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【怜サイド】

今回は男の子サイドです。お楽しみいただけたら幸いです。



あの日。君に懐かしい髭の絵柄のカフェラテを貰った日。何故あんなにも必死になって走ったのか、実の所、俺にも良く分からないんだ。ただ、何かに急き立てられる様に、走れ、兎に角走れって声が聞こえた気がした。たぶん、かつて夏を目前にしたあの日々に、冷たいカフェラテを片手に君に懸命に声を掛けていた勇敢で臆病な俺が、性懲りも無く飛び出して来たんだと思う。もしかしたら、君は俺の事を変わったと言うかもしれない。でも、本当にそうかな。俺はいつだって、君の手を掴もうと走ってる。



 

 ◆◆◆


 彼女と出会ったばかりの頃の俺は、今よりも随分と子供で、でも完全に子供だとも言いきれない何とも微妙な年頃だった。剥きだしのままに柔らかい心は、ほんの些細な言葉に、曖昧な天気に、なんて事の無い週の始まりにさえ敏感に反応を示して、どうにも喉に何かが引っかかった様な息苦しさを感じながら、それをそっと伏せる様にして生きていた。自信は何一つない癖に、それを悟られないように自分を飾っていた。まるで生まれたてのトカゲのようだ。一部だけを青くぎらぎらと際立たせ、ありもしない余裕を振りかざす。その事にあまりにも必死で、その様があまりにも滑稽で。知らず知らず、他者の痛みには酷く鈍くなってしまっていたような気がする。

 

 放課後は、よく雑踏の街中を、友人……と呼べるのかどうかも疑わしい奴らと金も目的もなく歩いた。



  

 

“○月×日 △△県の高校の……飛び降りたと…………“

 

 手元には、用もないのに弄る携帯電話の画面。ショッキングな言葉が並ぶ記事を、いつもの事だと読み流した。

 

『なあ、怜。委員長って、ちょっと恐くね?』

『ん~? ああ……』


 名前を呼ばれた俺は、画面から視線を逸らす事無く声だけで適当に答える。学校では、少しクールな位が丁度良い。友人も、気にする風でもなく続ける。

 

『だってさぁ、さっきもニコリともしないんだぜ? 遅れて出した俺も悪いけどさぁ』

『……ぶってんじゃない? 私はあんたらとはちげーよって。慣れてるけどさぁ、見た目だけで馬鹿にされるの、マジめにダルいよね』


 見た目だけで判断してるのはどっちだよ。咄嗟にそう思うけれど、言葉にはしない。無駄な諍いは避けたい。耳を塞ぎたくなるような乱暴な言葉も、じんわりと肌に馴染ませる。

 

 ふと、話題に出た件の彼女を思い出す。俺も先日、友人と同じ様に渡されていた用紙を提出した。受け取りの時の、制服の袖から伸びた真白い手や腕が脳裏に浮かぶ。大きくはない背丈に、華奢な体。心根を表すかのような、真っ直ぐで艶やかな黒髪。女の子にしては、低めのトーンで紡ぐ癖の少ない語り口調。

 

 無意識に携帯電話の画面から顔を上げると、友人の鞄の外ポケットに、くしゃくしゃにして丸めて詰め込まれたプリントの一部が見えた。提出した用紙の片割れだ。学生の頃は何かと手書きで、その用紙も彼女の手作りだった。誰にでも分かるよう丁寧な言葉で、整頓された文字が並んでいたのを思い出す。


 字が、めっちゃ綺麗なんだよなぁ……。


 俺は、ただそんな感想を抱く。まだまだ子供っぽい俺らとは、質が違う。残念な事に、彼女は俺の時間、俺の世界にはいない、そんな人だった。




 

 ◇◇◇

 

 がこんっと、小気味いい音を鳴らして受け取り口に飲み物が落ちる。人が(まば)らなオフィスの休憩室で、マスクをずらして新鮮な空気を吸い、立ったまま冷えた炭酸飲料を飲む。胃が幾分すっきりし、仕事で煮え切った頭を鎮める。

 辺りを見回すと、近くの壁にSDGsの文字のポスターが貼られていた。不安な未来を、明るい言葉で押し上げようという切実さを感じる。缶に口を寄せながら、何となく窓際に足を運ぶ。窓を覗きこむとその下にはがらんとした幅広の交差点が見える。それを見ていると、自分だけが別の世界に迷い込んでしまったような不思議な心地がする。人々はどこへ消えてしまったのか。

 空には、朝から分厚い雲が掛かっている。節電により明かりを抑えている事と相まって、室内は昼間とは思えない程に暗い。反面、外はかなり蒸し暑い筈なのに、驚く程に涼しい。節電と快適と、世の中はちぐはぐだ。

 

 

 社会人になって数年。漸く要領を得て来た。視野が広がり、どう動き、どう演じ、どう呼吸をすれば良いのかが掴めてきた所だった。けれどそれもまた、予想外の事でいとも簡単に変わってしまう。拘束時間を鬱陶しく感じていたのに、必要な時にのみ出社して、必要な時にのみ連絡を取り合うというスタイルは、俺にはなんとも心もとなく感じられていた。簡単な質問さえ、して良いのかどうか迷ってしまう。また、呼吸の方法がわからなくなる。要するに俺は無い物ねだりなのかもしれない。

 

 

「お疲れ様~。岡田君も来てたんだ」


 不意に後ろから声が掛かる。驚いて振り返ると、丸い眼鏡が印象的で柔らかそうな髪をふわふわと伸ばす先輩社員がそこに居た。俺は、口角を上げ軽く頭を下げ、その言葉に答える。先輩は、自販機で飲み物を買って、俺の近くの席に座った。俺もそれに倣って、一旦腰を掛ける事にした。


「社内も随分と変わったよね。すぐに“リモート”なんて言葉が出て来てさ。数か月でシステムを作り変えて、適応能力の高さに本当に感服するよ」


 先輩が、マスクをずらしてブラックコーヒーを飲み始めた。久しぶりにみるその顔に、思わず相好が崩れる。実は俺は、この人の事をとても気に入っている。何かと気に掛けてくれるのに、いつも飄々としていて、話していると気持ちが一定の場所に落ち着いていく。オフィスの中の、少ない救いだ。

 

「俺は着いて行くのがやっとです。資料も順次データに変えてくれているのに、待ち切れずに出社したり」

「あ~、わかるわかる。たった数日待てば良いだけなのにね。今までが今までだっただけに、身の置き所に困るよね」俺の手元で、炭酸飲料がシュワシュワと音を立てている。

「本当に、この国はどうなっちゃうんだろうね」

 

 その言葉が、この薄暗い休憩室の中に溶けて行った。先輩は、変わらず穏やかに微笑んでいる。俺は、何も言わずまた炭酸飲料を飲み込んだ。先輩も、ぐっと冷たいブラックコーヒーを飲み込んで、快活に言った。

 

「でも、そうだよ。岡田君は結婚するんじゃないか。今は家に居たいでしょう」

 

 鼓動が跳ね、羞恥で頬が熱くなる。あの日、彼女にカフェラテを貰った日に、俺は結婚しようと彼女に告げた。指輪も花束も無い、ボロボロに走った後の本当に恰好のつかないプロポーズだった。それでも、ひとまず方向性が決まって、彼女も安心したように、嬉しそうに笑ってくれた。

 

「あの日は、急に早退するって言いだしてどうしたのかと思ったよ。体調が悪いって聞いていたけど、本当はプロポーズしに行ってたって聞いて、何だか嬉しくて笑っちゃったもん」

「先日は、本当にすみません。何と言えば良いのか……つい飛び出してしまって」

「良いの良いの。楽しかったから。やっぱりさ、そのくらい楽しい事もなくちゃだよね」

「先輩は、もう結婚されて長いんですか?」

「僕? 僕は、もう10年になるよ。娘も今年もう6歳だ。可愛いんだから」

 

 本当に嬉しそうに話す先輩の笑顔が、眩しかった。これが、父親の姿なのだろうか。


「奥さんとは、どこで知り合われたんですか?」

「……そうだね。まあ、有り体に言えば合コンかな。大学のサークルの繋がりで、友達の友達に、友達を連れて来て貰ったの」 

「結婚式とか、どうされました?」

「え? 式、挙げるの?」

 

 先輩は、目を丸くした。無理はない。今の社会の風潮は、自粛。そんな中での慶事。社会人としてどうなのだと、言われてしまうだろうか? さらに俺達の場合、彼女の体調に気遣いながら、本来であれば1年近く掛けて準備する物を約半年以内に準備しなければいけない。彼女は、ウエディングドレス姿の写真だけでもとれたら嬉しいと言った。体型が大きく変わる前にと。ただ、折角二人で装いを合わせるなら、家族だけにでも見せられたら嬉しいという事も言っていた。

 

「プロポーズもまともにしてやれなかったんで、式だけでも挙げられないかなと……。写真だけと言うのも、何だか寂しい様な気がして」

 

 本当は、少し前からずっと考えていた。二人の将来の事を。ただ、結婚するとなると先立つ物が必要で。婚約指輪に結婚指輪、挙式に披露宴となると、とんでもない額が出て行く事になる。今のご時世、年若い俺がそんなに裕福な筈も無い。結婚を提案するにも、彼女の夢や願いを叶えてやれないんじゃないかと思うと、二の足を踏んでしまった。こんなにも情けない俺が、大勢の人の前で、彼女を幸せにしますなんて声高に言えるだろうか。あまりに現実味がなくて、それこそ滑稽に写ってしまうような気がしてしまう。


「そうだね。やっぱり挙式ってさ、憧れのようなものがあるよね。特に女性には。そんなに焦らなくても良い様な気もするけど、却って今の方が職場の人間も呼ばずに、本当に心の通った人達とだけで終わらせられて良いのかもしれないね」


 子供が出来た事は、何となく伏せていた。先輩の人柄はわかっていても、出来てしまったから結婚したんだと憶測されるのも嫌だった。順序はどうであれ、彼女以外を求めた事はないし、自分なりに二人の関係を大切にしてきた結果だったから。

 

「はい。折角の節目なので、家族だけにでも見て貰えたらなと。ただ、今後の生活の為に余力も残しておきたいので、そんなに大それた事は出来ないのですが」

「そうね~。でも、だったら、僕の話はあまり参考にならないかも。僕らが式を挙げた頃は、両親に頼ってでも大げさな式を挙げる事がまだ主流だったから。今思うと恰好悪いね」

「そんな事は……。ただ、聞きたいのは、その内容の方でして」

「内容?」

「はい、その……」


 俺はつい口籠る。先輩は首を傾げて、俺の言葉を待ってくれた。俺は、思い切って発言する。


「サプライズというか……演出はどうされたかなと思って」


 誰の言葉だったか、男は好きな女を笑わせる為に、人生で一度くらい本気で道化になれという言葉を聞いた事がある。その経験が、男を男にすると。ただそれを言ったら、今度こそ大いに笑われた。俺はまた炭酸飲料をぐいっと一飲みした。色んな空気が、言葉が、気持ちが、泡と一緒にはじけて消えた。


 



 結局、その場では何のアイディアも浮かばなかった。先輩は今後も相談に乗ってくれるそうで、追って連絡を取り合う事を約束し、各々仕事に戻った。幸いその後は全てがスムーズに進み、夕方になる前には会社を出られる事になった。けれど、彼女が在宅で仕事をしている事を思い出し、歩みが止まった。できれば、邪魔をしたくない。


 少し考えて、俺は自分の実家に帰ってみる事にした。先輩によると、幼い頃の写真や動画なんかは使えるそうで、アルバムくらい手元に置いておいた方が良いとの事だったから。会社の外に出ると、雨が降り始めていた。結構な大降りだ。俺は傘を差して歩き、駅に入り電車に飛び乗った。


 雨の街を走る電車は、先程の休憩室同様、とても快適だった。電車に乗っていると、俺は時々宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出す。普段、本なんて絶対に読まなかった俺に、たった一つ、彼女が薦めてくれたものだ。正直、想像力に乏しい俺はその物語を完全には理解できていないように思う。けれど、今日は何となくその情景が見えた気がした。雨のせいかも知れない。人の居ない、あまりにも静かな車内の所為かも知れない。常世から切り離された別の空間で、俺はジョバンニやカムパネルラを思い出しつつ、やっぱりその先に居る彼女を思い出した。




 ◆◆◆

 

 あの日も、こんな風に雨が降っていた。しとしと、と言うよりは、ざあざあと。賑やかに、打ち付ける様に。

 

『怜! 食事の時くらい携帯仕舞いなさい!』


 朝から響く母親の声。煩わしくて仕方がない。俺は、溜息を吐きながら携帯電話をその場に置いた。いつもの事だと黙っていた妹が、テレビのチャンネルを回す。


『○月×日 △△県の高校で……女子生徒が……線路に…………なお、遺書などは見つかっておらず……』


 また、あのニュースだ。キャスターは、深刻な顔で痛ましい事件が起きてしまったと事件を伝える。その女生徒は、家族の意向なのか未成年だからなのか、顔も名前も出て来ない。ほんの数分のニュース。これを全く関係のない俺なんかが見て、故人は浮かばれるのだろうか? 何らかの抑止力に繋がるのだろうか。話題はすぐに次に移る。がやがやがやがやと、テレビの人々は眩しいくらいの光を浴びながら賑やかに音を立てる。


 

『ねえ、聞いてる? また先月のバイト代全部使っちゃったの?』 

 

 テーブルの上で、ひっきりなしに振るえる携帯電話。俺は、食事を進めながら再び携帯電話に手を伸ばす。見ても“おはよー”とか”ダルイ”とか、大して内容の無い物ばかり。けれどこの瞬間、彼らの中には確かに俺が存在していて、その事に心は不思議と高揚し、俺は母親の言葉を無視して即レスしていた。


『もう、本当に、ちゃんと話し聞いて。塾代くらい自分で払えない? 一部でも良いから。お母さんもお金、大変なのよ』


 父親は、俺や妹が幼い頃に出て行った。養育費などの支払が、続いているのかはよくわからない。ただ、俺や妹の誕生日のたびに、幾ばくかの金と一緒に離婚届が送られて来ているのは知っていた。母親は、こっそりと破り捨てているようだったけど。


 母親が、金が無いと言うのはいつもの事だ。俺も、甘えているという事はよくわかってる。でも、つい心が反発してしまう。金が無いなら、こんな家早々に売っぱらって、離婚でも何でもすれば良い。そうすれば、一人親なんとかって言うのが出るんだろ? サインをすれば良いだけだ。簡単じゃないか。俺らの為、俺らの為って、全く俺らの為になってねーじゃねーか。

 

 けれど一方で、母親の気持ちもよく分かる。何で何も悪くない母親が、妻と子供を捨てて自分勝手に道を選んだ奴らの為に、肩身の狭い思いをしなくちゃいけないんだ? 何故、あくせく働いて二人を育てなくちゃいけないんだ。色んな気持ちが混ざり合い、ぶつかり追いつめられる。俺は馬鹿だから、その気持ちを表す言葉を知らなかった。

 

『もう、本当に携帯止めなさい! 黙ってないで、何とか言って! ……そういう所、本当にお父さんにそっくり』

 

 呟くように言われた最後の言葉に反応して、俺は、バンっと箸をテーブルに叩きつけ、無言のまま席を立った。怒っているのか泣きそうなのかわからない母親と、一瞬目が合う。妹も、気遣うように視線を寄越す。すべてが鬱陶しい。その後も、何かと言葉を掛けて来る母親と妹に目も向けず、何も言わずに家を出る。家を出れば見知った顔があった。今日は厄日だ。


『あら? 怜くん、早いのね』

『っす。おはようございます』


 学校では、少しクールな位が丁度良い。対して家の近所では、ハキハキと愛想が良ければ何も言われない。


『お父さん、まだ海外赴任してるの? 寂しいわね』


 他人の家の事なんてどうでも良くない? なんで放っておいてくれないんだ。雨が降っていて良かった。早々にこの場を切り上げられるから。適当に返事をし、傘を差して駅を目指す。途中、外部の音を遮断する為にイヤホンを身につける。好きだった筈の音楽も、今はただただ煩く感じる。その間も、携帯電話は震え続ける。音、声、文字、音……頭の中がいっぱいだ。

 

 電車に乗ろうと定期を出す。中には、入れっぱなしにしていた家族4人の写真があった。そこで笑う家族は、もうこの世のどこにもいない。

 

 目の前を通り過ぎる電車に、ふと、今朝のニュースを思い出す。()()()()()()するつもりは毛頭ない。でも、空に飛んだその女子生徒は……静寂を手に入れる事が出来たのだろうか?

 

 

 

 そんな事があって、その日はいつもより早く学校に着いた。幸い雨足はぐっと弱まったものの、むっとする空気も、濡れてしまったズボンの裾の感触も、体を気だるく重くする。教室の扉は開いていて、中を見ると、席にはもう彼女がいた。

 一番窓際の後ろから二番目。彼女は、俺の存在に気が付きもせず、姿勢良く机に向かいマイペースに手元の本のページを捲る。よく、あんなにずっと活字を目で追えるな。本なんて、読んだ事もない。


 邪魔しちゃ……悪いよな? でも、挨拶しないのもどうなんだ?


 決めあぐねて、つい入り口付近に立ったまま彼女をじっと見る。ふと……彼女の表情が、微妙に変わっている事に気が付いた。ページを捲る手に合わせて、柔らかい笑顔で微笑む。窓の外の雨の音がしとしとと響く程、とても静かな時間だった。


 もう一度、外を回って来るか。

 彼女の邪魔をしたくない。けれど、無情にもブー、ブーとポケットの中で携帯電話が振動する。


 ……わっ! やべっ! うるせっ!

 そう思った時には遅かった。顔を上げれば、彼女とバッチリ目があった。


「……っす」


 何だか、自分が妙に恰好悪く感じた。気恥かしさに、勝手に頬が熱くなる。ごまかすように、視線を逸らして咳払いする。


「ああ。岡田君。おはよう」


 名前、知ってたのか……。いつも同じ姿勢、同じ時間、同じ場所に居る彼女。遠くに飾られている美しい肖像画のように感じていた彼女も、生身の人間なんだと言う事を知った気がした。彼女はすぐに手元の本に視線を戻し、俺は無事、自分の席に辿り着いた。

 携帯電話は、絶え間なく震え続ける。いつものように携帯電話を開くけど、内容は全く頭に入って来なかった。だから、俺は、初めて携帯電話の電源を切ってみた。しとしと、しとしと。外は、暗いのに、明るかった。俺は静かに目を閉じて、後ろから聞こえてくるページを捲る音に暫く耳を澄ませた。



 ◇◇◇


 電車が止まり、駅を離れ歩く事数分。背丈のあまり大きくないマンションが見えてくる。実家とは言え、実は俺はここに暮らした事は無い。結局、長年住んでいた家は維持する事が難しく、俺が社会人になるとほぼ同時に母親は手離す事を決断した。今は、妹と二人で2DKのこじんまりとした部屋に暮らしている。何の意味があるのか分からないけれど、本当は、妹が嫁ぐ時までは家を維持したかったらしい。ちゃんとした門構えの家から、巣立たせたかったと言っていた。でも、俺の事はそうできたから、ひとまず良しと笑っていた顔を思い出す。


 渡された鍵を差し込み、扉を開ける。中には、予想外に人の気配があった。


「え? お兄ちゃん? お帰り。急にどうしたの?」

 

 妹が部屋から出てきて声を掛けて来た。俺は濡れた傘を玄関の外に置いて、靴を脱いで部屋に入る。


「色々、物取りに来た。お前、大学は? 大学も今は在宅なの?」

「そーだよー。まだ休講で、課題だけのも多いけど、最近動画になってってる。バイト以外出掛けないから、本当に太りそうだよもう」


 妹は、最近ますます母親にどこか似て来た気がする。俺は話を聞きながら、真っ直ぐに母親の部屋に向かう。部屋は綺麗に片付いて、まるで小さな生活を楽しむように、彩り豊かなラグや小さな観葉植物が置かれていた。かつての家に居た頃は、なかった気がする。俺が気が付かなかっただけかも知れないけれど。

 目的のアルバムを探そうと目をくべると、本棚が目に入る。本棚には、びっしりと色んなサイズの本が詰め込まれるように並んでいた。屈みこんで一つ一つ探ってみるが、目的の物は見当たらない。

 

「お兄ちゃん、何してるの? 何か探してるの?」

「ん~……なあ、アルバムってどこにあるかわかるか?」

「アルバム? 何、お兄ちゃん、結婚するの?」


 妹は、時々妙に目ざとい。その賢さを、他に使え。


「まあ。仕事も落ち着いてきたから。それより、知らない? 場所」

「知ってるよ。リビングのクローゼット。普段使わないものだから、そこに箱に入って仕舞ってあると思う」


 妹について場所を移動する。クローゼットの手前にある掃除用具等を一旦外に出し、奥にひっそりと仕舞われた段ボールを取り出した。そこには、アルバムだけでなく、俺や妹の卒業証書や通知表、よくわからない賞状までひとつひとつファイルにいれて保管されていた。


「うわぁ。ちょう懐かしい。プールの成績10級だって。顔をつけられるようになりましただって。何だか可愛いねぇ」


 妹があちらこちらを手にとっては、楽しそうに声を掛けて来る。それに応じながら、アルバムを捲る。写真は、思っていた以上の数があった。その中には、当たり前のように父親の姿もあった。こんな顔してたんだっけと、少し昔に想いを馳せた。



 ◆◆◆


『お前達には、悪いと思ってる』


 父親が神妙な顔で言う。母親は、ぐずぐずと泣きながら、堪えきれない怒りを伝えていた。目で、声で、動作で……。妹はまだ何も分からないくらい小さかった。なのに空気を察しているのか、どう宥めても泣きやまなかった。父親が、おもむろに立ち上がり部屋を出る。部屋の外で話を聞いていた俺と妹を見かけ、何を思ったのかポケットを探り何かを渡して来た。それがあの、どこか子供っぽい髭の絵柄の入った、冷たいカフェラテだった。

 

 子供に、カフェラテかよ……。

 そう思ったのに、飲んだそれは、ほんのり苦く、ほんのり甘く、妙に美味しかった。


 それから、俺は時々そのカフェラテを買うようになった。部活や人間関係で落ち込んだ時、母親と喧嘩した時、試験の朝。当時は、自販機に行けば大体そのカフェラテがあった。シリーズ展開されていて、ビターなものや無糖のもの、季節によって温かくなっている事もあった。けれどそれも、徐々に頻度を落とし、高校に入ってからはすっかり忘れてしまって飲まなくなっていた。思い出したのは、やっぱり彼女が絡んでの事だった。


 


 俺はあの静かな朝以来、彼女を目で追うようになった。彼女のリズムは一定だった。いつも淡々と、たった一人……なのに確立された何かで、静けさを纏いながら、この世界に居場所を作っていた。寂しそうでもなく、むしろ一人を楽しむように。彼女を目で追う時間が、甘く痺れる様になるのに時間は掛からなかった。いつからか、こっちを見てくれと念じる様になった。


 ある放課後、偶然、一人でいる時に彼女を見つけた。僅かな廂に守られた校舎裏のベンチで、彼女は一人、また本を読んでいた。夏を目前に、外は暑い。彼女は、暑くないんだろうか?


 ふと、俺の脇にある自販機が目に入った。そこには、父親に貰ったのと同じ……ほんのり苦くて、ほんのり甘い、あの髭の絵柄の冷たいカフェラテがあった。

 

 もし……もし、コレを彼女にあげられたら。それで、もし、彼女がコレを好きだと言ったら……。

 もう少し、頑張ってみようか?

 

 

 ◇◇◇

 

「お前さぁ、昔の事とか覚えてる? 父さんが居た頃の事とか」

「ん~、一緒に暮らしてた事とかは忘れちゃった。でも、時々会いに来てくれてたから。一緒に遊びに行った事とかは覚えてるよ~」

「え? 嘘でしょ? 一緒に遊びに行った事なんてあったっけ?」

「あれ? ああ、そうか。お兄ちゃん、お父さんに会いたくないって言って、一緒に行かなかったのかも。夏休みとか冬休みに、遊園地とか水族館とかに連れてってくれたよ。それも私が中学生になってから、無くなって行ったけど」

「そう、だったんだ」

「お父さん、お兄ちゃんの様子、結構聞いて来たよ。お母さんの様子も。申し訳ないっていつも言っていた」


 俺は、何も言えなくなった。その言葉を、こいつは、どんな気持ちで受け止めていたんだろうと思ってしまって。ぐらっと、頭に血が昇る。謝る奴はずるい。謝られたら、許さなくてはいけなくなる。怒りも、悲しみも、飲み込まなくてはいけない。俺は、どうだったろう。俺が記憶している父との再会は、高校に入学してからだった。どんな気持ちで、その言葉を受け止めたんだっけ。



 ◆◆◆


 努力の甲斐あって、何とか彼女と近づく事に成功した俺は、どこか浮かれていた。

 彼女は予想通り、いや、それ以上にぶれない人で、そんな所に益々惹き付けられた。意外に天然な所もあって、時折、珍しくツボに入って笑う声が聞けると、内心でガッツポーズを取った。進学したら髪を染めたいという話しになった時は、必死にそのままで良いと言った。彼女の事を一つ知る度に、ノートに書き込んで置きたい程嬉しかったし、実際にそうしていたような気もする。

 

 本当は、勇気を出して、夏休みも会おうと約束を取り付けるつもりだった。でも、いつも肝心な言葉が出て来なくて、核心から微妙に逸れた所ばかりを話題に選んでいた。そんな情けない自分に嫌気をさしながらも、彼女がくれるほんの小さな優しさを拠り所に、彼女に声をかけ続けた。彼女の特別になりたいと思っていたし、実際、どこかでなれているんじゃないだろうかと高を括っていた。

 

 初めて得た恋を、もしかすると自分に都合良く解釈していたのかもしれない。彼女の事情を何一つ彼女の口から聞く事はできないまま、人伝に彼女の引越しの話を聞いた。夏休み前の出来事だった。

 問い詰めると、彼女は『元気でね』と言って立ち去った。カフェラテを受け取らずに。だから、ああ、終わったんだなと、そう思った。それ以上追い駆けられる程、俺は強くは無かった。




 

 

 夏休みは、友人と遊ぶ気にもなれず、当時していたイタリアンカフェのアルバイトをかなりの日数入れた。お陰で、母親には大いに感謝された。友人に、新しい出逢いを勧められたりもしたけれど、何だか疲れ切ってしまっていて、外出は最低限に留めた。

 夏休みが明け、学校に行くと、すぐに席替えが行われた。彼女の席には、別の男子生徒が座った。彼女が居た形跡は、どこにもなくなってしまった。まるで夢を見ていたみたいだった。彼女が醸し出す静かなリズムが恋しかった。そんな折の事だった。父親から俺宛てに連絡が来たのは。


 季節はもう、秋から冬に変わる頃だった。待ち合わせ場所は、ファミレスだった。積年の恨みを晴らしてやるくらいのつもりで向かった。ベルの音を鳴らし扉を開け、店内を見渡すと手を振っている男が見えた。記憶通りの様な、記憶とは少し違う様な。とにかく馴染みのない知っている顔を前に、たじろいだ。ずっとパスケースに入れていた写真では動かなかった男が、生身の人間として動いている事に、心臓が痛いくらいに脈打ったのを覚えている。


 父親の前の席にどさっと腰掛け、足を組んで視線を伏せた。上着も脱がず、ポケットに手を突っ込んで。何を頼むか聞かれたが、何を思ったのか、俺はホットコーヒーを頼んだ。当時はまだ、飲めもしなかったのに。兎に角、舐められたくなかったんだと思う。その後は、少しの沈黙が続いた。先に口を開いたのは、父だった。


『大きくなったな』


 俺は何も答えなかった。程なくして、コーヒーも運ばれてきた。暫く、父の独り言が続いた。

 

『学校は、楽しいか?』

『部活は、何か入ってるのか? 昔はサッカーをやってたよな』

『勉強は、どうだろう……お前は母さんに似て、頭が良かったから』

『父さんはな、健康の為に、歩く様にしてるんだ。通勤や休憩時間に。職場の近くに港があって、時々そこで海を見るんだ。釣りをしてる人も多くいて、今時分もカンパチなんかが取れるらしい。俺も、釣りを始めてみようかと時々思うよ』


 父は、穏やかに、けれど根気強く声を掛けて来た。俺は、コーヒーを見つめながら、少しずつ落ち着きを得て行った。それでも、顔をあげる事は出来ず、声だけを聞いていた。そんな時も、携帯電話が時々震えて、俺は何だかその度に救われるような気持ちになった。誰からの連絡かはわからないけれど、この時自分を思い出してくれている存在に、励まされているような気さえした。


『……好きな子は、出来たか?』


 その質問に、彼女を思い出した。いつも淡々とマイペースで、結局俺を置いて去ってしまった彼女。まあ、別に付き合っていたわけじゃないから、彼女を恨むのは筋違いなんだけれど。せめて友人として、彼女の口から教えて欲しかった。でも、そうだったとして、何か状況は変わっていただろうか?

 結局俺は、肝心な事を何も言えないまま、和やかに別れを告げて終えていたんじゃないだろうか。たった、数駅隣の街に引っ越しただけだと聞いた。けれど、このたった数駅も、俺には越えられないのだから。


 そう思うと、途端にむしゃくしゃして来た。俺は結局、いつも自己完結しているだけなんだと気が付いた。何も言わなければ傷も付かないし、誰も傷つけずに済む。この男も、何も言わなければ良かったんだ。そうすれば、誰も、何も変わらないままで居られたんだ。和やかに笑う4人家族を、壊さずに済んだんだ。俺達は、()()()()()()()()。俺は途端に怒りを思い出した。けれど、同時に疑問も浮かんだ。本当にそうだろうかと。けれど俺は、怒りにまかせて口を開いた。


『父さん』


 思いの外、大きな声が出た。父親も、驚いて固まっているようだった。周囲の音も、一瞬止まった気がした。


『俺は、怒ってるよ』

『……ああ。当たり前だ』

『何て言えば良いのか、何から話せば良いのか、わからないけど。何だかずっと振り回されて、すっげー迷惑』

『そうだな。そうだよな』

『どれだけ相手の人が好きだとか、そんな事、聞きたくも無いし想像したくもない。正直、気持ちが悪いとしか思えない』


 父は、ただ黙って聞いていた。言いながら、酷い事を言ってるなと自分でも思っていた。けれど、目の前のこの男に、消えない傷を残してやりたかった。口調を小汚くしないのが、最後の良心だった。

 

『本当は、嘘なんて吐きたくなかったよ。母さんは、体裁? の為に、父さんが海外赴任してるってずっと言ってるけど、嘘を吐くたびに、何だかすげー虚しかった』


 俺は、苛立ちながら冷めて温くなったコーヒーを口に含ませた。バカみたいに苦い。


『母さんも、泣いてたよ。いつも。俺らに見られないように陰で。でも、俺も早苗も気が付いてたよ。早苗も、時々そんな様子を見て泣いてたよ』


 ずっと詰まっていた言葉が、堰を切ったように流れ出した。俺は、いつの間にかぼたぼたと涙を零していた。もう、止められそうも無かった。


『そんな様子を見るたびにさ、金がねーって言われるたびにさ、俺はどうしたらいいんだってわからなくなって』

『うん。そうだよな』

『無理な事はわかってるのに、父さん、帰って来ねーかなって……なんで、こんなに思ってるのに、叶わない事があるのかなって、そう思って……』


 もう、自分でも何が言いたいのか分からなくなっていた。父も、目の前でぼたぼたと泣き始めた。周囲の目も気にせずに、父は涙を拭いながらひたすら頭を下げていた。


『ごめん。本当に、ごめん』


 父の頭頂部を見ている内に、心底全てがどうでもよくなった。テーブルに着く父の両手には、指輪は嵌められていなかった。なんだか、その事に妙に安堵した。俺は、残りのコーヒーに付属のミルクを淹れて、飲みきった。ああ、なんだ。こう飲めば良かったんだって、そう思った。



 



 その後は、何だったんだと思う位、二三言葉を交わして店を出た。また連絡を取り合おうとまで約束して。家に帰って部屋に入ると、一気に脱力した。その気持ちに浸っていると、現金なものでまた携帯電話の振動が煩わしく感じられた。そんな自分が、少し可笑しかった。ふと机を見ると、彼女に薦められて人生で初めて購入した『銀河鉄道の夜』の文庫本があった。ずっと読んでいなかったそれを、俺はベッドに寝転びながら読む事にした。彼女との関係は、終わったと思っていた。けれど、積み重ねた時間は、確かに自分の中に残っている気がして、折を見て、彼女に会いに行こうとその時決めた。


 ◇◇◇


 昔の事を思い出して、息を吐き出し、少し冷静になった。それから、妹の早苗に尋ねた。


「お前は父さんの事、どう思ってるんだ?」

「ん? ん~、そうだねぇ」


 早苗は少し考えていた。それだけでも、珍しく感じる。早苗は、俺達にとっていつもニコニコと笑ってるひょうきんな奴だったから。


「別に何とも、思ってないかな。私には、お母さんもお兄ちゃんもいたし。寂しい時もあったけど、恨んでたってしょうがないし。まあ、精々幸せになれよって、そんな感じ」


 早苗は、いつもの元気な調子で言い切った。俺はひたすら首を傾げた。

 

「え? それだけ? でも、母さん泣いていたり、嫌な事も多かっただろ?」

「そうだねぇ。お母さん泣いていたり、お兄ちゃんが困っているのを見るのは、確かに嫌だったね」

「なら」

「でも、お父さんもただの人じゃん。子供の頃があって、学生時代を過ごして、恋をしてさ。結婚して、子供が生まれて、そうこうしている内に何となくすれ違って、そしたらまた恋をしちゃって」

「馬鹿だろ。普通に考えて。妻子泣かせて」


 早苗は、ははっと声を出して笑った。いつものように、快活に。でも、喋り口調とは別に、深い思慮を感じさせる雰囲気があった。

 

「そうだよ。バカな男だよ。ただの、バカな一人の人。一つの人生だよ? ならさ、ひとりの人間として、幸せになって欲しいじゃない」

「それで良いのかな?」

「それで、充分だよ。それに、お父さんは本当に、私達の幸せを願ってくれていたよ? どれだけ、心と心を触れ合わせて付き合えるかっていうこの世の中でさ、そんな風に、心から幸せを願ってくれる人がいるなんて、貴重じゃない?」

「だって、親だぞ。当たり前だろ」

「全然、当たり前じゃないよ。色んな人がいるもん。辛い思いをしてる子も、いっぱいいる。有難いよ。それにどうせ人は、何とか自分で自分を幸せにしてあげなきゃいけなくなるんだよ? いつかは必ず。ならさ。味方は、一人でも多い方が心強いじゃん」

「味方?」

「うん。お母さんもお兄ちゃんも、お父さんも、みんな心強い私の味方。そうやってさ、手元にある物を大切にしていかなきゃ。それが大人になるってことでしょう?」


 視界が、急に開けた気がした。うちの妹は天才じゃないだろうかとさえ思った。


「お前、絶対に幸せになれよ」

「え? うん。ありがとう。何か恥ずかしいね、こんな話」

「いや……何かあったら絶対言えよ。泣かせる奴がいたら、兄ちゃんぶん殴ってやるからな」

「ありがとー。私より弱そうだけど覚えとく」


 何度、妹の笑顔に救われただろう。俺はアルバムを数冊持って、家を出た。幸い、雨は上がっていた。分厚い雲は去り、穏やかな青へと空の色は変わっていた。俺は、ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンをタップした。





 




 それから、数か月が経ち、季節は冬に変わった。

 依然、先の見えない日々は続いていたし、世間は日々変化していた。俺達は、流れる様な時間と共に、着々と結婚式の準備を進めて行った。


 結婚式には、俺の父親を除く双方の家族と、俺はずっと相談に乗って貰っていた先輩を、彼女は大切な友人を一人招いた。母の手前、父を呼ぶのは躊躇われた。追って連絡しようとは思っている。準備の時も充分可愛いかったが、フル装備のウェディング姿の彼女は、光を放つように綺麗だった。

 若干、緊張はしたが、式はしめやかに行われた。彼女のお気に入りだと言うBGMが耐える事無く流れていて、彼女らしい、清らかで穏やかな曲ばかりで嬉しく感じられた。

 彼女のお腹は、もうはっきりと分かる程までに大きくなっていた。辛そうだったつわりも乗り越え、狼狽たえてばかりの俺とは違い、彼女は何だか急に逞しくなったようだった。心も上手に開いてくれているように感じられ、この数カ月で、二人の距離もぐっと縮まった気がする。


 披露宴になり、一同は食事の席に着いた。お色直し等はしない。二人で相談し、生まれてくる子の為に使えるよう、予算を最小限に留める事にした。彼女は、ウェディングドレスのまま、披露宴を最後まで臨む。

 デザートまで進み、幾つかの楽しいイベントも終えた所で、先輩が動きだす。俺は、視線だけで先輩を見送る。すると、俺達の前にスクリーンが下りて来た。


「えっ……」

「しっ」


 驚く彼女に、俺は口の前に指を一本立てて静止させた。スクリーンには、彼女の幼馴染達からのメッセージが流れ始めた。こんなご時世で、参列できなくて非常に残念だと。けれど、きっと綺麗なんだろうと思っていると。

 自分の実家にアルバムを取りに行った日、俺は義理の母に連絡し、そのまま彼女の実家で色々と話を聞いてきた。俺は、彼女の家の事情を初めて詳しく聞いた。不思議なもので、俺達は似たような学生時代を送っていた。改めて結婚の了承を得て、彼女の幼い頃からの友人達の連絡先を聞いてやりたい事の趣旨を説明し、数名からメッセージ動画を送って貰った。

 最終的な動画編集は先輩に頼んだ。一応、その手の仕事をしているからと、快く引き受けてくれた。最後の方は、先輩と義理の母とで進めていたので、実は俺も詳しい内容を観るのは今日が初めてだった。



 動画を観て、彼女はとても嬉しそうに笑っていた。

 その後は、彼女の幼少期からの動画が流れ始める。撮影者は、彼女の母親だったり、父親だったり、色々だ。とても可愛らしく、生まれてくる子は、こんな子になるのかなぁと微笑ましく思いながら俺も見入った。

 動画も終盤に差し掛かり、最後に映し出されたのは、かなり古い映像だった。彼女の両親の結婚式……いや、披露宴会場のようだった。

 彼女の父は、とても若い青年だった。黒色の紋付き袴を着て、堂々と、白無垢を着る義理の母の隣に立っていた。まるで、今この場に居る様だった。

 映像と共に、文字が流れてくる。それは、彼女の父が、最期に義理の母に宛てた手紙だった。俺はそれを、義理の母に話を聞きに行った時に読ませて貰った。そっと胸に刻んだけれど、こういう形で彼女にも伝えようとしてくれたらしい。義理の母らしい、粋な演出だった。彼女の家の事情を知らない人間にも受け止められる、終盤部分を抜粋したようだ。


 

 紋付き袴姿の青年の脇で、達筆な文字が流れる。どこか、彼女の字に似ているかもしれない。大枠は、彼女と彼女の母に対する感謝の言葉だった。自分は、二人に支えられ、最後の一瞬まで幸せだったと。太く、そして短く生きた事を、後悔はしていないと。丁寧な言葉ではあったけれど、威勢の良い言葉が並んでいた。ただ一つ、彼女の事が気がかりだと書いてあった。自分勝手な両親に寄り沿い、随分と大人びた子にしてしまったと。優しい子に育ってくれた事を、とても嬉しく思う反面、とても心配だと。そして、こう文章が流れて来た。


『あの子が、もし嫁ぐような事があったら、相手の青年にこうお伝え下さい。

 

 君達の生きるこれからの社会は、どこまでも遠くに続く、潮の流れの速い大洋のような場所です。

 恐らく、私には考えも及ばない大きな波を、これからを生きる君達は多く経験していくのでしょう。

 人々の心は疲弊し、泳いでいる事が、立っている事がやっとと思われる事も多分にあるでしょうが、決して絶望する事無く、一歩一歩を確実に歩んでください。そして、出来ることなら、お互いが転ばぬよう、手を取り合って進んでください。

 私達の娘は、非常に辛抱強く、愛情深い子です。思慮深く、笑顔の明るい子です。きっと、君の力になってくれると、そう思います。ただ、涙をぐっと、自分の内に蓄えてしまう様な所がある子です。そのような時は、一人で涙する事が無いよう、どうか側で汲み取ってあげてください。

 

 並びに、新たにご家族となってくださる方々には、こうお伝えください。

 

 未熟な親が育てた私達の娘を受け入れて下さった事、心より感謝申し上げると共に、一人の立派な人間として、大きな社会に勇んで歩む娘を、どうかそっと見守って頂きたいと。重々、重々、お願い申しあげて下さい。』


 彼女は、瞳に溜まる涙を静かに拭いながら、姿勢良く、じっとその画面を見ていた。どんな気持ちでいるのか、俺にはわからなかった。けれど、支える様にその小さな手をそっと掴んだ。そして、俺は立ち上がり、画面に向かって深々と頭を下げた。義理の父に届けばと思って。

 画面の中では、紋付き袴の青年が、盛大な拍手に包まれながら、退場の為に静かに頭を下げていた。反面、こちらは誰ひとり、声を出す事はなかった。静かな余韻だけが、その場に残った。


 その後も、万事スムーズに事は進んだ。笑顔に溢れ、とても眩しい、幸せなひと時だった。家族と僅かな友人との食事会のようなスタイルだった為、最後は、何となく声を掛け合いながら解散となった。俺は、先輩に声を掛けた。


「先輩、今日まで本当にありがとうございました」


 先輩は、丸い眼鏡を軽くかけ直し、マスク越しにも分かるくらい満面の笑みで言った。


「いやいや。こちらこそ、素敵な式に関わらせて貰えてとても楽しかったよ。よかったね。諦めないで」

「はい。あの動画も、時々見返します。忘れないように」

「ああ。そうだね。本当に、あの言葉の通りだね。どんなに先行きが不安でも、絶望せず、生きる今を、共に生きる人を大切にしなくちゃダメだね。僕も胸に刻むよ。奥さん、お身体大切にしてあげてね」

 

 先輩が手を振って去って行った。式場の大きな窓から、外が見える。空は、文句のつけようも無い青空だった。



 

 結婚式の後、まるで長い旅から帰って来た後の様な解放感と安堵が部屋に満ちていた。俺達はそれぞれ持っていた荷物を片付け、順番にシャワーを浴びる。彼女を待っている間、俺は、湯上りの熱を冷まそうとベランダに出た。冬の夜空は良い。こんな都会でも、ぽつぽつと星が見える。二つ並べられた折りたたみ椅子の片方に腰を掛け、空を眺めていると、背後の窓硝子が開いた。

 彼女は、手に二人で買った木目のトレーと、その上に湯気の立つ土色のカップを二つ並べてやって来た。彼女は最近、カフェインレスのインスタントコーヒーでカフェラテを作る事に凝っていた。だから恐らく、中身はカフェラテだろう。俺はすぐトレーを受け取り、椅子の間にある小さな円卓の上にそれを置いた。

 

「中に入ろうか? 寒いだろ」

「ううん。私も少しだけ涼みたい」


 それでも彼女は体が冷えないようにもこもこと厚着をして、肩から羽織も掛けていた。その事に少し安心し、俺はカップを手に取り、火傷しないように息を吹きかけながらそれを啜った。

 

「ねえ、怜。聞いて良い?」

「ん?」

「あの日、どうして早退までして迎えに来てくれたの? 私が初めて病院に行ったあの日」

 

 隣に腰掛けた彼女が、おもむろに聞いてきた。それが、いつの日の事がすぐにわかったが、どう説明したものか少し逡巡した。

 

「ん~……何から話せば良いのか」

 

 思わずいつもの癖で首の後ろを掻く。末に向かって広がる二重の丸い瞳が、答えを得ようと澄んだ色で真っ直ぐと俺を見てくる。

 

「……あの日はさ、得意先に行く用事があって、午前中外出してたんだ」

「外出……?」

 

 俺は、あの日の事を思い出す。彼女からカフェラテを貰ったあの日。

 

「出先でさ、猫が、道路に倒れててさ……ピクリとも動かなかったんだ」

 

 彼女は、何も言わない。ショッキングな映像が、頭に浮かんでしまっただろうか。少し心配になりながらも、反応が無いので続ける事にした。

 

「それに、昔、ニュースを見たんだ」

「ニュース?」

 

 彼女は、急な話題転換に首を傾げている。それはそうだ。俺だって、何を言いたいのか良く分からない。話している内容は他所に、彼女の素直なリアクションに、少し胸がくすぐられる。


「女子高生が……さ、飛び降りたってニュース。猫を見て、何故か昔見たそのニュースが頭に思い浮かんだんだ」

「……うん」


 猫と、女子高生と、全く接点のない二つが、俺の中でピタリと重なった。背筋に寒気が走り、足が震えた。同時に、胸が締め付けられる程に苦しくなって、何かがこみあげて来た。


「無性にさ。生きていて欲しかったなぁって、思っちゃったんだよな。猫にも、飛び降りたって言うその子にも……あぁ、生きていて欲しかったなぁって」


 父親になるという事が、どういう事なのか、あの日の俺はまだよくわかっていなかった。いや、今だってわかったつもりになっているだけかもしれない。初めての事ばかりで、何もかもが空を掴むような感覚だ。だけどそれは、俺の中の何かを確実に変えていて。授かった命の尊さや、重みが、いっぺんに押し寄せて来た様な気持だった。俺は、ぐっと目頭が熱くなって、それを隠すように両手で顔を拭った。


「そう思ったら、居ても立ってもいられなくなって……仕事も放り投げて走っちゃってたんだよな」


 俺は結局、誤魔化すように笑って、涙は流さなかった。代わりに、彼女が少し涙を流した。ぽろぽろ、ぽろぽろと。綺麗な涙だなぁと思いながら、彼女の淹れてくれたカフェラテを飲んだ。髭の絵柄は無いし、温度だってとても温かい。カフェインだって、入っていないらしい。なのにそれは、あの日飲んだカフェラテと同じ味がした。


貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。

未熟さは重々承知しており……本当に歯がゆい気持ちですが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

よければ、いいねお願いいたします。また、ご感想も有り難く思っています。

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