1.「もしもし、私メリーさん。今、三十路なの」
「あのねえメリー君。君がとても頑張っていることは知っているよ。努力家だし、そこは評価している。でもこれはちょっとなあ」
目の前に出されたほぼ白紙の報告書を眺めながら上司がぼやいた。小さな犬の体に不細工なオヤジの顔でできている私の上司は、世間では人面犬と呼ばれて気味悪がられている存在だ。
「もうちょっと頑張ってもらわないと。せめて報告書の半分ぐらいは埋められるようにさ」
上司(人面犬)の愚痴を聞きながら、うるせえなお前だってその足だからろくに書類もかけないくせに何言ってんだよなどと心の中で毒づいていると、私と上司(人面犬)の横を口裂け女が通って行った。
ちらりとこちらを見た口裂け女はばれないように小さくクスリと笑ったが、いかんせん耳のところまで口が裂けちゃっているものだからばればれだ。小さく笑うだけで歯茎をすべてオープンにしてしまう女なんて、私の知る限りこの口裂け女ぐらいのものだ。奥歯に青のり付いてるぞ。せめて会社の中ではマスクをしてくれよ、まったく。
「まあいいよ、今はお化け業界も衰退しているからね。業績が悪いのは君だけじゃない」
私が黙っていると諦めたように上司(人面犬)が言った。すいませんと小さく謝ってから私は自分の席に戻り、帰り支度を始める。
時刻はもう午前三時だ。夏は日の出が早いから、早く帰宅しないと夜が明けてしまう。早寝早起きは健康の基本だ。日が昇る前にさっさと寝よう。もうこの会社に残っているのは人面犬の上司と同僚の口裂け女とこの私、メリーだけだ。
私は会社を出ると、家路を急いだ。道には私以外誰もいない。健康なお化けはもう寝る時間だし、人間は私たちが生活しているこの空間に入り込むことは出来ない。
ところで、『メリーさんの電話』という都市伝説を知っている人間は多いだろう。
ある日、あなたのもとに誰からか電話がかかってくる。出てみると小さな女の子の声がする。声は言う。
「私メリーさん。今、○○駅の前にいるわ」
不審に思いながらもあなたは電話を切る。するとまた電話がかかってくる。
あなたは電話に出る。するとまた女の子の声。
「もしもし、私メリーさん。いまあなたの住んでいるマンションの前にいるの。今からそちらに向かうわね」
気味が悪くなったあなたは再び電話を切ってしまう。しかし電話はまた鳴り始める。あなたは不気味に思いながらも受話器を耳に当てる。聞こえてくるのはやっぱり少女の声。
「もしもし、私メリーさん。今あなたの部屋の前にいるの」
あなたは思わず受話器を落としてしまう。あなたは玄関の方を見る。暗くて良く見えないが、特に変わったところがあるとは思えない。
あなたが黙っていると、電話の着信音がけたたましく鳴り響く。あなたは恐怖を感じる暇もなくとっさに落ちている受話器を拾い上げて耳に押し当ててしまう。
押し当ててから思う。受話器が落ちていたのに、なんで電話の着信音が?
あなたは受話器越しに、なにか邪悪な気配を感じる。受話器の中から聞こえる少女の声は嗤っているようだ。
「もしもし、私メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
声と同時に邪悪な気配があなたの背後に移動する。
あなたの後ろに、何かがいる。
あなたはゆっくりと振り向いた。
そこにいたのは……。
とまあ、こんな話だ。
そのメリーさんというのが、何を隠そうこの私なのだ。
当時の私は、オカルト界でもかなり有名だった。近所の小学生どものなかには、メリーさんを怖がって電話に近寄らない奴までいたらしい。
当時の私は若かった。いや幼かったと言ってもいいくらいだ。小さな女の子の声というのは、怪談では非常にポピュラーだし話題になりやすいのだ。私は有名になり、周りのお化けから随分ともてはやされた。
しかし、永遠に人気であり続けることなど出来ない。
成長するにしたがって、声質が変わり始めた。小さくか細い、聞いたものに恐怖を与えるしゃべり方が難しくなった。成人してしまうと声も完全に大人になり、もはや小さくかわいらしいメリーさんはどこにもいなくなってしまった。
その頃からだ、私の人気がはっきりと衰え始めたのは。
まず、電話しても本物だとは思われなくなった。声が大人なのだから仕方がなかった。いつまで少女のイメージ引きずってんだよ、こちとらもう大人なんだよ、お化けだって年取るんだよ、などといろいろ思うのだが、お化けは年を取らないというのが人間社会の常識になっているもんだからどうしようもない。
中には私を憐れんで心の病院を勧めてくる善良な人々もいる。いたずらじゃないってのに。それにお化けに人間の病院を勧められても困る。
この間は特にひどかった。電話帳を的にしてダーツやって(一回だけ上司(人面犬)の尻に刺さった)適当に選んだ家だったのだが、どうやら住人は熱心な宗教家だったらしい。
「もしもし、私メリーさん。今、××駅の前にいるの」
「まあ、そうなの。ところであなた神様って信じる?」
「いやあの、これからそちらに……」
「あなたも信仰心を持ってみない? とってもいいわよぉ。おばさんなんか足の病気治っちゃったんだから。すごいわよぉ。ちょっとお話だけでもどぉ?」
「あ~、もういいです」
私はあきらめて電話を切った。そして当然ながらもう二度とかけることはなかった。
あの家の電話番号だけには絶対にかけまいと、電話帳に赤色の線を引いた。
声質が変わるだけでこれほどまでに信じてもらえなくなるかと驚いたが、私の人気の低迷は、それだけが原因ではない。
電話が進化したのだ。最近の電話には着信拒否の機能がついている。私はいつも非通知で電話をかけるから、非通知設定の電話を着信拒否にされていると、そもそも電話がつながらない。
それに携帯電話の普及と言うのも私にとっては深刻な問題だった。私が狙うのは基本的には一人で生活をしている若い人間だ。家族で生活している人とか、おじいさんとかおばあさんをターゲットにすることはあまりない。やりづらいからだ。私は一度に二人以上を相手にできないし、お年寄りは耳が遠いから何回も聞き返されて雰囲気が出ない。ターゲットにする若い人間のうち、性別は男性と女性が八対二ぐらいで、男性をターゲットにすることが多い(念のため言っておくが、断じて私の趣味とかではない)。
しかしそこで一つ問題が発生する。今の若い奴らはみんな携帯電話しか持ってないのだ。固定電話が部屋にある奴なんか、ほとんどいない。
だから仕事がとてもやりにくい。
固定電話じゃないから、逃げられるのだ。もう何回逃げられたか分からない。
「私、メリーさん。今、△△駅の前にいるの。今からそちらに向かうわね」
「私、メリーさん。今、あなたの部屋の前にいるの。あなたに会うのが楽しみだわ」
「私、メリーさん。今、あなたの部屋の中にいるの。頼むから勝手に逃げないでくれる?」
そんな感じで、感の良い奴は逃げ出すのだ。
そもそも携帯電話に出たからと言って、部屋にいるとは限らない。
まったくやりにくくなったものだ。
ぶつくさ考えているうちに、いつの間にかアパートに着いていた。
階段を上り(部屋は二階だ)帰宅する。
日光を浴びないようにカーテンをしっかりと閉めて、布団にもぐりこんだ。
布団にくるまりながら不意に、そういえばもう私も三十歳なんだなと思った。
もう私も若くはない。
そろそろ、自分の身の振り方を考えるべきなのかもしれない。
いつまでも『メリーさんの電話』を続けるわけにもいかないだろう。何事も肝心なのは引き際だ。しかし、かつて『メリーさんの電話』で一世を風靡した私としては、まだあきらめたくない気持ちもある。
寝入る前に私は、もう少しだけ『メリーさん』として頑張ってみようと決意する。
一度決めると、少しだけ楽な気持ちになった。
明日も頑張ろう。
私は目をつむった。
睡魔は、すぐに来た。