第二話
先を歩く石友の背中は女性にしては大きく、まさに長身痩躯と言ってもよいものだった。
紅嬉はそんな石友の腰あたりを見つめながら、黙々と紅色の敷物のひかれた廊下を歩んでいた。
先ほどのホールを抜けてひたすらまっすぐのこの廊下は、両脇に数メートル間隔で絵画が飾られている。
色彩はどれも落ち着いたものが多かったが、油絵もあれば水彩もありデッサンもあるといった具合に描き方はバラバラで、まるで生徒が勝手気ままに額縁に入れた、という感じだった。
天井近くには壁に取り付けられたランプが灯っており、全体的にぼんやりと廊下を照らしている。
その灯りにほだされて、石友の影が紅嬉に大きく被さっていた。
「葵宮て人は何者だ?」
前方を慣れた様子で歩く石友に問いかければ、石友は首だけをこちらに向けて紅嬉をちらりと見た。
「葵宮は学園長」
「学園長!?」
紅嬉は一瞬目を見開くと、すぐ取り乱したことに対して舌打ちし、きっと石友の背中をにらみ上げた。
だって石友はあんな乱暴な言葉遣いを…。
「俺はあいつと同期だからいいんだよ」
紅嬉の驚いた顔が見れたのがよほど面白かったのだろうか、にやにやと不快感を煽る笑いを顔全面に貼り付けながら石友は言い放った。
「それにあいつはそんなこと気にしない」
ぼそっと付け足された言葉に内心紅嬉は首を傾げつつ、それにしても随分と若い学園長だな、と思った。
実年齢はいざ知らず、見た目からすれば二十代半ばから後半に至るあたりだろうと思う。
これだけ大きな学園なのだから一代で築き上げた訳ではないだろうし、どう見てもここ数年かそこらで出来るほど小さな学校ではない。なんせ広さが尋常じゃない。
それに噂によれば曲がりなりにも国立だと聞いている。
葵宮という人物はそれだけ才気に溢れているということだろうか。
「まぁいずれ分かるさ」
あっけらかんと言い放った石友に知らず知らず床に落としていた視線を戻すと、前方に何やら扉のようなものが見えた。
その扉の上には光の取り込み口なのだろうか、ステンドグラスのようなものがはめられた窓がある。
廊下も決して暗くはなかったが、久々に見る日の光に紅嬉は少々目を細めつつ、やっと外なのか、とそっとため息をついた。
外から見たこの建物―太和殿は横に大きいものだとばかり思っていたが、奥行きもかなりのものだったらしい。
葵宮と別れたホールから随分と歩いた気がする。
扉を開いた先は中庭、と言っていいものだった。
少し行ったところに東屋のようなものが建っていて、それはほぼ庭の中央に位置していた。
淡い翠色をした瓦屋根を華奢な朱色の柱が支えていて、形は六角形をしている。
その東屋までには白い飛び石が続いていたが、周囲は芝に覆われ、ぽつりぽつりと木々が植えられている。
木の下には小さなベンチも用意されていて、どうやら生徒の憩いの場所であるらしいことが分かった。
現に今も何人かの生徒がそこを利用していた。
石友は迷わずその東屋をつっきると、今度は正面の扉を避けて右へと進路を変更した。
東屋の正面には太和殿ほどではないものの、それなりに大きいと思われる建物があり、太和殿と同系の朱色の観音開きの扉がついていた。
ただ一点太和殿と違うところがあるとするならば、扉と同じ朱色の手すりが建物を大きく囲っている点であり、それは縁側のように前面へ大きく張り出していた。
「石友…ここはなんだ?」
紅嬉は石友の後ろを急いで追いかけながら後ろの建物を指差した。
石友はあー、とか何とか言いながら自分の髪を指でくしゃくしゃとかき回した。
「かんりとー」
「かりんとう?」
「違う、管理棟!」
管理棟?なんだそれは。
紅嬉は後ろを行く紅嬉のことなどお構いなしにどんどん進んで行く石友を追いかけながら口の中でぶつぶつと呟いた。
「教師がいる建物だ。他にも色々とこの学園の仕事をあそこでしてる。と言っても勤務外のときは学園内にある住居にいたりして、常にあそこにいるわけじゃねーけど」
「ふーん、じゃあ葵宮もあそこにいるんだ?」
「あいつはあそこにはいねーよ」
けらけらと笑いながら石友は言った。
「あいつはもっと奥のお屋敷にいるさ。普段は絶対会えないね」
「へぇー…」
妙な話だ、学園の長が屋敷に引っ込んで普段は出てこないなんて。普段は一体何をしていると言うのだろうか。
ここに来るまでにこの学園が普通ではないのは十分認識していたが、こうも色んなことが出てくると自分の方がおかしいのかとさえ思えてしまう。
実はこれが正しいのではないだろうか、と。
紅嬉がそんなことを一人悶々と石友の足辺りに視線を固定させて考えていると、その足が突然ぴたりと歩を止め、つま先がこちらを向いた。
「わっ」
そのままの勢いで突っ込んで行きそうになった紅嬉はすんでのところで不自然な直立不動状態で静止し、石友と顔をつき合わせる形になった。
石友はそんな紅嬉を気にした風もなく、今までの無責任の塊のような態度はどこへやら、急に真剣な顔になって紅嬉をその鋭い眼光で射抜いた。
「この学校のことはどこまで知っている?」
唐突な質問と石友の急変振りに多少たじろぎながら、紅嬉はごくりと固い唾を飲んだ。
「葵宮がお前をここへ連れて来たってことは試験を突破したってことだ。葵宮はどこまでお前に話した」
紅嬉はわずかに足を後ろにひきつつもぐいと顔を上げて石友の顔を仰ぎ見て、気おされつつある自分に勢いをつけるため、強く石友の顔を睨んだ。
足元で草履が砂を噛む音がする。
一瞬でも気を抜けば相手の気迫に圧倒されて押しつぶされてしまうのではないかと言うほどに冷たく冷え切った空気が二人の間に流れ―。
「ちょっとせんせー!そんなに睨んじゃ答えられないでしょー?」
・・・!!?
突然全然空気の読めてない声が上の方から降ってきて、紅嬉はぱっと頭上を見上げた。
そしてそれを見た瞬間―…固まった。
すぐ後ろにある建物の屋根の上にチャイナ服を身にまとった女が、血まみれで仁王立ちになっている。
そしてその背にあるものは紅嬉の身長ほどはあろうかと言うほどの大太刀で…。
「!!?」
余りに驚きすぎて口の利けない紅嬉を見て女はにっこりと妖艶に笑むと、とんっと瓦を蹴って紅嬉と石友の間に降り立った。
「せんせ、顔、怖いですよぉ?」
ふふっと可愛らしく微笑みながら口ではしっかり石友をけなし、女は紅嬉の袖をくいくいっと軽く引っ張った。
よく見るとその手にもまだ乾ききっていない血がついている。
「とりあえず、この子借りてきますんで、せんせーは帰っていいです。じゃ、いきましょ」
有無を言わせない状態で女は紅嬉の腕をがっしりと絡めとり、ずんずんと石友とは逆方向へと引っ張っていく。
「あ、え、ちょっと…?」
「いいの、いいの」
女は頬に可愛らしく笑窪を乗せるとさらに紅嬉を引っ張った。
後ろを振り返ると困ったような顔をした石友が一人ぽつんと残されている。
ほんとにいいのだろうか…。
「おーい」
後ろから呼びかけられた気がしてもう一度振り返ると、もう随分と遠くになった石友が先ほどと同じ場所で口に手をメガホンのようにつけて叫んでいた。
「くれぐれも殺すんじゃねーぞー!」
―…え?
隣を見ると、女はやはりにっこりと、不気味なほどに美しい笑みを顔に湛えていた。




