第三話
八葉の手元で砕け散るカップ。
ぶちまけられる褐色の液体に呆然とする八葉。
八葉の手元には、カップの取っ手しか残っていない。
あぁ、せっかく入れたコーヒーがおじゃんじゃん。
僕は銃声のした方を見る。
通路を挟んで向かいの席。そこで一人の男が拳銃を構えていた。
先程、店に入ってきたばかりの男だ。
40歳位の中年で、作業服のようなものを着ており、無精ひげが伸び放題だ。
銃を持つ手がぶるぶる震えていて、彼も撃つ積もりはなかったのか、明らかに動揺しているみたいだ。
その足元で下井さんが、腰を抜かしてへたり込んでいる。
他の客の視線も男に集まる。
「キャーッ!!」
甲高いおばさんの声が上がる。
彼女は出口に一番近い席に居たため、そのまま自分の荷物を抱えると、我先にと出口に向かう。
それを見て、大学生位のカップルも出口に向かう。
「動くなっ!」
拳銃の男が叫ぶ。
しかしその頃には、おばちゃんもカップルも出て行った後である。
……男が少し間抜けに見えた。
「動くとこいつを撃つぞ!!」
男は残った人間を拳銃で牽制する。
店に残された人間は4人。
僕、下井さん、拳銃の男、八葉である。
(……どうしよう)
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あれから一時間が経過した。
僕と下井さんは店の一番奥の席に座っている。僕が通路側で、彼女がその隣だ。
テーブルを挟んだ向かいには、八葉が座っている。
男は入り口の方に居て、外の様子を窺っている。
男の発砲から数分。あっという間にパトカーが駆けつけて、店の周りは包囲された。
周りと言っても、出入り口は一箇所しかないため、店に降りるための階段の周りを警察がたむろしている。
一度、店の電話が鳴り男が出たものの、「うるせー、近寄ったら人質の命は保障しないからな!」と電話を切ってしまった。
きっとこの男も慌てていて、どうしたらいいか分からないんだろうなとか思いながら、客席を見渡してあることに気付く。
おばちゃんの荷物がない。
カップルのバッグや買い物袋は見えるが、おばちゃんの席にはコーヒーのカップしか存在していない。
この非常時によくも自分の荷物を持って逃げれたものだ。そういえば真っ先に逃げ出したのもおばちゃんだ。
素直に関心しつつも、疑念が湧く。
もしかしたらおばちゃんはこのまま戻ってこなくて、会計をしない腹なのか。
関心と呆れが混じり合い、微妙な気分になる。
それにしても、もしここに居るのが父や妹だったらどうなっていただろうか。
母でもいい。あいつらは自分の体を苛め抜くドMだから、こんな状況でも簡単に制圧しちゃうんだろう。
いや、勢い余ってそのまま殺しそうな気がする。
僕?僕はほら、コーヒー専門だから。そういう肉体労働は専門外なんだ。
そんな事を考えていると、僕の右袖がくいくいと引かれる。
「……先輩。いつになったら私達、開放されるのでしょうか」
下井さんが小声で話し掛けてくる。
その声はどこか切なそうで、見ると彼女の顔は何かを我慢しているみたいだ。
身体の動きもどこかそわそわしているようにも感じる。
ははーん。
きっと慣れない男の隣に座っているから、照れてるんだね。
……ま、そんなことはなく、きっと生理現象でトイレに行きたいのだろう。
確かに我慢し続けて、もじもじする下井さんの姿が見たくなくはない!
そして堪え切れずに粗相をし、羞恥に悶える下井さんの表情も見たい!
まったくけしからん!
でも現実的に考えると、その後片付けをやらされるのって……僕なんだよなぁ。
その上、神聖な珈琲店に尿の匂いがするのは、正直ご遠慮したい。
となれば、
「もう少しだけ我慢して」
と下井さんが安心するように優しく言う。
「あのー、すいません」
「……なんだ?」
声を掛けた僕を、不審げに見つめる男。
「トイレ行きたいのですけど」
僕の言葉にびくっとする下井さん。
はは、正直さんだな。
「我慢しろ」
「いや、どうしても漏れそうで。ここで漏らすと、臭いで大変なことになりますよ!」
男は少し考えます。
「大丈夫、逃げたりしませんよ。なんなら、一緒にトイレに入りましょうか?」
もちろん僕にそんな性癖はない。
「……分かった。ただし一人で入りな」
彼にもそんな性癖はない様で安心した。
僕はそのまま歩いてトイレに向かう。
トイレは出口への通路の一番奥。店の入り口からだと入って右側にある。
途中、男とすれ違う。
「絶対に逃げるんじゃないぞ」
「分かっています。……あ、僕の後は彼女が使いますので」
男は渋い顔をした後、顎をしゃくって「早く行け」と促す。
そのままトイレに入る僕。
とはいえ尿意がある訳でもなく、やることがない。
そういえば……と胸ポケットにボールペンがあるのを思い出して、手に取る。
そのままトイレットペーパーに、ボールペンで落書きをしておく。
一応、水は流してトイレを出て、洗面所で手を洗い戻る。
「いやー、緊張して何も出ませんでした。ははっ」
と聞えるように言うと、男は「こいつ、何しにトイレ行ったんだ?」と変な顔をされた。
店の奥まで戻り、下井さんとすれ違う。
彼女は限界だったのか、早足でそのままトイレに向かった。
数分して、下井さんが戻ってくる。
「……『ろくろ首』って」
彼女は呆れた瞳で僕を見る。
なんか、こうやって蔑まれるのも癖になりそうだ。
どうやらトイレットペーパーの落書きが、お気に召さなかったらしい。
トイレットペーパーの見える部分に身体を描いて、紙を伸ばすと首も伸びるようにしたのに。
更に分かり易くする為、『ろくろ首』と名前まで描いたのに。
……けっこう自身作だったんだけどなぁ。
さて、
「すみませーん」
「なんだ?」
再び話しかける僕に、いい顔をしない男。
「のど渇きませんか?」
反撃開始だ。