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第一章 その1

 校門の前には、お嬢様の帰りを迎える車の列が出来ていた。庶民的な生徒たちにとっては憧れの的であり、数人の、プライドの高い生徒たちは、大いなる自尊心を温めていた。

 白野は、校門を出て、すぐの角を右に曲がった。父の隆司が既に、待機していた。

 「今日も、送迎、ありがとうございます」

 白野は、深々と頭を下げた。

 「なに、どうってことはないさ。今日は、塾はない日だよな」

 隆司は、白野に確認し、白野は、はい、と答えた。隆司は、車のエンジンをかけた。

 「今日は、何を聴く?一応、チャイコフスキー辺りを持って来たんだが」

 「祝典序曲をお願いします」

 白野は、躊躇することなく、そう告げた。ナポレオン戦争の巧みな描写と、鐘の音色は、何度聴いても飽きることなく、新たな響きに気付かされて、常に新鮮だった。

 白野を乗せた車が、川奈邸に到着したのは、演奏を聴き終えて、数分後のことだった。母の由紀子、付き人の小田原の出迎えを受けた。

 「ただいま戻りました」

 白野は言った。由紀子、小田原は、そろって、お帰りなさい、と言った。

 「白野ちゃん、明日から三連休だけど、何か予定はあるのかしら」

 由紀子は、まるでお客様をもてなすかのような出で立ちで、白のワイシャツに紺のスカートを合わせた小田原は、幾分ういて見えた。

 「いえ、特には何も。来月の試験に供えて、勉強するくらいです。休憩がてら、ピアノの演奏と、和歌を詠みます」

 「あら、そうなの。がんばってね」

 「ありがとうございます」

 白野は、軽く頭を下げて自分の部屋に入った。着替えを済ませ、早速、本棚から、参考書を数冊取り出した。休み時間に考察していた代数の答え合わせを行った後、ノートブックに大きく丸を付けた。苦手としていた幾何学にも、進歩の兆しが見え始め、よく出来ている、と呟いた。

 英語の学習は、軽く済ませ、最近ネックになっている生物に取りかかった。父の助言もあって、人体の学習は、スムーズだったが、植物学に関しては、からっきし駄目だった。メモ帳にひたすら、固有名詞を羅列し、覚えようとしても、結局のところ、十分ともたず、紙を勢いよく破いた。顔を、机にくっつけて、自身を憂いた後、軽く叩くことを繰り返すうち、涙が込み上げてきた。再起するのにかかる時間が、段々と長くなり、陰鬱な余韻を存分の苦笑いで茶化すようになった。

 「白野さん、お邪魔してもよろしいですか」

 ドアをノックする音が聞こえたのと同時に、小田原の声が耳に入った。白野は、重くなった顔を持ち上げて、どうぞ、と告げた。

 小田原は、由紀子の遠い親戚にあたり、幼い頃から、白野の成長を見守って来た。両親共に不在の夜は、白野の話し相手になり、時には、アドバイスをすることもあった。母の代わり、とは言えないものの、少し年上の親友だと思っていた。

 「何か、お困りのようですね」

 白野は、小田原のことだから、気付くに違いないと思っていた。感情を顕わにすることは、全くと言っていいほどなかったのだが、様子や、仕草をそれとなく見られたり、声のトーンから、風邪をひいているか、気分がすぐれないのか、憤っているのか、大方見抜かれた。

 白野は、黙って、頷いた。小田原は、そっと、白野の方に近づいた。

 「白野ちゃん、ファイトだよ」

 小田原は、白野の頭を撫でた。

(どうして、これほど素敵に聞こえるのかしら。特段と美しくはないけれど、心地いい肌の感触。精神的に拙いのを見抜いているから、赤ちゃんを見守る母親のような言葉遣いに、思わず笑みが零れてしまう。小田原さん、もう少しだけ甘えさせてね)

 小田原は、うん、と頷いて、少し強めに抱きしめた。心の内は、大方読まれているようだった。

 落ち着いてくると、白野は、疲れた、と言って、ベッドに横たわった。

 「また、甘えたくなったらいつでも言ってね」

 白野は、少しだけ照れくさそうに、顔を紅く染めて、うん、と言った。小田原が部屋を後にしてから暫く経って、肝心な質問を忘れたことに気付いた。


 白野は、一日の疲れを癒すため、音楽鑑賞と、読書に多くの時間を割くようにしていた。軽めの夕食を済ませ、地下のホールに向かった。小田原が、一足先に、白野の来訪を待っていた。

 「今日は、何にするの」

 「そうですね、交響曲六番でお願いします。勿論……」

 「シベリウスでしょ」

 小田原は、白野の希望を正確に汲み取った。白野は、中央の椅子に腰かけて、静かに目を閉じた。深い闇に閉ざされた森と、虫の香りを想像した。

(批評家は、シベリウスの哲学を繰り出して得意気になっているけれど、私にとって、それは大したことではない。ただ、隔絶した森の中で一人暮らす少女の姿が想像される。草花は、眩い太陽の光を浴びて笑っている。母なる木は、一つ一つの成長を注意深く見守っている。気流は、遮られることなく、自分の望む方向へ進むことが出来る。ほら、都市部のように暴れたりしない。教会で奏でられる鐘のように、高く、精錬な音色で、かけっこをする)


 「白野ちゃん、いかがでしたか」

 「私は、可哀想じゃない。楽園のヒロインなんだから。小田原さんは、大きな木で、私は、そうね、ドクダミかしら」

 白野は笑った。小田原も、くすっと笑った。早く抱きしめてあげよう、と思った。


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