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第六章  賤ヶ岳の戦い、決着

 余呉湖(よごのうみ)北西の茂山(もざん)砦で羽柴軍を牽制していた前田利家は、苦悩していた。勝家から作戦を言い渡され、こうして敵と向かい合ってもなお悩んでいたのである。それは勝家につくか秀吉につくかというものではなく、勝家陣営にありながらいかにして秀吉と戦わずに済ませるかという悩みであった。

 今にして思えば自分を敵の牽制役に配置し、直接の戦闘に参加させなかったところに勝家の配慮があったのではないかとさえ考えてしまう。それ程までに秀吉を敵と割り切れない思いが利家を苦しめていた。

 盛政の奇襲が最大限の成果を得られず、逆に常識を超えた速さで反転してきた秀吉の猛攻に撤退を余儀なくされ、更に勝家本隊が柳ヶ瀬から動けずにいる。利家は現在の戦況をそう掴んだ。そう掴んだことで、袋小路に追い込まれつつある利家の思考に、一つの方向性が浮かんでくる。それはすなわち『御家(おいえ)存続』であった。

 前田家の四男に生まれながら、織田信長の命により家督を継ぐことになった利家は、自分の判断一つで家を潰すわけにはいかなかった。この思いと秀吉との戦闘忌避、柴田軍の劣勢が重複した結果、『戦わずに退却する』という選択肢が唯一必然のものと感じ取られ、それ以外は思考停止してしまったのである。

 つまり自分が援護することで盛政が勢いを盛り返し、柴田軍を勝利に導き得るという考えは放棄してしまった。

 今や利家が考えるのは、どの道を使って退却を行うかの一点に絞られている。このまま北上して勝家本隊のほうに向かうことはできない。東に抜けて北国街道を通るのは、敵が遮っているため不可能である。したがって退却するのは西へ抜けて塩津(しおつ)街道を通るしかない。

 そう決めた利家は、退却という余りにも意表を突く判断に驚愕する家臣らを叱咤(しった)しながら軍をまとめ、西へと進み出した。

 急報を受けて急ぎ自陣から走り出した盛政と虎姫は、眼前を左へ去っていく利家部隊に唖然とした。

「ば、馬鹿な。こんなことが……。前田殿が秀吉と通じておったのか」

 これは盛政の全くの誤解であるが、利家の意図は違えど、もたらされる結果は同一であった。今まで利家に睨まれて行動できなかった神明、堂木の両砦の兵が動き出したのである。

「いかん、このままでは挟撃される。急ぎ北上して行市山(ぎょういちやま)まで戻るのだ!」

 盛政としては当然の処置である。だがこの指示に味方は付いてこれなかった。昨日行った奇襲戦と、疲れが取れぬまま今に至るまで行われた撤退戦で、心身ともに疲労は限界に達していたのである。

 利家部隊が健在であればこの権現坂(ごんげんざか)に陣を敷き、防備に徹することで幾分かの休息も得られたであろうが、今ここに滞陣するのは大蛇の腹の中で消化されるのを待つのと同じである。だが今味方は動けない。盛政はあまりの無念に肩を震わせた。

 この状況を見て取った秀吉は狂喜した。

又左(またざ)(利家のこと)が退いてくれた! これで勝利は我が方のものだ。全軍に突撃命令をかけよ。余力を残そうと思うな。この一戦に総力を挙げるのじゃ!」

 さすがに秀吉は機を見るに敏であり、これを逃さない。盛政部隊は南より丹羽(にわ)長秀(ながひで)部隊と秀吉本隊、東より羽柴秀長部隊、北より神明、堂木の両部隊からの攻撃を受ける羽目になった。特に北からの攻撃に味方は動揺し、混乱し、逃走し始めた。

「退くな! まだ負けたわけではない。ここで持ち応えれば後陣が更に北から攻めてくれる。それまでの辛抱だ」

 盛政は北側に移って周囲の兵を鼓舞し、自分も虎姫と共に敵に襲い掛かり切り崩す。だが味方は盛政ほど自由に体を動かす体力を持っていない。

 勇戦を続ける盛政の下には次々と側近ら討死の報が入ってきた。単身こちらに寝返った山路(やまじ)正国(まさくに)の死まで届けられると、盛政は堪えていた悲憤(ひふん)を解放し、感情のままに敵を斬り飛ばしていく。それは虎姫でさえ近づき得ない人型の台風であった。

 あまりの猛威に敵が怯み、攻撃の手を止めてしまうと盛政は味方のほうへと戻ってきた。そこに盛政に更なる追い撃ちをかける凶報が飛び込んでくる。

金森(かなもり)長近(ながちか)部隊、不破(ふわ)勝光(かつみつ)部隊が退却していきます!」

 金森長近らは後陣にあって西へ進む利家部隊を確認し、それと交差するように北上しようとする盛政部隊と、そこから逃げ出す兵を見て、先陣が崩れて潰走したと判断したのであった。自分達だけでは敵に当たることはできないと判断した両名は、示し合わせたかのように陣払いを行い、後方に下がろうとした。

 しかしこれを見た勝家本隊の各陣は、更に味方が敗れて逃げ出したものと思い込み、次々に退却し始めたのである。先陣が戦っている内に後陣がどんどん戦線を離脱していく、いわゆる『後崩(あとくず)れ』が起こり始めたのであった。

「終わったか……。わしが非才であるがために、とうとうこの戦局を覆すには至らなかった。伯父上、許されよ」

 後陣の退却は部隊内を駆け巡り、遂に味方の将兵も四散し始めた。盛政は馬を南に転じると、逃げる味方の一助(いちじょ)(にな)うため敵中向かって突進した。虎姫も無言で決意の色のみ顔に(たた)えて後に続く。親子は敵中に溶け込んでいった……。



 本陣に座して相次ぐ報告を受けていた勝家は欠片も動揺せず、笑顔さえ見せて口を開いた。

「終わったな。見事に猿めにしてやられたわ。……ここに残った兵はどれくらいおる」

「およそ一千です」

「それだけおれば十分だ。鬼柴田の最期、猿めに見せつけてやろう」

「お待ちください!」

 進み出てきたのは家臣の毛受(めんじゅ)家照(いえてる)である。家照は勝家の命に従って、味方のうち戦意のない者を陣から送り出して戻ってきたところであった。

「殿、今ここに残る千名はどこまでも殿と運命を共にすると決意した者達です」

「おう、であればこそ今から敵本陣に突っ込んで、いさぎよく斬り死にいたそうというのだ。戦意のない者まで巻き込んでは鬼柴田の名が泣くからの」

「なりませぬ。ここから特攻を仕掛けたとて、秀吉本隊になど到底辿り着けません。ここにいる忠臣を無為に失った挙句、名もなき兵に討たれるのが関の山です。そのような死に方は北陸一の御大身である殿が為すべきではございません」

「むむ、ではわしにどうしろというのだ。まさか猿に降れなどというわけではあるまいな」

「この期に及んでそのような戯言(ざれごと)は申しませぬ。殿にはここに忠臣もござれば国に城もあり、そこに家臣も妻子もございます。まずはお身内、そして家臣のことにきっちりと区切りをつけて、それから城を枕に討死してくだされ。それこそ殿にふさわしい御最期と存じます」

 勝家は厳しい表情で家照の諫言(かんげん)を聞いていたが、聞き終えるとすぐ(やわ)らぎ、先程とは別種の笑顔で家照を見据えた。

「よく言ってくれた。なるほど、わしらしい死に方か。確かにここで匹夫の勇をひけらかしても、わし自身の意地が立つだけで誰も得をせず、猿めに嘲笑(あざわら)われるのが落ちだ。よかろう、わしはここを引き払って北ノ(きたのしょう)城へ戻ろう。敵の追撃を振り切れればだがな」

「殿、それにつきましては手前の配下を自由に使わせていただくよう許可願います。また、拙者に殿の兜と馬印をお与えください」

「なんだと家照、お主まさか……」

「はっ、拙者が囮となって敵を引き付けますゆえ、その間に殿は残りの兵を連れて越前へお戻りくだされ」

「……分かった。お主の望むようにしよう」

 勝家は自分の兜と馬印を家照に渡した。家照は自身の配下三百と、どうしても家照と行動を共にしたいと願い出た二百、合わせて五百の兵を引き連れて前線にある味方の空砦に入った。鉄砲を並べ、前方から向かってくる(ほり)秀政(ひでまさ)部隊に備える。

「まだだ、敵が眼前に迫るまで撃ってはならんぞ」

 堀秀政は、正面の砦から矢玉が飛んでこないため敵はいないものと判断し、頭を追撃戦に切り替えた。

「よし、この砦は後続に焼き払わせるようにして我らは敵を追う。まだ遠くには行っていまい」

 手勢の騎馬と足軽を前に押し出して足を速めた。まさにその時、

「撃てぇ!」

 砦からの叫び声が聞こえ、僅かに遅れて銃声が響き渡った。鉄砲の数が多くないため実害は少なかったが、完全に虚を衝かれた形になって敵は混乱した。そこに家照率いる五百の兵が突撃を開始する。

「我こそは柴田 修理亮(しゅりのすけ)勝家。討ち取って手柄を立てんと思う者は掛かってくるがいい!」

 最初から死を覚悟した者の突撃は容易に止められるものではない。まして前衛が混乱している最中であればなおさらである。秀政はすぐに部隊の危急を察知し、後衛を押し出すことで収拾を計った。幾分かの苦戦を強いられつつも、巧みに兵を操って秀政は家照らを追い返す。

 砦に戻った家照は、今度は矢を放つよう指示し、敵を寄せ付けない構えを示した。なお最初の突撃で家照側の被害は十名に満たなかった。対して秀政側は五十を数える。

 安易に兵を動かした自責から苦々しく舌打ちしつつも、秀政は兵を扇状に配置して攻城の構えを取った。この砦は秀政の砦と正対していたもので、北国街道を塞ぐ役割を果たしていたので回避できない。何より先程相手は柴田勝家を名乗っており、目の前に敵の総大将がいると分かっていて、それを回避する理由は秀政にない。

 飛来する矢もそれほど多くないことを掴むと、秀政は総攻撃の合図を出した。兵が一斉に襲い掛かる。ところが砦にあと一歩まで迫ると再び鉄砲が撃たれ、敵が怯みを覚えた瞬間に門が開き、家照らが打って出る。再び近接戦となり、ここでも家照の猛威を封じ込めることはできなかった。

 たまらず秀政は後退を指示し、双方それぞれの位置に戻る。これが二回ほど繰り返された頃、盛政部隊を潰滅させた秀吉本隊が合流した。

「ほう、寡兵ながら久太郎(きゅうたろう)(秀政のこと)を数度にわたって寄せ付けんとは。さすがは鬼柴田の采配よ」

 秀吉も秀政もその手際の見事さから、砦で指揮を執るのは勝家と信じて疑っていなかった。

「勝家め、潔く斬り死にする道を選びおったか。奴らしいといえばそうではあるが、ちと意外じゃな。まあよい、ここを終焉の場にしたいのであれば、その望みを叶えてやろう」

 秀吉は本隊を寄せ手に加え、徹底した力攻めを指示した。また自身も勝家の最期の勇姿を見届けるため先頭に乗り出す。敵に援軍が到着し、それを合わせて総攻撃を掛けてくることは家照にもすぐに分かった。彼は兜をかぶり、馬に乗ると兵に言い渡した。

「これが最後の出撃だ。それなりに時は稼げたであろう。後は各々思う存分戦うがいい。己と主君の名に恥じぬ働きを示せ!」

「おおーっ!」

 門が開かれ、家照らは一斉に正面向かって突撃した。

「おお、あれこそは金の御幣(ごへい)の馬印。勝家に間違いない。それにしてもあの強さはどうじゃ」

 最前線で戦況を確認する秀吉は興奮していた。彼は最早この戦の勝利を確信しており、それは事実であった。だからこうして眼前で武勇を振るう敵に、素直に感心する余裕ができるのである。

 家照は三方から迫る敵に一歩も退かず、太刀を振っては斬り倒す。味方の兵もここで死ぬことを腹に決めているため、手傷を負おうが構わず太刀を振るい、槍を突き出し敵を倒していく。

 死兵と化した彼らの活躍に敵も狼狽して囲むこともままならなかったが、それも長くは続かなかった。黒田(くろだ)孝高(よしたか)の指示により戦闘中の味方以外が少し後退すると、家照らを包囲するように弓兵が進み出てきた。至近の敵を家照らが一掃した瞬間、

「放て!」

 孝高の号令と共に矢が射ち込まれる。味方はバタバタと倒れていき、家照も右肩に矢を受け落馬した。そこへ一斉に敵兵が襲い掛かる。これまでと観念した家照は、一番に突出した兵に正面をさらし、喉元に突き出される槍も避けずにそのまま受け入れ、見事と心に一つ呟いて崩れ落ちた。味方の兵もことごとく討死し、家照の奮闘はその幕を閉じた。

 眼前に差し出された首を見て秀吉は驚いた。

「これは勝家ではない。家臣の毛受家照ではないか」

 周りの将も同じように目を見張っている。

「主君の身代わりとして戦っていたのか。勝家にもまだこのような忠臣が残っていたのじゃな。それにしても、勝家と見紛うばかりの天晴れな武勇であった」

 秀吉は家照の遺骸(いがい)を近くの寺に運び、丁重に葬るよう申し渡した。

「となれば勝家は北ノ庄城に戻ったか。では、その最期を見届けに行かねばなるまい」

 秀吉には分かっていた。勝家がここから退いたは命を惜しんでではない、自分に相応しい死に場所を求めてだということが。北陸征伐軍の総大将であり、織田家随一の大身として死ぬべき場所は、自身の居城しかない。

 一方の総大将である秀吉にとって、その死を見届けるのはいわば義務であった。戦略的、政略的な枠組みを超え、純粋な使命にまで昇華させて、秀吉は兵を北に向けるのであった。



 家照が敵を防いでいてくれた頃、勝家は五百の兵を引き連れ北国街道を北に進んでいたが、峠に差し掛かったところで馬を止めて振り返った。

「その方らは、最後に秀吉に噛み付いてやろうと残った勇者達だ。だが家照の献身のためにそれは果たせず、わしは今から死にに行く身だ。ここまで従ってもらったがこれよりは付いて来るに及ばぬ。ここで軍律を解くゆえ、各々好きな場所に落ち延びよ」

「し、しかしそれでは……」

「いや、そち達を無為に死なせるわけにはいかん。忠義で報いてくれた家照やそち達のおかげで、わしも相応しい死に方ができる。それで十分だ。この上その忠義に甘えて味方を道連れにしたとあっては、武人としてのわしの矜持(きょうじ)に関わるからの」

 こうして勝家は兵と別れた。どうしても付いて行くと懇願する者三十余名のみ引き連れ、峠を越えて日が沈む頃に前田利家が預かる府中(ふちゅう)城に到着した。この時家照は既に討たれている。

 利家は城の防備を固めていた。その立場が非常に危険なものだったからである。勝家側からは裏切り者との(そし)りを免れないであろうし、秀吉側からは攻略の対象として認識されたままである。実際利家は先の退却で羽柴軍から執拗な追撃を受け、多くの被害を出している。

 自分が退却したからには勝利は秀吉に帰するであろう、とみている利家は、羽柴軍が寄せてくれば降る心積もりであった。そんな彼の下に家臣から、勝家が僅かな手勢を連れて門前で面会を求めているという報告が入った。

「何、柴田様が」

 利家はすぐに門を開いて招き入れるよう指示した。この時家臣の一人が進言する。

「ここで柴田殿を捕らえ、秀吉に差し出しましょう。そうすれば必ず厚き恩賞にあずかれましょうぞ」

 瞬間、利家は凄まじい形相でその家臣を睨みつけた。

「お主は武士道を何と心得る! 今しがたまで味方であった者を、それも自分達の大将を、己の栄達のために敵へ差し出せとは何たる不忠者。この利家は確かに軍を返し、柴田様に仇なす行動を取った。だがそれも御家の存続を願う一心から行った所業。ここでそのようなことをして褒美をもらおうなどと画策してみよ。この利家は只の卑劣漢に成り下がるわ!」

 驚倒した家臣はそのまま額を擦り付けながら後ろに下がった。程なくして勝家がやってきた。敗軍の将としてここへ落ち延びてきた彼であるが、その態度は毅然(きぜん)としている。ただ戦に臨む時と異なり、目は穏やかであった。

「利家、湯漬けを一杯くれぬか。朝から何も食してなくてのぉ。できれば供の者にも振舞ってやってもらいたい」

「ははっ、すぐに用意させます」

 間もなく湯漬けが届けられ、勝家は無言でそれを平らげた。見つめる利家も無言である。最後に茶を飲み終えると勝家は口を開いた。

「頼みついでで申し訳ないが、馬を一頭譲ってもらえぬか。これから城に戻って腹を切らねばならんのでな」

「柴田様……」

「お主にとって、この戦いは辛かったであろう。秀吉との間に厚い友誼(ゆうぎ)があったことはわしも承知しておる。それを押してよくぞ今までわしに尽くしてくれた。敗残の身となった今では何も報いてやれぬのが残念だが、とにかく礼だけは言っておきたくてな」

「柴田様……、親父様!」

「何も言うな又左。これよりはわしに義理立てしようなどと考えず、秀吉の下で才を振るい栄達を計るがいい。お主ほどの男であれば必ず叶うであろう。本当に世話になったな」

 言い終えると勝家は立ち上がった。利家の目からは涙が溢れている。(そで)で顔を(ぬぐ)うと、速やかに去る勝家を見送るため門まで付いて行く。譲り受けた馬に腰を落ち着けた時、勝家が言った。

「そうだ、お主より預かっていた娘、必ず無事ここへ送り届けるから安心してくれ」

 利家は驚き、思わず頭を下げた。地面に雫が(したた)り落ちる。

「では行くぞ!」

 勝家らは再び北ノ庄城目指して歩き始めた。利家は顔を上げ、彼らの姿が完全に見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 翌二二日朝、利家の下に再び報告が入った。

「来たか」

 天守に出た利家は眼下に迫る羽柴軍を捉えた。

「鉄砲を撃て!」

 羽柴軍先鋒との間に戦闘が開始される。本隊にいた秀吉はその銃声を聞きつけ、物見に様子を見に行かせた。程なくして戻ってきた物見に叱り付ける。

「馬鹿者! 誰が戦えと言った。すぐ止めさせよ。落ち着いたら久太郎を使者によこすゆえ、勝手な動きは許さんぞ」

 すぐに伝令が飛び、先鋒は引き下がった。しばらくして堀秀政が使者として利家を訪れ開城を要求し、利家はこれを呑んだ。

「よし、又左が降ったか。では予が入城しよう」

 利家降伏を知った秀吉は大いに喜び、供の者僅か六人を連れて城に入った。そして単身利家に面会する。利家は深々と頭を下げた。

「こたびの戦では立場上、羽柴殿に弓を引く形になり申した。何卒ご容赦頂きたい」

「又左、そなたと予の仲ではないか。そなたのおかげで予は戦に勝てたのだ。予のほうから礼を言いこそすれ、謝するには及ばぬ。これからは予の味方として力を貸してもらいたい。ところで……」

 敵対した自分を責める様子はないと安堵した利家の胸中に、秀吉は平然と雷を落とした。

「我らは北陸に関して不案内での。そなたに道先案内を頼みたいのじゃ」

「な、なんと!」

 それはつまり勝家追撃の先陣を務めよという命令であった。

「どうじゃ、やってくれぬか」

「……承知しました」

 事ここに至って利家に断る術はなかった。肩を落として了承する利家に、秀吉は満足そうに頷くと、旧交を温めるように親しく会話を楽しむのであった。



 二三日早朝、利家を先鋒とする羽柴軍は府中城を発ち、日中には北ノ庄城に着いた。すぐに指示が飛び三方より城を囲む。

 先に戻った勝家は約束通り利家の娘を(かご)で送り出し、それから二千の兵で城を固め、抗戦の意志を示した。ただしこの数では総構えを守りきることはできないため二の丸、三の丸に兵を集める形となっている。

「よし、では最後になったが武士の意地として一戦させてもらおうか」

 敵が柵を乗り越え迫ってくると、勝家は鉄砲の射撃を指示した。城内に攻め入らんとした敵がバタバタと撃ち倒される。敵も鉄砲隊を繰り出し、ここに壮絶な銃撃戦が展開されることとなった。

「勝家の最後の抵抗よ、無理に押し進むには及ばん。包囲のみ続けて、彼の存分を果たさせてやれ」

 秀吉は家臣らに指示し、本陣にて利家と並んで城を眺めている。互いに黙して何も語らず、視線の先から響いてくる銃声と喧騒(けんそう)を、ある時は近くに、ある時は遠くに聞きながら、互いの胸中にそれぞれの思いを駆け巡らせていた。

 日が沈む頃、秀吉は攻撃停止命令を出し、包囲を解かせて各陣に戻らせた。天守からこれを見ていた勝家は笑みをこぼした。

「猿め、どこまでも情を汲んだ攻撃を仕掛けてくるものよ。わしの意地を立たせておいて、これよりは身の処し方を決めろということか」

 勝家は広間に入ると、側近の一人に伝えた。

「敵は囲みを解いておる。今宵(こよい)のうちに兵を全て落ち延びさせよ」

「はっ、心得ましてございます」

 側近らも勝家の心中は重々に承知している。自分の最期を飾るにあたって無為に兵を道連れにするような真似はしない、と。側近らに兵を任せておいて、勝家は自分の妻に会いに行った。

「お(いち)、お(こと)の願いも叶わず、わしの不甲斐なさから明日落城すると決まった。わしは城と共に滅びるつもりだが、お許はわしに嫁いでまだ一年、それに何より三女の母だ。明日すぐに姫達と共に城を出て秀吉に降るがよい」

「……姫達については殿の仰る通りにいたしましょう。しかし(わたし)は殿と運命を共にしとうございます」

「それはならん。姫達はどうするのだ。お許は右府(うふ)様の妹御、秀吉も決して粗略に扱うまい。奴を頼るのだ」

「いいえ、妾は柴田勝家の妻としての本分を全うしとうございます。前の良人(おっと)浅井(あざい)長政(ながまさ))敗亡の折も共に死ねず、またこたびも殿と共に死ぬこと叶わず、それで次の良人に仕えよと仰られますか。たとえ一年とはいえ、妾にとっては百年の契りにも勝る殿でございます。何卒最期までお側に仕えさせてくださいまし」

「……そうか、分かった。今の言葉、この勝家にとって何よりも嬉しいものだ」

 勝家が広間に戻ると、先程指示を受けた側近が戻ってきて告げた。

「おおよその兵は落ち延びさせましたが、我ら近侍を含めおよそ二百名、どこまでも殿に付いて行く所存でございます」

「よし、では見張りの者以外はここに集めよ。これより酒宴を行う。見張りの者にも酒樽を回してやれ。朝まで無礼講だ」

 こうして明け方近くまで酒宴は続けられ、各々平時と変わらず談笑する。勝家に酒を酌み交わしに来る者にはお市の方が笑顔で酌をした。

 翌朝、腰元に連れられ三人の姫は秀吉の下に降っていった。勝家は側近らに命じて馬草(まぐさ)や柴を集め、自分がいる天守の広間に敷き詰めさせた。昼を過ぎて再び秀吉から攻撃の指示が出る。今度は鉄砲ではなく足軽を主とした三方よりの総攻撃である。秀吉と利家も攻撃に合わせて前線まで移動した。

「では、わしも最期を飾りに出向くとするか。お市、覚悟はよいな」

「はい、一足先に参ってお待ち申しております」

「わしもすぐに後を追いかける、ではいくぞ」

 お市の方は黙って目を閉じ、両手を合わせて拝む姿勢を取った。勝家は腰の太刀を抜き、一切の迷いなくその首を断ち切った。それから表に出て天守を囲む敵兵を見下ろす。

「我こそは北陸軍の総大将にして北ノ庄城の主、柴田修理亮勝家である! 武運つたなくしてこの場にて果てることとなった。これより敗軍の将として腹の切り方を示してやるゆえ、後々の語り草とするがよい!」

 咆哮(ほうこう)すると勝家は仁王立ちのまま半身着物を脱ぐ。間髪入れずに脇差(わきざし)を左腹に刺して右に引き、一旦引き抜くと今度はみぞおちに突き刺してそのまま引き下げた。世に言う十文字腹である。そして豪快に哄笑(こうしょう)するとその場に崩れ落ちた。

 あまりの壮絶な最期に将兵が呆気(あっけ)に取られていると、勝家の後ろより火が出始めた。主君の死を見取った側近らが広間の柴に火を放ったのである。火が十分に回ったのを見届けると、ある者は自刃し、ある者は隣の者と互いに喉を突き合い、それぞれの方法で後を追った。

 火の勢いは止まらず、遂には天守全体が炎に包まれた。城を囲む兵達は何も語らずひたすらこの様に見入っている。

「さすがは鬼柴田、最後の最後まで凄烈(せいれつ)な男よ」

 秀吉は深い溜息をついた。こうしてようやく賤ヶ岳の戦いは終わったのであった。

 自分が織田信長に仕えてから出会ってきた、家中の様々な対抗馬、それらのうち最大の勢力である柴田勝家を遂に滅ぼしたのである。秀吉は感慨深げにもう一度溜息をついた。これで織田家は全て秀吉の勢力下に置かれるであろう。

 無論まだ美濃国には織田(おだ)信孝(のぶたか)がおり、伊勢国には滝川(たきがわ)一益(かずます)がおり、どちらも牙を剥いている。更には上杉家への牽制のためこの戦には参加できなかったが、越中国に(さっさ)成政(なりまさ)がおり彼も敵対する立場にある。

 だが秀吉にとってそれらを打ち倒すのは造作のないことであった。勝家がいたからこそ彼らは脅威だったのであり、勝家亡き後は彼らを糾合する力がないため、各個撃破は容易であった。

「まずはやはり美濃の信孝か」

 次なる目標をすぐに定め、その準備に取り掛かろうと指示を出す。しかしこの時、家臣が走り込んできて驚くべき情報をもたらした。

「敵将佐久間盛政が捕らえられ、こちらに連れてこられております!」



 権現坂(ごんげんざか)において部隊が崩壊した二一日、盛政は虎姫と共に少しでも味方の兵を落ち延びさせようと敵中に突っ込み、凄絶な戦いを繰り返していた。そして徐々に味方の数が少なくなり、遂には周りに見えなくなると二人は敵の追撃をものともせず駆け出し、敵を振り切ったところで林の中に飛び込んで山中を進むことにした。

 しばらく進み、日が暮れてきたので歩みを止め、その日は野宿することに決めた。

「とーちゃん、これからどうするの」

「うむ、少し考えたが府中(ふちゅう)城に向かおうと思っている。先に退却した前田殿もそこに入っているだろう」

「でも、前田様は裏切って秀吉についたんじゃないの」

「それだがな、わしにはやはり前田殿が裏切ったとは思えんのだ。聞いた話では前田殿は秀吉と友として交わっていたそうだ。こたびのこともそれが重荷になって戦いを回避したのではないかな」

「それでも勝手に退却するなんて武士として誉められることじゃないよ。おかげでとーちゃんも虎も負けちゃったし」

「敗因を他人に押し付けてはいかんぞ虎。こたびの戦では、我らの奇襲よりも秀吉の神速の方が武略において上をいったのだ。明智光秀と戦った折の中国大返しの話は聞いていたが、今回の美濃からの大返しもそれに勝るとも劣らん。つくづく恐ろしい男よ」

 虎姫はまだ不満そうであったが、父の心情をおもんばかって沈黙した。

「とにかく、討死したならどうしようもないが、うまく退却できていれば伯父上は北ノ庄城に戻られるはずだ。府中城で兵を得られれば追撃する秀吉と一戦交えることもできよう」

「今度こそ敵本陣目指して突っ込めるかな」

「ああ、次こそは敵の横腹に喰らいつき、そのまま秀吉目指して突撃してやるわ。我らの意のままに戦い抜くぞ」

 盛政様は死ぬ気だ。盛政の言に一つの覚悟を読み取ったのはトラであった。その視線に気づいたのか、盛政がトラの方を向いて目を合わせる。そしてトラの目が訴えるものを察知したかのように、静かに微笑んで語り始めた。

「北ノ庄城に戻ったとて最早勝ち目はない。伯父上のことだ、見事に自害なされるであろう。この盛政は、その御最期に武人らしく華を添えたいのだ。小勢になれども最後の最後まで屈服しないという、伯父上の覇気に殉じたいのだ。虎にはわしのわがままに付き合わせることになるが、付いて来てくれるな」

「勿論だよ。今度こそ最後の戦いになるね。トラ、とーちゃんと虎の最期、しっかりと目に焼き付けておくれよ」

「盛政様、虎姫様……」

 虎姫はとうに覚悟を決めていたようである。トラは思わず涙ぐんでしまった。虎姫は優しくトラの頭をなでると、それ以上は何も言わずに横になり、やがて静かに寝息を立て始めた。盛政は木にもたれかかって辺りを警戒しながら、ずっと虎姫を見つめていた。

 翌朝、盛政らは山間をひたすら進み続け、昼過ぎには府中城を臨む丘に出た。しかしそこに広がっていたものは城内外を往来する羽柴軍の姿であった。

「前田殿は今度こそ降ってしまわれたか。是非もない」

「とーちゃん、これじゃ兵を借りるどころじゃないね」

 伯父上と運命を共にすることは叶わぬか……。険しく城を眺め続けていた盛政は、視線をその先に移すと長い長い沈黙を保ち、その後軽く息を吐いた。ここから見えるはずのない北ノ庄城を眺めやり、勝家に別れを告げていたのである。

「……止むを得ん、一旦加賀に戻るか。こうなれば弔い合戦に頭を切り替えたほうがよさそうだしな」

「うん。でも残念だね、できればここで戦いたかったね」

「いや、もしかしたらこれでよかったのかもしれん」

 盛政はそれ以上は語ろうとせず、馬を操り北東に向けて進み出した。

「最後の戦いはお預けじゃ、口惜しいのぉトラ」

「いえ、やっぱりこれでよかったんですよ。虎姫様はここで死んじゃいけません」

 今この場で府中城を眺めているのが盛政一人であったら、彼は一も二もなく北ノ庄城へ向かい、なんとか勝家の下へ馳せ参じるよう骨身を惜しまなかったであろう。しかし盛政はこの一晩の間に心変わり、正確には迷いを生じていた。無論自分のことではない。盛政の望みはどこまでも勝家に付き従う一点であり、そこに一切のぶれはない。迷ったのは娘の去就であった。

 虎姫はこれまで戦場にあって、娘というより自分の頼れる側近として尽くしてくれ、今でも自分が飾ろうとする最期に何のためらいもなく付いて来てくれようとしている。主君と家臣の立場であったら、そのような忠臣を得たことに至極の喜びを感じていたであろうし、現に昨夜まではそうであった。

 盛政はこれまで武人として己の名を輝かせるため、己の名を汚さぬため戦い続け、御家のためという概念はあまり抱いてこなかった。それも心服する勝家の役に立ちたいという一心から行われていたためである。

 だが虎姫にとって敬慕の対象は盛政であった。虎姫は盛政の役に立ちたいという一心で常に側に従い太刀を振るってくれる。それは表には出さないが盛政にとってこの上なく嬉しいことであった。今、自分は勝家のために戦い抜いて死ぬことを望んでいる。いわば殉死であり、これに虎姫を巻き込んでいいのか。勝家のために死ぬ自分、その自分のために死ぬ忠臣。我が娘をこの連鎖に繋いでしまっていいのであろうか。

 黙然と馬を進める盛政の頭の中にはその迷いが渦を巻いていた。すぐ後ろでは虎姫がトラと楽しそうにしゃべっている。

 すっかり日が沈んだ頃、加賀の国境に近い村に立ち寄った盛政は、そこで一晩の宿をとることに決めた。比較的裕福そうな農家を見かけ戸を叩く。少し待つと戸が開き、壮年の男が顔を覗かせたが、盛政の姿を見るなり途端に怯えた表情を作った。

「な、何用で」

「怪しい者ではない。わしは加賀国(かがのくに)尾山(おやま)城の城主佐久間 玄蕃允(げんばいん)盛政だ」

「佐久間様! とするとご領主様で……」

「うむ。恥ずかしながら戦に敗れて城に帰る最中でな。申し訳ないのだが、一晩宿を貸してもらえんか」

「ははっ、勿論でございます。さっ、どうぞ中へ」

 中にはこの家の妻と子供が控えており、深々と頭を下げた。盛政と虎姫は安堵し、囲炉裏を囲んで食事を取りながら暮らしが安定しているか尋ね、善政に感謝していると聞いて満足すると合戦の模様を聞かせてやった。

「するとその羽柴 筑前(ちくぜん)というお方はお殿様でさえ打ち負かしてしまうほどの大漢(たいかん)なのですか」

「いや、わしも一度会ったことがあるが、見た目は小兵(こひょう)でそれほど腕のほうも立つ印象は受けなかった。だが万の兵力に匹敵するものが奴の頭の中にある。わしは武略で挑んだが、結局のところ負けてしまった」

「とーちゃんは負けてないよ!」

 立ち上がらんばかりに叫んだ虎姫は、盛政を正視して続けた。

「奇襲作戦は大成功だったし、あのまま味方が続けば戦は勝ってたんだ。撤退しながら戦ってた時だって、味方が退却しなければ崩れることなく態勢を立て直せたんだ。とーちゃんは悪くない!」

 言いたかったことを一気に言い終えた虎姫は、体ごと盛政に向き直り、目を半分閉じて叱られるのを待った。だが盛政は優しい目で虎姫を捉え、少しの沈黙の後口を開いた。

「そうだな、そうなっていたかもしれんな、虎。だが現実に敗残の身でこうやって落ち延びているのは我らの方だ。伯父上に二の足を踏ませ、前田殿を戦わずして退かせたのはやはり秀吉の力。我らはそれに及ばなかったのだ」

 虎姫は再び囲炉裏のほうに向き直り、悔しそうな表情で茶碗を傾けた。盛政も後を続けようとせず、食事を再開する。

「わたくしどもには難しいことは分かりませんが、それでお殿様はこれからどうなさるおつもりですか」

「一度尾山城に戻り、それから秀吉の出方を見定めて一戦するつもりだ。まぁそれほど時を置かずして秀吉のほうからこちらに出向いてくるであろうが」

「……そうですか、分かりました」

 最後の農夫の一言に違和感を感じたのはトラであった。だが彼らの前でしゃべることができないのと、具体的に何が変なのかは自分でも分からないのとで、なんとなくモヤモヤしたものが胸中に生じながらも黙っていた。

 離れに床があてがわれ、盛政らはすぐ寝ることにした。疲労は大分蓄積されており、すぐに寝息を立て始める。

 ……幾ばくの時が流れたであろうか。並々ならぬ気配に盛政は目を覚まされた。

「虎、起きているか」

「うん、今起きた。すっかり囲まれているみたいだね」

「ああ。うまく追っ手を()(くぐ)ったと思っていたが、しっかりつけられていたみたいだな。或いは野武士の(たぐい)か」

 言いながら二人とも枕の上の刀に手を伸ばす。そして二人がその場に飛び起きた瞬間、入口の戸が勢いよく開かれた。驚いてトラが飛び起きる。盛政はすぐに先頭に立つ者を見やった。それは先刻顔を合わせていた男であった。

「そちはこの家の亭主ではないか」

「申し訳ないが、あなた方を羽柴筑前に引き渡す」

「すると周りの者も皆村人か」

「そうだ」

「なぜわしを捕らえようとする」

「お前様はこのまま城に戻ってまた羽柴筑前と戦うと言う。そうなればこの辺りはまた戦火に焼かれ、村人も大勢死に田畑も荒れ果ててしまう。わしらはもう戦はうんざりじゃ!」

 その言葉に、盛政はつと胸を突かれた気持ちになった。農夫は続けた。

「それに話を聞いていると、お前様は随分と手柄を立てた大将のようじゃ。差し出せば必ず大きな褒美が得られるに違いない」

「そんなことはさせるもんか!」

 虎姫が刀を抜いて構える。

「とーちゃんと虎は幾つもの戦場で敵を斬り伏せてきたのじゃ。そちら村人が何十人押し寄せようと負けるものではないわ!」

 すぐにも飛び掛かることができるよう体を少しかがめ農夫を睨み付ける。その様はまさに小さな虎のようであった。明らかにひるんだ顔を作り、村人達は後ずさった。

「も、もうこの離れ全体を囲んでいる。火をかけることもできるのだぞ」

「おもしろい、やってみるがよい。火が回るまでにそちら全員を片付けてやろう」

 虎姫が更にかがみ一歩を踏み出そうとし、農夫が火をつける指示を出そうとした時、盛政が静かに言った。

「虎、やめろ」

「な、なんでとーちゃん」

「刀をしまえ、虎」

「だってこのままだと捕まっちゃうよ」

 盛政は答えず、農夫に向いて話し出した。

「亭主、先のそちの一言、この盛政に刺さったぞ。戦はうんざり、か……。確かにその通りだ。我らとて好んで戦をしていた訳ではなかったのだが。しかし次にわしが起こす一戦は、そちらに難儀させるだけのものになるであろうな」

「そ、その通りだ」

「わしが秀吉と戦ったところで勝敗は見えておる。それでも軍を動かすのは主君に返さんとする恩義のため、いわばわしの意地の戦いだ。しかしそちに言われて気づいた。わしの意地に兵やそちら百姓を巻き込むわけにはいかん。わし一人が意地を立たせるなら、道は他にもあるのだ」

 盛政は刀を(さや)に収めた。

「亭主、そちの望むようにするがよい。わしはそれに従おう」

「ほ、本当か」

「ただし、一つ条件がある」

 盛政は虎姫を見た。

「わしの娘と、そこの隅にいる猫、この二人は見逃してもらいたい。猫のほうは虎の兄弟なのでな。そちも子を持つ親だ、子を想う親の気持ちを察してもらいたい」

「とーちゃん!」

 虎姫の叫びを聞きながら、盛政はその場に不釣合いなことを考えていた。そういえばアヤカシは男と女のどちらなのであろう。長年一緒にいるが考えたことがなかった。虎は知っているのだろうか。まぁ、男か女か分からんといえば虎自身がそのようなものか。まさに似合いの兄弟だ。心の中で苦笑しつつ、盛政は続ける。

「もし頼みを聞いてもらえんのであれば、わしらは自力でここを出て行く。今虎が言ったように、そちらを打ち破るのは造作もない。聞き入れてもらえるかな」

 農夫は少し迷ったようであったが、盛政から感じられる気迫からその言が偽りでないと知った。

「……分かった。娘達は見逃そう」

「そんな、嫌だとーちゃん! とーちゃんが捕まるなら虎も付いて行く!」

「虎……」

 盛政は穏やかに語りかけた。

「虎、わしの生涯一度のわがままだ、聞いてくれるか。今のわしには二つの望みがある。伯父上にどこまでも忠義を尽くしたいという望みと、お前に生き延びて良き道を歩んでいってもらいたいという望みだ。そしてわしはこれを二つとも叶えたいのだ。このわがまま、どうか聞き届けてくれんか」

「でも、とーちゃんがいなくなったら、虎はどこを歩いていいのか分からないよ」

 虎姫の目からは既にポロポロと涙がこぼれ始めていた。どんなに大人より腕が立っても、どんなに死を恐れない勇敢さを持っていても、やはり虎姫様も父を愛する一人の女の子なんだ、と隅で見つめるトラは思った。そしてトラは自分も涙を流し始めていることが分かっていた。

「トチガミさん、どうしましょう、ねぇどうしましょう」

“…………”

「こ、答えてくださいよトチガミさん」

 だが返事は返ってこなかった。盛政は虎姫の頭に手を置いた。

「これまでの生き方に恥じぬよう心がけて進んでいけばよい。なに大丈夫、虎なら誤った道は歩まん。わしは確信している」

「とーちゃん、とーちゃん……」

 虎姫は盛政に抱きついた。着物を握り締めようとしていたが手は震え、ひどく頼りないものであった。

「強く生きるのだぞ虎。もっとも、あまり強すぎると嫁の貰い手がなくなるから程々にな。わしとしても一番の心残りはそれだ。婿ぐらい決めておいてやるべきだったなぁ。今さらながら父親失格だ」

 虎姫の頭をなでながら盛政は笑った。虎姫は顔を着物に押し付け離そうとしない。

「さて、あまりそちらを待たせるわけにもいかんな。今から虎達を送り出す。後はそちらの好きなようにするがよい。虎、支度をするのだ」

 盛政は虎姫の両肩を持ち、そっと引き離した。虎姫は力なく下がり、クシャクシャになった顔を拭おうともせずフラフラと甲冑を身に付け始めた。時々しゃくり上げる音が聞こえる。

 普段の三倍ほど時間をかけて身に付け終えると、横に戻ってきて黙って盛政を見上げた。盛政は着物の袖で虎姫の顔を拭ってやった。

「さあ、行け虎。アヤカシ、虎をよろしく頼むぞ」

 虎姫はなおも盛政を見上げたままであったが、トラが自分の傍まで寄ってくるとそちらを向き、しばらく静止していた。そして再び盛政を見上げた時、その瞳にははっきりとした決意が宿っていた。涙は流れるままであったが。

「分かった、とーちゃん」

 虎姫は離れの入口に向かって歩き出した。村人が自然に道を開ける。もう後ろを振り返ろうとはしなかった。トラもまた涙を(たた)えて盛政を見上げていたが、盛政から信頼を込めた目を向けられると無言でペコリと一礼し、虎姫の後を追った。二人が視界から消え、馬の(ひづめ)の音が聞こえてくると、盛政は村人に言った。

「さあ、約束通り好きにするがよい。だが出立は明日であろう。一眠りさせてもらうぞ」

 こうして盛政は村人の手に捕らえられ、秀吉に引き渡されたのであった。



 秀吉の眼前に盛政を連れてきた十二人の村人は、思い思いに自分達の手柄を言い立てた。秀吉は特に止める様子もなく、表情一つ変えずにそれらを聞いていた。視線はひたすら盛政に向かっている。

 やがて内容がなくなったのであろう、村人が完全に黙って褒美を待つ姿勢になったと感じると、秀吉は目を動かした。

「予からそちらに聞きたいことが二つある」

「はい、なんでございましょう」

「この者は、自分で佐久間盛政を名乗らなかったのか」

「いえ、名乗りました。ですから捕らえるのに命を惜しまぬ覚悟が必要でございました」

 口調が誇らしげである。

「なるほど、ではもう一つ。盛政が加賀を治めるようになってからそちらの暮らしはどうじゃ。重い年貢や兵の狼藉(ろうぜき)に苦しめられていたのか」

 村人達は互いに顔を見合わせた。質問の意図を計りかねているのである。

「いえ、そのようなことはございません。年貢も前より軽くなりましたし、お殿様がよく領内をお回りになるので悪さをするような者もいなくなりました」

「うむ、予もそのように聞かされておった。越前、加賀共によく治められているとな。よし、では褒美をやろう」

 目を輝かせる村人達。だが秀吉は目に嫌悪と怒りをはらませると、彼らを睨みつけ叫んだ。

「この者達を全て打ち首にせよ! 昨日まで領主と仰いでいた者を褒美欲しさに敵に売り渡すとは、人の道に背く恥知らず。予の最も忌避(きひ)する輩じゃ。即刻行え!」

 言い終えると後ろに控えていた兵が進み出て、呆然とする村人を押さえつけた。自分達がおかれた立場をようやく理解すると、一斉に悲鳴と嘆願の合唱が鳴り響いた。

「お慈悲を! お助けくだされ!」

「詫びなら地獄から盛政に向かってするがよい。やれ!」

 即座に十二人は首を斬られた。盛政は眉をしかめつつもその光景を黙って見つめていた。処刑が終わり、死体が運び出されると、秀吉の家臣の一人が盛政を嘲笑した。

(おに)玄蕃(げんば)とまで恐れられた貴殿が戦場で果てるでもなく、敗戦の責を負って潔く腹を切るでもなく、何ゆえ逃れようとして捕らえられたのか」

 盛政は黙って答えない。代わりに口を開いたのは秀吉である。

「かの征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)(みなもと)頼朝(よりとも)公は、石橋山(いしばしやま)大庭(おおば)景親(かげちか)に敗れた際、木の洞に隠れて逃げ、苦難の末幕府開設を成した。生き延びたからこそできた大業じゃ。盛政の場合は勝家に示す忠義のためであろうがな。それとも本気で予の首を取らんとしたためであるかもしれんが。いずれにせよお主の裁量一つをもって出すぎるでない」

 家臣は恐縮し頭を下げた。周りの家臣達も低く(うな)る。盛政は目を見張っていた。なるほど、秀吉は人の心を汲み取る名人だ。ここで盛政は初めて口を開いた。

「伯父上の最期はどうであった」

「おお、勝家は見事に城を枕に自刃したぞ。まさに鬼柴田の名に相応しい天晴れな最期であった」

「そうか、見事に自刃したか……」

 盛政は満足そうに笑みをこぼした。反対に秀吉からは笑みが消え、神妙な面持ちで語りかけた。

「盛政、こたびの戦におけるお主の采配、真に見事なものであった。勇将 中川(なかがわ)清秀(きよひで)を討ち取り、我が陣を前後に分断した。撤退戦においても予の攻勢を()()け続け、将を失った部隊までも回収して立て直すことに成功しておる。まさに鬼神の如き働きじゃ。その武略、ここで散るにはあまりにも惜しい。どうじゃ、予の家臣にならんか」

 盛政は再び黙り込んだ。

「予はこれから東は関東、西は中国、四国、九州へと征伐のために軍を進めねばならん。お主の力が大いに役立つはずじゃ。九州まで征伐が完了すれば肥後(ひご)一国を授ける。どうじゃ、その力で予を助けてはくれんか」

 盛政は口を開いた。

「秀吉、もしわしがお主の家臣になり、再び一国を得れば、その兵力をもってお主に襲い掛かり、首を取ろうとするであろう。わしが今この場にいるのは伯父上の大恩に報いるため、ただそれだけのためだ。無駄な説得はせず、さっさと首を()ねるがよい」

 秀吉は盛政を見つめてしばし無言になった。そして軽く溜息をつく。

「そうか。いやお主であればそう言うであろうと思っておった。だがやはり惜しくてな。お主の忠義を試すような意図ではないのじゃ。秀吉の未練と受け止めてくれ。それにしても、こればかりは勝家が羨ましくて仕様がないぞ」

 秀吉はなおも惜しむ素振りを見せ考え込んでいたが、ふと気づいたようにすぐ側の黒田(くろだ)孝高(よしたか)に話しかけた。

官兵衛(かんべえ)、そういえば清秀の一族が引継ぎで参陣しておったな」

「はい。嫡男の秀政(ひでまさ)は家督相続で多忙の身となっておりますので、次男の秀成(ひでしげ)が参っております」

「おう、ではその秀成を呼んで参れ」

 しばらくして中川秀成が参上した。この時十四歳。片膝をつき丁重に挨拶をする。亡き父とは違い大人しい面持ち、しかし目は落ち着きをもっており、芯が強く誠実そうだ、そんな印象を盛政は受けた。

「そこに縛られているのがお主の父を討った佐久間盛政だ。盛政は打ち首を望んでおる。お主の手で首を斬れば見事仇討ちは完遂され、清秀に報告することもできよう。予の刀を取らせるゆえ、憎き親の仇を斬るがいい」

 なるほど、そういうことか。盛政は納得し、静かに秀成を見つめた。秀成も盛政を見つめ、そして秀吉に向き直って話し出した。

僭越(せんえつ)ながら申し上げます。拙者は父、中川清秀を心の底から尊敬しておりました。そしてこの戦においても殿のお役に立たんがため、勇将の名に恥じぬ立派な働きをして壮絶に討死したと、家臣達から聞かされております。これは拙者にとっての誇りです。その父を討ち取った佐久間様は、父に勝る勇将です。かような素晴らしい方をどうして仇と思い、まして憎むことなどできましょう。佐久間様を拙者のような若輩が斬るのは分不相応です。どなたか名のあるお方にこそ斬って頂きたく存じます」

「よう言った秀成!」

 秀吉は手を打って喜んだ。彼の意図は当てが外れたが、それを全く不快に思わせない秀成の返答であった。そして秀吉より更に感銘を受けた男がいた。

「秀吉!」

 盛政は()えるような声で呼んだ。

「な、なんじゃ」

「この盛政、死にあたってお主に二つばかり頼み事ができたのだが、聞いてくれるか」

「うむ、よかろう、言ってみよ」

「ありがたい。わしには一人、虎という名の娘がいる。ちと親に似て武芸にばかり勤しんでいる困り者だが、わしにとっては可愛い娘だ。この虎の婿(むこ)に、そちらの秀成殿をもらいたい」

「な、なんと!」

 これには秀吉も秀成も同時に驚いた。そもそも盛政は戦に敗れて捕らわれた武将、その一族が全て処刑されることもあり得るのである。

「無論、これにはわしの一族が責を(とが)められないという約束が前提だ」

「うむ、叶うことならお主を家臣として取り立てたいと思っていた予じゃ。元より一族を処罰しようなどとは考えておらん。お主が死んでも遺族は万事取り計らうようにするゆえ、それについては安心致せ。だが、予はよいとしても、秀成のほうはどうなんじゃ。誰ぞ決まった相手でもいるのではないか」

「い、いえ拙者にはまだそういう相手はおりませぬ。しかし、拙者のような者が佐久間様の娘御を……」

「いや、これは是非わしのほうから頼みたいのだ。先のお主の言葉に、我らがもつ武勇とは異なる、だがそれに等しい気概を見た。お主のような者こそ虎の婿に相応しい。虎も必ずやお主を慕うであろう」

「はっ、勿体ないお言葉にございます」

「よろしい、これで決まった。後はこの秀吉に任せるがよい。いや良縁じゃ」

 これから処刑する者とされる者のやり取りとは思えない。秀吉も盛政も嬉しそうに笑った。

「一つ目の頼み、聞き入れてもらいまこと感謝に堪えぬ。それで二つ目の頼みなのだが、整った衣装を一着もらいたい」

「それは造作もないことだが、一体どうするのじゃ」

「わしはこの場にて首を渡すつもりであったが、ちと気が変わった。京の町を引き廻した上で処刑してもらいたい。それには派手な衣装であったほうが格好がつくのでな。また、そうすればお主の権威を高めることに繋がろう。これは一つ目の頼み事の礼も兼ねてだ」

「なんと、自ら刑死を望むのか」

「ああ、京の者に我ら柴田軍が勇敢に戦い、そして敗れたことを知らしてやりたい。伯父上や我らの戦いが、遠い場所での出来事として霞んでしまわぬようにな。これが伯父上とは異なる、わしなりの意地の立て方だ」

「なるほど、さすがは盛政、感じ入った。よし、ではお主を引く車に勝家の馬印をさしてやろう。忠臣 毛受(めんじゅ)家照(いえてる)が勝家の身代わりになった折に持っていた物だ。勝家、家照と共に廻るがよい」

「これは厚い配慮痛み入る。うむ、これでもう思い残すことは何もない。後は静かに待たせてもらうとしよう」

 盛政は兵に連れられて秀吉の前から去った。

「ううむ、やはり惜しいのぉ。官兵衛、何とかならんものか」

「どうすることもできますまい。拙者も殿と等しく感銘を受けておりました。彼こそは真の武士。この上は彼の望みを快く叶えてあげるべきでございましょう」

「やはりそうであるか。分かった、では京に使者を送って人を集めさせておこう。盛政の望むように、多くの町民どもに見せてやるわい。それにしても、予の子飼いの荒小姓どもも、盛政にならって育っていってもらいたいものじゃ」

 秀吉は陣払いを指示し、家臣達は動き始めた。こうして勝家が最期を遂げた二四日が終わるのであった。



 五月一日、京の町は道という道に人だかりができていた。町民から武士、果ては供を従えた公家(くげ)の姿まで見受けられる。その中を秀吉一行は悠然と進んでいく。護衛兵に囲まれた車には、大紋の直垂(ひたたれ)に白 帷子(かたびら)をまとった盛政が縛られたまま、それでも威風堂々と正面を向いて座っている。

 後ろには秀吉とその側近らが続き、こちらは馬であった。秀吉の耳には群衆の声が入ってくる。

「なんたる偉丈夫じゃ。恐ろしく腕も立つに違いない」

「なんでも鬼と恐れられたそうだが、あの体と顔つきを見ればそれも頷ける。正面に立つだけで震え上がってしまうわ」

「しかしその鬼をこうして縛り上げてしまったのだ。やはり羽柴様は並の大将ではない」

 元々派手を好む秀吉は、愉快でたまらない。町中を進みながら居並ぶ人々を見渡し笑顔を向け、歓声を促すように手を振る。盛政は微動だにしない。

 しばらく勝者の喜びに浸っていた秀吉であったが、いつしか盛政の背中のみを見つめるようになり、胸中に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 死を前にして恐れる様子を微塵も見せない武士。生きた証を十分に立て、これよりは自分の意地のために死を望む武士。手段は違えど勝家と同種の生き様を感じ取ったのである。

 と突然、盛政が左前方を振り向いて静止した。秀吉もつられてそちらを向いたが、盛政の視線の先には町娘とその手に抱かれている白猫が一匹いるのみである。だが盛政は明らかにその町娘を見つめている。秀吉が声をかけようかと迷った矢先、

「秀吉、すまぬがそこで少し止めてくれぬか」

 盛政のほうから声を出した。秀吉も気になったので、

「よかろう、しばしここで止まれ」

 一行は歩みを止めた。するとすぐにその町娘がスッと車のほうに向かって歩み出てきた。すぐに兵が追い払おうとしたが、秀吉が軽く手を上げて止める。娘は車の横まで寄り、そのまま無言で盛政を見つめた。

「虎、うまく落ち延びることができたようだな。まあ心配はしていなかったが、とにかくよかった」

 盛政が優しく笑顔で語りかける。

「わしはこれから伯父上の下へ向かう。この盛政の武人としての最期、しっかり見届けるのだぞ」

 虎姫は黙ったまま頷いた。虎姫には分かっていた。自分が口を開けばそれは声にならず、ひたすらに泣きじゃくるだけになるであろうことが。必死に歯を食いしばって堪え、盛政に抱きつきたくなるのも懸命に堪えていた。だが体の全てがいうことを聞いてくれたわけではないようだ。

 盛政を見つめる、傍目(はため)には睨み付けているようにも見えるその瞳からは、頬を避けるようにして涙が流れ出てきた。抱えられたトラもまた無言で盛政を見上げており、これも同様に涙していた。

「悲しむことはない。わしはわしのわがままを通し、満足のうちに死ねるのだ。むしろそのために、虎をほっぽりだしてしまった無責任なわしを叱るがよい。父親失格もいいところだからな」

 盛政は愉快そうに笑った。虎姫は笑わなかった。ただその顔を焼き付けるように一心に見つめ続ける。

「おお、そうだ。父親で思い出したが、虎に婿を決めておいてやったぞ。ここで詳しく話す猶予(ゆうよ)もないから、詳しいことは後でそこにいる秀吉に聞くがよい。いいか虎、お前の婿殿は、自分の尊敬する父を討った敵将を憎まず尊敬すると言った。わしはこれにひどく感じ入って婿に欲しいと願い出たのだ。できればお前もそれを見習って、秀吉を仇などと思うようなことはやめてほしい。これからは婿殿と二人で、前を向いて道を歩んでいってほしいのだ。まあともかくも、これでわしもようやく人の親らしいことを一つしてやれたわけだ」

 虎姫はあまりのことに涙を流したまま唖然としていた。トラもびっくりして思わず声を出してしまうところであった。

「では、わしは行く。アヤカシ、二度目になってしまったが、虎をよろしく頼む」

「も、盛政様ぁ……」

 つい小さくトラは呟いてしまった。幸い兵には聞こえていなかったようだ。

「もう一度虎と、できればアヤカシの頭もなでてやりたいのだが、この格好ではそれもできぬ。二人とも達者にするのだぞ」

 トラは自分を抱く手に力が入ったのを感じた。そして自分の頭に落ちてくる温かい雫が、その量を増やしたことも。トラは黙って頭を出し、なでてもらう姿勢をとった。

「秀吉、手間を取らせたな。進んでくれ」

「うむ、別れは済ませたのか」

「別れはとうに済ませてある。単に言づけをしただけだ」

「そうか。では進め!」

 虎姫とトラは盛政らが見えなくなるまでその場に(たたず)んでいた。そしてその姿が消えると、先に処刑が行われる場所へ向かって歩き出した。

 盛政らが宇治(うじ)槙島(まきしま)に着いたのは空が青から徐々に黄色を帯びてくる頃であった。刑場は周りを柵で囲われ、中央には(むしろ)が敷かれている。秀吉は馬から降り、同様に車から降りた盛政と共にそこへ入った。

 自ら筵に進んで正座し、静かに正面を見据える盛政に、秀吉は自らの脇差を差し出した。

「今からでも遅くはない。介錯も付けるゆえ自刃に変えぬか」

 盛政は小さく頭を振った。そうか、と呟き秀吉は出した手を引き、脇差を戻す。善意を拒絶されたにも関わらず不快感はなかった。

 やがて盛政は揚々(ようよう)と語り出した。

「秀吉、一足先に伯父上のところへ行き、共に右府(うふ)様の下に馳せ参じて冥府で武略を磨いておるぞ。後にお主も来るであろうが、今度こそは織田家随一の宿老の座を、伯父上からもぎ取るようなことはさせん。覚悟しておれ」

「おうおう、良い意気込みじゃ。だがまだ予はそちらへは行かん。天下統一を成し遂げて、右府様にお志をきちんと引き継ぎ終えた報告をせねばならんからな。それが叶えば、その時こそはお主を家臣にしてみせるぞ」

 笑いながら応じる秀吉の頬には涙が伝っていた。これは眼前の盛政に向けてのものであろうか、それとも亡き信長を思ってであろうか。

 盛政はニヤリと笑うと、目を閉じて(こうべ)を垂れた。秀吉は涙を拭うと表情を改め、刑吏に命令した。

「執行せよ!」

 刀が振り下ろされ、その一刀で首が胴から離れた。ここに佐久間盛政はその生涯を閉じた。享年三十。

 常に武人としての生き方を望み、武勇を磨くことに邁進(まいしん)し幾多の戦功を上げた男は、その死の瞬間まで武人であった。



 ―辞世の句―

 世の中を廻りも果てぬ小車は火宅(かたく)の門を出づるなりけり



 虎姫とトラは先程と同じ格好で処刑を見ていた。だが二人はもう泣いてはいなかった。虎姫は父の最期をしっかりと見届けた。そしてトラは盛政の死に胸を焼かれていた。

 つまるところ人生とは、その死に様に凝縮されるのではないだろうか。その人がいかに生き、何を成し遂げて満足するか、それは死の間際に現れる。

 今の自分にこのような死に方ができるであろうか。……できようはずもない。他人を感動させることはできなくてもよい。死の床に就いた時、せめて自分に「よくやった」と呟けるような、そんな人生を歩みたい。

 トラは胸の熱さに必死に耐えた。その熱を外に追い出すように、止まっていたはずの涙はいつの間にか再び流れていた。

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