擬似天使
父親に将来を奪われ中卒でバイトの日々を送っていた主人公、亜美は、かつての天使の少女にこう言われる。
「擬似天使をやってくれない?」
限界ギリギリの子供を救い、傍に寄り添う。
これが擬似天使の仕事。
かつて亜美がされたことを、今度は自分がしてあげる。
苦悩、葛藤を持ちながら、人を救うということに向き合う一人の少女の物語。
深夜。街の灯りがやけに遠く見える時間帯だった。
亜美はベランダの手すりに肘をついて、ぼんやりと夜空を眺めていた。眠れない理由は特にない。ただ、部屋の中にいるのが息苦しくて外に出ただけだ。
風は冷たく、静かだった。
一人だけ、ただポツンとそこにいる。
——そのはずだった。
「……久しぶり」
上空から、やわらかい声が落ちてきた。
間違いはない。空、だ。
亜美はゆっくりと上を見る。
そこにいたのは、少女だった。年は一つか二つ上だろうか。長い髪が夜風に揺れていて、ガラス細工のような瞳が暗い世界に映える。肌はまるでこの世の穢れを知らないかのように白く、神聖さを感じた。
そして、その背には——現実ではありえないものがあった。
蝶のような、薄く透き通る翼。
街の灯りを受けて、かすかに光っている。
「……あ」
喉の奥が、かすれる。
見間違えるはずがなかった。
「……あんた……」
天使の少女は少しだけ笑った。懐かしそうに。
「覚えててくれたんだ」
その言葉に、亜美の記憶は掘り起こされる。
覚えていないはずがない。
あの日——全部終わりにしようとして、屋上の柵を越えた夜。この世界に微塵も期待ができなくなったあの日。誰にも見つからないはずの場所で、彼女は現れた。
彼女はまさしく、天使だった。
そして、何も言わずに亜美の腕を引いて、ただ隣に座った。
それだけだった。
説教も、励ましもなかった。ただ、隣にいた。
それだけで、なぜか飛び降りる気が消えてしまったのだ。
「……なんで、ここに」
亜美が言うと、少女は肩をすくめた。
「たまたま。というか、ちょっと様子見に来ただけ」
「様子見って……」
「その後どうなったかなって」
軽い調子だった。
でも、その言葉に、亜美は少しだけ胸が詰まる。
「……別に。普通だよ」
「普通、ね」
天使の少女はベランダの手すりに腰をかけた。危なげもなく、羽をふわりと揺らしながら。
「バイト行って、帰って、お金を父親に入れて、スマホいじって、寝る。たまにちょっとしんどいくらい?」
「……」
言い当てられて、何も言えなくなる。
少女はくすっと笑った。
「顔に出てる」
「うるさい」
少しだけ、空気が柔らかくなる。
沈黙が訪れても、不思議と気まずくなかった。
夜風が二人の間を通り抜ける。
「ねえ」
しばらくして、天使の少女が口を開いた。
「亜美」
名前を呼ばれて、亜美は少し驚く。名前を呼ばれたのは初めてだった。
「……なに」
天使の少女は空を見上げたまま言った。
「私の代わりに、擬似天使をやってくれない?」
「……は?」
意味が分からなかった。
擬似天使。
単語は分かるのに、繋がらない。
「なにそれ」
「そのままの意味だよ」
天使の少女は軽く足を揺らす。
「本物の天使ってさ、結構忙しいんだよね。数も足りないし」
「いや、まず本物って何……」
「で、手が回らないところを、ちょっとだけ代わりにやってほしいの」
完全に話が飛んでいる。
でも天使の少女は真剣ではなく、どこか気楽な調子で続ける。
「別に難しいことじゃないよ。誰かの隣にいてあげるだけ」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
亜美は眉をひそめた。
「それのどこが天使なの」
「さあ」
少女は笑った。
「でも、それで助かる人もいるでしょ?」
あの日のことが、頭をよぎる。
屋上。冷たい風。柵の向こう。
そして、隣に座っていたこの少女。
——それだけで、止まれた。
「……」
亜美は視線を落とす。
自分にそんなことができるのか、分からない。
誰かを救うなんて、大それたこと。
「無理だよ」
小さく言う。
「私、そんな立派じゃないし」
少女はすぐには否定しなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う
。
「別に立派じゃなくていいよ」
「……」
「完璧じゃなくていいし、救えなくてもいい」
翼が、かすかに揺れる。
「ただ、隣にいるだけ」
それだけでいい、と。
亜美はしばらく黙ったまま考える。
夜は相変わらず静かで、世界は何も変わっていない。
それでも、どこかだけが少し違って感じた。
「……やったら」
やがて、ぽつりと口を開く。
「どうなるの」
少女は少しだけ目を細めた。
「さあ。もしかしたら、誰かが生き延びるかもね」
軽い言い方だった。
でも、その言葉はやけに重く響いた。
「……報酬は」
冗談半分で言うと、天使の少女は少し考えるふりをしてから答える。
「また会いに来るよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
亜美は小さく息を吐いた。
呆れたように、でも少しだけ笑って。
「安すぎ」
「じゃあやめる?」
「……やめるとは言ってない」
天使の少女は楽しそうに笑う。
その笑顔は、あの夜と同じだった。
「まあ、ゆっくり考えて」
立ち上がると、翼が大きく広がる。
夜の空気がわずかに揺れた。
「また来るからさ」
「……勝手に来れば」
ぶっきらぼうに返す。
天使の少女は一瞬だけ亜美を見て、柔らかく目を細めた。
「うん。またね、亜美」
そのまま、ふわりと宙へ浮かぶ。
蝶の羽が夜に溶けるように、静かに遠ざかっていく。
気づけば、もう姿は見えなかった。
残されたベランダで、亜美は空を見上げる。
さっきまでと同じ夜のはずなのに、少しだけ違って見える。
「……擬似天使、ね」
小さく呟く。
風が、ほんの少しだけやわらかかった。




