past
ベランダに残った冷たい空気の中で、亜美はしばらく動かなかった。
「……また来る、か」
あの少女の声が、まだ耳の奥に残っている。
擬似天使。
誰かの隣にいるだけ。
——それだけでいい。
「……そんなの」
できるわけない、と言いかけて。
ふと、思い出す。
自分が“それだけ”で、止まった夜のことを。
——あれは、中学三年のとき。
家は、静かだった。
いや、正確には“静かすぎた”。
父親がいないときだけ、家は静かになる。
帰ってくると、音が増える。
テレビの音、缶の転がる音、荒い足音。
そして、機嫌が悪いと——怒鳴り声。
父は、定職に就いていなかった。
昼間からパチンコに行って、金がなくなると帰ってくる。酒を飲んで、さらに機嫌を悪くする。
その繰り返し。
「……ただいま」
小さく言っても、返事はない。
あるいは、返事がない方がまだいい。
気づかれない方が、平和だから。
冷蔵庫を開けると、ほとんど何も入っていない。
水と、いつからあるか分からない調味料。
それでも、亜美は慣れていた。
空腹も、静けさも、全部。
——ただ一つ、慣れないものがあった。
「……っ」
腹の奥が、きしむように痛む。
生理だった。
中学三年の冬。
受験が近づいて、周りが焦り始める頃。
亜美は机に向かっていた。
古びた参考書と、何度も書き直した志望校の名前。
偏差値の高い高校。
先生にも、「お前なら行ける」と言われていた。
それが、唯一の出口だった。
この家から抜け出すための。
「……はぁ……」
痛みに耐えながら、問題を解く。
集中しようとしても、思考がうまく回らない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
止まったら、終わる気がした。
ガチャ、と。
玄関の音がした。
一瞬で、体が強張る。
足音。
重くて、雑な足音。
アルコールの匂いが、廊下越しにでも分かる気がする。
「……おい」
呼ばれる。
低くて、機嫌の悪い声。
「……はい」
亜美は立ち上がる。
腹の痛みが強くなるが、顔には出さない。
出したら、面倒になるから。
リビングに入ると、父はソファにだらしなく座っていた。
缶ビールを片手に、テレビもつけずに。
「学校はどうした」
「……行ってきた」
「ふーん」
興味のない返事。
そのまま、少し黙る。
嫌な沈黙だった。
「……あのさ」
父が口を開く。
「中学卒業したら、働け」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え」
「高校なんて行く必要ねえだろ。金ねえんだから」
当たり前のように言う。
頭の中が、真っ白になる。
「……でも、私」
「恩返ししろって言ってんだよ」
言葉を遮られる。
「今まで育ててやったんだろ。金もかかってんだよ」
その言葉が、やけに重く落ちてくる。
「……っ」
何か言おうとして、言葉が出ない。
「バイトでもなんでもいいから金入れろ」
「……高校、行きたい」
やっと、絞り出す。
父の目が、ゆっくりとこちらを見る。
「は?」
それだけで、空気が凍る。
「……先生にも、行けるって」
「だから何だよ」
低い声。
「金ねえって言ってんだろ」
それで、終わりだった。
それ以上、何も言えなかった。
言ったところで、意味がないと分かっていた。
逆らえば、どうなるか知っているから。
——その夜。
亜美はベランダに出た。
痛みはまだ残っている。
体も重い。
頭も、うまく働かない。
それでも、外に出た。
冷たい空気が、頬に触れる。
「……はは」
小さく笑いが漏れる。
何がおかしいのか、自分でも分からなかった。
頑張っても、意味がない。
逃げ道だと思っていたものは、最初から塞がれていた。
この先もずっと、あの家で。
あの人の言う通りに。
「……無理」
ぽつりと呟く。
柵に手をかける。
冷たい鉄の感触。
ゆっくりと、足をかける。
怖いはずなのに、どこか遠い。
現実感が、薄い。
「……」
あと少しで、越えられる。
そのときだった。
「危ないよ」
背後から、声がした。
びくり、と体が止まる。
振り返ると——
そこに、少女がいた。
夜の中で、やけにくっきりと見える。
年上に見えるその顔。
そして——背中に広がる、蝶のような翼。
現実離れした光景なのに、不思議と怖くなかった。
「……なに、それ」
自分でも、間の抜けた言葉だと思った。
少女は少しだけ首をかしげる。
「それはこっちのセリフ」
くすっと笑う。
「落ちるつもり?」
あまりにも軽く言うから。
「……別に」
反射的に、否定する。
少女は何も言わずに近づいてきて——
亜美の腕を、そっと掴んだ。
強くもなく、弱くもない力で。
そのまま、柵から引き戻す。
抵抗する気は、なぜか起きなかった。
ベランダに座らされる。
少女も隣に座る。
それだけだった。
何も聞かれない。
何も言われない。
ただ、隣にいる。
風が吹く。
しばらくして、亜美はぽつりと呟く。
「……行きたかったんだよ」
誰に言うでもなく。
「高校」
少女は、何も言わない。
「勉強、頑張ったのに」
声が少し震える。
「意味なかった」
それでも、少女は何も言わなかった。
ただ、そこにいる。
「……もういいかなって」
言葉にした瞬間、何かが崩れそうになる。
「疲れた」
沈黙。
そして、ほんの少しだけ——
隣から、温もりが伝わってきた気がした。
触れているわけじゃないのに。
それでも、不思議と。
「……そっか」
初めて、少女が小さく答える。
それだけ。
それだけだったのに。
胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけていく。
「……っ」
気づけば、涙が出ていた。
止めようとしても、止まらない。
少女は何もしない。
慰めもしない。
励ましもしない。
ただ、隣にいる。
それだけ。
それだけで——
「……まだ、いいや」
気づけば、そう呟いていた。
柵の向こうに行く気は、もうなかった。
——ベランダの上で、亜美は目を閉じる。
「……あれが、最初か」
小さく呟く。
“隣にいるだけ”。
あの少女がやったことは、それだけだった。
それでも、自分は生き延びた。
「……擬似天使、ね」
夜空を見上げる。
もし、あのとき。
あの少女が来なかったら——
考えるまでもない。
亜美はゆっくりと息を吐いた。
「……ちょっとだけなら」
誰にも聞こえない声で、呟く。
風が、静かに通り抜けていった。




