三人の公達の母
安孫は此処が何処かも分からずに、暗く淀んだ世界を歩き続けていた。何処まで行っても何処にも辿り着かず、とうとうその場にしゃがみ込んだ。もうどれくらいの時間を、こうして彷徨っているのかも分からない。此処が何処で、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からず、突如として現れた世界を彷徨い続けている。
「——はあ。此処が黄泉の国と呼ばれる所であろうか? 某、いつの間に死んでしもうたのだろう」
それでも死んだ実感などなく、安孫はただただ溜息ばかり吐くのであった。そこに突如として、眩い光が差し込んできたかと思うと、ぐっと目を瞑った安孫の前に、懐かしい声がした。
「——大きくなりましたね、小松」
「え……?」
瞼を開けたそこに、優しく微笑む女人の姿があった。
「ははうえっ……」
俄かには信じられず、安孫は呼吸すら忘れていた。それでも亡き母との再会に、涙が溢れてくる。
「ふふ。男の子が泣いてはだめよ、小松」
愛情を持って、女人——阿尾菜御前が息子の頬をつねる。
「いたたたっ! 母上、痛うございますればっ……」
「泣かない?」
「泣きませぬ! 泣きませぬゆえ、お離しくだされっ……!」
ぎゃあぎゃあと喚く安孫に、阿尾菜御前も笑って手を離した。それから安孫は、時間を忘れて母に甘えた。七歳で実母を亡くした安孫は、その後、道久の後妻となった北方に、春日家の跡目の座を義弟に譲るよう、幾度となく迫られた。その度に自らが嫡男であると主張するも、位の低い貴族の出であった実母では、名門貴族の出である北方の息子らのような、強力な後ろ盾があるわけではなかった。それでも嫡男としての矜持を持ち続けたのは、父、道久からの期待があるからだ。
「父上もきっと、母上に御会いしとうございましょうな……」
母に膝枕されながら、安孫が夢心地に言う。
「ふふ。どうかしらね。あの人は、恥ずかしがり屋だから」
阿尾菜御前が愛おしそうに、息子の頭を撫でる。そこに、突如として朱鷺と水影が現われた。
「おお、安孫。斯様な場所におったか」
「まったく、日の下一の武人が、簡単に偽者と入れ替わって如何されます」
嫌味宜しく、水影が言った。恥ずかしい場面を見られ、「ぎゃっ!」と安孫が立ち上がる。
「もう遅うございますよ、安孫殿」
ばっちり母に甘えているところを見た水影によって、安孫が「あーうー」と頬を掻く。朱鷺もまた、ニヨニヨとした笑みを浮かべている。
「あら、宮様方もいらしたのですね。ならば、皆様方もお慶びになられることでしょう」
微笑みを浮かべる阿尾菜御前に、朱鷺と水影が怪訝な表情を浮かべる。
「皆様方? 貴方様はすでに——」
「——相槌丸や」
背後から聞こえた声に、水影の思考が止まる。振り返ったそこに、一人の女人が立っていた。記憶にはないものの、藍式部そっくりの美しい女官姿の女人に、「……母上?」と呆然と口にする。
「ええ。わたくしが貴方の母、菫式部ですよ」
「うっ……」
思わず声が漏れた水影。生まれて一年程で流行り病にて亡くなったと聞いていた母の姿に、信じられないと言わんばかりの動揺を見せている。
「ああ、わたくしの息子は、何と可愛らしいのでしょう! もうっ、ぎゅっとさせてちょうだいな!」
「わわっ、母上っ?」
利発な面持ちの菫式部が、大きく成長した息子を前に、感情を抑えきれない。その体をぎゅうっと抱きしめ、離さない。
「は、ははうえっ、お離しくだされっ、主が見ておりまする!」
赤面する水影に、朱鷺が純粋に笑う。
「良かったのう、水影。母御に会えて」
「——時宮よ」
朱鷺の背後からも、懐かしい声がした。振り返ったそこに、亡き父母——夕鶴帝と紫陽花宮が立っていた。
「母上……! お懐かしゅう!」
父、夕鶴帝には目もくれず、朱鷺が母の下へと走っていく。その手を取り、「お美しゅうございますなぁ、母上」と実の母を口説く。
「これっ! 紫陽花宮は俺のものぞ!」
「なに。斯様な堅物帝より、時宮の方が愛らしゅうございましょう? 母上」
「おい、小僧の分際で我が后を奪おうとするでないわ」
「ふん。鶴の世は、とっくの昔に終わりましたぞ。今は朱鷺さえずりし世。私の世にございますれば」
つんと、朱鷺がそっぽを向く。実の父との再会など、何の感動もないかのようだ。
三人が懐かしい身内との再会に胸が高鳴るのを、偽世にて理想の世界を築こうと目論む黄呂が、したり顔で笑う。その隣には大天狗の姿があるも、偽世を作り出した黄呂に、そっと目を伏せた。




