番犬、首輪を嵌められる
呟いた瞬間、いままで夢だと思っていたもの達が現実味を帯び始める。
少女の紅茶色の瞳が、じっとこちらを見据えたまま微動だにせず、“現実の存在”としてそこにいることを突きつけてくる。
手に残るカップの重みも、口に残る苦味も、まぎれもなく確かな感触。
俺は思わず息を呑み、覚悟を決めてもう一度カップに口を付けた。
苦味と酸味が再び口いっぱいに広がるが、さっきほど驚きはしない。
だがしかし、まずい。
「うえぇ、やっぱり不味すぎる。何入れたらこんな味になるんだよ」
「毒です」
その一言に、俺は思わずカップを手から落としそうになった。
カラン、と小さく音を立てて銀のトレーの上に戻る。
「え……は?」
目の前の少女――天使のような顔で、しかし声は無表情のまま、淡々とそう告げる。
「毒……?」
手に残る苦味が、今やただの味ではなく現実の重みになってのしかかる。
頭の中が一瞬、真っ白になった。
少女は微動だにせず、ただ静かに待っている。
「……お嬢様、まだ残っております。お召し上がりください」
無機質なその声に、胸の奥がざわつく。
「な、何言ってんだよ! 毒なんて飲めるわけない!」
思わず怒鳴るように言ってしまった。手に残るカップの苦味が余計に頭に血を巡らせる。
だが、これではっきりしたこともある。しっかりと感じる味覚と怒りが、全てここが夢では無いことを表している。
「お嬢様はいつもお飲みになっております。アーデルハイトでは至って普通のことです」
その言葉に、俺は目を丸くする。
「は? 普通……?」
これが……普通?
紅茶色の瞳は揺らぐことなく、事実を淡々と伝えるだけ。
この女は嘘を言ってない。
さっきまでの怒りすら混乱でかき消される。
「ちょ、ちょっと待て、俺は……いや、クルルお嬢様は、そんなの――」
頭がカァと熱くなる。
「そんなのっ……そもそも、毒を飲んだら死ぬだろ! 何考えてんだよ!」
俺の声が思わず大きくなった。カップの中身を手にしたまま、震える手を抑えながら必死に言い聞かせる。
目の前の少女は、相変わらず無表情のまま静かにこちらを見つめている。
「……クルルお嬢様は、幼い頃より訓練の一環として毒を口にされております。ゆえに、毒は効きません」
その一言で、頭の中がさらに混乱する。
訓練……? 幼い頃から……?
「お嬢様がお目覚めになられたことは、すぐに屋敷中に伝わります」
少女の紅茶色の瞳は揺るがず、淡々とこちらを見据えたまま告げる。
「もうすぐ、お嬢様のお兄様であるクロロ様もおいでになります」
少女は視線を外さず続ける。
「ですので、クロロ様がおいでになる前に、お飲みになったほうがよろしいかと」
……クロロ。
この女の、クルルの兄。
クルルの口が思わず微かに開く。その名を知らないはずなのに、聞いた瞬間から手に力が入る。
なんで俺はこんなにも恐怖を感じている?
姿も声も何も知らないはずの男に何を震えることがあるんだ。
いや、違う。これは俺が震えてるんじゃない。これは多分クルルがーーーー。
そのとき、扉の向こうから静かな足音。金属が床に触れるような、重たい響き。
「クルル」
その声に、クルルの身体がびくりと揺れた。
視線を上げると、扉の前に長身の男が立っていた。
漆黒の髪に、紫色の瞳と、無表情の顔。
瞳の奥の深い闇は、見る者の心の奥まで冷たく貫く。
無駄のない動きで部屋に足を踏み入れると、その存在感だけで空気が重くなる。
「……クロロ様」
先程まで前に立っていた使用人の少女はいつの間にか部屋の
片隅で浅く礼をした状態で瞳を閉じてぴくりとも動かない。
クルルもまた、言葉が出ないままその場に立ち尽くす。
イルヴァはゆっくりと、クルルを見下ろす。
その視線が、カップを手にしていた手に向かい、思わず手が震えた。
クロロは、微動だにせずクルルを見下ろしたまま、静かに口を開く。
「ああ、まだ飲んでいなかったんだね」
声は低く、冷たく、しかしなんの感情ものせていなかった。
だがその一言が、間違いなく部屋中の空気を支配した。
銀のトレーの上で、苦味を残すカップが光を反射してきらめく。
クルルの指先が微かに震える。
こんな事になるなら大人しく飲んでいれば良かった。
こわい。目の前のこいつはだめだ。
この身体に、それが染み付いる。
「……飲みなさい」
クロロの底のない瞳が、
「ここで判断を誤れば、何も残らない」と言っているような気がした。
手に残るカップの重みが、クルルの震える心にさらに重くのしかかる。
銀のトレーの上で、カップの中の液体が微かに揺れる。
苦味と酸味の残る匂いが、クルルの鼻をかすめるたび、胸の奥がざわついた。
「……クルル」
声のトーンは低く、冷ややかで、しかしそれ以上に重みがある。
言葉ではなく、その存在そのものが、命令以上の圧を放っていた。
クルルは目を閉じ、震える手を握りしめる。
「……はい……」
呟くように出た声はかすかで、自分でも驚くほど小さかった。
深く息を吸い込み、目を閉じたまま、一瞬の覚悟を決める。
クルルは息を整え、ゆっくりとカップを口元に運ぶ。
心臓の鼓動が耳まで響く中、冷たい液体が口に触れる。
その瞬間、彼女は幼い頃からの訓練の全てを思い出した。
毒を恐れる心と、それ以上の兄への恐怖、同時に身体に染み付いた呪いを。
口に含んだ瞬間、苦味と酸味が舌を刺激する。しかし、先程のように吐き出す程の刺激も強烈さもまったく感じなかった。
クロロは無言でクルルを見下ろしたまま、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「あー、よかった……安心したよ」
その一言には、無事であることへの安堵ではなく、クルルが、幼い頃から自分の思い通りに動く“操り人形”として、再び戻ってきたことを確認する皮肉が滲んでいた。
クルルはその声に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じる。
恐怖と、従わざるを得ない自分自身への絶望。
「三日間、眠っていたらしいね……事故か何かかな?」
さっきは唐突に幼い頃の映像が流れてきたが、それ以外はまったく思い出せていない。
自分が眠っていた理由なんて、知る由もない。
「……自分で転んでしまっただけ」
クロロは一瞬、目を細める。
だがその視線の奥に怒りはなく、ただ静かに、クルルを見据えていた。
「そうか……なら良い」
お前はいい子だね。ずぅっとそのままでいなさい。そう言い残すとクロロ…兄は部屋から出て言った。
カップの苦味を、クルルはもう一度かすかに感じるような気がして顔を歪めた。
クロロが出て行った後も、胸の奥の締め付けは消えない。
息をするたびに、体が縮こまるのがわかる。
「……なんだ、これ……」
――頭の中では悠真としての俺が冷静に考えようとする。
でも、体が――いや、クルルの感覚が――それを許さない。
手が震え、心臓が早鐘のように鳴る。目の前の光景も、ただ恐怖としてしか映らない。
あの時、クロロと対峙した瞬間にクルルの感情に飲み込まれた。
カップの苦味も、部屋の空気も、クロロの視線も、全部が重く不気味に感じた。
あれが……兄貴が妹に向ける視線かよ。
――この家はおかしい。
普通、目覚めたばかりの愛娘に毒入りの飲み物を出したりはしない。というか、日常的に訓練と称して毒を飲むとかありえんだろ。
この家、アーデルハイトだったか。
兄――と話していて少しだけクルルの記憶を見ることができた。
まだ全てとは程遠いが。
俺は小さく息を整えて、部屋を出る前に使用人の姿を探した。
「……ちょっと、いいかな」
振り向いた使用人は、表情ひとつ変えずに俺を見ていた。




