第一章 その8
白野が、同級生を家に招くことはほとんどなかったので、小田原は驚いた。頭がいいから、試験前だけ利用されて終わりだろうと思うと、少しだけ切なかった。
(時折見せる白野ちゃんの笑顔が台無しになっちゃう)
小田原は、白野の部屋に向かった。
「白野さん、そろそろ時間ですよ」
小田原は言った。
「まだ、一時間前じゃないですか」
白野は言った。小田原は、白野が寝不足であることを見抜いた。勉強に関する悩みなのか、それ以上の関心事か、と考えたが、変に詮索しては白野に悪いと思い、押しとどめた。白野は、ドアを開けて、小田原を部屋に入れた。
「白野ちゃんのお友達がいらっしゃると聞いて、どんな子たちなのか、気になって仕方がないのよ」
(当然、白野ちゃんに似つかわしい人なんている訳ないけれどね)
小田原は、布団に腰かけた。白野は、欠伸を数回繰り返した。いつになく、身体が疲弊しているように見えて、心配というより、可哀想だと思った。
「少し寝たほうがいいんじゃない。白野ちゃんが倒れては、意味がないでしょう。お友達には、私が説明しておくから。白野様は、ただいま物思いにふけっておいでですので、しばしお待ちいただくように……」
「それだと、彼女たちに悪いでしょう」
小田原は、一瞬、本当に白野が言ったのか、と疑問に思った。
「それに……」
白野は、小田原に膝枕を要求した。小田原は、躊躇なく、足を白野の方に向けた。
「小田原さんは、単なる私の召使じゃないでしょう」
小田原は笑った。白野も、自分の言ったことが可笑しくて、笑った。小田原は、調子がいつもの白野に戻ったと感じた。
「ああ、そうだ」
白野は思い出したように言った。
「服はどうしようか。制服という訳にはいかないし」
「私としては、今の寝間着姿でも十分可愛いと思うけれど」
小田原は、半分冗談の意味を込めて言った。白野は、真面目に考えてよ、と呆れ顔で言った。
「久美子さんがお召しになっていたワンピースなんてどうかしら。色合いがいいと思うの。水色と白のコントラストが、それこそ、白野ちゃんの可愛さを引き立てるのよ」
小田原は、半ば亢奮気味に言った。
「お母さんは、確かに美人だからどんな服を着ても似合うわよ。それに引き換え、私は、萎れかけの花同然、地味なシャツとかでいいんじゃない」
白野は言った。小田原は、白野の希望を心得て下の階に行った。数分後、微妙に色の違うシャツを、十着ほど持って帰って来た。
「今から、着替えましょう」
小田原は言った。最初に、白野の手に渡ったシャツは、純粋な水色で、清楚なイメージが強調された。
「これでいい、これでいい。早くしようよ」
白野は、とことん、服に関して無頓着だった。小学生になっても、ボタンの位置を間違えたり、ひどいときは、裏、表を逆にしたりと、周囲に笑いの渦を引き起こす元の一つになっていた。その度に、小田原は、まるで自分が醜態をさらけ出しているかのように顔を赤く染めた。
「まあ、これはこれでいいのだけれど……」
小田原は、白野の姿をじっと眺めて、やはり、別の服がいいのではないか、それとも、今のままでいいのか、真剣に考えた。幾つかの服を白野にかざして、柄の色合いはこちらの方がいいだとか、形的に、こちらの方がより細く見える、などと考えているうちに、しびれを切らした白野が、
「いい加減にしてください」と半ば切れ気味に言った。
「そうね、白野ちゃんの意志を尊重しましょう」
小田原は、それ以上口を挟むまい、と心に決めた。
生徒たちが到着したことを知らせる鐘の音が玄関に響いたのは、九時を少し過ぎた頃だった。南から注ぐ朝日が、白野のやや褐色に染まった肌を照らしていた。
白野と小田原の前に現れたのは、十人ほどの生徒だった。大半が同級生で、制服に、鞄といういつもの出で立ちだった。
「とりあえず、上の方に連れて行って」
白野は、小田原にそう言った。小田原は、頷いて、一人ずつ、白野の部屋に案内した。
「さて……」
白野は、最後に残った一人の学生を、じっくりと見つめた。あどけなさを象徴するような子供っぽい服に身を包んでいた。身長は、白野に比べて大部低く、白く細い腕が際立って見えた。
「あなたも、勉強しに来たの」
白野は、出来るだけ笑顔を保とうとした。いつにも増して、距離を縮めることが出来るチャンスかもしれないと思った。学生は、頷いて、いつも見せるどこかよそよそしい姿とは一転、屈託のない笑顔を白野に見せた。
「あの時はありがとうございました」
学生は、改まった口調で礼を述べた。そして、再び子供の表情に戻った。
「やっと素直になれました。もう押しとどめることはありません」
白野は、学生があの図書委員であることを、始めから感づいていたものの、ここまで印象が変わって見えたのが不思議で仕方なかった。
(どうも、服のせいだけではなさそうね)
学生は、白野の元に駆け寄って、わざと倒れるふりをした。白野は、華奢な体を精一杯支え、元の姿勢に戻した。
「お久しぶりです。白野お姉さま」
(ああ、やっと言えた)
白野の頭の中に、二つの大きな渦がひしめき始めた。一つは、全く意味が分からない混乱の渦で、もう一つは、先日見た、不可解な夢の続きを暗に意味しているような感覚の渦だった。奥深く眠る記憶の断片が一つに繋がろうとしていた。白野は喜んだ。幼い頃、目の前に広がっていた海の音が帰って来た。
空が青く光っている。白いカモメたちが羽ばたく。境界のない空と海の広がりを物語っている。サンダルを脱いで、素足で砂浜を歩く。熱さに慣れていないため、じんわりと痛みが伝わってくる。白波が幾重にも重なって浜辺に打ち上げられる。おどおどしながら、一歩ずつ近づいていく。波との鬼ごっこを数回繰り返す。水の冷たさが直に伝わってくる。
「白野ちゃん、白野ちゃん」
母が、遠くから呼んでいる。真っ白のワンピースに身を包み、やや大きめの麦わら帽子をかぶっている。心から綺麗な人だと思う。
「おかあさーん」
大声で叫ぶ。母は、大きく手を振ってこちらを眺めている。
ぎこちない泳ぎ方で、海に浮かぶ。時折寄せる波に身を任せる。青空の果てを見てみたい。カモメのように空を駆けてみたい。そこは、きっと天国だ。
「私たちの前からいなくならないで」お母さんの声が聞こえる。泣いているのかな。
「白野お姉さま、思い出してくださったのですね」
学生は言った。白野は、考えもせず頷いた。学生は大層喜んだ。
「白野さん、みんな準備が出来たようで……」
小田原はもう一人の客を見るなり、言葉を失った。学生は、小田原の方を眺めて、白野に見せた表情を浮かべた。
「お久しぶりです。小田原さん」
小田原は、暫くその場を動かなかった。蛇に睨まれた蛙のように、身体を震わせていた。