第一章 その7
勉強会前日、白野は、大方、勉強を終わらせ、音楽鑑賞の時間を延ばした。ブラームスの交響曲を、全て、絶え間なく聴き続けた。二番、三番に関しては、数年前に一度聴いたのみだったので、あまり印象に残らなかった。お気に入りの一番、四番は、目を閉じて、瞬く星を想像しながら聴いた。いつか、夜の演奏会で、主題だけでもなぞることが出来ればいいな、と考えた。
「相変わらず、激しい曲を選ぶのね」
小田原は言った。
「今の私は、こんなものです」
実際には、動揺した心を落ち着けることは不可能だった。ただ、自分の感情を曲想に合わせ、交響曲の主題にぴったりなのでは、と思った。月の光が、窓から注ぎこんでいた。一筋、一筋が、鋭利な刃物のようだった。今まで見てきた月のようには思えなかった。
部屋に戻って、布団に横たわった。夜はまだ長かった。明かりを消して目を閉じても、胸の鼓動は止まらなかった。深呼吸を何度か繰り返して寝返りを打つうちに、なんとなく眠くはなるのだが、三分もすると再び心臓が脈打つのを感じた。目を閉じる度に、意識がはっきりとしてきたので、今晩は無理だ、と思った。白野は、立ち上がって窓の方を眺めた。月の輝きは、ハイライトを迎えようとしていた。庭に集まった動植物たちの音楽会の開催を告げていた。
(私も行ってみよう)
白野は、音を立てないようにこっそりと、階段を下って、庭の芝が茂った辺りに行った。部屋から考えていたほど、聴衆は多くなかった。代わりに、蝉の死骸が幾つか落ちていた。白野は、一つ手に取って、大きな木の根元の部分に埋めた。深い意味は特になかったが、手を合わせて、一礼した。
すっかり夏だというのに、昼の暑さを考えると涼しいくらいだった。浜に打ち寄せる波の音が、静かに響いていた。時折吹き抜ける風が、白野の前髪を揺らした。潮の香が運ばれてきた。
「こうしていられるのも、あとどれくらいかしら」
白野は、芝に群がる小さな虫を一つ一つ見つめて言った。動きは、それぞれ緩慢で、簡単に掴むことが出来た。
(この虫の運命は、私が握っているんだ。怒りに任せて悪魔になれば、すぐさま、その生命を絶つことになるだろう)
白野は、左手の薬指で虫の腹をなぞってみた。人間の肌に比べて、よっぽど滑らかであると感じた。
(あと少しの圧力で、この命は散っていく)
白野は、命の終わり、その後の肉体と精神について考え始めると、余計に眠れなくなることがあった。自発的に意識を失っている内、何か特殊な力が働いて、不可逆な眠りに陥ってしまうのではないか、両親の深い愛に答えないまま、死んでしまってはあまりにも残酷だ、と考えた。人の死をまじかに見たことなどない(と本人は思っている)はずなのに、どうして、死に対する恐怖を強く意識してしまうのか、白野は、皆目見当がつかなかった。
(今の私は、自暴自棄になっている。優しさという言葉は、どこか懐かしい響きにしか聞こえない。どこかに忘れてきたのだろう。海か、川か、山か)
白野は、右の手のひらを返した。虫は、重力に身を任せてそのまま落ちた。
(どのみち中途半端だ。悪魔にはなれない)
白野は、立ち上がって、海の方を眺めた。月に照らされて灰色に染まった部分と、星々の儚さを代弁するかのように黒く染まった部分がはっきり見えた。遠くに見える大島には、微かな明かりが灯っていた。漁船の姿は、一切確認できなかった。
(万事順調に、時は刻まれていく。有意義か、それとも、無駄なのか、議論する余地はない。自然は、考える葦を容易に踏みにじる)
白野は、一つ大きな欠伸を浮かべた。水平線の彼方に孤立して浮かんだ雲の辺縁が、淡い赤色を帯び始めた。
(あと、三時間くらいは寝れるかしら)
白野は、もう一つ大きな欠伸を浮かべて、自室へと戻っていった。