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第一章 その5

 初夏の訪れを告げる蝉の音が響き渡っている。川のせせらぎが、いつになく涼しく感じる。庭園に集う虫たちの演奏は、ハーモニーを意識せず、開放的な現代音楽に収束しようとしている。誕生日祝いに買い与えられた木製の笛を携えて、歩き出す。川辺につくと、足を浸しながら辺りを見回す。山の緑が、一段と濃くなっている。白波を立てながら、加工に遡上する海は、一番高く昇った太陽に照らされて、眩しい。

 演奏する曲目を考える。川の流れのように、スムーズな曲を思い浮かべる。軽めで、清々しい曲は、何だろう。水に関連する何か……。

 日本の地形や風土の特異性を述べる必要は、今更ないと思うが、不思議なことに、西欧の音楽を、日本に適応しても、齟齬が生じることはあまりない。ベネチアの情景や、テムズ川の情景を、この、名もなき川に重ねたとしても、それは、上下で素材の違う服を上手く着こなすようなものである。水上の音楽は、西欧貴族社会と、テムズ川を描いているが、その旋律の美しさは、むしろ、勢いが激しくてよどみなく流れる川によって引き立てられるのかもしれない。

 非常に簡易な調べを、幾重にも渡って奏でる。主題はあくまでも、川のせせらぎである。


 「綺麗な響きね」

 後ろを振り返る。同い年くらいの女の子が、こちらを向いてにこりと微笑んでいる。

 「どこかで聴いたことがある感じというか……」

 「きっと学校で習ったのではないかしら」

 女の子は、そうかもしれない、と言って、近付いて来る。揶揄われているのか、いじめられているのか、いずれにしても、関わらないほうがよさそうだ。足をタオルで拭い、早く逃げようと、サンダルを探す。履き終えると、すぐさま土手を上る。おーい、と叫ぶ声が聞こえる。先程の人だろうか。どちらにしても、関係のないことだ。私を呼ぶ人など、どこにもいないのだから。


 「白野ちゃん、お帰りなさい。今日は、随分と早かったのね」

 うん、と頷いて、靴と帽子を脱ぐ。神経がやけに高ぶっている。はけ口が中々見つからない。どうしよう。

 「お帰り、白野さん。随分とすごい汗ですね。お風呂でも入りますか」

 今は、何もしたくないのだけれど……。でも、このままだと気持ち悪い。

 「さあ、入りましょう、入りましょう」

 勢いよく抱えられて、風呂場に連れていかれる。まあ、いいか。

 「室内と、露天、どちらにしますか」

 青空をじっくり見たい。風を感じたい。露天の方がいいかな。

 「ごゆっくり」

 これで、暫くは一人だ。今日の空は、どこまでも青いな。海と区別がつかないくらい、どこまでも続いている。草木が、風になびかれて、笑っている。私も仲間に入れてほしいな。蝉の合唱は、エンドレスだ。命が尽きるまで鳴き続けるんだ。私はちっぽけだな。潮の香が運ばれてくる。喉がいらいらするのに、どこか優しい。

 「お上がりですか、さあ、着替えましょう」

 小田原さんは、本当に優しい人だ。前がよく見えない。泣いているのか、情けない。そんな私を、抱きしめてくれる。胸の高鳴りが伝わってくる。

 ありがとう。勇気をもって、伝えられた。



 時刻は、二時を回っていた。我に返った白野は、辺りを見回した。ベッドの端に、小田原の姿があった。冴えない目を、手で擦った。庭の外れ、林の方から鳥の鳴き声がこだましていた。朝の散歩コースである、芝の辺りに、小さな虫たちの姿があった。月明かりに照らされて、遠い宇宙を聴衆に迎え、夜半の音楽会が繰り広げられていた。

 「彼らの方が、よっぽど自由なんだ」

 白野は言った。小田原は、すやすやと寝息を立てていた。小田原のみ持ち合わせている優しさが、そのまま現れているように感じた。

 「ありがとう、小田原さん。お休みなさい」

 白野は、小田原の髪をそっと撫でて、再び床に就いた。

 翌朝、小田原は、白野の部屋で寝てしまったことを、深く謝った。白野は、全く気にしていませんよと言って、笑った。

 「むしろ、嬉しかったくらいです」

 小田原は、顔を紅くして、失礼しました、と言い放ち、部屋を後にした。

 「数少ない、私の理解者なんだから……」

 軽めの朝食を済ませ、身支度を整えて玄関に向かうと、既に隆司の乗った車が、玄関前に止められていた。

 「済まない。今朝は、散歩できそうにない。朝のカンファレンスが、少し早まったんだ」

 事態の深刻さを悟った白野は、すぐさま車に乗り込んだ。いつになく、運転の荒さが目立つ隆司の額には、汗が滲んでいた。

 始業の一時間前に到着した。白野は、自分の教室に向かった。生徒の姿が無くて当たり前のはずだったが、何かもの悲しさを感じた。自分の席に一度、鞄をかけて、これから何をしよう、と考えた。

 (教室にいるよりも、図書館の方が落ち着くかしら)

 白野は、手ぶらで、図書館に向かった。途中、生徒、教員の姿を見かけることはなかった。

 (そもそも、どうして空いているのかしら)

 白野は、いつもの放課後と同じように、平然と図書館のドアが開いていて、中から、何か物音がすることを不思議に思った。

 「失礼します」

 申し訳程度に呟いて、入館した。明かりは灯っていないが、窓から差し込む日光のお陰で、昼間の明るさと大して変わらなかった。

 (そういえば、本を片付けてなかったような……)

 白野は、小走りで昨日の現場に向かった。入館前に聞こえた音が、大きく感じられた。

 「……」

 「あなたは……」

 (間違いなく、昨日の子だ。だけど、何か引っかかる。記憶の断片が、奥底から必死に出てこようとしているみたいだ)

 白野は、じっと、図書委員を見つめていた。図書委員は、昨日と全く変わらない様子で、一言も喋ろうとしなかった。


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