鬼の子 その二
母屋から繋がる渡り廊下を進み、剛司は道場へと足を運んだ。
地元で表向きは古くからある名家として知られているだけはあり、逆伎家の屋敷は広大だった。
家の人間だけでなく、住み込みの使用人も何人か生活しており、更には母屋の他に、離れ、道場、蔵に、更には屋敷の外の森も逆伎家の私有地だった。
剛司は引き戸を開き道場へと上がると誰も居ないことを確認してから『四方陣』と呼ばれる結界を張った。
途端に、木々の揺れる音や鳥のさえずりが消え去り、聞こえるのは床板の軋む音と、二人の呼吸のみとなった。
わざわざ物理的な結界を張るのには当然理由があった。
剛司はマリナの方をチラリと見ると彼女が出て行く気が無い事を悟り諦めて、こう言った。
「なるべく、壁際に寄っていろ。それと、俺の様子がおかしくなって、結界が解けたら、すぐにココから、離れろ。いいな?」
マリナは特に質問をし返したりすることも無くコクリと頷いた。
剛司は道場の真ん中に胡座をかいて座り込むと全身の力を抜きながら目を閉じて深呼吸を始めた。
魔力の流れを感じながら、ゆっくりと全身の緊張を解していく。
彼は数分間そのままだったが、やがて瞼を持ち上げ封印を解くための詠唱を開始した。
「放つは我。血を以て証となし、ここに示す」
一瞬、逆伎の周りに方陣が浮かび上がり、眩い光を放った。
思わず目を背けたエリナが暫くして視線を戻すと、ソコには角を生やした一匹の鬼が居た。
苦しそうに呻き声を上げるその姿は、見るものを体の芯から恐怖させる物語で語られる鬼そのものだった。
そう、普段の剛司は封印によって鬼の力を押さえ込んでいた。
逆伎家には歴史上彼の他にも鬼の力を強く発現した当主が存在したらしく、力を抑え込むための封印術が伝わっていた。
しかし、剛司の場合は封印で力を抑え込んだ状態でも充分過ぎるほどの力を使えてしまった。
更にこの封印は元々鬼の力を完全に封じる目的で造られたものらしく、術単体での微妙な調整は出来ないという非常に扱いづらいものだった。
退魔師として身をたてる以上、使えるモノは使わなくてはならない……という建前の元、自分がいつか鬼に乗っ取られてしまうかもしれない懸念を打ち消すために、剛司は度々封印を解いては鬼の力を制御する訓練を行っていた。
結果は芳しいものではなかったが。
「ぐっ、うぅ………があぁっ……!!」
剛司は、今にも暴れ出そうとしている自分の中に巣食う鬼を押さえつけようと必死に抵抗した。
だが、徐々に精神の灯火が小さくなっていくのを彼は感じずにはいられなかった。
理性の幕が完全に取り払われてしまう寸前に、彼は再び封印を掛け直した。
魔力が渦を巻き、彼の身体を包み込んだ。
途端に嵐の様に渦巻いていた衝動が収まり、剛司は大きく息を吐いた。
詠唱無しで封印を縛り直す事だけはここ数年で飛躍的に上達していた。
彼としては不甲斐ない成果なのだが。
「ハァハァ………」
肩で息をつく彼にエリナが駆け寄った。
相変わらず無表情ではあったが、瞳の奥に僅かに心配そうな色を浮かべ彼女は剛司の顔を覗き込んだ。
「若様、大丈夫ですか?」
「いつもの、事だ……暫くすれば、落ち着く」
彼の言葉に安堵したかのように、彼女は床に座り直した。
それから何も言おうとはしない彼女が、きっと自分の事を見て恐怖してしまったからだろう、と考えた剛司は今日は部屋に戻って自由に過ごす様にと言おうとした。
ところが、それよりも早くエリナが口を開いた。
「若様、お聞きしたい事が有るのですが」
「……何だ?」
「若様は、封印を使って力を押さえ込んでおられるのですか?」
「ああ」
「では何故、先ほど封印を解いたのですか?」
彼女の予想外の行動に剛司は面食らってしまった。
アレを見て自分に近付いて来ただけでも驚きだったのに、まさか質問までしてくるとは剛司には思いも寄らなかったのである。
とはいえ、別に答えられない質問でもなかったので、彼は気持ちを落ち着かせるついでに、彼女の質問に答える事にした。
エリナは剛司の説明を聞き終えると、再び彼に尋ねた。
「もし、鬼の力を段階的に使えたり、完全に抑え込む事が出来ましたら、若様は助かりますか?」
「………そうだな」
出来ないとは思うが、という一言を彼は敢えて口にしなかった。
何となく弱気な所を彼女に見せたくなかったのだ。
剛司の返答を聞いた彼女は何やら考え込む様な素振りを見せると、またしても剛司を驚かせるセリフを述べた。
「若様、一週間程、休暇を頂いても宜しいでしょうか」
本当に、何を考えているのか分からない。
そんな風に混乱しながらも、剛司はエリナの願いを聞き入れた。
お茶を入れようとして湯呑みを割り、紙コップでリベンジしたかと思えば中身を主にぶちまけるメイド等居てもいなくても剛司には関係の無い事だった。
「(そういえば、何でアイツは、メイド服を、選んだんだ?)」
ふと、そんな事が気になった剛司だったが、エリナは休みを貰ったかと思えば何やら忙しいに屋敷の中を動き回ったり、逆に自室に何時間も篭ったまま出て来なかったりしたので、聞くに聞けなかった。
彼女の休みが終わったら聞いてみるとしよう、彼はそう心の中で決めるといつもの様に少しばかり憂鬱な気分で学校へと向かった。
この時はまだ、彼女があんな行動に出る事を剛司は知る由もなかった。




