『THE DEPTH』――山奥の廃墟で絶対に許さんぞ系ホラー
急いで書いたので微妙に未完成です。規定上可能な限り修正予定。
登場人物
―城山信也…名家の出、ある職種で山梨の廃墟へと向かった精悍な男。
詳細不明:八月一日
――痛い。嫌だ、もう痛いのは嫌…来ないで。
切断されて地面に転がる指、それの骨や血肉や脂肪分の発する強烈な匂い、暗い場所。
――どうして? どうしてこんな思いをしなくちゃいけないの? こんなのは嫌。
ずきずきと痛む切断面、同じ側の掌に穴を開けられて神経を傷付けられた。全ての秒ごとに涙が噴出し続ける激烈な苦痛、理不尽への恐怖と怒り。
――来ないで! こっちに来るな、このクズ!
痛みでふらつく、暗く見通しの悪い廊下、ちかちかと点滅する不気味な照明、薄汚れた廊下。そして、ゆっくりと正確な歩みを続ける背後からの足音。
――やめて! 私に構わないで! なんでこんな事するのよ!?
廊下は行き止まり、開かないドア。力無い体当たりが立てる騒音、焦りと恐怖が具現化した息遣い。
――嫌よ、こんなの! あんたみたいな最低の外道に殺されるなんて嫌! 来るな! 来ないでよ!
止まらない歩み、手にした縄、停止。
――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁ!
力強い相手の拘束、廊下を引き摺られる、そこらの廊下や物へ爪を必死に立てて遅延させようとする決死の努力、狐の仮面の男、漏れる鼻歌。
――嫌ぁ、嫌よ!
唾と涙と鼻水、溶けた化粧、汗。躰が浮遊する感覚、どさりと『あの』寝台にまた載せられた。
――お願いだからここから逃がして! 誰にも言わないから!
再び拘束、二度と逃げられないよう、入念かつ強固に。必死の抵抗、それを上回る腕力、山のような体躯、軍人のように太い手足。
――嫌よ、もう痛いのは嫌…(判別不能の音声)
背を向ける男、机の上に広げられる器具、アイスピックのような器具。振り向いた男、鼻歌と共に寝台へと歩み寄る、穴を開けられた方の手へと迫るアイスピック状の先端。
――やめて! そんな事しないで! 嫌ぁ! (判別不能の音声)
今日は八月一日。そして明日も八月一日。明後日も八月一日。
二〇一四年、八月一日十時六分:山梨県某所
車内は今のところ快適であった。突き抜けるような蒼穹――つまりこの季節でそれは猛暑――が上半分を支配し、もう半分は田舎道の周囲に広がる野山であった。
恐らく今は標高を二百メートルか三百メートルか登った所で、ラジオからは『あー夏休み』が流れていた。
懐かしい曲であり、これを聞くと城山信也は兄と共に那須の別荘近辺の沢で遊んだ日を思い出した。
溺れそうになった兄を助け、それを家族には内緒にすると約束したあの日。兄の葬式でその話を両親にして、束の間笑った――そしてすぐに皆悲しみに立ち戻った。
兄の勉――婿殿である――とその妻のシャーロット・バンコレが同時に亡くなり、まずバンコレ家があるラゴスで葬儀があり、そして次に城山家が本拠を置く東京の田舎でも葬儀があった。
社交界では名家とは言えヨーロッパではなくアフリカの家と結婚する事への冷ややかな目もあったが、『枡田家のような事を仰いますね』と信也は痛烈に彼らを皮肉った。
信也にとって夫妻はいつも守ってきた兄であり、そしてその美しい妻であった。それが二人纏めて殺されて、冷静でいられるはずがなかった。
犯人はイギリス人のアイザイア・ゴドウィンで、彼は犯人が自分にも殺せるような相手である事に感謝していた。
しかし同時に、アイザイアは信也及び兄夫妻とも友人関係にあり、それを思えば犯人が自分には殺せないような恐ろしい相手であればよかったのにとも考えた。
信也はそうした思考を打ち切った。一人で運転していると、どうしてもそのような事ばかり浮かんでしまう。
人伝に聞いたが城山家と対立する没落した枡田家のメンバーがアメリカで逮捕されたとかで、一つ厄介事が減った。一つだけは。
ふと道路から見下ろすと、数メートル下の小さな川に深緑色の深みが見えた――また兄貴と過ごした時間を思い出せってか、ふざけんな。
気が付けばラジオは別の曲を流していた。曲名は忘れたが確か実家にあるグローブのアルバムに入っている曲であったか。
最近流行りのEDMにもどこか通じるようなメロディー――少なくとも素人の彼にはそう聴こえた。
兄夫妻の愛娘であるショーラは元気であろうかと考えそうになり、彼は頭を横に振った。兄とその妻の突然死からまだ数カ月、受け入れるのは途方も無く難しく、どこまでも悔しかった。
とは言え、然るべき依頼が政府からあれば堂々と下手人を殺すなり捕まえるなりする事ができる。それがこの仕事のいいところだと信也は考えた。
彼が乗る古い銀色のスカイライン――所謂ジャパンとして知られるスカイライン――は更に山奥深くへと入った。
彼はふと『ドラマみたいにNシステムを使って己の行方を捜索されるような事にならねばよいが』と渋い顔をした。行方不明の理由が『仕事』のせいならまだいい方であるからだ。
レストアが必要なレベルのクラシック・カーとは基本的に故障込みで楽しむものだが、今のところは去年静岡の山中でトランスミッション周りの故障が発生して最終的には走れなくなった事以外は至って順調である。
しかしそれもいつまで保つか――身長一八五センチの信也は強い陽射しが窓から差し込む車内でホルダーからコーヒーの缶を取って少しだけ飲んだ。
三〇代中頃の彼はスポーツ刈りにして茶色気味の黒で染めた髪を軽く掻き毟り、一度車を路肩に止めた。
エンジンを切ると現代の仕様でレストアされた車内は一気に熱くなり、彼は車内が熱せられて汗が滲む前に車を降りた。
スマートフォンで天気予報を確認――天気占いに思えていたが。目的地は今のところ晴れ、うんざりするぐらいに暑い。
その他必要になる情報をそれとなく検索したが、しかし下調べした以上に目新しい情報も無かった。
携帯内に元から入っているニュースのアプリから通知が入っており、芸能人夫妻に子供ができたとかどうとか表示されていた。
その他には異常な殺人事件の裁判に関する進展があったとかなんとか、犯人の異常性はワイドショーで何度か目にしていた。
向こう一週間は猛暑日が続くとかで、東京の気温などは見たいとも思わなかった。湿度も最悪であり、東南アジアの大都市にも匹敵するような蒸し暑さであるらしかった。
他にもどこかの県で港に珍しい海洋生物が紛れ込んだとか、轢き逃げ犯がカメラに映っていたせいで身元を割り出されただとか、そのような雑多なニュースがあった――気が付けば初めてこのアプリを開いた。
信也は刺すような直射日光の下で少し見にくい画面――光量自動調節を切っていた――の電源をボタンで切り、真っ暗闇になったアンドロイド端末を上着のポケットに突っ込んだ。まだ汗は出ていない。
だがそろそろ首や額に滲むと悟っていたから、彼は車内へと滑り込んで即座にエンジンを起動した。
ふと思い返してエンジンはしっかり切っていた事を思い出し、主人公が不注意によるバッテリーのトラブルで立ち往生する映画があれば最低な映画だろうなと考えた――ちょうどバッテリーの寿命間近だったという設定で。
彼はミラーと振り向きで確認してからアクセルを少し強めに踏み込んだ。
六気筒のOHCエンジンがどこか古臭い唸りを上げるのに心地よさを感じつつも、信也は先程見たニュースの事を思い返した。
ああした雑多な日常こそこの日本という国の宝の一つであろう。
芸能関係のスクープを話題のネタとして共有し、時々発生するクソったれな胸糞悪い事件について司法による正義の鉄槌が下る事を淡く期待する。
信也はこの国が悍ましいものに侵食されるのを避けようと努力していた。数年前に東京駅で大規模な感染症が発生した事件で本当は何が起きたのか彼ははっきりと知っていた。
そのような事が繰り返されるわけにはいかないため、彼は県道から分岐する道へと右折し、その向こうにある閉鎖された領域へと車を走らせるのであった。
八月一日:詳細不明
――ああ、嘘だ…一夜でなんで…。
窓を締め切った車内、猛暑の駐車場、高いイギリスのスーツを容赦無く濡らす滝のような発汗。視線で突き刺すようにして見続ける明細、何も変わらない男の現実。
――あり得ないだろ? なんで口座がすっからかんなんだよ…。
必死に積み立ててきたもの、口座の中身、八千万あったはずの貯金。いい大学を出た、いい企業に入った、我武者羅に働いた。七年で得た将来の相手、約束した今後。
――あいつになんて言えばいいんだよ…これからを楽しみにして…。
やっと得られたはずの平穏、互いに家族親戚を捨てて得た現在、新たに得た理解者達、最果てにある祝福。
――あいつとの将来が…こんな。
深い絶望、肩代わりできたはずの借金、不可能となった将来。浮かぶ最愛の者の横顔、短い髪、均整の取れた筋肉質の肉体。無理解の世の中で得た真実の繋がり、永遠の約束。そして不可能となったそれら未来。
――もうこうなったら。
汗だくのままスマートフォンを取り出す。検索、生命保険、それに関する法律。絶望の果てに擦り切れた、あまりにも悲しい笑み。窓の外を大柄なスーツの男が歩いて行った。
今日は八月一日。明日も八月一日。明後日も八月一日。
二〇一四年、八月一日十時十五分:山梨県某所
事前の下調べの過程でこの国の知らない歴史にも足を踏み入れる事となった。
これから向かう先は第二次世界大戦、太平洋戦争真っ只中に行われていたとある実験の中枢であったらしかった――これは既に父から聞いていたが。
所謂超人兵士を作り上げる目的の実験を行っていた『虎鮫計画』があり、具体的な実験内容は失念したが、例の飯田とかいう男が『成果はこの私である』などと昔の映像で言っていた。
ともあれ敗戦による大戦終結に伴い、旧軍から地方の市町村単位までがあちこちで文章等の焼却処分を行なったが、父に聞いた話によれば『虎鮫計画』の資料等に関しては極秘裡の取り引きによってアメリカの手に渡ったとの事であった。
さて、未知はここからである。施設そのものは再利用の目処も立たず、戦後は打ち捨てられていた。
復興の十年、その後の高度経済成長、それに伴う公害及びそれとの戦い、安保や労働の闘争、そうした目まぐるしく移り変わる激動の戦後時代を取り残され、施設は誰も寄り付かない場所となっていた。
外国では朝鮮戦争を経て東西対立構造が浮き彫りとなり、凄惨なヴェトナム戦争が日本にも衝撃を与え、『明日は核が頭上から降るかも知れない』という緊張感がアメリカ等から伝播したが、しかし『虎鮫計画』の中心地は『何も無かった』。
実験の隠蔽は済んでいたがそれでもこの場所の気味悪さはいかんともしがたく、それ故になおさら誰も来ず、またこれを再利用しようという意識も生じなかった。
しかしここは一時的に注目を浴びそうになっていた――『浴びそうになっていた』としか言えない。
八〇年代にグリーンピア建造が始まり、この失敗した政策では全国十三カ所に巨額を投じてグリーンピアの娯楽・宿泊施設が作られたが、実は幻のグリーンピアとして山梨のこの『虎鮫計画』施設が再利用されるという話が進んでいた。
地元はこれに対してビジネスの匂いがすると踏んでいたと思われた。恐らく、施設の不気味さを無視できるぐらいの。
好景気によって建築業界や土木業界も活気があり、今の感覚では信じがたいが、この廃墟に対して地元の施工業者が『実際にここがグリーンピアとして正式に運営される』と確定していない時期に、既に工事を始めていた。
とは言えこの時代は今では考えられないような長時間労働が蔓延り、そして働けば働いただけ実際に相応かつ確実に報酬へと繋がっており、好景気特有の空気感によって誰も早とちりな工事をおかしいとは思わなかった。
歴史とは面白いもので、工事開始から半月程度でこの施設をグリーンピアにするという計画は取り下げられた。
諸々の地元業者にとっては当然損失であったが、勝手に始めた事であったし、なおかつ他の事業でこの損失を帳消しにして余りある業績であったから、特に問題にはならなかった。
せいぜい、数十年経った今に『あの頃はそんなバカをやらかしても会社っつー大船はビクともしなかった』とビールを飲み交わして談笑のネタに使われる程度であろう。
例によって再び歴史からは取り残され、かつてここが『虎鮫計画』の中枢であったという事実も捨て置かれ、そしてここで人体実験を受けていたと主張する飯田健三もこの施設の事を『戦略上』あまり重視しなくなっていった。
そのような歴史の外側の辺境の地で、今何が起きているのか?
八月一日:詳細不明
――捨てられる! 今度こそ捨てられる!
浮気したのがまた夫にばれた。夫からの着信があれから早くも何十回。
――捨てられるのだけは嫌、離婚は嫌!
夫ではない男と遊び、夫ではない男と寝るという背徳。止まらないアドレナリン、終わらない依存症。しかし彼女はあくまで依存症であり、奇妙な事に本気で夫を愛していた。
――やだよ…あの人無しじゃいけないのに…どうして私は…。
ホテルのベッドの上、混濁した瞳、電話台の上にある何かの薬。ベッドに腰掛けて煙草を吹かす、身長一八〇代の浮気相手の背中がどこまでもよそよそしく見えた。
今日は八月一日。明日も八月一日。明後日も八月一日。
二〇一四年、八月一日十時ニ一分:山梨県某所
山の斜面に沿って蛇行する坂道を延々と登り続けた。スピードはほとんど一定で、ギアを切り替える必要がほぼ無いので気は楽であった。
ネクタイ無しで『五大陸』のスーツを着ている彼の姿はこの山中では浮いて見えたが、しかし周りには誰もいなかった。
靴はスーツと対照的に茶色いナイキの頑強なアウトドア・シューズを履いており、その足でアクセルとクラッチとを微妙な加減に保っていた。
映画的に考えるなら彼はある種の『仕事人』であり、そしてそのカテゴライズも間違ってはいなかった。
太陽の光は遮られ始め、見れば樹木の枝が天蓋のように車の上を覆う率が増え始めていた。
先程この道の下の方から見た先行きには雲や霧など見えなかったが、しかし枝の間から降り注ぐ陽光が奇妙な靄を照らし始めた。
一度車を路肩に止めてサイドブレーキを引き、エンジンが掛かったままの車内で携帯の画面を点けた。
黒いスマートフォンの画面は右上に電波が途切れている事を示す表示を出しており、助手席に置いている黒い布の鞄から自分で作った資料を取り出した。
このエリアはまだ電波が届くはずであり、ホラー映画ではあるまいし、悪趣味に思えた。信也は己が置かれた状況を鼻で笑い、それから癖で後方確認やウィンカー操作をしながら発進した。
右手側に広がる谷は草木が生い茂ってその全容は見えず、また、一応そこそこの道幅があったので余計に見えにくかった。
いつの間にかラジオも途絶え、ざあっと不気味な雑音がスピーカーを穢していた。彼はそれを消して、冷房とエンジンの音しか聴こえない世界に身を置いた。
ジャパンが走行するにつれて罅割れの多い地面は不定期にがたんと振動を伝え、それ自体がこれから向かう魔境への案内看板であるように思えた。
進むごとに空模様が悪化しており、そのせいで視界内の光量も下がっていた。
こうなるのであれば無理にでもドローンでも使って偵察しておくべきであったか。
外部で得られる情報にはやはり限りがあり、現地に赴いて初めて気が付く事はこれまでの経験上何度もあった。ならばドローンの類でも用意しておけば。
しかし可能な限り全て手を尽くしたのであれば後は出たとこ勝負以外に道は無かった。
今までもそうしてきたし、彼の座右の銘は『今までにもっとクソみたいな事もあった』であった。
八月一日:詳細不明
――どこなんだここは!?
自分が一瞬どこにいるのかわからなかった。強烈な水圧を意識し、そしてその恐ろしいぐらいの冷たさから何故か自分が今、海水の底にいるのがわかった。
――どういう事なんだ!? 暗くて何も見えない! なんでいきなり海の中に!
焦りが脳を焼いた。思考は蒸発し、霧散し、冷静さは退去して行った。至高の恐怖がじわりと湧き出た。
――嫌だ! 暗いのは嫌だ! こんな所で独りぼっちで死ぬなんて絶対嫌だ!
一応酸素ボンベらしき装備はあった。ゴーグルもあった。しかし焦って藻掻いたせいで海水がゴーグル内に流入し、なおさら発狂へと近付いた。
――俺が何をしたんだ! なんでこんな理不尽な目に! ああ、誰か頼む! 助けてくれ! 助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて…。
死のカウントダウンはゆっくりと進んでいた。酸素残量が減り続け、今自分が上を向いているのか下を向いているのかも、狂乱の最中では判別できなかった。最期に見る幻覚なのか、目の前の闇に厳つい男の顔が見えた。
今日は八月一日。明日も八月一日明後日も八月一日。
二〇一四年、八月一日十時二四分:山梨県某所
錆びたガードレール、罅割れも多く白っぽい色褪せた舗装の路面、道路の頭上を覆う枝。いちいち羅列しているときりが無いような気がした。視界は徐々に悪くなり、彼は昼間であるのにライトを点ける羽目になった。
蛇行する坂を低速で延々と登りつつ、ふと『グランドセイコー』の腕時計をちら見し、今が紛れも無く昼間である事を確認した。
まだ十時半にもなっていない程度、だというのに趣味の悪いフィクションのような霧の濃さ、そしてそれが齎す暗さ。
山を走って霧や雲に突っ込んだ事は一度や二度ではないが、しかしこの名状しがたい暗さは明らかにこれまで経験してきたものとは異なる。
ワイパーを起動したが、水滴は普通のそれよりも粘り気があるようにも思えた。
べとべととしてそうな霧という意味不明なものに対して彼は嫌悪感を抱き、帰ったら車を隅々まで洗うべきかと考えた。
残りはもう一キロもあるまいが、所謂『人生で最も長い数分間』がこれから訪れそうな予感がした。エアコンを切ったが、もう車内は暑くなかった。
特殊な加工によってあの霧が車内に入る事はあるまいが、しかしこのまま何も起きないとは思えなかった。
がたんがたんと不定期に揺れる車内で、渋みのある顔をした信也は睨め付けるような目付きで状況を窺っていた。
不意に視界に赤い物が入って来て、通り過ぎたそれへと彼は一瞬振り返った。
道路脇の湧き水の色が赤黒くなっており、やれやれと思いながら前を見た――フロントガラスを何かが塞いでいた。
毛むくじゃらの塊。赤黒いてかてか。ぐちゃぐちゃと蠢く白い粒の群れ。混濁した目。白い粒の群れの中に、不意に人間の子供の顔が見えた。
スカイラインのボンネットとフロントガラスへぶつかるような恰好で猪が乗っていた。信也は目を大きく見開いた。
それの濁った目はじっと信也を見据え、呪いのビデオを視聴中のテレビから貞子が出て来るかのようにそれはガラスを透過しようとしているように見えた。
息がガラスを曇らせ、口からはまるで老人の喘ぎのようなものが漏れ、金縛りのような感覚が――不意にそれらは終わりを告げた。
その汚らしい物体は慄然たる絶叫と共に斜め前方の崖の向こうへと高速で吹き飛んで行き、それの痕跡は車の上には残っていなかった。
彼は心の中で何かが生じるのをぼんやりと感じた。汗が額に浮かんだ。
霧に遮られた視界の中を進行していると、前方のガードレール沿いに何か小さな影が見えた。信也はアクセルを強く踏み、振り向きすらせず、それの横を通り過ぎて行った。
途端、背後から少女の断末魔のような、あるいは金切り声のようなものが響いた。
左を見ると血の手形がべったりとあり、天井からかたんと何かの音が聴こえた。
彼は反射的に右を見たが、そこには付け根の辺りで胴から千切れた女のそれらしき腕ががちゃがちゃとドアを開けようとしていた。
前方を見ると大人数十人分のような黒い影のようなものが見え、彼の車はそれらの中を通過して行った。男もいれば、女もいるように見えた。
がちゃがちゃ音はまだ響いており、スポーツ刈りの巨漢は車内で荒々しく呼吸をした。
息を整えて堪えようとした。抑えろ、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け…。
だが我慢は遂に限界を迎え、彼の溜め込んだ感情は爆発した――いい加減にしやがれよ、この礼儀も知らないクソガキども。
オーディオのパネルを操作し、彼は『存在してはいけない音声』を車外にも漏れるような大音量で流した。
バックミラーを見ると人影のようなものが大勢ダッシュして追い縋っていたが、しかしその音声を聞いた瞬間にそれらは藻掻き苦しみ始め、拷問に掛けられたかのごとき凄まじい絶叫と共にぐちゃぐちゃに潰れ始めた。
前方には再び赤黒いものが見え、よく注意して見れば霧に遮られたり遮られなかったりしつつ猪や子供の影が見えていた――なるほど、ここは『そういう場所』か。
しかしそれらは『存在してはいけない音声』によってずたずたに引き裂かれた。
そしていきなりバケツをひっくり返したかのように大量の赤黒い液体が車全体にぶち撒けられた――霧は晴れ、立ち眩みがしそうなぐらいの光量が復活した。
突き抜けるような、しかし逆に不安を感じるような青空。それに負けないぐらいの木々の青々しさ。
坂を登り切った先には、歴史から取り残された巨人の死体のような廃墟が広がっていたのであった。
かくしてしょうもない歓迎をぶち壊しにした信也はまだ苛々が残っていた。
停車して軽くチェックした限り車は多分無事であると思われたが、しかしあの千切れた腕にドアを開けられそうになったのは本気で腹が立った。ただでさえこの車は年老いているというのに。
ともあれ、彼は当初の目的地へと到着したのであった。病院のようなレイアウトの二階建ての施設、事前の調査ではおよそ一ヘクタール程度の広さの建物であった。
壁のように聳える正面の入り口前には不自然に雑草が生えていなかった。
よくもまあ戦前にこのような僻地でここまで大きな施設を建てたものだが、しかし長年人の出入りが無かった建物の宿命として、外壁の煉瓦は酷く変色し、壁の所々が崩落していた。
夏らしい蝉の大合唱はここには存在せず、微風とて無く、ジャパンのエンジンを切った今となっては無音に等しかった。
突き抜けるような青空が不気味さを掻き立て、記憶を辿れば今日の空は確かに連日通りの晴れではあるが、しかしここまで凄まじい蒼穹ではない。
先程の馬鹿馬鹿しい歓迎会とは打って変わってこの静寂であるから、余計にここが危険な場所であるように思えてならなかった。静けさを悍ましいと思ったのは久々の事であった。
標高のせいか暑さはそこまでのものでもなく、こうして車の側でじっと立っているだけでも不快感は言う程酷くはなかった。
なんとなくだが、小中と続けた野球で訪れた山にある学校やグラウンド施設を訪れた時の印象に近く、特に夏などはこれに少しだけ似ていたような気もした。
地面を見れば乾いた土が広がり、土と言うよりも砂に近い黄土色のそれの上を彼はゆっくりと歩き始めた。
既に車内で必要な物を小ぶりのリュックに詰め、それを右側の肩で背負って右手でリュックの両側のストラップを掴んだ――学生の頃よくこうして担いだ。
己の足跡以外には特に何も聴こえず、砂利混じりの地面を踏み締め、やがてほとんどが長年の侵食によって消失したコンクリート舗装に足を踏み入れた。
元々は道路からこの施設前のエリアに掛けてが舗装されていたのであろう。
しかし長年が過ぎ、時には辛く厳しい豪雨とてあったと推測でき、経年劣化の激しいコンクリートがそれに耐えられず、罅割れに従って崩壊・洗い流されたのかも知れなかった。
正面玄関のドアは上半分にガラスを張っていたようだが、そのほとんどは割れて久しかった。薄暗い室内に差し込む夏の激烈な陽光とて、どこまでも頼り無く思えた。
ドアを開けようと思ったが、しかし錆びたそれは簡単には開かないように思えた。
信也はドアを全力で前蹴りし、弱っていたドアの基部が外れ、それは建物の内側向けて倒れた。両開きドアの片側がこうして開けられ、彼は内部へと足を踏み入れた。
こういう時は毎回軍手を使い捨てている彼は、今回も後で焼却処分する予定のそれで覆われた手からぼんやりと光る物を空中へゆっくりと放った。
彼が歩き始めるとその奇妙な物は追随し、常に彼の少し前方の上方で光っていた。暗い室内は照らされたが、しかし照らされた事でより黯黒が浮き彫りとなっていた。
どうやらこの辺りは改装が進んでいたようで、施設の外見と比べて新しいように見えた。己の足音のみが聴こえ、相変わらず外と同様の異様な静寂がこの場を満たしていた。
あたかも、己はその足音によってこの何も聴こえない空間にて存在をアピールしてしまっているかのようにさえ思えた――ネガティヴな考えだ。
塗装はまだ劣化がましな方であるらしく、廊下はこの手の廃墟にしては比較的状態がよかった。とは言え、廊下の両側にはドアや窓が無秩序に並ぶにしては、明らかにここは暗かった。
普通のこのタイプの廃墟なら光が開口部から次々と入り、もう少し明るいはずであった。
しかしこの場の暗さはどちらかと言えば、開口部を打ち付けて閉鎖された廃墟のそれか、あるいは単純に夕暮れ時の廃墟のそれに近かった。
外が突き抜けるような蒼穹である事を思えば、やはりここも異常な空間である事は間違い無かった。
ところで彼が受けた依頼は次の通りであった――今では単に虎鮫と呼ばれるこの廃墟の調査、及び時折計測される異常な反応源の特定、場合によってはそれの停止。
依頼した側の役人は特に何も言っていなかったが、しかし信也は独自の調査によって、虎鮫がここ数十年の行方不明者達に何かしら関係があると踏んでいた。
山梨に行くと言ったきり、戻って来ない人々がこれまでに二三人、地元山梨での同じような行方不明者が二七人いた。
何かがおかしい。しかも一番恐ろしいのは、その行方不明者達が消息を経ったのは――連絡が途絶えたりした時期の平均からすると――その全てが八月一日であろうと考えられた事であった。
近くの窓を覗き込んだ。追随する光が壁を透過してその向こうに移動し、部屋を照らした。
この部屋はしかし、まだグリーンピアの時の業者の手が回らなかったらしく、床は今時実験施設や医療機関ではほとんど見ない木の床であった。
腐食や変色、板の剥がれ、穴。これまでに見てきた廃墟の典型であった――この時間なのにここまで暗い事を除けば。
まあともかく、虎鮫のどこかに異常が無いかを探さなければなるまい。ついでに行方不明者の痕跡か、ここがまだ心霊スポットとして機能していた昔の痕跡でも発見できるかも知れなかった。
彼としてはこのまま何も見付からない方が精神衛生上健全であった。しかし心のどこかでは、いなくなった人々に繋がる何かが発見できないかと熱望していたのであった。
彼がここに行方不明者が何かしら関わると踏んだのには理由があった――今年の五月、アメリカ、モンタナ州。
アメリカの友人に聞いたが、政府によって閉鎖された山奥で、人間が何かに『引き寄せられる』という事件が起きていた。
事件そのものは何かしらの介入があって解決されたらしいが、しかしこの施設はその事件と同種の脅威なのではないかという漠然とした直感的確信が信也にはあった。
しかし広い廃墟であった。
よくわからない機械や打ち捨てられた便器、どうでもいいと判断されて放置されたと思わしき紙束、各種の深いな汚れ、割れた床から生える逞しい雑草、黴のように繁茂する苔。
思ったより探索は面倒かも知れない。
八月一日:詳細不明
――ママ! ここはどこなの!?
少年は気が付くと、どことも知れない場所におり、腕が金属の何かで繋がれていた。じっとりとした湿気、締め切った湿気の多いコンクリート打ちっぱなしの部屋によくある空気感。
――暑いよ! 誰か助けて!
不意にぴちゃぴちゃと音がした。誰かが歩いている。それも大人のそれのような音。室内は暗く、窓から月明かりのようなものが入っていた。
――誰かいるの!? ねぇ、助けて!
そこで少年は気が付いた。この湿気、これは自分の学校の屋外プールの更衣室。そして湿気に混じって猛烈な悪臭が漂い始めた。
――助けてよ! ねぇ!
何者かが商品棚のようなロッカーの向こうから、少年がいる場所へとやって来た。その大人の右手には何かが握られ、それは恐ろしいぐらい臭かった。
――何なの? 助けてくれるんじゃないの!? その手に持ってるのは何!?
大人は少年の二メートル前で止まり、座り込んでいる少年の足元にどさりと何かを投げた。
――何これ、何でこんな物を…うわああああああああああああああああああああああ!
大柄な大人はさっき落とした臭い物体を持ち上げて、少年の顔面に近付けた。
――やめてやめてやめてやめてやめて! なんでもするから許して下さいお願いします! お母さん! お母さん、助けてぇ!(判別不能の音声)
今日は八月一日。明日も八月一日。明後日も八月一日。
二〇一四年、八月一日十一時五五分:山梨県某所、虎鮫
歩いて回るには結構な広さであった。しかも二階建てであるから単純計算で二倍の広さか。崩落などで侵入不能の場所もあったが、しかしそれはあまり慰めにはならなかった。
一階には何かしらの手術をしたと思わしき部屋があり、まさか本当にホラー映画かスプラッター映画のそれのような『血塗れの手術室』が存在するとは思ってなかった――当然色は黒ずんでおり、一見それが血とは思えなかったが。
そう考えるとこうして古びた廃墟となっている事がありがたく思えて、もしも往時のままであればそれだけで気持ち悪かった事であろう。
残念ながら一階には何も痕跡が無かった。痕跡、証拠、別に呼び方はどうでもいいが、とにかく単に『虎鮫計画』の廃墟でしかなかった。
昼間なのにどこまでも薄暗く、窓から差し込む陽射しは室内では微弱となっていた。
うんざりするぐらいの静寂と暗闇が広がる一階を出られたのは気分がよかった――彼は剥がれた床材や壁材が散乱する階段を登って二階に行った。
錆だらけの金属の手摺りを軍手で掴みながら登り、後で見ると軍手は錆で茶色く変色していた。
彼は二階も一階と同じぐらいの時間を掛けて見て回った。一階と同様に二階も邪魔な物が散乱していたが、二階は業者がほぼ入らなかったらしく、そのため一階のように一部だけ新しいという事は無かった。
とは言え二階は一階に比べて格段に明るく、磨りガラスのように曇ったガラスから入る光や、ガラスが窓ごと腐食して崩落した所からの光がとても頼もしく思えた。
二階は夏の昼間に電気を点けないままの家と同じ程度に明るく、探索もし易かった。
しかし事前に調べたレイアウトから判断し、もう八割は歩いたというのに、一階と同様に対した物が見付からなかった。
一応一階から二階へと伸びる足跡らしき痕跡も見られたが、それ以外には何も見付からなかった。
今のところ得られたのは、廃墟マニアが見飽きているであろう在り来たりな荒廃具合のみであった。
外面は煉瓦だが内部は木造の箇所が多い虎鮫の二階部分を粗方見終わり、残りは施設の重役達が詰めていたであろう区画――入り口付近の真上――を見終わればそれで終わりであった。
プロとしてこの程度の仕事で報酬を得るのは微妙な気分であるのは確かであった。楽である事に越した事はあるまいが、しかしそれにも限度がある。でなければ、仕事終わりに飲むジントニックもそう美味くはあるまい。
床が崩れないか慎重に歩いた。やはり木の床はこういう時に危うい、特に二階は。所々ぎいぎいと音を立て、己の存在感を再びアピールする羽目になった。
しかしなんとか歩き終え、その他の雑多な部屋を見終わり、残すは院長――と呼ぶべきかは不明だが――の部屋で終わりであった。
その部屋はドアが取り外され、その向こうはそのまま山や空が見えていたため明るかった。
信也はそこへと入り、中を観察した。荒れ放題の二階は直射日光も荒廃に手を貸しており、更に劣化が酷いように思えた。幸い比較的乾燥しているのか、『日本らしい』苔の群生は見えなかった。
傷んで崩壊した木の机があり、他には棚に何かの紙屑や置物が見えた。つまりこの部屋に残っているのは終戦直後の日米にとって残っていても問題が無かった物ばかりという事であろう。
戦後に追加された物が無いかどうか調べた。床に散乱する雑多な物体は空の缶詰めや空き瓶等であり、何故かメスもあった。さて出ようか、と思った時の事であった――ちょっと待てよ。
壊れた木の机の前に散乱しているがらくたの配置に注目した。真ん中の瓶から左右に架空の直線を同じ長さ伸ばした先にある缶とメス、真ん中の瓶の『上』へと左右のそれよりも短い架空の直線を伸ばした先にある錆びた金属片。
そして真ん中から『斜め下』向けて二本の架空の曲線を伸ばした先に置かれたガラス片と缶の蓋。
これは単に業者だか肝試し野郎だかの残した塵芥ではない。これは漢字の『大』を模したものであり、ある種の封印であった。
即座に頭が切り替わり、彼はここで何が起きているのかを確認せねばならなくなった。
単に下らない悪霊が施設の周辺に屯している程度の場所ではなく、封印せねばならない何かがここにはある。信也は見落とした物が無いか探した。
ふと大の字封印の『上』にある壊れた木の机を調べようと思った。彼は崩れたそれの板を取り除き始め、そこに何か無いか探った。
案の定そこには黒い革のメモ帳がビニールで厳重に包まれて隠されてあった。
信也はそれに危険が無いか軽く調べてからページを捲った。彼は食い入るように何十分もそれを読み耽った。
しゃがんだ態勢であったため、脚がじんわりと痛み始めてかなり経った頃、彼はメモ帳をスーツの上着のポケットに突っ込んでから立ち上がり、封印を解き始めた。
彼はあらゆる事に気が付いた――あのしょうもない歓迎隊の意味、行方不明者が出ている原因、そしてこの先に待ち受けるあらゆる全て。
ズヴィルポグアの私生児、被験体七号、無意識悪意の終点、そして謎に包まれたサージョル,メッセンジャー・オブ・ラプーロズ。
二〇一四年、八月一日午後十二時五八分:山梨県某所、虎鮫二階、院長室
大の字による封印は、他県において大文字焼きとして知られる京都の五山送り火の大文字と同じ用途である――と枡田家の人間は常々主張していた。
曰く黒い明王や大邪晶等の呼び名で知られ、あろう事か大嶽丸ら古の妖魔達とすら馬が合わずに敵対したとされる『何か』を封印するための術式との事であった。
既に没落して久しい枡田家の人間の言う事をどこまで信じるかはともかく、数年前の新宿駅の事件で己の命を犠牲にして悍ましいものの幼体を滅殺せしめた枡田雅信もそう主張していた。
長年敵同士であったが、しかしあの男だけは城山家を敵視している枡田家の連中の中でもまともに思えた。
ともあれ、この封印にはちゃんと効果がある事は知っていた。経緯云々はこの際関係無い、この封印を解いてその向こう側へと赴かねばならなかった。
メモ帳を書いた人間はこう書いていた、この先へ向かうのであれば覚悟を決めろ、と。この先は真に勇気と実力、そして根性無くば心身折れて、犠牲者達に加わる事となる、と。
信也は封印を解くために決められた手順を踏んだ――その実見えない力で頑丈にその場へと固定されている大の字の各パーツを軍手をした指で叩いた。
決められた回数と決められた順番とでそれらを軽く叩き、そして最後に真ん中の倒れた瓶を『キーボードをかちゃかちゃと高速で打った最後に決める最後の入力』のような具合で少し強く、叩き付けるようにして人差し指と中指とで瓶の腹を叩いた。
ぼうっという音がして、緑色のぼんやりとした光が発生し、大の字の封印が解かれた。
使われていた物品はさあっと風が吹くかのようにゆっくりと粒子状になり、そこに存在した力場が消えたのを感じた。
すると奇妙な物理的な振る舞いによって、院長室らしきこの部屋に大きな穴が空き始めた。というよりもその場にあったテクスチャーを進行形で貼り直しているようにも見えた。
奇妙な現象は結局、封印のあった場所を中心とした穴を形成し、岩肌のような穴が一階の空間を突き抜けて強引に出現しているのを確認した。
直径五メートルの穴はその壁面にぼんやりと光る奇妙な黒っぽいクリスタルが所々生えており、そのような鉱石は見た事が無かった。
だが、彼は既にメモ帳からこれがなんであるのか情報を得ていた。そしてここで何が起きたのかも全て理解しており、故に今の彼は義憤に駆られて、静かに燃え盛っていた――予想通りここが行方不明者達のいる場所であったからだ。
信也は穴の形成過程と同様の奇妙な振る舞いでゆっくりと穴を降下して行った。穴の深さは五〇メートル程あったが、慣れているので恐怖は無く、むしろ早く降り立ちたいという想いが勝った。
だが半分ぐらい降りた瞬間、アドレナリン全開の時のような主観的なスローの世界がやって来た。得体の知れない感覚を覚え、そしてぼんやりと、しかし反響する音声で頭の中に少年の声が響いた。
――お母さん、早く会いたいよ!
悲痛な声であった。メモ帳の情報からその声の意味がわかっていた信也は激烈な怒りに襲われ、落下の制御が不安定になった。
急に落下が早まり、彼は急いで突き出ているクリスタルに手を引っ掛けた。
体重が掛かり、重たいと感じ始めた辺りで手を離し、再びゆっくりと落下を始めた。
やがて彼は地面に降り立ち、何度やってもどこか癖になる着地の感覚に浸ったが、その瞬間先程の怒りが漏れ出た――必ず殺すという意志が溢れ出たのだ。
あのメモ帳を読み終わった瞬間、必ずやこの異常の発生源を滅殺せねばならないという強固な義務感が生まれた。
それが高速で伝播して行ったせいか、洞窟の奥の方から恐怖に満ちた何者かの絶叫が聞こえたような気がした。
ともあれ、メモ帳の主はここをがらくたの門と呼んでおり、穴の下には小さなドーム状の構造があった。
広さはおよそ二〇メートル、円形の空間からは一本の通路が伸び、一帯は所々のクリスタルによってぼんやりと照らされていた。
しかし通路の奥の方は黒っぽいクリスタルの放つそれとは違い、何やら奇妙なオレンジっぽい光が薄暗く満ちていた。彼は通路向けて歩み始めた。
足音のみがやはり響き、気配などは感じられなかった。しかしメモ帳があるのはありがたかった、テレビゲームで言えば攻略情報を持っている状況であるから。
歩き続けていると通路の奥、例の薄暗いオレンジ色の光に照らされた区画へとやって来た。
そして何かが聴こえた。ほんの束の間だが、何かがこちらの気が付いたかのごとく。
通路の奥の空間は少し広くなっており、そこは空中に浮かぶ奇妙な岩が点在する崖となっていた。その向こうへ行くには、この上を飛び移るか、それか浮遊するしかあるまい。
信也は下を見た。崖の奥底に何かが光を一瞬だけ反射して消えて行ったのが見えた。
それから隠し切れない異音。何かが延々と囁いているかのような呼吸音。聞き続けていると精神に異常をきたす可能性のあるもの。
信也は何も言わずに目の前の浮遊する岩へと飛び移った。下の気配が追従しているのを感じ、彼はリュックから『玩具』を取り出した。
彼はもちろん下に何がいるのかを知っており、それに対してわざわざ容赦するつもりも無かった。
彼は『おっと』と呟きながら『玩具』を下に落とし、それが奈落の闇に消える瞬間、ぬらぬらとした赤黒い何かに染まった細長い腕によって反射的に掴まれた。
彼は既に別の岩へと飛び移り、そして面倒になったので浮遊し、そのまま対岸へと渡った。
着地した瞬間に咀嚼する音が聴こえたが、しかし次の瞬間に、凄まじい断末魔の叫びが響き渡り、それが暴れ狂う音を背景にして彼は先へと進んだ。
こうして彼はメモ帳の作者が腐敗の奈落と呼ぶ区画を通り抜け、未だに不気味なオレンジの明かりに照らされている洞窟を進んだ。
少し進むと、そこから下に下に、無秩序に掘り下げたかのような段々の降下があった。
巨大な階段を降りているかのような感覚で更に下に向かい、かと思えばそれまでよりも細くなった蛇行する通路を進むと、ある物を発見した。
メモを書いた男が遺したそれは、一本の大刀であった。
二〇一四年、八月一日午後一時十分:山梨県某所、虎鮫地下、地下の闇街
そこは相変わらずオレンジ色の光に照らされ、ここが例のクリスタルとは無縁であるというメモ帳の持ち主の見解には彼も賛成であった。
洞窟の奥であるのに、そこは幅二〇メートル、奥行き六〇メートル、天井までの高さはしかし五メートルという妙に圧迫感のある空間であった。
そこに奇妙な木造の街があり、昭和前半のそれと江戸時代後期のそれとが混ざった奇妙な長屋街のようなエリアであった。
不気味極まるオレンジの光が輝き、どこかグロテスクな木造の街を何かが歩いている音が聴こえ、彼はそれから隠れるために長屋の一つへと入った。
長屋の配置は三列、例えるならばコンビニの店内に似たレイアウトの小さな街であった。
しかし入った瞬間、これまで怪異を踏み抜いて来た彼ですらぞっとさせられた。そこには屏風絵が置かれていた。振り向くと向かいの長屋にも屏風絵や店先に張られた布に描かれた絵があった。
その絵柄たるや、なんとグロテスク極まるものである事か。彼は真っ先に絵金を思い出した。
巨匠画家である弘瀬金蔵が遺した作風であるそれは、独特の迫力を持つタッチで生々しい描写をしており、目の前のそれも絵金と同じく恐ろしいものがあった。
口の裂けた女が赤い着物を纏って天を仰ぎ、口端と手から鮮血が垂れていた。東洋的美術の技法で嫌なぐらい写実的に描かれた血を見ていると、これは本物の血なのではないかとすら思えた。
そして彼はその屏風絵の後ろへと隠れ、影の中から通りを窺った。
異様に髪の長い女が着物であったと思わしき襤褸を纏って歩いており、すると女の眼前に何かが落下した。
白いぶよぶよの肉塊じみたそれが女に飛び掛かろうとしたが、しかし女の髪がばさりと開き、その目で睨まれた瞬間、その得体の知れない生物は全身の肉が裏返り始め、凄まじい絶叫を上げながら絶命した。
明らかに通常の生物ではないそれの放つ悪臭が漂い、信也は嫌な予感がして顔を引っ込めた。既にあの光る球体を消して久しいため己が露見するとは思わなかった。
しかし何故かあのグロテスクな雰囲気の女は立ち止まったまま動かなかった――早く行けよ。
しかしその考えは現実とはならなかった。通り過ぎるどころかゆっくりとそれが長屋に入って来るのを感じ、それが現実ではない事を願ったが、そうはならなかった。
畳へと足を上げ、みしっと嫌な音がゆっくりと近付いて来た。
彼はメモ帳を呼んだお陰であの女の性質を知っており、それに見られた生物がどうなるかは今見た通りであった。闇の中で息を殺し、何か助けになる物が無いか周囲を見た。
暗さに慣れてもよく見えず、ふと己がいる屏風の右裏から左裏の空間を見ると、そこにすらっとした背の高い人影が見えた。
一瞬心臓が跳ね上がり、悪態の声を出しそうになった。しかしよく見ればそれはマネキンのような不自然なポーズで硬直したまま動かず、何かの人形であると思われた。
何か手は無いかと考え、スローの世界で音を立てないよう鞄から適当な何かを取り出した。
どうやら替えの軍手であったらしいが、左右セットで丸めて纏めているので、投げるのにはちょうどいい形状と重量であった。
彼は左奥へとゆっくりと移動した。その間にも女のそれと思わしき忌々しい足音が響き、距離にしてあと四メートルも無かった。
嫌な汗が流れ、脇がじんわりとして、頭の皮膚が発汗でじわりと痛んだ。
彼は遂に一か八かで屏風の裏から入り口目掛けて軍手を投げた。幸い天井近くは闇に閉ざされ、オレンジの光は部屋の下の方に留まった。
向こうに落下するまでの時間が異様に長く感じられたが、しかし遂にはそれが向こうに落ちた。
途端、凄まじい音と共にどたばたと屏風の向こうの何かが入り口の土間へと行き、そこに落ちたであろう軍手を何やら観察していると思われた。
喉から絞り出すような得体の知れない声を発して数十秒そうやっていたが、しかしやがて女の足音は遠退いて行った。
彼は左手で腕に添えるようにして逆手持ちしていた大刀と共に屏風の裏から躍り出た――メモ帳の主は彼女を殺してあげられなかった事を深く後悔していた。ならばその願いを叶えよう。
足音がしないよう浮遊し、あの女の背後を取るため通りに出た。
女はゆっくりと歩いて離れており、オレンジ色の光の下で、大刀は持ち主の殺意を反映してか、ぼんやりと緑色の焔を纏い始めた。
燕が駆け抜けるかのように彼は一瞬で女との距離を詰め、その勢いのまま浮遊した状態で大刀を袈裟斬りした。
絶対に殺すという意志に満ちた両手持ちの一撃は女の背中に真紅の華を咲かせ、蒸発してゆくその血飛沫を浴びながら信也は連撃を見舞った。
背後から四回斬り付けてから最後に背中から心臓を貫き、生々しい斬撃の感触と女の悲痛の叫びを間近で感じつつ、女の首を右手で握り、魔力のこもった怪力で喉に親指を突き刺した。
女はごぼごぼと音を立て、蒸発する血を流し、そしてやがて力無く倒れ、その死体は落ち葉のようにさらさらと消え始めた。
この恐るべき殺戮の光景を物言わぬ屏風絵どもが見ており、この地の邪悪が滅びゆく目撃者となった。
メモ帳を書いた男によればこの女は悍ましい『虎鮫計画』の被験者の一人であったらしい。
見ての通り凄まじく強力な能力を持っていたが、しかし精神が狂って制御不能となり、恐らく当時の枡田家の人間と思われる魔術師によって地下に封印されたらしかった。
この街は恐らく情けであり、幽閉する事になった負い目から、彼女の生まれた街に似せたのではないかと推測されていた。
恐らくたった一人でここで死んだか、あるいは寿命を超越したと思われ、生きる全てのものを憎悪するようになったと思われた。
信也は彼女を殺すべきなのかどうか正直迷っていた。あまりにも可哀想に思えたからだ。
しかし彼は世間のためとしてそれを正当化し、とりあえず先に進んだ。邪霊が何かの拍子に解き放たれれば大変な事になる――封印を破って足を踏み入れたのは己であるが。
だが結局は彼女もまた加害者であった――メモ帳を書いた男は彼女に自分の仲間を皆殺しにされたと書いていた。
地下の闇街とメモ帳に書かれていた区画を通過し、信也は遂に最奥へと続く長い階段へと差し掛かった。
地獄へと降りて行くかのごときその階段は不気味であり、再びあの黒っぽいクリスタルの勢力圏になっていた。
彼は大刀を手にして階段を少し早足で降りつつ、先程の事を思い返していた。
大刀とは第二次世界大戦の頃、日中戦争で中国軍が使用した刀である。恐らく『中国の刀』のイメージに一番近いであろうその刀は鉈のように大きく、柄は刃の長さに迫る程長く、そして頑強であった。
信也は上海の友人に以前大刀の扱いを習っており、その友人は戦争が終わったこの世の中と出会いに乾杯しつつ、自慢そうに笑いながらこう語っていた。
『俺達の刀はお前達の刀と比べて人体への威力では劣る事もあったが、繊細に使わなくても壊れないぐらい頑丈なんだ』と。
かつて先祖らが戦火を交えた国の友人の教えに感謝しつつ、彼は降りながら軽く刀法を確認した。軽く周囲で振るい、それに呼応して緑色の焔が輝いた。
この大刀は恐らく飯田健三が中国戦線に行った時に得た戦利品であろうと思われ、恐らく彼は超人兵士としての再調整か何かで日本に帰国し、これを手土産にしたと思われた。
彼が脱走した後もこの大刀は恐らく施設内にあり、そして…。
信也は遂に階段の終端へと降り、そこの向こうにある石の壁がごうっと音を立てて開き始めた。
いよいよ最後の領域、メモの主が葡萄畑の庭園と名付けた場所へ。
二〇一四年、八月一日午後一時十分:山梨県某所、虎鮫地下、葡萄畑の庭園
葡萄畑の庭園は悍ましい領域であった。例のクリスタルが繁茂し、がらくたの門のドームを数倍大きくしたような空間が広がっていた。
地面にはオレンジ色のクリスタルのような果実のような物体が連なった『謎の物体』が何本も生え、そして予想通りその数は五一本あった。
信也は葡萄畑の主に客が来たと伝えるため、大刀を掲げ、その焔がぼうっと広がっていった――天井から何かが落ちて来た。
『守? お前なの?』
「いいや、違うな。俺はお前をぶち殺しに来た。お前とその親子のクソ下らねぇ家族遊びをな」
声の主は耳を斬り裂くかのごとき凄まじい奇声を張り上げ、半透明のゾンビのような骸骨のようなその女は剥き出しの敵意をぶつけてきた。
『守を殺すぅ? 誰がさせるものかぁ!』
聞くだけで耳が腐りそうな声と共に悪臭が漂い、納骨堂じみたその悪臭を信也は大刀で斬り裂いた。亡霊は手から半透明の何かを発射し、彼はそれを浮遊の魔術で回避した。
彼は下にあるあの奇妙な五一本の物体の正体を知っていた。というのも、メモ帳を書いた老魔術師の枡田猛もまたあの内の一本に成り果てたのであり、その一本一本がこれまでの犠牲者の成れの果てであった。
何より許せないのが、今彼が戦っている悪霊は己の息子である事故死した守を蘇らせるために犠牲者を精神への干渉で誘き寄せ、忌むべき禁忌の魔術によって犠牲者が最も恐怖する体験を幻覚で体験させるという残虐行為であった。
この女は自分の息子のためなら無関係な人々がどれだけ苦しもうが死のうが全く感知していない。
そして五一人目の犠牲者となりながらも、虎鮫に打ち捨てられてあった大刀を己の魔力と融合させる事で、あの女とその裏側にいる怪物を倒すための礎となった枡田猛の遺志を恩讐の果てに受け継いだ信也は、全く容赦するつもりは無かった。
交戦を始めて数分、相手はかなりダメージを負ったようだが、そこで不意に信也は幻覚に襲われた。
視界が書き換えられ、周囲が見えなくなり、そこには大切な人々がいた。周囲は砂漠であり守るべき兄夫妻が見えたが、ふと何かの絶叫が聞こえた。
振り向くと砂漠の上で父が得体の知れない深海生物のようなものに襲われ、彼が見ている前で腕を噛み千切られた。
許せるかよ、と思った瞬間彼は己が巨大な脊柱に足を鎖で繋がれている事に気が付きつつ転んだ。
この幻覚の目的がわかった――大事な人達が殺されるのを無力な状態で見学させるのだ。
兄夫妻に蛭のようなものどもの群れが殺到し――。
しかし彼はそこで幻覚を唐突に打ち破った。枡田猛の魂が乗り移った大刀はこの回避不能の幻覚を殺し、打ち破るために作られた、次に来る勇者のための武器であった。
見れば女の亡霊から伸びるオレンジ色のエネルギーの線があの五一本の物体にそれぞれ接続されていた。
信也は虎鮫入り口付近で捜索に使った照明の魔術を応用し、その光量を馬鹿馬鹿しいまでに引き上げ、悪霊女の目を眩ませた。
魔力の消費が大きいので飛行を中段し、そのまま慣性で女の亡霊へと突っ込んで行った。
迫る亡霊の手を刃に乗せた魂の焔で焼き払い、そしてあのオレンジ色に輝く線を一本切断した。途端、女の絶叫が聴こえ、そして頭の中でもまたあの子供の声が聴こえた。
――やめて、お母さんに会わせて!
「会わせてだと? ふざけんじゃねぇよ、クソガキ。お前はもうガキとは言えねぇぐらい生きてる癖に、自分の母親が大勢殺すのを見ても『僕のためにやってくれたんだ』とか言って喜んだり見過ごすのか?」
更に一本、悲鳴、更に数本纏めて、悲鳴。頭の内外で二重の悲鳴が響いた。
「大勢の人々を殺しておいて感動の再会とか安らかな成仏とかできるとでも思ってんのか!? 残念だったなぁ!」
メモ帳の最後のページにはこう書かれていた。
『私はもう駄目だ、あの女には深手を負わせたが、あれの背後にいるクリスタルの主、慄然たる『ナコト写本』とスワヒリ語版の『ロキの時間線監察記録』に記述がある裏ドラゴンの使者の精神を操る術には抗えなかった。あれは魔術ではなく、何かの兵器だと思われる。だが私は大刀に仕掛けを施し、これであの女の恐怖の術と使者が使う精神干渉に抗えるようその身を糧に最後の儀式を行なった。私の計算が正しければこの自己生け贄の魔術は奴らの力を防ぐだけでなく、奴らを永劫の苦しみに晒す事ができる。願わくば、これを読んだ勇者があの邪悪どもを滅ぼしてくれる事を…』
遂に全ての線を断ち切った。命乞いの絶叫を聞きながら、信也は大刀を振り下ろした。
参考作品
『Destiny』
・『The Will of Crota』
・『The Nexus』
・『Vault of Glass』