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非常にアレなこの人は以下略

 井上乃亜(いのうえ・のあ)

 二十八歳。独身。

 我が姉にして唯一の肉親。

 亡くなった両親に代わり、俺を若いながらも女手ひとつで育ててくれた人でもある。

 そのことには感謝している。感謝してもしきれないくらいかも知れない。


「私がしばらくこの国を離れていたと思ったら……」


 だが……


「……やはり一緒に連れて行くべきだったか」


 だが……


「こんな女に引っかかりやがって! 私というものがありながら!」

「いや、あんた姉だろが」


 ……何というか、ちょっと行き過ぎたところがあるのだ。


「……私に飽きたのか?」

「飽きるも何も、だから姉弟だろが」


 しかもかなりアレな感じで。


「……まあ良い。それで今日来たのは他でもないんだ。これにだな……」


 そうして鞄から取り出されたものが何であるかを認識した瞬間、俺は全身から力が抜けていくのを感じずにはいられなかった。

 嗚呼、ブラコンとかいう問題すら通過していたか……。


「重要書類だ。判を押せ」


 いや、どう見てもそれは婚姻届だ。


「大丈夫。私の欄は既に記入済み。アジの分もあとは判を押すだけだ」


 何が大丈夫なのかがさっぱりわからない。

 確実に第一印象を破壊するだろう乃亜の言動に言葉無くうなだれた。

 そんな俺の手に“重要書類”を押しつけようとする姉の手からそれをひったくったのは、今まで静かに黙って隣に座っていた玲於奈だった。

 玲於奈は用紙を裏返したりしながら興味深そうに書かれた文字を読んでいる。


「……何これ?」

「婚姻届も知らんのか? アジ、やはりこんな女よりも知性溢れる私の方が……」

「それくらい知ってる。そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて何だ? ああ、やはり知らんのだな? 先日の法改正によって姉弟間の婚姻も法的に可能になったんだぞ?」

「……それくらい、テレビで観たから知ってるわよ」


 ……ん?

 その言葉にうなだれていた顔を上げる。

 おかしなことを言い始めたな。


「へえ、どこの番組だい?」

「……夕方の、森さんのニュース番組」


 うん、あきらかにおかしい。というか森さんて誰だ?


「いやいやいや。玲於奈さん玲於奈さん、そんな法改正はされてなんかいないから」

「なっ!?」

「あっはっは! おいおい、まさか知ったかぶるとは思わなかったぞ!」


 大爆笑する姉をよそに、玲於奈は怒りで身体を震わせ始めた。

 ああ、ヤバいな……。


「殺……」

「すな! これでも一応は唯一の肉親だからな!」

「ううん、許さない。アノくんを」

「何で俺!?」


 あ、わかった。八つ当たりだ。って、八つ当たり!?

 それはいくら何でもあんまりだろうと思いつつ身構える俺と、どうやら本気で八つ当たるつもりらしい玲於奈との間に、しかしながら姉が割って入った。


「ああ、悪かった悪かった。ちょっとした冗談だよ」


 乃亜は殺気立つ玲於奈をものともせずにその手から婚姻届をかすめ取ると、何の躊躇も無くそれを破り捨てた。

 呆気にとられる俺と玲於奈。

 玲於奈は簡単に用紙を奪い取られたことに対してだろう。ごみ箱と自分の手を交互に見つめている。

 そして俺は「冗談だよ」という言葉の後に続けられた行動に対して、呆気にとられながらも違和感を感じていた。

 今までの様々な出来事、冗談だとは思えないような種々の行き過ぎた姉の行動が脳裏を巡る。


 ……やはりおかしい。


 例え「冗談だよ」と言ったとしても、婚姻届は次のチャンスに……と、破り捨てたりなんかはせずに、いそいそと折りたたんで鞄にしまう。それが姉・井上乃亜のはずなのだ。

 おかしい。

 絶対におかしい。

 その違和感に対する解はすぐに姉の口からもたらされることとなった。


「今日はこの為に来たわけではないんだよ。アジ……」


 姉の目が怜悧に細められていく。


「……私が何を聞くつもりかわかっているな?

 お前の友人でもあり、私の部下でもあった者――」


 その表情は姉・井上乃亜のものではなく、姉のもうひとつの顔……


「――孝田たちはどうした?」


 ……井上家当主・井上乃亜のものだった。


 井上家。

 ありがちな名字とは裏腹に実は結構由緒ある大きな家で、「井の中の蛙ではなく、井の上に立って世界を見る者」という意味が込められているんだと聞いたことがある。

 まあ、それが本当かどうかまでは知らないのだが。

 そして3年前。

 姉がその当主に就いた頃、俺に「友人」が出来た。

 孝田、衛地、可多山。

 彼ら3人とは同級生として、高校の3年間を共に過ごしもした。

 だが俺や姉にとってのそれは、一般的に言われる友人とは違った意味を持っている。


 井上家当主直属の私設護衛衆「友人」。

 彼らは当主本人とその家族を護衛するという目的の為、井上姓を冠さない傍系親族の中から、当主たちそれぞれに近い年齢で同性の者が選出されるのだという。

 近い年齢の者を選ぶのは、ただ単に護衛対象者が学生であった場合、年齢が離れていると学内での護衛が難しくなるからだそうだ。

 例えば、仮に教師として入り込み、担任になることが出来たとする。

 しかしながら、担当教科以外での授業中や自分自身が別クラスで授業を行っている間などは、当然護衛することが出来なくなるワケだ。

 その点、同じ年齢であれば井上家の力で同じクラスにすることが出来る上に、選択授業や部活動でも護衛することが出来る。

 同性の者を選ぶのも同じ原理だ。


「ある日を境に孝田たちからの報告が途絶えた。その為に私は急いで帰ってきたのだ。アジ、お前は何があったのか知っているな?」


 姉は何があったのかをわかっている上で俺に尋ねていた。

 直属の主人である姉が、わかっていないはずがないのだ。


「どうした? お前の『友人』のことだぞ? 知らない訳がないだろう」


 姉は実に楽しそうな笑みを浮かべている。

 自分の部下から連絡が途絶えることがどういうことなのかをわかっている上、しっかりと裏を取ってからここに来ているだろうくせに、それを敢えて言わせようとする。その意地の悪さは完全に鬼だ。

 ……ああそっか。だからあの時、玲於奈に遭遇しても落ち着いていられたのか。

 似ているんだ、このふたり。


「……わかってて聞くのは如何なものだろう?」

「さて、何のことかな?」


 あくまでもしらばっくれるつもりか。

 このまま膠着状態が続くかと思っていたが、それを動かしたのはまたもや隣りの殺人鬼だった。


「あ! わかった!」


 いきなり大声を出されてビクッとしてしまう。向かいに座る姉を見ると、「邪魔をするなこのアマ」と言わんばかりの……いや、それを通り越して殺意すら漂わせた目で玲於奈を睨んでいた。

 ……よし、ややこしくなる前に玲於奈は無視しよう。


「姉……」

「ねえアノくん、それってあの時の妊婦まがい?」


 ダメだった。無視する前に話をこちらに振られてしまった。

 ……って、妊婦まがい?

 あ、それって……やば……


 ガタッ。


 遅かった。

 思わず立ち上がった姉の目は、さっきまで睨み付けていたのとは打って変わり驚愕で開かれていた。


「……何故、お前はそれを知っている……?」

「うるさい年増。ランドセルでも背負ってろ」

「なっ……! ランドセルは関係無いだろ!」


 俺もそう思う。

 というか何でランドセルなんだ?


 姉は、玲於奈が何故そのことを知っているのかまでは知らないようだった。

 俺は、それよりも何故ランドセルなのかが気になって仕方がなかった。

 戯れにランドセルを背負った乃亜を想像してみる。

 井上乃亜+ランドセル……。


「……ダメだな玲於奈。ランドセルすら最新の流行スタイルに見えてしまう」

「何でわざわざ想像してんの。ちぎれろ」

「そこは『ダメだ、俺、そんな姉さんに萌えちゃう』だろ。勃たせろ」


 そこのブラコンエロスは発言するな。それから鬼は何が「ちぎれろ」なのかわからんから減点3だ。


「「アノくん(アジ)のくせに!」」


 ええ?

 何でそこ息が合ってんだよ? さっきまで睨み合ったりしてたじゃねえか。

 ……やっぱりどこか似てるな、このふたり。

 いつもの二倍労力が必要なのか、何だかドッと疲れが押し寄せて来た。このままでは胃に穴が開いてしまうかも知れない。

 知れないのだが、おかげでどうにか崩された会話のペースを取り戻せたような気がしなくもない。

 よし……。


「要点を整理しようか。まず何で俺がランドセルを背負った姉なぞに萌えねばならんのだ?」

「聞きたいのはこっちの方だ。この私がランドセルだぞ? 三十路も近い美人の姉がスーツにメガネでランドセルだぞ? この倒錯的な格好、勃てなきゃ男の子じゃないだろ!」

「あほか! 特殊過ぎるわ! というか勃てるとか言うな!」

「……アノくん、そんな趣味が……」

「無えよ!」

「本当は好きなくせに。わかっている。アジはむっつりさんだな」

「やっぱり……」

「やっぱりって何だよ!」

「ううん。大丈夫。わかってたから」

「何もわかってねえよ!」


 何だこのふたりの連携? 何故このふたりは協力して俺を特殊性癖の持ち主にしようとしているんだ?

 このダブルアタックは正直辛い……っておい。


「……そこの姉。何故携帯をいじってるんだ?」

「早速ランドセルを通販で……」

「注文するな!」

「私も! 子供は殺さない主義だけどアノくん好みの女になる為なら……」

「やめて! ランドセルなんかの為に子供たちの未来を奪わないで!」

「ランドセルなんかとは何だ! ランドセルに謝れ!」

「そうだ! ランドセルに謝れ!」


 ええ? 何で意気投合してんだよ? ランドセルひとつでこっちは何だか大怪我した気分だ。


「……まったく。アジがそんなにランドセルを背負う私を見たかったなんて思わなかったぞ」

「そんなこと一言も言ってねえ!」

「……何で私じゃなくてあいつで想像したの? やっぱりアノくんは姉萌え近親相■系炉教徒なのかしら?」

「そんなピンポイントマニアックな教団あるか! そこの偏った知識ばかり増えている鬼は黙ってなさい!」

「アノくんの分際で偉そうに……散らすぞ」

「人を盲腸か何かのように……」

「……真っ赤に」

「怖えよ!」


 真っ赤に散らされるってどんなだよ? あ、あれか。殺人秘術か。

 見ると玲於奈は今から『かめはめ波』を打たんばかりの溜め姿勢をとっている。

 ……玲於奈なら本当に破壊光線が出せるかも知れない。が、わかった。そこから打ち出すように両手をぶち込むつもりだ。そんなものまともに食らったら本当に真っ赤に飛び散ってしまう。

 救いを求めるように姉の方を見るが、乃亜は「真っ赤に飛び散るアジに萌えてしまうかも知れない」などとのたまうだけで助ける気配が微塵も見られない。


「か~」


 ちょっと待て。

 それじゃあ本当に『ドラゴン■ール』だ。もしかしたらこいつは本気で光線を出すつもりなのかも知れん。

 ……出せるのか?

 いやいやいや。

 そう言えばつい最近、御用達の例の店で大人買いしてきてたような……。

 視線を本棚に向ける。

 ……やっぱり。しかも完全版かよ。どこにそんなお金……あ、そうか。

 黙祷。


「め~」


 いやいやいやいや、目なんて閉じてる場合じゃねえよ。なに黙祷してんだよ。黙祷してる間に黙祷される側になっちまうだろが!


「アジ。何を考えているのかは知らんが……逃げなくていいのか?」


 そうだよ! まず逃げるべきだろ!


「……っ!」


 足が動かねえ! って言うか足踏まれてる? 気付くほどでもなく、痛くもないのに動けもしない、何だこの絶妙な力加減の踏み方は?


「あっはっはっ! やっと気付いたのか? どうしよう、そんなアジにキュンってなってしまいそうだ。いや、既にもう虜なのだがな。そう、あれは弟が産まれたと聞いて母の入院する産科に行ったあの日……」


 ちょっとそこの姉。

 何で完全に観客決め込んだ挙げ句、回想シーンにひとりで突入してやがんだ?

 ……勝手にウチの冷蔵庫を開けるな! ビールを取り出すな!


「はめ~」


 なっ!? ちょっと待てちょっと待て! 一気に二文字ってどういうこと!? 流石にヤバいだろ! 勿論俺の生命が!

 ……あっ!

 生命が危機に瀕した時、普段の何倍もの能力を発揮するというのはもしかしたら真実なのかも知れない。

 ただ、残念なことに俺の場合、それが肉体面ではなく頭脳面に表れたのだが。

 突然「ピコーン!」と擬音が鳴りそうな勢いで閃いたのだ。

 もしかすると……いや、しなくても。玲於奈は俺に命乞いをさせようとしているに違いない、と。

 そう、どうやら玲於奈は、姉の見ている前で俺にあのベタ甘な命乞いをさせ、見せつけてやろうとしているのだ。


 ……何て、お子様な……。


 呆れはしたが、そんな玲於奈を可愛いとも思った……が、今リアルに殺されそうだという事実は変わりゃしない。

 あと一文字分で俺の頭が真っ赤に咲き乱れるのは確実だ。

 この状況を打破するクリティカルな言葉を模索するが、こういう時に限って「ピコーン!」が頭には一切やって来やしない。

 何でさっき出ちゃったんだよ……。

「ピコーン!」の神様を呪いたくなった。

 もうダメか?

 このままランドセルにおける口論が原因……ってかなり嫌な原因だな……で人生終わるのか?

 何も言えないでいる俺に、玲於奈がふっと一瞬悲しい顔をしたような気がしたのは、多分俺の気のせいなんだろう。


「は……」


 パシュッ!

 玲於奈が溜めに溜めた打撃を放つ瞬間、何かが弾ける音がした。

 きっとそれは、俺の身体の一部が飛び散った音なんだろう。


「……あれ?」


 痛くないな……?

 情けなくも目を閉じてしまっていた俺は、まだ生きていることに疑問を感じながら目を開く。

 ……びしょ濡れの玲於奈がそこに黙って立っていた。


「え……?」

「あーすまんすまん。興奮で思わずビールを強く握っていたようだよ」


 その声に首を向けると、姉が苦笑いしながら持っていたビール缶をぶらぶら振っている。その飲み口からボタボタ泡と共に中身が零れているのが確認出来た。

 ビール?

 ……あ。アルコール……

 ぐらり。

 黙っていた玲於奈の身体が傾いた。慌ててその身体を受け止める。

 殺人鬼は完全に酔い潰れていた。


「おいおい、ビール被っただけで酔い潰れるって、どんだけ弱いんだ?」


 乃亜が呆れたような、馬鹿にしたような声を上げる。

 何てことはない。ただ単に玲於奈が「超」が三つ付く程アルコールに弱かっただけだ。

 酔い潰れて眠る殺人鬼の無様な姿を、缶に残ったビールを飲み干した姉が覗き込む。


「しかし、見事に潰れたな。酒呑童子に代表されるように鬼というものは基本的に酒豪であるはずだろうに……本当にこいつ鬼か?」


 ……え?


「まあ、現実はこんなものかも知れないがな」


 そんなふうに言い放つ姉に、むくむくと疑問が膨れ上がっていくのを感じていた。


「ああ、そうだアジ。頑張って話を逸らそうとしていたみたいだがな、あれはもういいから。あれはただのきっかけ、話の糸口だ。私は単に様子を見に来ただけだよ」


 空缶を捨て、キッチンで手を洗い終えた姉は「まあこれなら新しく『友人』を派遣する必要も無いだろ」と言うと、そのまま玄関へ向かう。


「私の前で他の女に甘い言葉を吐くアジは見てみたかったがな」


 さらに笑いながら「ちなみに例の書類ならあと4枚準備してるからな。1枚くらい破いたって構わないんだよ。まあ、帰りに破いた分の補充をしに役所へ寄るがな! 絶対に署名させてやる!」と余計なことまでのたまった姉は、その勢いでドアを開け……ようとして完全に壊した。


「……」

「……」

「……後で修理の者を寄越すから」


 言いながら、さっきまでドアだった板状の何かを入口脇に立て掛ける姉に、声を掛けようとする。


「なあ、姉さ……」

「ああ、そうだ」


 しかし、その言葉は遮られ、姉は振り向くと人差し指を立てながら告げる。


「ひとつだけ。今回はいじらしくも私が身を引こう。当面危険は無さそうだからな」


 ……俺が殺されそうになっていたのはスルーか?


「だがな、お前は何も知らないだろうから教えておいてやる――」


 そうして姉はスッと目を細めると、ブラコンの変態とも当主とも違う、ただただ弟を心配する姉の顔をしてひとこと告げた。


「――“鬼”を愛しすぎてはいけないよ」

「え?」


 鬼の部分が微妙に強調されていたその言葉の真意を問いただす間も無く、乃亜はくるりと振り返るとそのまま去って行った。

 

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