XVI 父からの逃亡
姉との約束は果たされることなく、私は強制的に家に戻ることになった。
馬車の中では悪寒がひどくなり、治まりかけていた蕁麻疹が復活して体のあちこちがかゆくなっていた。食事も少ししかとれていないので、馬車のゆれが胃に来て気分が悪い。
父はむっとした表情で見て見ぬふりをしていた。こんな状況でも仮病だと思っているのだろうか。
いやだ。こんな人とこの先暮らしていけない。
自分自身を励まし、ずっと我慢していたけど、体調はますます悪化していった。
もう少し先…、あそこまで…、
「馬車…、停め…て…」
父はこっちを向きもしない。
「…吐きそう……」
「同情を引こうとしても無駄…、うわっ」
間に合わず車内で吐いた。ほぼ黄色い胃液ばかりで、苦酸っぱさが口の中に広がった。
まだえづいている私に、父は慌てて馬車を止めさせた。
私は馬車を降り、外でも何度も吐いた。父は馭者に車内をきれいにするよう命じ、馭者は渋々馭者台から降り、しかめっ面をしながら吐瀉物を片付け始めた。
私はしゃがみこんだまま靴を脱ぎ、じっと目を閉じてめまいをこらえ、大きく息をした後全力で走った。
走る先には古めかしい建物。家に帰るならこのそばをを通るのはわかっていた。
父は弱っている私が逃げると思わなかったのだろう。逃げたところで行く宛てもないはずの私が走り出し、慌てて馭者に追いかけるよう命じた。馭者はキョロキョロとあたりを見回し、馬車から遠のいていく私を見て慌てて追ってきた。
体力が落ちていてすぐに息が苦しくなり、速度が落ち、危うく馭者に捕まりそうになったところで靴の片方を馭者に投げつけた。がっつり顔面に当たり、ひるんだすきにさらに建物に近づき、捕まる寸前でもう一方の靴を建物の門に向かって投げた。靴は門に当たってはね、向こう側に落ちた。
「どうか助けて! 中にいれてください!」
すると門が開き、中から二人の女性騎士と年老いたシスターが現れた。
騎士が倒れ込んだ私を受け止め、もう一人の騎士が馭者と遅れてやってきた父の前に立ち、剣を抜いた。
「このご婦人は助けを請い、その身の代わりが修道院に入った。このご婦人は当修道会預かりとなる。男性はこれより中に入ることは許されない」
私が目指したこの場所は女子修道院だった。
すぐさま私は中に入れてもらい、どんなに父が騒ごうと中に立ち入ることは許されず、門は閉ざされた。
私の熱はさらに上がっていた。すぐに休める部屋を用意してくれ、ベッドに横になったところで力尽きた。全てが限界だった。
お医者様はいなかったけれど、修道院に常備してある薬をもらい、シスターが交代で付き添って看病してくれた。
そのおかげで二日ほどで熱は下がり、三日目には起き上がれるようになった。蕁麻疹もおさまっていき、回復に合わせて様子を見ながら徐々に体を動かした。
シスター達は高齢の人が多く、微力でも手伝えることはあった。私の他にも保護されている人はいて、その人たちと協力しながら食事の準備、掃除、洗濯といった身の回りの事をこなした。
治癒魔法が使えるようになるにはそれからさらに一週間かかった。自分の実力にそぐわないことをし、力を使い果たしてしまい、下手したらもう二度と治癒魔法を使えなくなっていたかもしれない。
でもあの事故現場にいて誰かを見捨てることはできなかった。周りからは手抜きだと文句を言われたけれど、あれでも私にできた最善だったと今でも思っている。足りない治癒は後から補える可能性があるけれど、命を失えばもう戻ってくることはないのだから。
修道院の庭に薬草を見つけ、ちょっとした薬を調合し、修道院の常備だけでなく町で売ってもらって生活の足しにした。よく見ると薬草になる草を選んで植えてあるみたいだけど、手入れはされていない。かつては薬草の世話をし薬を作っていた修道女がいたそうだけれど、その人がいなくなってからは誰もその草の価値をわかってなくて生えっぱなしになっていた。この地に馴染む他の草に押されているものもあれば、迷惑なまでに伸び放題のものもある。
時々薬を納めに来る薬師が「草抜き」と称して薬草だけをただで摘んでいるらしい。せめて周りの草もきれいにしてくれていたら文句はないけど、ちょっとやり方が気に入らない。
次に薬師が来た時、庭が整えられ、薬草畑らしくなっているのを見て薬師は困った顔をしていた。私がにんまり笑いかけるとさすがに「草抜き」するとは言わなかった。
ここの薬草を分ける代わりに薬代の値引きができないか交渉し、これまでの分を含めて一年間は半額に、その後は二割引きにしてもらうことで話がついた。
「…たくましいなぁ。薬師というより商売人だ」
「そっちこそ」
見分ける目を持つ者が草をお金に替えられる。それもまた薬師の価値というもの。
修道院に来て一か月が過ぎ、その間に何度か父や執事が私を呼び戻しに来ていた。
「今はまだ会いたくありません」
私が拒否すると面会の許可はおりず、帰るしかない。執事は諦めがよかったけど、父は時々悪態をついているのが聞こえてきた。
そろそろ私も覚悟を決めなければいけない。
父が私に暴力を振るった訳ではなく、姉のいなくなった領を妹である私が継ぐのは当たり前と言えば当たり前。貴族の常識ではこうして逃げている私が甘えていると取られるかもしれない。
家に帰るよう言われれば私を匿ってくれるところはない。どうしたらいいんだろう…。
「ここにいていいのよ」
この修道院の院長をしているシスター・ヘルガが、私の不安を察して声をかけてくれた。
「嫌なことと戦わなければいけない時もあるけど、長い人生、戦ってばかりでは疲れてしまうわ。時には逃げて、しっかり休んで。利用できるものは利用していいのよ」
利用して…?
「ここは小さな修道院だけど、うちの修道会は決して小さくはないのよ。修道女見習いだって修道会の保護の対象になる。気が向けばそのまま修道女になってもいいけれど」
それは、逆に言うと、…必ずしも修道女にならなくてもいい、ということ?
素敵な笑顔でアドバイスをくれたシスター・ヘルガ。そのアドバイスに乗っかり、私は修道女見習いにしてもらい、このまま修道院に残ることにした。




