Hush-a-bye, baby
窓のない病室にも朝はやってくるらしかった。たとえば点滴台の影が少しだけ傾いたり、天井の白さが眠る前よりも乾いた色になることで分かった。青年は毎朝、目を覚ますたびに自分が今回はどれくらい眠っていたのかを考える。考えても意味がないと知っていながら、それくらいしかやることがなかったから。
自分の名前。年齢。ここへ来る前のこと。どうしてここにいるのか。
今日もそれらの疑問は、どれひとつとして明瞭な輪郭を持たなかった。
扉の向こうで軽やかな足音が止まる。ノックが三回。律儀なのか、ただの癖なのか、そのどちらでもある気がした。
「おはよう! 今日も我が麗しの患者さんに会いに来たぞ」
白衣の男がわざとらしく大仰なお辞儀をして入ってくる。胸元の名札はいつも裏返っていて、青年は一度もそこに書かれた名前を読んだことがない。だからいつもただ「先生」と呼ぶ。それで充分だった。彼は青年の担当医であり、親友のように親しく、たぶんこの病室で唯一、彼の記憶の霧に輪郭を与える存在だ。
「おはようございます、先生」
「顔色が良さそうだな、いいことだ。実は今朝、出勤中にイーストタウンの道路が爆発してね。車が吹っ飛んで三回転半したところを俺の見事なハンドルさばきで切り抜けたんだ。まさに君への愛がなせる技だったよ」
青年は瞬きをしてから枕元の水差しに目をやった。
「先生、以前『病院に泊まり込みだから外に出ることはない』と仰ってたでしょう。出勤しないなら事故に巻き込まれようがないじゃないですか」
「おおっ、鋭いね。では訂正しよう。本当は爆発したのは道路ではなく、この病院の売店のパンコーナーだったのさ」
「パンコーナーがどうして爆発するんですか」
「知らないのかい。最近のメロンパンは反抗期の真っ盛りだ。思春期のフラストレーションが膨張して耐えられなくなったのだ」
「それが何かの比喩だとしたら食品衛生の問題ですね」
「ああ、君と話しているとまるで世界がまともに見えてくるよ」
医師はそう言ってベッドサイドの椅子に腰掛けた。いつものやりとりだった。馬鹿馬鹿しくて、妙に手慣れていて、青年はよく覚えていないけれど、たぶん何十回も繰り返してきたやりとりだ。
青年は自分がこの掛け合いの間合いを身体で覚えていることに気づくたび、少しだけ安堵し、同時に少しだけ怖くなる。何も思い出せないのに彼の存在だけが馴染んでいる。欠落で埋め尽くされた虚空に正体の分からないものの形だけが浮かび上がっているのは奇妙だった。
医師はカルテを開いているふりをして中身を見ていないことが多い。今日もそうだった。紙の端を指で弄びながら、彼は窓のない壁のほうを見ていた。その向こう側にある景色を知っているような目をしていた。
「具合はどうかね?」
「相変わらずです。何も思い出せません」
「そうか。なに、気にすることはない。今は世界中の人々が記憶をぶっ飛ばしてしまって、自分が誰かも覚えていないからね。ただの流行病さ」
「じゃあ先生は、どうしてご自分のことや私のことを覚えてるんですか」
医師は口元に手を当てて目を見開いてみせる。大袈裟で芝居じみた間があった。
「はっはっは、君は鋭いなあ」
青年はなんとなく知っていた。この医師が嘘をついていることを。しかしそれが、完全な嘘でもないことを。
毎日のように青年に降りかかる医師の嘘は雑だった。穴だらけで、考えるまでもなく崩れるくらい、嘘と呼ぶほどでもないただのジョーク。街の上空を泳いでいたピンクのクジラが溺れて救助が大変だったとか、議会の会場に並べられた椅子がすべて巨大なマシュマロに変わってそれを頬張るばかりで話が進まなかったとか、昨日は観光しにきた月が近づきすぎて発電所のアンテナに引っかかって街の照明がすべて落ちたとか。
真面目に聞こうとすればするほど笑ってしまいたくなる、子供の作り話みたいな嘘だった。
でも、本当はあの人はもっと上手な嘘をつけるはずだと青年は思う。隠したいことを気取らせないためにわざとこんなふうに喋るのだ。冗談に落とせる程度まで現実の輪郭を削って、青年の前にそっと置いていく。
そうでもしなければうまく受け取れないから。あるいは彼自身が、本当のことに耐えられないから。
「先生」
「なんだい、ハニー」
「その呼び方はさすがに気持ち悪いです。……病室の外は、そんなに大変なんですか」
医師は聴診器を指先でくるくると回した。落としかけて、危うく受け止める。その動揺を強調する動作まで含めていつも通りで、実際に動揺しているのかは分からない。
「ああ、それはもう大変だとも。昨日なんて、セカンドストリート沿いにある自販機がついに人類へ宣戦布告したんだ。今のところ我々には同盟軍としてハツカネズミがついているが……」
「先生」
「……うん」
青年は、医師の声が思ったよりも静かだったことに少し驚いた。
「本当は冗談にもできないくらい、どうしようもないことが起きているんでしょう。私がそれを、思い出さないほうがいいくらいのことが」
医師は消沈したように俯いて目を伏せた。これは本音なのか、ただのポーズなのか。
青年のいる白い部屋には機械の規則正しい音があって、しかしそれがどこから響いているのかは分からない。それが急に、遠くから届く誰かのノックの音のように聞こえた。青年は手を伸ばして自分の指先を見つめた。爪の半月が奇妙に青白く、他人のもののようだった。
「君ってやつは、ほんとうに」
医師の言葉はため息に似ていて、続きは笑いに紛れた。
「君は覚えてないだろうけど、俺の正体は世界の破滅を目論む邪悪な大魔王なんだ。そして君は聖剣を手に俺を倒すべく立ち上がり、この部屋に二人きりで閉じ込められる代わりに世界を破滅から救ったんだ。今、この部屋の外は愛と平和で満ちている。しかし君がそれを見ることはない。そういう約束なのさ」
「そうですか。覚えてないんですけど、たぶんかなり使い古されたストーリーですね」
「小説よりも面白い現実なんてそうそうないものだよ、君」
医師はいつもの調子を取り戻したふうに肩を竦めた。その目元には病院勤めらしい徹夜の疲れだけではない影が沈んでいた。
医師は立ち上がり、ベッド脇のシーツの皺を整えた。そういうことは看護師がする仕事だろうに、この病室に看護師が訪れることはないから、大抵は医師がやる。手を動かし続ける理由が欲しいのかもしれなかった。
「俺は君を愛してるよ」
「先生はすぐにそういうことを言いますね」
「医療従事者の常套句だよ。こう言っておけば患者はドキドキして止まった心臓が動き出すんだ」
「私の心臓はずっと落ち着いているようですが」
「何!? それは大変だ。今すぐマッサージを!」
「その手つき、やめてほしいんですが」
青年は思わず笑ってしまった。笑うと肺の奥に鈍い痛みが走る。それでも笑えた。笑い声は短く、部屋の隅にも届かずに冷えていった。
きっとこの医師は本音を紛れさせるために嘘ばかりついている。青年は何もまともに答えないようにしていた。思い出せないのも本当だけれど、何か答えを出してしまうと、この部屋に辛うじて張られている薄い膜が無残に破れるような予感がしたからだ。
「あ、そうそう。君にいいお知らせがあるんだった」
「自販機がハツカネズミに敗北したんですか?」
「いや、もっといい話さ。今日のスープはまともな味がするんだ」
「それは本当にいいお知らせですね」
「だろ? 昨日までは銀河の味がしたからな」
「銀河の味を知らないので比較できませんけど」
「なんだ、そんなことも知らないとは人生経験が乏しいな、君は。退院したら俺と一緒に銀河を食べに行こうぜ」
退院。それは希望のある響きであるはずだった。けれどその音は、青年にとってはいつもどこか異物めいて聞こえた。ここを出てはいけないと医師は幾度も青年に言う。同じ口で、いつか出ようとも言う。矛盾しているのにその両方が真実なのだと分かってしまう。
「先生。私は、ここから出られるんですか」
医師は答えずにサイドテーブルの花瓶に挿してある青い花を見た。青年はその名前を知らない。いつ水が替えられているのかも知らない。そもそも花が萎れたところを見たことがない。
「外に出たいか?」
問い返されて、青年は少し考えた。病室の外には何があるのだろう。忘れてしまった街、失くした自分の名前、取り返しのつかない何か。
あるいは何もないのかもしれない。世界が本当に壊れているのか、この部屋だけが壊れているのかも、彼には知り得ない。
「……先生が教えてくれるなら充分なのかもしれません」
「いい心掛けだ。患者は医者の言うことに従う義務があるからね」
医師は白衣のポケットに両手を突っ込み、満足そうにカルテに顔を向けた。
病室を出て行く直前、扉の前で医師はいつものように振り向いた。
「この病室から出てはいけないよ、君」
「はい」
「それに、無理にあれこれ思い出す必要もない」
「はい」
「あと、もし夜中に廊下で妙な音がしても絶対に扉を開けないこと。俺がいない時は危ないからな。なんせ先日から野生のハラグロアカクチペンギンが徘徊しているんだ。駆除業者を依頼してるところなんだが」
「先生」
「はい」
「最後に冗談をつけないと死ぬんですか?」
医師は真面目くさった顔で考えるふりをして、にやりと笑った。
「だとしたら俺はもうとっくに死んでるのかもしれないよ」
「縁起でもないことを言わないでください」
「ごめんごめん。俺は実は不治の病に侵されてるんだ。愛しい君が笑ってくれないと死ぬ病さ」
「それも困りますね」
「だろ? だから明日もよろしく頼むよ。俺のジョークで笑ってくれるのは君くらいなんだから」
扉が閉まり、医師の足音が遠ざかってゆく。
静かになった病室で青年は目を閉じた。瞼の裏に見覚えのない光景が一瞬だけ浮かびかけて、掴み切れずに消えていった。
その時、扉の向こうで何者かが駆け寄ってくる音がした。車輪が軋むような不快音。金属がぶつかる。低く押し殺したような声。それから少し遅れて医師の声が聞こえた。さっきと同じ調子で、馬鹿みたいに明るく。
「おっと、ペンギンさん。こちらのお部屋は立ち入り禁止ですよ。病院ではお静かに願います」
青年はベッドの上で身じろぎして扉のほうを見つめた。立ち上がれば届く距離に世界がある。けれど彼は動かなかった。こういうことは、よくあることだった気がする。
ただシーツの上で拳を握り、ゆっくりとまた開いた。自分の手がさっきよりは自分のものであるように思えた。
争うような物音が遠退いて、病室は静けさを取り戻した。
次に医師が扉を開ける時も、自分はまだここにいるだろう。あるいは、本当はずっと前から彼はもういないのかもしれない。
互いの嘘だけがこの世界を支えていた。




