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第一章  鬼玄蕃、佐久間盛政

 天正(てんしょう)三年(一五七五年)八月、越前国(えちぜんのくに)

 織田(おだ)信長(のぶなが)はこの地の一向一揆を鎮圧し、宿将である柴田(しばた)勝家(かついえ)に北ノ(きたのしょう)城を居城と定め、軍政を敷くよう命じた。勝家の補佐には歴戦の勇将として名高い前田(まえだ)利家(としいえ)(さっさ)成政(なりまさ)不破(ふわ)光治(みつはる)府中(ふちゅう)三人衆)を当て、国内の統治にいささかのほころびも見出さないことを内外に示したのである。

 これから畿内(きない)を抜けて中国地方の攻略を進めようとする信長が、越前国にこれほどの戦力を割いたのには無論理由がある。それは今もくすぶる越前国内の一向衆残党、そして隣国加賀国(かがのくに)の一大一向勢力に抗するためというのが一つ。だがそれ以上に大きな理由は、現在半同盟状態にある越後国(えちごのくに)の『軍神』上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)の存在にあった。

 この乱世において、同盟など互いの打算が噛み合った際に生まれる副産物でしかなく、一方の打算が変化すれば即時に崩れる代物であることは、信長のよく熟知しているところである。できれば討ってしまいたいが、畿内にまだ火種をくすぶらせている現状においてそれは不可能であった。信長いわく、

「あの大義名分男と総力戦をやるわけにはいかん。勝ったところで、半身不随になる損害を被ることは目にみえておるからな。ほどほどに戦い、戦うだけで満足させるようにもっていくべきだ」

 勝家は自分の役どころをよくわきまえていた。新参の明智(あけち)光秀(みつひで)などは、

「殿のご意向はもっともでございますが、であれば直接戦わずとも、知略をもって動けぬよう(はか)ればよろしいのではござりますまいか」

 勝家に知略などないといわんばかりである。信長が答える。

「謙信は、かの武田(たけだ)信玄(しんげん)でさえ生涯を()して討ち果たせなかった男だぞ。下手に知略なぞ用いて手を出してみよ。逆手に取られて腕ごと食いちぎられるわ」

 押し黙ってしまった光秀の顔をみて、愉快な気持ちにならなかったといえば嘘になる。それまで黙然と座っていた勝家は信長に深々と頭を下げ、顔のみ上げて(おごそ)かに言い放った。

「ご下命、謹んで拝します」



 越前国北ノ庄城、評定の間。柴田勝家は一人黙座し、越前、加賀一帯を記した地図に見入っていた。翌日に正式な評定を行うため、事前にある程度の構想を固めておきたかったのである。

伯父上(おじうえ)、謙信めを踊らせる方策は浮かびましたかな」

 身の丈六尺はあろう巨漢の若者が、無遠慮にしゃべりながら勝家の前に座り込む。

「盛政か。そのようなことを考えているのではないわ」

 佐久間(さくま)盛政(もりまさ)。柴田勝家にとっては甥にあたる。二十歳を過ぎたばかりの血気盛んな偉丈夫であり、その勇猛さは勝家の家臣の中でも群を抜いている。今回の一向一揆鎮圧においても、その功は一入(ひとしお)であった。

「上杉謙信とは同盟状態だ。向こうが飛び掛かってくるならともかく、こちらから手を出す必要はない。今のところはな。それよりもまずは土台固めだ。この地から一向衆が消え去ったわけではないからな。再び火種が燃え上がることがないよう、心を配らねばならん」

「まこと奴らは厄介な相手ですな。極楽(ごくらく)浄土(じょうど)を唱えながら襲い掛かってきて、死を恐れない。こちらも徹底的にやらねば崩れませぬゆえな。武器もこちらと同等以上のものを持っておりますし。正直鎮圧に向かうたびに気が滅入ってしまいますよ」

「こたびの活躍をもって『(おに)玄蕃(げんば)』の異名をとったお主が、また随分と気弱なことを」

 盛政は眉間にしわを寄せつつ答えた。

「勇敵と戦ってこれを破るは武士の誉れ、拙者の誇りとするところ。しかし徒党を組んで勢いだけで襲いかかってくる農夫を斬り捨てるは本懐にござらん。鎮圧のための止むなき所業です」

「ほう、であれば鬼の異名も不服であるか」

「娘への土産話にするには盛り上がりに欠けますなぁ。もっと華々しい活躍を語りたいものですよ」

「そういえばお主の娘、虎姫(とらひめ)だったな、いくつになるかな」

 眉間のしわが瞬時になくなる。

「もう六つになりますかな。拙者にとってはかわいい盛りです。この乱世に振り回されぬよう、勇ましい名前をつけたのですが、ちと勇ましくなりすぎてしまったみたいで……。いつもどこなりと走り回って、家の者を困らせておりますよ」

「よいではないか。子供は元気が一番だ。また顔を見に寄らせてもらうぞ」

「それはもう大歓迎です、いつでもお越しくだされ。さて、それでは拙者も、本懐でない所業を少しでも減らすため、一緒に地図を睨むとしますか」

 こうして夜半が過ぎるまで、二人だけの事前評定は続くのである。



 あれ、目の前真っ暗だ……。

 あ、そうか。目を(つむ)っているからだ。

 なんか変な夢みたなぁ。あんまり眠った気しない。

 着替えて会社行かなきゃ。頭痛いなぁ。今日休もうかなぁ。

“夢じゃございませんよ”

 バッと跳ね起きたとき、彼女は小さな池の前の草むらにいた。

「な、なんで外に……。そしてここどこ?」

 辺りを見回すがまったく見覚えがない場所である。とりあえず歩いてみようと思い立ち上がるが、二、三歩進んだだけでヨロヨロと倒れてしまった。自分の身体に違和感を感じる。うーんと背伸びをしたい時にできないようなもどかしさ。

 さてどうしよう、と頭を()こうとした時、軽快な足音が近づいてきた。とっさに寝たふりをする。足音はどんどん近づいてきて、彼女の目の前で止まった。顔を見つめられている気配がする。彼女は気づかれないよう薄目を明け、相手を確認しようとした。

「ぎゃーー!」

 という叫び声をかろうじて飲み込み、彼女は寝たふりを続けた。

 巨人! 巨人がいる!

 体を何度か揺すられたが、懸命に堪える。心臓のバクバクで体が暴れ出しそうだ。とにかく動いちゃダメ、動いちゃダメだ! 彼女はひたすらジッとし続けた。そしてそのうち、だんだん意識が遠くなっていった……。



「とーちゃんおかえりー!」

 佐久間盛政が側近らを連れて屋敷の門をくぐり、玄関に入ろうとした時、庭先から小さな女の子が飛びついてきた。着ているものは清潔感はあるものの、着流し一枚を帯で結んだだけであり、村の子供と変わりない。

「こら虎、ちゃんと父上と呼べと言っとるだろう」

 盛政の愛して止まない虎姫である。側近達の顔もほころぶ。虎姫は盛政からピョンと離れ、庭のほうに向かおうとする。

「とーちゃん、庭の池のところで猫が死んでるの。お墓作ってあげてもいい?」

 親の話聞かんか……。盛政は憮然(ぶぜん)とした面持ちで、それでも前を行く我が子に付いていった。

 さっきよりも賑やかな足音により、彼女は再び目が覚めた。

「ぎゃーー!」

 今度は飲み込むことができなかった。さっきよりもはるかに大きい巨人が、日を(さえぎ)って見下ろしている。彼女は逃げ出したいのだが腰が抜けてしまい、その場を這うのみである。

「なんだ、生きておるではないか。これでは墓は作れぬなぁ」

 盛政はしゃがみこみ、優しく猫の体を撫でてやった。

「それにしても鮮やかな白色をした猫よ。顔つきはあまり品があるようにも見えぬが……」

「飼う!」

 父に続いて同じように撫でていた虎姫がすっくと立ち上がり叫んだ。

「飼うのはよいが、きちんと面倒をみてやらねばならんのだぞ。お前自身面倒みるのに手が掛かって仕方がないというのに、手間が倍になるわい」

「じゃー虎とこの猫が兄弟ということで、一緒に面倒みてくれとーちゃん」

 側近達が吹きだしてしまった。形だけは鋭い眼光で一瞥(いちべつ)すると、軽く溜息をついて盛政は言った。

「餌はお前がやるんだぞ、虎」

 猫? 猫だって? もしかして私……。

 彼女はバッと起き上がると、転がるようにして池に向かった。水面に顔を映す。

「ぎゃーー!」

 猫だぁ! 私猫になってんじゃん!

「先程からこの猫、人のような鳴き声をしおるのぉ」

 盛政は白猫を追いかける虎姫を、目で追いながら言った。

「飼うからには名前をつけてやらねばならんぞ」

「名前は決めた。トラにする」

「トラって……。虎と名前一緒じゃないか」

「兄弟だからね!」

 ……まぁいいか。盛政は側近達に休むよう言い渡し、自分も母屋(おもや)に向かって歩き出した。

「虎、とりあえず飯にしよう。あまり華々しくはないが、手柄話を聞かせてやるぞ」

「やったー!」

 パタパタと虎姫が後を追いかけていく。その遠ざかる足音を、更に意識の遠くで聞き流しながら、トラと名付けられた白猫は呆然と水面を見続けていた。



“どうやら最初の一手はうまくいきましたね”

 幾分が経過しただろうか。どこからか流れ込んできた声にトラはハッと我に返り、周囲を見渡した。

「だ、誰? 誰かいるんですか?」

“私ですよ、私。土地神(とちがみ)です”

「トチガミ? トチガミ……。あぁっ!」

 トラは自分の発した言葉に跳び上がった。

「あ、あれ夢じゃなかったんですか? じゃあここは本当に戦国時代……」

“ちゃんと言ったじゃありませんか。虎姫の手助けがしたいって”

「思い出しました。思い出しましたけど、まさか本当に」

“さっき来た女の子が虎姫(とらひめ)。大男のほうがその父親の佐久間(さくま)盛政(もりまさ)です。今いるのは越前国、アナタの時代で言えば福井県あたりですね”

「あの方が虎姫様ですか。ヤンチャそうでしたね」

“年相応だと思いますけどね”

「それで、私は何をすればいいんですか? とても何か助ける必要があるようにはみえませんでしたけど」

“今は特に何かをする必要はありませんよ。姫のよい友達になってあげてください。猫の姿だし、きっとうまくいくでしょう”

「あっ、そうだ! なんで猫になってるんですか私!」

“子供に接するには動物のほうがいいと思ったんで。それに、アナタ自身の転生願望も叶えてあげたんだから一石二鳥でしょう”

「い、いや、それは二一世紀の環境での話で」

“とにかく、虎姫と仲良くなってあげてくださいね”

 そう言われても……。トラは再び水面に映る自分の姿を見つめ、およそ猫らしからぬ深い溜息をついた。



 トラが虎姫と兄弟になって数日。まずトラが驚愕したのは、虎姫の身体能力の高さであった。走る、跳ねる、持ち上げる。どれもが並の大人を凌ぐ。特に顕著になったのは庭での立合(たちあい)稽古(けいこ)においてである。その日、三人の武士が順に虎姫と木刀を交わした。

「トチガミさん、トチガミさん! 姫様すごく強いですよ! もう二人も連続で刀弾き飛ばしちゃってます」

“親の血ですかねぇ。盛政様も、虎姫が歩き始めてすぐの頃から武芸ばかり教えていましたから。本人は子供と遊んでいるつもりだったかもしれませんけど”

「それにしたって強すぎますよ。神童(しんどう)っていうやつなんですかね」

“この時代、あまり人とかけ離れた能力をもつと、鬼子(おにご)として忌み嫌われることにもなりかねませんから、程々にしてほしいんですけどね。まして一応女の子ですし”

「いいじゃないですか。男顔負けの強さをもつ女性なんて、憧れちゃいますよ。大きくなったら、なにかの拍子に武功とかたてちゃったりして」

“二十歳過ぎればただの人、ってこともありますよ。でも、ふむ、武功か……”

「あ、三人目も弾き飛ばしちゃった。あれ、次は盛政様と立合なさるみたい。姫様がんばれー」

 虎姫が木刀を左に下げ、先に跳ぶ。盛政の足元から胴に向けて斬り上げ。盛政は滑るように後ろに一歩下がり避ける。虎姫は瞬時に斬り上げた木刀の勢いを完全に止め、一歩踏み込んで胴を一閃。だが胴の手前で縦に構えられた木刀によりいなされる。虎姫はそのまま一回転し、その勢いのまま垂直に振り下ろす。盛政は半歩後退し、胸元で水平に構えこれを受け止める。

 虎姫の一撃一撃は必殺の威力であったが、受ける盛政の木刀はほとんど揺れ動くことはない。更に垂直に振り下ろそうと虎姫がその場で振り上げた瞬間、盛政は虎姫の真横に進み、下ろす直前の木刀を自分の木刀で叩き落とした。

「ま、参りました!」

 即座に後ろに跳び退き平伏しながら虎姫が言う。

「最初の連撃はなかなかだったが、最後の一撃が悪い。決め手が打てなくなったら、仕切り直すことも考えるものだ」

「わかった、とーちゃん!」

 松の枝からずっと見ていたトラは興奮しきりである。

「すごい、すごい! まさに虎姫! でも盛政様はもっと強いんですね」

“越前、加賀に『鬼玄蕃』の名を(とどろ)かせた猛将です。そりゃ強いですよ”

「なんか誇らしげですね」

“そんなことより今の話、ちょっと考えておきましょう。問題はどうやってそれを切り出すかですけど”

「何の話でしたっけ?」

「おーい、トラー」

 虎姫が呼びかけている。

「追いかけっこするから逃げろー。逃げないと石ぶつけるぞ」

「うわ、大変だ。姫様恐ろしく速いからこっちがヘトヘトになる」

“ホントどんどん勇ましくなっていきそうですねぇ”

 軽く溜息をつく気配を感じながら、トラは素早く松を降りて虎姫の相手を始めた。

 その夜。居間で盛政、虎姫、トラの二人と一匹が晩御飯を前にくつろいでいた。トラが兄弟になって以来、食事は毎回この取り合わせである。

「おお、そういえば今日は敦賀(つるが)より良い魚が運ばれてきている。すぐにもってこさせよう」

 程なくして晩御飯が運ばれてきた。炭で焼かれた鯖の切身が盛政と虎姫の前に並ぶ。トラの前には生のまま置かれた。

「トラは猫だから、生のままのほうがよいだろう」

「あのー……」

 トラが口を開いた。

「できれば、私も焼いたほうをいただきたいんですが。生でも食べられるとは思うんですけど、焼いたほうが好きなもんで」

“ば、ばば、ばかー!”

 いきなりトラの頭の中に叫び声が飛び込んできた。

“なんで人前でしゃべってんの! 猫がしゃべれる訳ないでしょ!”

「あ、そうか。すいません。ていうかしゃべれたんですね私」

“全部ダメになっちゃいますよ! あぁ、私の猫プランがぁ”

「トチガミさんと普通にしゃべってたもんで、ついつい口からでてしまったんですよ。そんなに気を落とさずに」

“なに私に責任負わせようとしてるんですか。どうしようどうしよう”

 一瞬呆然としていた盛政が、ハッと我に返った。

「おのれ、猫だと思っていたが(もの)()、あやかしの(たぐい)であったか! 飼った恩を化けて返すとは不届き千万! 一刀のもとに討ち果たしてくれる!」

「トラ、しゃべれるんだ、すごい!」

 感嘆する虎姫を横目に、盛政は脇に置いていた刀を取って立ち上がり、右足を一歩進めて居合いの構えをとった。

「あ、まずいですよトチガミさん。私斬られちゃいますよ!」

“うーん……”

「ちょ、ちょっと考えてないでどうにかしてくださいよ。わわ、ぎゃーーっ!」

 盛政の(さや)が前に傾いた瞬間、シュンッという音とともに日本刀がトラの真下から真上へ走っていった。畳を(かす)めるほどに先端を沿わせての斬り上げ。避けることもできず日本刀を凝視していたトラにとっては光が通過したようにしか見えなかった。

 この一刀をもってすれば、トラの小さな体は後ろに吹き飛ぶこともなく、その場で両断されるであろう。必殺の一撃を打ち込んだ盛政はトラを見下ろした。

「死んだぁ、死んだ。絶対死んだぁ」

 ギュッと目を瞑ってうなり続けているトラが目に入った。

「あ、あれ?」

 間の抜けた声を出したのは盛政である。斬るのを止めそこなった虎姫も、目を見張って立ち尽くしている。

「あやかし、お前どうやってわしの一撃を避けた?」

「へ?」

 トラは慌てて自分の体を見回した。

「あれ、私生きてる。どこも斬られてない。なんで?」

「うぬ、ますます奇怪なやつ。今度こそ終わらせてくれよう」

「とーちゃんやめてくれ!」

 虎姫がトラの前に跳び込み、盛政に立ちはだかった。両目からは並の大人を気圧(けお)すだけの光が発せられている。

「トラが何か悪さしたわけじゃないのに殺さないでくれ」

「そうはいかんぞ虎。あやかしが家に住み着いていては、どんな祟りや災いが降りかかるか分からんからな」

「祟りなんてなんだかよく分からないものを気にするのかとーちゃんは」

「むむ、なかなか痛いところをついてくるな。確かに武士たるわしがそんなものに怯えるのは……。でも目の前にあやかしいるしなぁ」

 親子のやり取りを耳の外に、トラは中空を向いて話しかける。

「トチガミさん、私死んでませんよ。なんで?」

“そりゃ死にませんよ。意識だけこっちに来るって最初に言ったでしょ。アナタの今の状態は立体映像みたいなものですよ”

「でも、それにしてはちゃんとご飯も食べられますよ」

“それはアナタの意識が、ご飯を食べることを常識として認知しているからでしょうきっと。日本刀で斬られるなんていうのは、アナタの常識にないことですからね”

「はー、じゃあ私絶対死なないんですか。それじゃ無敵じゃないですか」

“無敵ですけど、逆にアナタが誰かを殺したり危害を加えることもできませんよ。アナタの常識の範疇(はんちゅう)から外れていることですから”

「なるほどなるほど」

“それより、こうなってしまったからにはきちんと盛政様に説明しましょう。私が言うことを伝えてください”

 目の前では親子の対峙(たいじ)が続けられている。

「どうあってもどかぬつもりか」

「みすみす兄弟に手をかけさせはせぬ!」

「むぅ、もしや既にあやかしめに魅入られているのではあるまいな」

「あ、あのー……」

 虎姫の足元からトラが顔を覗かせた。

「実は私、さる神様の使いでして、こちらの虎姫様をお守りするよう仰せつかって参った者です」

「神の使いだと? 何ゆえ虎を守るのだ?」

「詳しい理由は私も分からないのですが、虎姫様のご将来に備えて今のうちから見守る必要があったそうです。本当は分からないようにする予定だったんですけれど、このバカ猫、……って私ですか! まぁ、私がついしゃべっちゃったんでご迷惑をおかけすることになった次第で。御家(おいえ)に害をなすとかいうことは一切ございません」

「ふーむ、にわかには信用できんが……。確かにお前から敵意や殺気は感じられんが」

「トラはお稲荷(いなり)さんだったんだね、猫だけど」

「えーと……。まぁ、そんなものらしいです。とにかく、家中に(あだ)なすようなことは決していたしませんので、何卒姫のお側に仕えさせてください、とのことです」

「よし、許す!」

「勝手に許すな虎。とはいえ、こうなると最早お前を斬る気も失せてしまったわ。()を通せばわし一人悪者になりそうだし」

 盛政は自分の刀がまったく曇っていないことを確認して、鞘に収めた。

「よし、虎に仕えることを許可しよう。ただし、まだ完全に信用したわけではないからな。わしはお前をアヤカシと呼ぶことにするぞ」

「ありがとうございます。あ、えーと、ちょっとお待ちください」

 トラが宙に向かって話しかけたり頷いたりしているのを見て、盛政は不安げである。

「えーとですね、虎姫様にお仕えするに際しまして、一つお願いがあるそうです」

「仕えた矢先に願い事とは太いやつ。申してみぃ」

「はい、はい、えーと盛政様ご出陣の折に、虎姫様を一緒に連れていって欲しいのです、ってええっ!」

 自分の発した言葉に跳び上がるトラ。それを聞いて虎姫も跳び上がった。

「戦に連れてってくれるの!」

「ダメダメダメ、危ないですよ! 戦って、殺し合いをしてるんですよ。教育上もよろしくないです」

“それはアナタの時代の価値観でしょう。この時代にはこの時代の道徳や倫理といったものが存在します。教育とは言いませんが、戦をその身でもって知るのはとても大事なことなのです。そして何より……”

「それは、今すぐにしかとは答えられんの。わしとしても連れていってやりたいのは山々だが、確かに危険もある」

「あ、はい、それにつきましては、危険はこの家におられても存在します。虎姫様にとって一番安全な場所は、盛政様の目の届くところです、ということです。なるほど」

「なかなか口のうまい奴じゃ。よし、考えておこう」

「やった! トラありがとう」

 虎姫は興奮しきりである。外であれば走り回っていただろう。

「それでは、今後ともよろしくお願いいたします。あと、私が人語をしゃべりますことは、くれぐれもご内密にお願いいたします、とのことです」

「分かった分かった。わしとしてもお前のようなのが側にいるのを周りに知られたくないわ。虎も他言無用だぞ」

「はーい」

「では、遅くなってしまったが飯の続きにするか。その魚は焼いてこさせよう」

 こうしてトラは、虎姫からは猫のお稲荷さん、盛政からは害のない物の怪、家中の下女からは焼き魚の好きな猫として認識されるようになったのであった。



 天正四年(一五七六年)四月、越前国、大野(おおの)において石山(いしやま)本願寺(ほんがんじ)勢力下の一向衆が砦を築き、そこを足掛かりに近隣の村から食糧や物資を徴収し始めた。柴田勝家は佐久間盛政に五千の兵を与え、これを討つように命じた。

 勝家に対して一向衆相手は気が滅入るとこぼした盛政だが、いざ戦を目前に控えると高揚感が体を満たす。ただ一方で、今回はやや気が重くなる事情があった。

 それは出立前の評定で、勝家が家臣たちに恐るべき懸念を述べたことに発する。

「こたびの一向衆の動き、どうにも()しかねる。間者の報告によると数は三千余りという。前年の大戦の後に、何ゆえこのような小勢がしゃしゃりでてきたのか」

 府中から出向してきた佐々成政が口を開く。

「ただの残党ではござりますまいか」

「一向衆を軽くそこらの野党と同様に考えるのではないぞ、成政。奴らは石山本願寺、顕如(けんにょ)を頂点とする一大組織だ。物資、兵力の増強も陸路、海路双方から行われる。表に出た兵力だけで計らぬことだ」

 同じく府中から出向した前田(まえだ)利家(としいえ)が意見する。

「すると、この一揆を起点として、各地でまたも蜂起する可能性があるということですか」

「現象としてはそうだ。その可能性がある。だが、事をもっと広く見据えて考えてみよ」

 勝家のすぐ傍にあって話を聞き続けている盛政。だが、盛政も勝家の言わんとしていることは分からなかった。

「もしその可能性が実現した場合、顕如は我ら織田家と全面的に事を構える準備が整ったと考えられる。この越前には最早まとまった一向衆の戦力はない。どこぞから送ってこねばならぬが、一番考えられるのは近隣に大きな勢力をもつ加賀(かが)越中(えっちゅう)だ」

「ですがそこらの一向衆は、長年、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)と争っていると聞き及んでおります。こちらに裂く兵力などしれているのではございませんか」

「加賀、越中に兵力を置いておく必要がなくなったとしたらどうだ」

 そこまで言われたところで盛政は勝家の言わんとしていることを理解した。それは真っ白な雷光となって頭の中を駆け巡った。

「す、すると柴田様は、顕如と謙信が手を結んだとおっしゃられるのですか」

 盛政が理解した内容を口に出したのは利家である。声がうわずり、額に汗が浮かんでいる。おそらく自分もそうなっているであろうと、盛政は利家を見て思った。

「可能性だ。まだそうと決まったわけではない。だが、これで府中よりお主らを呼んだ理由が分かったであろう。目の前の一向衆は盛政に任せる。お主らは事が大きくなった場合に後詰めとして、または別働隊として速やかに兵を動かせるよう抜かりなく整えておくのだ。わしは右府(うふ)様(織田(おだ)信長(のぶなが))に顕如の動向についてお伺いをたてる使者を送る」

 どの武将にも表情にゆとりは見て取れない。この越前国で一向衆と全面決戦を行っている最中、上杉軍が乗り込んできたら……。歴戦の勇将達といえど、頭をよぎっただけで身震いせざるを得ない、それは最悪の予想図であった。

 一向衆との戦いはその多くが消耗戦になることを、彼らは前年の戦によって頭と体に覚えさせられている。通常味方の陣形が崩れたり、背後に回られ挟撃された場合、不利を悟って退却を考えるものだ。奴らはなかなか逃げない。少々の戦術的優位を確保したところで、極楽浄土を唱えながら襲い掛かってくる奴らは小揺るぎもしない。そうして将兵が疲弊(ひへい)し切った時に、かの戦の天才が兵を率いてやってくるのである……。

 盛政は居並ぶ諸将を一瞥し、最後に勝家の顔をうかがった。勝家は盛政を見据えており、二人の目が合った瞬間勝家のほうで口を開いた。

「盛政、このような懸念がある以上、眼前の敵は可及的速やかに鎮めねばならん。転戦することもあり得る。各地で一斉蜂起するといえど、連携をとる猶予(ゆうよ)を与えねば各々を討ち滅ぼすは可能だ。頼んだぞ」

「はっ!」

 戦場へと向かう道中、盛政は馬上で評定の内容を重々しく反芻(はんすう)していた。そのすぐ後ろに、急ごしらえの甲冑に身を包んだ虎姫と、虎姫の下げた腰袋に首だけ覗かせたトラが続く。重い空気の盛政と打って変わってこちらは物見(ものみ)遊山(ゆさん)気分である。

「うわー、ホント人だらけ。東京駅や新宿でもこんなにいないかも。行ったことないけど」

「戦じゃ戦。狙うは大将首ただ一つぅ」

「ちょっと、ダメですよ! あくまで見分(けんぶん)するだけなんですから。常に盛政様の後ろにくっついててくださいね」

「ふっ、甘いねトラ。とーちゃんが陣の奥に引っ込んで指揮など執るわけない。必ず一番前に立ち、敵将目指して突っ込むはず。そこで手柄はこの虎が頂くのじゃ!」

「返り討ちにあったらどうするんですか!」

「返り討ちが怖くて武士が務まるか!」

「あなた武士じゃありませんから! 姫ですから!」

 緊張感そがれるなぁ……。後ろの会話を耳に入れながら、盛政は嘆息した。だが気持ちは幾分かほぐれたようだ。今この場でいくら考えを巡らせたところでどうなるものでもない。戦略、政略的な判断は伯父上や右府様に任せておけばよいのだ。わしは伯父上の要望に応えるため、眼前の敵に身魂(しんこん)をなげうつのみ!



 一方の砦において、一向衆三千の大将である徳田(とくだ)重清(しげきよ)は、主だった門徒に詰め寄られ弾劾を受ける立場にあった。

「我らが事を起こせば越前国内で一斉に蜂起の火が上がる! そう仰せられたではございませんか!」

「加賀に急使を飛ばしたところ、援軍をよこすような連絡は受けていないとのこと。こちらが催促しても、顕如(けんにょ)上人(しょうにん)下間(しもつま)頼廉(らいれん)様から命がない限り動けないと一点張り。これでどう立ち向かうおつもりか!」

 苦虫を三匹ほどまとめて噛み潰したような顔をして、徳田重清は耐えていた。彼としてもこの算段違いは大きな痛手である。この徳田重清は、前年の織田軍との戦いにおける越前国一向一揆の総大将、下間(しもつま)頼照(らいしょう)の側近であった。

 頼照はかの大戦に敗れた際逃れようとして味方の門徒に討たれ、その勢力は潰えたが、石山本願寺との連絡網や越前国内に潜伏している(くさ)乱破(らっぱ)はまだ存在する。重清はそれらの多くを引き続き掌握していた。

 そして今年二月、顕如上人と上杉謙信の間で和睦が成立した情報を掴み、今回の行動を起こしたのであった。石山本願寺から戻った使者は言った。

「顕如上人は上杉謙信に向けていた越中の勢力を加賀に戻し、織田勢を威嚇(いかく)する構え。諸将と連携を取れば、必ずや大きな戦となりましょう」

 だがこれは使者の大きな早合点であった。確かに顕如は織田勢の猛攻に逼迫(ひっぱく)した状況になりつつあり、上杉謙信との和睦を望んでいた。だが二月の時点では成立まで漕ぎ着けておらず、双方とも和睦のために出した条件の妥協点を模索しているところであった。当然越中国の勢力は移動しておらず、加賀国に余分な戦力などない。過分な報酬を期待して事を大きく報告したのであろうか。

 とにかくこの主観的先行情報を鵜呑みにして、重清は更に自身の算段を上乗せしたのである。諸将と連携を取り合って一斉蜂起したとしても、自分はまた本願寺の一武将として働くだけで終わる。だが、他に先立てて功を上げれば、この蜂起は自分に追従する形となり、越前国に勢力を戻した後は自分がその総大将となるのも不可能ではない。そこまでいかずとも、よりよい地位を得るのは想像に難くない、と。

 誤った情報を持ち込んだ使者、眼前で怒声を発する門徒、自分の許可も得ず加賀国に向かった急使。これらを今すぐにでもまとめて斬り捨ててやりたい衝動に駆られ、徳田重清は拳を握り締めた。勿論この場でそんなことはできるはずもない。

 込み上げてくる怒りをどうにか押し込めた後、彼は諭すように言った。

「確かにこたびの決起は時期尚早の感を免れぬ。だが、我らがここで勢力を維持していれば、必ず国内の他の勢力の同調や加賀からの援軍が得られよう。しばしの辛抱じゃ」

「その辛抱はいつまでを目処(めど)に考えればよろしいのですかな」

 再び言葉に詰まる重清。困窮にある彼を救ったのは、駆け込んできた物見の報告であった。

「織田軍がこちらに向かっております! その数およそ五千」

「来たか。して大将は?」

「旗印から、佐久間盛政と思われます」

「あの(おに)玄蕃(げんば)か……」

 門徒達がどよめく。盛政の猛威については、ここにいる大半の者がその身をもって叩き込まれている。重清も例外ではない。

「事ここに及んではあれこれ論じていても仕方がない。まずは迫りくる敵を蹴散らすことじゃ。貴僧らもそれぞれの持ち場に戻り、来るべき事態に備えられよ」

 不平不満の矛先をかわされて門徒たちは顔をしかめたが、みな黙って一礼するとその場を後にした。彼らとしても、重清に頼らざるを得ない面が多々あるのだ。

「鬼玄蕃が相手となると、持久戦に持ち込んだほうがよいかもしれぬな。旗色を見極めるためにも、最初からわしが前に出て指揮をするしかないか……」

 重清は誰もいない室内で独りごちた。自分で追い払っておきながら、彼は孤独を感じていた。



 敵の砦を五里に控えて、盛政は陣を敷いた。側近を集めて具体的な指示を出す。彼自身は緒戦を後方で臨む形とした。

「とーちゃん、なんで!」

「こら、軍議に割り込んでくるな。この戦、短期に終わらせる必要があるからな。砦に立て篭もって持久戦などされてはたまらん。野戦で勝負を決めるためだ。まぁそれに、最初に交わされるのは矢戦(やいくさ)だ。あまり前に出て虎に流れ矢でも飛んできたら危ないからな」

 今回の敵が、各地の一向一揆の特色である多量の鉄砲を所持していないことを、盛政は間者の報告から既に掴んでいる。ということは、加賀や越中の(うし)(だて)がない可能性が高い。そうであれば、勝家が懸念する一斉蜂起も今回は起こり難いと考えられるが、この戦にあまり時間をかけると便乗する勢力が出てくるかもしれぬ。結局は軍令どおり短期で勝利を収める必要があるのだ。

 膨れ面の虎姫を後ろに押しのけ、盛政は側近に指示を続ける。

「騎馬五百は後方に控えさせ、足軽のみ千五百を敵に当てる」

「そのように兵力を小出しにしていては、敵を勢いづかせますぞ」

「それが狙いだ。敵に勝機ありと踏ませねば、少し槍を交えただけで砦に篭もってしまうからな。騎馬隊の指揮はわしが執る。そち達は残りの足軽で敵の勢いを喰い止めるのに専念せよ」

「ははっ!」

 こうして両軍、一向衆の砦から四里の平原にて向かい合う形となった。勢いよく矢が飛び交わされる。双方矢盾によってこれを防ぎながら、少しずつ距離を詰めていく。敵までの距離が百歩となる間合いで、一向衆側が一気に襲い掛かってきた。

「行けえっ! 進むは極楽、退くは地獄ぞ!」

「仏敵織田信長に天誅を下すのじゃ!」

 さすがに一向衆の勢いはすさまじい。長槍を構えた織田軍に、怯むことなく突っ込んでくる。前が突き刺さって倒れても、後がすぐさま続いて刀を振るう。前方に突出した織田軍千五百はたちまち劣勢に立たされ、防備だけで精一杯となった。味方の士気の高さに後押しされ、陣頭で指揮する重清が奮い立つ。

「なんだ織田軍め、兵の扱い方も知らんのか。盛政も陣の奥に引っ込んでおる。一度の戦に勝ったからとて、もう大将気取りとみえるわい。鬼玄蕃はたった一年で虚名と化したわ!」

 重清率いる騎馬隊百騎が躍り込み、織田軍の中央を切り崩していく。一向衆はますます勢いづき、ついに織田軍は後方に退却し始めた。

「追撃だ! 手を緩めるな! このまま突き進んで本陣になだれ込むのだ!」

 ここで大きな勝利を上げれば自分の武威は国内に轟き、潜伏している門徒達に決起を促し、糾合して巨大な勢力となれるであろう。重清ははやる心にその身を任せ、退却する足軽を斬り伏せながら、奥へ奥へと突き進んだ。一向衆もそれに負けじと全力疾走である。やがて後詰めとして待機していた織田軍第二陣が現れた。こちらは前に柵を設置し、最初から防戦の構えである。

「蹴散らせぇ! 本陣の旗がすぐ後ろに見えておるぞ。勝利は目前じゃ!」

 一向衆は怒濤(どとう)となって柵を越えようと押し寄せてきた。織田軍は必死に耐える。柵を挟んでの攻防が半時あまり続いた。

「もう、これ以上は持ちこたえられません!」

「ここを崩すわけにはいかん! 弓兵、後方より射撃で援護せよ!」

 更に半時。防ぐ織田軍も手一杯だが、攻める一向宗も疲れが目立ち始めた。

「さすがに容易には崩せんな。敵も必死で堪えおる。どれ、わしが再び切り崩してやるとするか」

 重清が再び手勢による突撃を開始しようとした時。

「後方より、敵の騎馬隊が突撃してきます!」

「何だと!」

 重清に報告が入るのとほぼ同時に、盛政率いる騎馬五百とそれに続く足軽一千が、一向衆の側背より襲い掛かった。

「突撃! 一兵たりとも砦に引き上げさせるな。足軽は前方の味方に分かるよう、喚声(かんせい)を上げるのだ!」

 最前に立つ盛政が()える。すぐ後ろに虎姫が続く。その眼差しは盛政に注がれており、父に対する憧憬(どうけい)の念と、一番手柄を立てようという野心に満ち溢れていた。

「雑兵どもに用はない! 敵の大将まで一直線じゃ!」

 盛政、虎姫の刀がうなりをあげるたび、一向衆はなぎ倒されていく。この二人と一合も渡り合える者は兵卒の中にいない。たちまち後方は崩れ、前方で戦っていた一向衆の気づくところとなった。

「後方を塞がれてしまう! 帰路が断たれる!」

「挟み撃ちにされておる! 兵を後ろに回すのじゃ!」

「このまま前方に押し出して突破を計るべきじゃ!」

 各々勝手な判断、指示が飛び交う。戦意こそ衰えないところがさすがと言うべきであろうが、こうなると重清一人の采配では収拾がつかない。自然前方で押し込んでいた一向衆も迷いが生じ、動きが鈍る。必死に耐えていた織田軍は、これを見逃さなかった。

「よし、敵は浮き足だっておる。この機を逃すでないぞ。全軍、総反撃だ!」

 奇襲を受ける直前まで、一向衆は自分達の勝利を疑わなかった。あと一押しで織田軍は瓦解し、本陣に居座る盛政を討ち取って華々しい戦果を上げることができた。それが疲労した体を押して前に進ませていたのである。だが、挟撃される形になってその予測は霧消し、溜まっていた疲労が覆い被さってきた。

 更に防戦一方だった織田軍が、一斉に柵から打って出て槍を突き出してくる。こうなると、いかに命知らずの彼らでもその戦意に体がついてこない。一向衆は次々と討たれ出し、それを見て逃げ出す者も出始めた。

「くそぉ! 最早進撃は不可能か。敵中を突破して砦に戻るしかないか」

 重清は歯ぎしりしながらも、馬をひるがえして砦に向け疾走し始めた。さすがに一軍の大将。織田軍から繰り出される槍をものともせず、刀で払いのけながら退路を掴む。逃げる味方を追い抜き、一向衆の後方で退路を断とうとする足軽も撥ね除け、砦を視野に収めたその時、

「名のある武将とみた! その首貰い受ける!」

 重清は思わずビクッとして馬を止めてしまった。一瞬、硬直した理由が分からなかったのである。だがすぐ頭の中で再生されて理解した。なぜ、このような場所で子供の声を聞くのだ。

「刀をこちらに向けて名を名乗れ!」

 重清は馬を返し、声の主を見た。自分の半分ほどの背丈の子供が、馬上で構えている。

「わしはこの軍の大将、徳田重清だ。(わっぱ)、見逃してやるからさっさとどこへなりと去れ」

「我は佐久間玄蕃の一子、虎姫だ! お主を討ち取って初手柄としてくれん!」

「なに? 盛政めの娘だと」

 相手が女子(おなご)だということも驚いたが、それ以上に盛政の娘だと知って、重清の気が変わった。こいつを人質として使えば、事態を好転させられるかもしれん。重清は手綱を握り締めると、虎姫向かって突っ込んできた。虎姫は(おく)する風もなく刀を振り上げ、重清の一撃を払いのけた。手に残る痺れとほとんど移動していない虎姫に目を見張る重清。

「ま、まさかこのような童が……。もしやこれが鬼子(おにご)というものか」

 今度は虎姫が刀を繰り出してくる。斬り下ろし、斬り払いの連撃。馬上とは思えないほどの力で、どの太刀筋も必殺の威力をもっている。重清は防ぐだけで必死になり、とても反撃する機会が伺えない。ついに防御もおぼつかなくなり、馬がジリジリと後退し始めた時、バキンッという音と共に重清の刀が折れ飛んだ。

「し、しまった……」

「もらったぁ!」

 虎姫の渾身の袈裟(けさ)()り。重清は馬ごと後ろに跳ぶことでまさに間一髪致命傷を避けた。だが完全にかわしたわけではなく、左腕が徐々に赤く染まっていく。体勢を立て直した虎姫がもう一度構えを取ろうとした時、重清は折れた刀を相手の馬目掛けて投げつけた。虎姫の馬が高くいななき、前足を蹴り上げて暴れだす。その隙に重清は馬をひるがえし、砦に向かって疾走した。頭の中は屈辱感でいっぱいであった。

「うぬ、卑怯者め、待てぇ!」

 虎姫は追おうとしたが、逃げる一向衆と追う織田軍とが入り乱れてきたため、思うように進めなくなった。敵から、時には味方からも突き出される槍や刀をかわしながら、虎姫は父の姿を求めてその場を後にした。

 盛政は敵の後方に突撃して大打撃を与え、十分に攪乱(かくらん)した後は、騎馬隊のみ率いてそのまま砦に向かっていた。途中で虎姫が抜け出したのには気づいていたが、敵が砦に戻って立て篭もるのを防ぐことが第一だった。まぁ、そうそう簡単に討ち取られるような虎ではあるまい、大丈夫だろう。盛政は気持ちを砦に向けると、攻撃の指示を出した。砦の門を破ろうと騎馬が突撃する。しかし……。

「砦内には敵兵一人おりません。裏門が開け放しになっております」

「逃げたのか。しかしなぜ」

 一向衆は、砦に迫ってくる盛政の騎馬隊を見て味方の惨敗を悟った。加えて、守将である門徒は今回の蜂起が時期を計り損ねた単独行動であることを承知しており、味方の援軍は望むべくもないと分かっていた。これらの事情により、門徒たちは再起のため加賀国に落ち延びていったのである。

 盛政は少し考えていたがすぐに合点がいった。

「やはりこやつらは単独の勢力だったようだ。本願寺はまだ十分な戦力を整えておらん」

 砦を焼き払うよう命じると、盛政は本陣に引き返し始めた。敵はほとんど逃げ散ったようだ。馬を歩かせながら後処理の指示を出していると、虎姫が走りよってきた。

「とーちゃん、もう砦を落としたんだね、さすが!」

「虎、勝手に抜け出してはいかんだろうが。僅かな(ほころ)びから隊が瓦解することもある。以後は勝手な行動は許さんぞ」

「ごめんなさい。でも敵の大将を見つけたんで、手柄にしたかったの。逃がしちゃったけど」

「ほぉ、大将を見つけたか。名は分かったか」

「徳田重清って名乗ってた」

「何、徳田重清。そうか、あやつが大将であったか」

「知ってるの?」

「去年の大戦でな、一向衆を率いる武将の一人だった。直接は交えておらんが、なかなかの猛将と聞いているぞ。惜しいことをしたのぉ、虎」

「次見つけた時は必ず討ち取ってみせるよ!」

 こうして大野に起こった一向衆の勢力は壊滅し、虎姫は初陣を飾ることができたのである。

“コラ、いい加減起きなさい”

「あ、あれ、トチガミさん。あれ、ここどこでしたっけ?」

“戦場ですよ戦場。もうみんな帰路につこうとしていますよ”

「あ、もう終わっちゃったんですか、戦」

“終わっちゃいましたよ。まったく、アナタ何も見れてなかったじゃないですか”

「だ、だって……。ひぃっ、そこら中死体がゴロゴロしてるじゃないですか!」

“当たり前ですよ、戦なんですから”

 盛政が騎馬による突撃を開始し、敵中に斬り込んだ直後。飛び交う叫声や血しぶきを間近にしてトラは意識を失ってしまい、合戦が終わった今になってようやく目を覚ましたのであった。

「も、もう一回気絶していいですか」

“ダメです。アナタは虎姫を常に見ておく必要がありますから。次はしっかりしてくださいね”

「うえぇ、しっかりしたくないよぉ」

「あ、トラ起きたの?」

 虎姫がトラを見下ろして頭をなでた。

「いつのまにか眠ってたね。戦の最中に寝るとは、トラは肝っ玉がすわってる。虎の勇姿ちゃんと見てくれた?」

「い、いやそれが、虎姫様が突っ込んでいった時に、私気絶しちゃってたみたいで……」

「なんだ、残念。まぁ今日は敵将も逃がしちゃったし、あまり活躍できなかったよ。でも次の戦ではもっと華々しい戦果を上げるから、トラもしっかりその目に焼き付けるんだよ!」

「あまり活躍してくれなくていいですよぉ」

 日は西に傾き空は真っ赤。足元にはおびただしい数の死体。視界の向こうでは砦が燃え盛り、火の粉と黒煙を吹き上げている。にもかかわらず、虎姫としゃべり、腰袋越しに寄りかかっているとトラは心が安らぐのであった。



「ほう、では一向衆は本当に事を起こしたのか」

 大野での戦から二日。上杉謙信は春日山(かすがやま)城において酒盃を片手に腹心、直江(なおえ)景綱(かげつな)の報告を受けていた。

「それが、どうも今回は越前の残存兵による単独行動のようでして。間者によると、内部で随分ともめていたそうです」

「そうか。だがこれが単独行動であったとしても、顕如や加賀の一向衆どもには話が届くであろう。とすれば顕如のことだ、これを機に例の和睦の件を推し進めようとするかもしれん。自分達は先んじて行動を起こした。次はそちらが誠意を見せる番だ、とでもな」

「その場合はどうなされるおつもりで?」

「乗ってやるさ。元より一向衆との和睦はこちらも望むところ。利害が先行して、互いの条件が一致しないため遅々として進まなかったが、こうやって行動で示していけば余計な交渉もなくとんとん拍子に運ぶというもの」

「それはその通りにございますな」

「和睦が調(ととの)えば、まずは越中だ。あそこは神保(じんぼう)長職(ながもと)日和見(ひよりみ)な態度をとっているが、それも一向勢力があってのこと。和睦が成れば大人しくしていよう。抵抗すれば葬り去るまでだが。その隙にかの地の一向勢力を駆逐し、完全に掌握する。それが終われば能登(のと)加賀(かが)だ」

「その辺りで織田軍と衝突することになりそうですな。今とられている同盟関係についてはどうなされるのですか」

「顕如と和睦した時点でそのようなもの破綻(はたん)しておるわ。織田方に人なしとも思えん。それぐらいすぐ察するだろうよ」

 謙信は盃を一気に傾け、小さく息を吐いた。

「信長を下して京に上洛(じょうらく)を果たすか……。おもしろい」

 再び熱い息を吐く。竜の吐息であった。ひとたび兵を動かせば、負けることなど微塵も考えられない。数多(あまた)の戦がそれを証明している。この自信に満ちた顔を窺うたびに、家臣達は自分が仕えるお方こそ日本一の主君であると確信するのである。景綱は崇拝を込めた瞳で謙信に一礼し、座を後にした。

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