を覆うようにし、顔を私の首のあたりに向けて近づけてくる。強烈な刺激臭が鼻をつき、吐き気がこみ上げる。冷たい唾液が私の服を濡らす。
化け物が実は人間に友好的で、久しぶりに見た人間と戯れたいだけであることを祈る。肉食でも雑食でもなく草食であることを願う。だが、願いは通じず、化け物は口を開き鋭い牙を露出する。硬い肉を突き破るのには十分で、初めから人間を食べるためについていたかのようである。
化け物の顔が首にふれる。もはやこれまで、できるだけ苦痛なく殺してほしい。人間はなんて無力なのだろう。自分がどれだけ恵まれた世界に住んでいたことか。母さん、父さん、今度こそ、逝きます。女神様、ごめんなさい。
さまざまな想念が頭に浮かんでは消える。視界がぼやけて、目の前が真っ白になる。目をじっと閉じ、運命の時を待つ。いよいよ絞首台に連れられる死刑囚はこんな気持ちなのだろうか、と一秒が永遠にも思えるような時を過ごす。
いったいどれほど待ち続けているのだろう。いたぶるのが趣味なのであろうか。獣にそんな高次の感情はないはずだ。さすがにおかしい、と心に余裕が出てきて目を開けると、先ほどと変わらず目の前には化け物の顔があった。
「ひえ」
またも情けない声をあげる。だがそれは先ほどとは違った意味での悲鳴だった。化け物の頭部が私の胸のあたりに乗っていたのである。胴体はその後ろで力なく横たわっていた。
「あっはは、何よそのまぬけな声」
緊迫したこの場の空気に合わない朗らかな声に振り向くと、女神様が無邪気な表情で腕を組んで立っていた。一切気負うことなく、変わることなく、余裕で自身に満ち溢れた姿に、私は安堵と虚脱感を覚える。
「なんで女神様がここに......。あの人たちと逃げたのでは。それよりも化け物はどうして」
「簡単なことよ。熊の胴体と頭部の接合部を転移させたわ」
「そんなことが可能なのですか」
「部分転移も可能だったみたいね。私もさっきあなたに言われて初めて知ったわ」
「そうだったのですか......。本当にありがとうございます。女神様がいなかったら私は」
死の恐怖から解き放たれて緊張が一気に抜けたのか、目から熱いものがとめどなく流れてくる。女神様は一瞬、驚きの表情を見せるも、目を細めて、微笑を浮かべ、私の眼前まで腰を落とす。常にはない女神様の表情に何とも言えない感情がわいてくる。
「いい大人が子どもみたいに泣いちゃって、情けないわねえ」
といいながら、女神様は私のほほを優しく手のひらで包み込む。暖かい体温が伝わり、その時私は初めて、人間に対する神の慈愛を感じたのであった。