第一章 その4
川奈邸に戻っても、白野は、あまり言葉を発しなかった。小田原が、お茶を飲むように勧めたが、軽い挨拶を交わすのみで、足早に自室へ向かった。
「また、いつものあれが起きたようですね」
小田原は、隆司に言った。隆司は、そうだな、と言った。
「優しさが仇になっているんだ」
小田原は、白野の部屋に向かった。ドアを数回ノックしても、返事はなかった。
「白野さん、勉強頑張っているのね。お茶とケーキ、外に置いておくから」
小田原は、壁に耳を当てて、中の様子を探ろうとした。非常に静かな時が流れていた。白野は、植物学の勉強に手を付け始め、ひたすら、メモ帳に羅列していった。腕の悲鳴が心地よかった。時折、乱雑に扱ったため、紙が破れた。
(これが、私のしなければならないこと、宿命なのよ)
食事に呼ばれて、ホールに向かった。隆司と由紀子が、既に席について、白野に関して何か議論をしていた。
「そろそろ、限界かもしれないな」
隆司は、そう切り出した。由紀子は、目を丸くして、ナプキンをやや強引に握った。
「育て方が悪かった、と言えばそれまでのことだが……」
「そんなことは、ないはずよ」
由紀子は、強く反論した。
「お前が悪いとは言っていない」
隆司は、頭を抱えて俯いた。言葉を続けることなく、小田原が運んだ食事に手を付けた。由紀子は、震えた左手を、右手で必死に抑え、やがて、冷静さを取り戻した。白野は、入出の上手いタイミングをうかがっていたが、重苦しい空気に包まれたディナーホールを明るくすることは出来ないと、よく分かっていた。
十分ほど経過して、白野は、わざとドアの端をノックした。礼節の理解に関しては、疑われる余地を残したくなかった。
「白野か、早く入りなさい」
隆司は、飲みかけていたコップを机に置き、手招きした。白野は、軽くお辞儀をして、隆司と、久美子の間に腰かけた。
「今日は、お前の好物ばかりだ。小田原さん、お願いします」
隆司は、小田原に目配せした。小田原は、軽く会釈して、白野用の食事を配膳した。
「ありがとうございます」
白野は、まず隆司に向けて、次に、久美子に向けて告げた。
「ところで、勉強の方は順調かい」
隆司は、言った。白野は、ほどほどです、と告げた。
「そうか、それは頼もしい限りだ」
隆司は、ニコリとほほ笑んだ。いつになく機嫌がよかった。白野は、間もなく見捨てられるのではないか、と一瞬思った。
(それはそれでいい。どのみち、私の人生ではないのだから)
「白野ちゃん、最近、学校の方は大丈夫なの」
久美子と白野の会話は、大抵このように始まった。白野にとって、学校生活は意味をなさなかった。授業そのものに対する不満はさておき、級友、先輩、後輩を含め、まともに話せる相手はいない。気品の高さを売りにする生徒たちからは、甚だしい勘違い、というレッテルを張られ、その他大勢の生徒からは、勉強しか出来ない変人、という解釈が浸透していたため、身構えることなく、普通に接することは難しかった。久美子は、白野を溺愛するあまり、名だたる女子高においても、可憐に咲く花のような中心的存在である、と妄想を膨らませるため、会話がかみ合うことはなかった。
「普通です」
白野は、仏頂面をして言った。久美子は、そうなの、と言った。
(散りゆく桜と例えられるなら、まだありがたい。実際のところは、ドクダミ以下ね)
食事を終えて、白野は、足早に自室へ戻った。一時間前に記憶した事柄を覚えているか、メモ帳に書き出した。おおよそ、八割は思いついたが、二割に関しては、すっかり抜けていて、メモ帳に、力強く書きつけた。
「白野さん、白野さん」
小田原の声が聞こえた。白野は、はい、と返事をして、招くか、断るかを考えた。一人になりたいと思うのは十分が限度で、小田原の優しい表情を想像すると、自然とドアの方に手が伸びた。
「今日は、何を聴きたいですか。まあ、およその検討はついていますけれど」
「小田原さん、私は、今どんな気持ちなのか分からないんです。絶望を抱いているのか、幸福を感じているのか。ほら、今笑っているでしょう。ねえ、どちらですか」
白野は、小田原を見つめた。小田原は、そうですね、と言って、首を傾げた。
「いつもの白野ちゃんでない、ってことは確かね」
真顔でそう告げた小田原が、滑稽に見えて、白野は、くすっと笑った。
「笑う余裕があるんだから、大丈夫よ」
白野は、必死に顔を覆い隠そうとした。小田原は、今更遅いでしょう、と言った。
「それで、何を聴きたいの、バッハさん」
「やっぱり小田原さんには敵いませんね」
白野は、溜息をついて、ベッドに横たわった。小田原は、白野の頭を持ち上げて、膝に乗せた。フーガト短調の響きが、身体の内部まで伝わって来た。
(特別な解釈はない。聴くたびに、色々な情景が浮かんでくる。自分探しの旅に出かけた少女の挫折から、旋律は始まる。結論が出ないまま、それなりの身分を得ることで、光が差し込む。しかし、所詮は、世間を渡るための道具。神様の前に跪くと、全てが嘘であることを知る。罪深さを認めた少女は、どうやって闇から抜け出すのだろう)
「人生の終焉を受け入れること、かもしれない」
白野は、呟いた。小田原は、わざと、どうしたの、と尋ねた。
「何でもありません」
「そう、それはよかった。だって、これから、死と闘う戦士になるんだもんね」
小田原は、白野の髪を撫でた。視線を窓の方に移した。月が、星々の輝きを遮るように光っていた。
「あなたは、私たちの希望なのだから」
小田原は、小声で言った。白野は、弱く頷いた。