蜘蛛の糸
所々灯りの落とされた病院の廊下で、舞はベンチに腰掛けていた。
マナーモードに切り替えた携帯が何度もバイブレーションを作動させている。
着信相手は父親だった。
きっと、自分が言いたい事だけ言って切ってしまったせいだろう、と舞はぼんやりと考えた。
それでも、どうしても電話に出る気にはなれなかった。
出た所で帰って来いと言われるのは目に見えているからだ。
とはいえ、それは当然の事だ。
現在の時刻は午後十一時、もうすぐ電車の終電も無くなろうかという時間である。
翌日も学校がある学生が病院に居て良い時間ではない。
分かっていても、舞はどうしても離れられなかった。
手術中、と赤く光った電灯を見つめながら舞は必死に祈っていた。
陣の命が繋がってくれることを。
その頃、緋志とルミは事務所を訪れていた。
緋志が注意深く辺りを伺い、尾行られていないかを確認した。
特に自分達の方へと注意を向けている人間が居ないことを確認すると緋志とルミは素早くビルの中へと入り込んだ。
二階に上がり、電話で決めておいた通り、三回のノックの後に二秒待って再びノックをする。
すぐにカチャリと鍵が開けられ、中から扉が開かれた。
「悪い、遅くなった」
緋志がそう謝罪すると、顔に疲労の色を浮かべた霧上は無言で首を横に振った。
そのままで居ても仕方が無いので、事務所に入ると緋志はタオルを取るためにロッカーのある隣の部屋へ向かった。
ソファに腰掛けたまま俯いてしまった霧上に、おずおずとルミが声を掛けた。
「あの……大丈夫、ですか?」
「……私は、傷一つ負っていない」
絞り出す様なその声が、霧上の心の内をルミに垣間見せた。
自分一人が無傷で逃げ延びてしまったという事実が、霧上を苛んでいた。
陣は、意識不明の重体、しかも命に関わる傷を負ってしまっていた。
緋志から陣の容態を聞いてから、尚一層その罪悪感は強まるばかりだった。
霧上が歯を食いしばって再び黙ってしまい、ルミは何と声を掛けていいのか分からずオロオロとしてしまう。
その時、隣の部屋から緋志が出てきた。
手に持っていたタオルの一枚をルミに手渡し自分の頭を拭き始める。
二人のやり取りは聞こえていたらしく、緋志は霧上の向かいに腰掛けるとこう言った。
「落ち込んでる暇はないんだ。相手は何人殺してでもルミを狙いに来る。しかも、陣が手も足も出ない実力なんだからな」
「………分かっている」
「キツイとは思うんだけどな……霧上は貴重な戦力なんだ。頼むからしゃっきりしてくれよ」
緋志の言葉に少しばかり気が落ち着いたのか、霧上はようやく顔を持ち上げた。
それを見て安心したルミも緋志の隣に腰掛ける。
髪の水気を拭き取りながらルミは気になっていた事を尋ねてみた。
「あの、霧上さん……もしかして、霧上達が襲われたのは私が原因なんですか……?」
「ああ……」
霧上が頷くのを見て、ルミは顔を歪めてしまう。
自分が関わったせいで、また周りに危害が及んでしまった。
その事実がルミの心に重くのしかかった。
それでも、ここで弱音を吐いて挫けるわけにはいかないとルミは自らに言い聞かせた。
「詳しい話を、聞かせて貰えませんか……?」
霧上も元々そのつもりだったのか、予め考えておいた様に順序立ててわかり易く現在の状況を二人に説明してくれた。
話を聞き終えてすぐに、緋志が疑問を口にした。
「俺も逆伎家は知ってる。確か仕事も一緒にした事もあったしな。その上で気になるのが……なんで逆伎剛司がルミを狙ってるか、だな」
緋志の言葉に霧上は首を縦に動かし同意した。
ルミは自分の家の人間側から見た立場がよく分かっていないらしく、戸惑っているようだった。
「紅道家は日本の、いや多分、多くの退魔師にとっては関わる事がタブーの存在だ。なんせバックに日本の大物がゴロゴロ付いてるらしいからな」
その事は、この中で緋志が一番実感していた。
何せ、彼は家を出るまで一度も紅道家の話など聞かされた事すら無かったのだ。
魔族が人間社会に関わろうとする度にそれを潰してきた遠丞家では、それは異例の対応だった。
即ち、それだけ紅道家は影響力を持った存在と言えるだろう。
家を出ているとはいえ、ルミもその一員である事には変わりはないはずなのだ。
リデラの様な狂人でも無ければわざわざ狙うメリットは無いはずなのだ。
それなのに、逆伎剛司は躊躇なく、周りの人間を巻き込んでまでルミを狙っている。
何故、彼がそこまでするのか緋志は気になったのだ。
「(もしかしたら、細井の件と何か関係があるのか?)」
状況があの時とよく似ているのだ。
理由の分からない襲撃、自分達の事を調べ上げた相手、そして相手がルミを仕留める事に躍起になっている点。
ただ、確固たる証拠がある訳でも無いため緋志はそれを二人に伝える事はしなかった。
「……並の相手なら、こんな事は考えずに済むのだろうな」
霧上がため息混じりにそう言った。
再び首を傾げるルミに緋志が説明してくれた。
「だって、もしナイフを持った不審者が現れたとして一々、アイツは何が目的なんだ? とか考えるか?」
「い、言われてみれば……」
「な? 要するに逃げるか、相手を無力化すれば取り敢えず命の危険は無くなるんだからそれで良いんだよ。正当防衛なんだし……でも、今回は違う。俺達じゃ十中八九、逆伎剛司には勝てない。となれば、どうにかして相手を交わすのが正解なんだろうけど……」
そこで、緋志は口をつぐんでしまった。
彼は親友がその事に気付いていなかったとは思えなかった。
霧上から話を聞く限りでは、逆伎剛司がルミを諦める気が無いと直感で感じた結果、対峙するに至ったのだろう。
ただ、以前多くの退魔師と仕事をこなした事のある緋志は、SSSというランクの凄さを親友より深く理解していた。
きっと、紅道華院ですら勝つことは難しいだろう。
「とにかく、相手が諦めるのを待つのは望み薄だろう。となればどうにか所長と連絡を取ってみるのが先決だと思うが?」
霧上の提案は今出来る最善の行動だった。
とはいえ、先程から暇を見つけてはコールしているのだが、彼女が電話に出る気配は無かった。
「麗子さん、京都に行くって言ってたんだよね?」
「ああ、でも何をしに行くかまでは教えて貰えなかったな……前々から偶にふらっと出掛ける事は何度かあったけど、連絡がつかないってのは初めてなんだよな……多分、タイミング的に考えて麗子さんにも何かしらの危険が及んでる可能性は否定出来ないな」
「そんな……」
ルミが唇を噛み締める。
話し合いを進めれば進めるほど、悪い要素ばかりが積み重なって逃げ道が塞がれていく様だった。
三人とも同時に口が止まってしまい、部屋の中に重苦しい空気が充満した。
緋志は、こういう時に冗談を飛ばしてくれる陣がいかに偉大な存在かを改めて思い知らされた気分だった。
とにかく、もう一度麗子に電話を掛けてみようとしたその時、コンコン、というノック音が空気を揺らした。
バッ!! と、獣の様な反応で緋志が立ち上がりながら腰の小太刀に手を伸ばす。
扉を睨みつけながら二人に下がる様に手振りで指示をする。
再びのノックに、緋志は声を作りながら応答した。
「鍵は空いていますよ。どうぞ」
緋志の背中はじっとりと、嫌な汗で濡れていた。
ルミを庇うように霧上が位置取り、いつでも術を放てるように身構える。
張り詰めた空気に同調する様に、ゆっくりと扉が開かれた。
扉の角度が45度を超えた辺りで、廊下に立つ人物の姿が三人の目に入った。
「あっ……!?」
三人の中で唯一その人物に見覚えがあったルミが驚きの声を上げた。
褐色の肌に緑色の瞳、そして、美しい顔立ちのメイドさんは扉を開け終えると、ゆっくりと一礼した。
「夜分遅くに失礼致します。お話があって参りました」
駅前のビジネスホテルの一室で、逆伎剛司は裸のままベッドに転がっていた。
世界がグラグラと揺れている様な錯覚に彼は苦しめられていた。
霧上が離脱してすぐに、急に雰囲気の変わった陣が何事かを呟いた瞬間、その時には逆伎は既に術中に嵌っていた。
術、というのはいささか不適切な表現かもしれないが。
「(まさか、領域結界を、使うとは……術を、使わなかったら、危なかった)」
普段、わざと魔術を使わない様にしている逆伎だったが、その枷を破られたのは久々だった。
それ程にあの時の陣は厄介な存在だった。
もしかしたら、何時もの逆伎ならば意地を張って魔術を使おうとはせず、殺されないまでも行動不能に陥っていたかもしれなかった。
しかし、今回ばかりは、たとえポリシーを曲げたとしてもしくじる訳にはいかなかった。
「(それにしても、やはり、追いかけて来て、しまったな……待っていてくれと、言ったのに……)」
舞たちが陣の元に到着した時、逆伎がその場を離れていたのには二つ理由があった。
一つは陣の反撃により状態が万全では無かったこと。
もう一つは集まったきた人々の中に、とある女性の気配を感じたからである。
彼女は逆伎にとって守るべき存在であるが、彼女を今回の様な方法で守ろうとしている事が自分のエゴであると彼は重々承知していた。
だからこそ、彼女が勘づく前に全てを終わらせるつもりだった。
彼女の聡明さを誰より知っているが故に、それが都合の良すぎる願いだということもまた、彼はよくよく分かってはいたのだが。
「流石に、誤魔化されてはくれなかった、か……」
そう呟くと、逆伎は一刻も早く体調を戻そうとゆっくりと目を瞑るのだった。




