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【主人公サイド】


 放課後の校舎裏。ほんの少しの(ひさし)に守られて、ひっそりと佇むベンチ。私は、図書室で借りて来た本を脇に置いて、あなたの話を聞く。遠くから聞こえる生徒達の声と蝉の声をBGMに、手には可愛らしい髭の絵柄の冷たいカフェラテを握って。夏を目前にしたあの日々は、今もそっと、私の心の中のクローゼットに仕舞ってる。





◇◇◇

 


 まどろみの中、窓の外から小さく鳥の囀ずりが聞こえてくる。目を開けると、隣で彼が眠っていた。すやすやというよりは、沈み込むようにぐっすりと。一体、いつ帰ってきてるんだろう。ここの所、いつもこうだ。


 今、何時だろう……。私は、彼を起こさないように携帯電話を探して腕を伸ばす。けれど、触れるのは滑りの良いシーツと、眠る直前まで読んでいた小さな本だけ。携帯電話は、落としてしまったのか見つからず、結局、諦めてだらんと腕の力を抜いた。カーテンから差し込む光は、淡く優しく、まだ明け方の域だと推測できる。


 そのまま、再び眠ろうと目を閉じたら、ぶるっと体が震えた。失敗した……。この季節の朝晩はまだ寒いのに、油断して半袖のTシャツで眠ってしまっていた。思っている以上に冷えてしまった体を温める為に、布団を引っ張り中に潜る。すると、ふと彼の腕に触れる。それは、熱を持っているのではと疑えるほど熱く、私は思わず頭を上げて彼の顔色を確認した。

 けれど、彼は寝苦しい様子も無く、ただただぐっすりと眠っているだけ。その事にホッとし、いっそその腕に熱を分けて貰おうとそっと身を寄せた。冷えた体は救いを得たとばかりに熱を吸収し、二人の体温が近づいて行く。


 温かい……。


 彼の手をそっと握り、目を閉じる。深く呼吸すると、体はゆっくりと弛緩し、何故か同時にじんわり瞳に涙も浮かんできた。たぶん、ひどく安心したから。それに、何だか懐かしい夢も見た気がする。最近、妙に涙もろい。簡単に涙を見せるタイプではなかった筈なのに。


 もう少し日が高く昇るまで……私はこの奇跡のような瞬間を、想いのままのんびりと過ごす事にした。



 

 


 

 朝日が眩しく輝く頃、私は毎朝、概ね同じ行動を取る。学生の頃から大きく変わらぬルーティーン。私は、ルーティーンを守るのが好き。

 

 洗濯機のスイッチを入れ、洗顔し、手早くメイクを済ませる。朝食を作って、彼の分は丁寧にタッパーに詰め、冷蔵庫へ。冷蔵庫の扉を開けると、昨夜の夕食のおかずがそのまま手付かずで入っていた。


 ちゃんと……食事を取っているのかな?


 少し心配になりながら、その隣に朝食を詰めたタッパーも並べて扉を閉める。着替えて髪を整え、朝食を食べ終わる丁度その頃、ピーと高い洗濯機が終了する音が聞こえる。大きな音に彼が起きるのではと、申し訳なさと期待を込めてちらっと扉を見るが、物音一つ聞こえない。

 籠に二人分の洗濯物を詰めて、ベランダに干しに行く。今日の天気予報は晴れ。真っ白いワイシャツが、青空の下、風に揺れて心地良い。洗濯籠を元の場所に戻し、荷物を確認する。携帯電話にお財布。手帳に……そうだ、今日は保険証も必要なんだ。

 

 靴を履いて、鞄を肩に掛ける。もう一度振りかえる。まるで一人で暮らしているみたい。結局、この瞬間も寝室の扉が開く事は無かった。


 「……いってきます」


 彼の顔をきちんと見て話したのは、いつの日が最後だったろう。私は走り抜ける様に、日常に思考を切り換えて行った。






 

 

 幾重にも音が重なるオフィス。大きな窓からは燦々と陽の光が入る。室内の温度は少し涼しいくらいに管理されており、快適そのもの。所々に置かれた緑が、優しく目を癒してくれる。けれど、人々はそれにも気が付かず忙しなく動き回る。


 私は、インカムを身に着けたまま、先程まで電話越しに話していた内容をパソコンの画面に入力して行く。誰もが簡単に確認できる便利なツール。分かり易い丁寧な言葉で、無駄なく簡潔に文章を纏めて行く。


 何度か目を通し確認し、完了にカーソルを合わせ、カチッ、とクリック。ふうっと肩から力を抜き、時計を見る。もう出なくてはいけない時間だ。頭からインカムを外し、机の隅に用意されたフックにそれを掛けると、隣の席の女性がそれに気が付き声を掛けてくる。


「ああ。そっか。今日は早帰りの日だったわね」

「はい。本当に、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「いいのよう。お互い様じゃない。外は暑いと思うから、気を付けて帰ってね」


 彼女はそう言いながら、自身のインカムの位置を調整し、ひっきりなしに鳴る電話機に手を伸ばす。少し荒れた細い指。受話器の隣には、可愛い子供達の小さな写真が並んでいる。彼女は、ひとつも嫌味のない綺麗な声で、マイクに向かって軽やかに話す。


 私は、パソコンの画面を閉じ机の上を整頓し、上役に二三報告をしに席を立つ。上役の彼は、私を見る事なく私の話を聞く。この数年、目が合った事はないかもしれない。

 

「OK、OK。……じゃあ、今日はもう帰るんだっけ?」

「はい。本日は、本当にご迷惑を…………」

「はいはいはい。いいよ。帰って。お疲れさま―」


 

 足早に告げられた強い言葉に、ビクッと体が強張る。上役は、何事も無かったかのように繋げられた電話を取り、にこやかに話している。外に出られなかった私の言葉が、ぐるぐると私の中を彷徨って出口を探す。早退なんて初めての事で、どんな顔をしたら良いのかもわからない。どうする事が正解だったんだろう。メーメーメー。震えた子羊のように、心が鳴いている。成す術も無く、私は、その場で静かに深々と頭を下げた。

 

 私は席に戻り、鞄を肩に掛けた。隣の女性が、気遣うように目線だけで見送ってくれる。私は、また深々と頭を下げて、オフィスを後にした。


 場違いなのではと思うほど、大きなエレベーター。壮大なロビーを通り抜け、外に出る。外は確かに暑かった。思わず顔を上げると、透き通るような真っ青な空が、高いビルの向こうの方に見えた。


 




 

 電車に乗り、幾つか駅を通り過ぎ、目的の場所に向かう。電車の中で、手持無沙汰に携帯電話を開く。一番欲しかった彼からの連絡は、何もなかった。蔑にされているわけではない事はわかってる。少し残念な気持ちになるけれど、怒っているわけでもない。ただ、あまりにもすれ違う二人の時間がもどかしいだけ。今日みたいな日は特に。

 

 電車を降り地図を確認しながら数分歩くと、白い壁の小さな病院が見えてくる。入り口には、まだ小さなオリーブが植わっていた。職場や自宅から遠くなく、ホームページで読み取れたアットホームな雰囲気に惹かれてここにしようと自分で決めた。中に入るとほんのり涼しく、心落ち着かせる音楽が流れていた。随所に思いやりを感じながら、私は手続きを済ませ、自分の番を待つ。



 思わずまた、携帯電話を開く。昔は、こんなに携帯電話を弄るタイプではなかったのに。振るえる事無く、うんともすんとも言わない()()()が、憎らしく感じられるようになったのはいつからだろう?

 中を見ると、予想通り彼からの連絡はなかった。時々、無性に彼を困らせたくなる時がある。今がそう。こんな時の私は、まるでミーアキャット。可愛らしい顔をして、悪戯に、獰猛に牙を剥く。……実現できたことはないけれど。彼は、今日が病院の日だと言う事もきっと忘れてる。


 遡ると、私からの発信。『確かではないけど、もしかしたら、子供が出来たかも知れない』。その後には、こう続いてる。


『そっか』『体調は?』

『今は何ともない』

『わかった』2時間40分の空白。

『ごめん。まだ暫く忙しそう。落ち着いたらゆっくり話そう』


 彼は、良い恋人かと言われると、私にはよくわからない。付き合いだと言っては飲み過ぎて、休日は夕方まで眠っている。たまに一緒に食事に行っても、会話は大抵生返事。何月何日の何時の約束かなんてその直前になって初めて知りましたと言わんばかりの有り様だ。ただ、弁明しておくと、彼がどうしようもなくだらしの無い人だという事ではない。彼は今、人生の過渡期にある。社会人になって数年。懸命に見習い、磨き、積み上げて来た自分自身を、認めて貰えるかどうかの瀬戸際にいるのだ。私は、その事もよく分かってる。だから、先に上げた彼の行動一つ一つがどうしようもなく許しがたく、嫌いになるかというと、そんな事はない。ただ、本当にごく稀に、ほんの少しだけ、これで良かったのだろうかと思う時があるだけ。


 

 ぼんやりとしていると、名前を呼ばれる。顔を上げると、少しふっくらとした受付の女性が目の前に居た。「すみません。お待ちの間に、いくつか書類にご記入をお願いしたくて」そう言って、幾つかの書類を渡される。個人情報に関する書面。もし出産までこの病院に通うなら、それまでの流れ。


 こんなに何度も病院に通わなきゃいけないんだ。

 

 父親と母親の名前を書く欄。そこにはもちろん、私達二人の名前を書くのだろう。


 苗字が違くても良いのだろうか?

 

 否応なく日常が変わろうとしている事を、都度都度思い知る。提出は今日でなくても良いと言う言葉に甘えて、その場では書かず、私は丁寧にそれらを折りたたんで鞄に仕舞った。

 産まないという選択肢はなかった。授かった小さな命を、愛おしく思う気持ちもある。それに、彼も責任を取らないような人ではない。だから、たぶん、彼と私はこのまま入籍して夫婦になるんだと思う。


 “結婚”か……。

 

 彼との結婚を、考えた事がないわけではなかった。気が付けば年齢が、あまりにも結婚に即した頃合いに差しかかってしまっていたから。


 以前、彼の元に彼の友人から結婚式の招待状が届いた事がある。その時、私は思わず身構えた。

 

 ……結婚が、少し怖かった。夫婦という言葉が、どこか陳腐なものに感じてしまっていた。それらの言葉を前にすると、幸せな空想の中を漂う二人が、急に現実の世界に投げ出されてしまうような、そんな気分になった。もし、結婚して上手くいかなかったら? そう思うだけで、足が竦んだ。

 

 彼に、結婚を話題に出されたら、どう答えたら良いんだろう。結論を出せないまま、彼の一挙手一投足をそっと見守った。けれど、彼は何も言わず、招待状を自分の机の引き出しに仕舞った。私は、ほっとしたのか、残念だったのか、何とも言えない心地でその場に佇んでいた。私は、とても卑怯で、その事に対してだけはどこまでも受け身で彼に全責任を(なげう)っていた。

 

 “一緒に暮らそう”と、彼が提案してくれた時も同じ。“結婚”がちらつかないわけではなかったけれど、曖昧なままで良い事に安堵し、私はその提案を受け入れた。子供の頃は、思っていた。どんな人が結婚もせず、同棲なんて始めるんだろうって。答えは、思いの外簡単だった。

 私達は、心地の良い暗い海を漂う二人。前も見ず、後ろも見ず、抗らう事も無く流されるまま……けれど決して手を離さない。無責任だと言われても仕方ない。けれどたぶん、私はそんな風に、ただ寄り沿っているだけの二人でいられる事が、どこか尊く、心地よく感じていたんだと思う。


 だから、今回の事は青天の霹靂と言っても良いのかもしれない。彼は今、どんな気持ちでいるんだろう?

 私は再度名前を呼ばれ、今度こそ、診察室に入った。




 

「8週目ですね。おめでとうございます」

「あ……はい。ドウモ……」


 その日、私は母になったのだと言われた。先生が、スクリーンを見せながら何か色々と説明している。私には、どれがどれかも分からない。次の予約を取り、病院を後にする。駅のホームに着く頃には、いつの間にか、季節外れのじりじりとした昼間の暑さも和らぎ始めていた。


 この後、どうしよう……。


 職場……は、まだ早いか。みんないつ頃言うんだろう。でも、毎月通院するとなると仕事にも影響が出る。早めに対応しないといけない。体調は、どう変わっていくんだろう。

 

 自分の中で矢継ぎ早に疑問が浮かぶ。冷静に受け止めているつもりだった。重なる状況から、そうだろうと予測もしていたし。だから、病院で何を言われても覚悟は出来てると、そう思っていた。けれど実際は、こんなにも動揺している。こんなにも動揺してる自分が、情けなくて、情けなくて、嫌になる。母親になるって、どういうことなんだろう。誰よりも、私自身がしっかりしなくてはいけないのに。


すぐに思考に沈みそうになる自分に気が付き、少し冷静になろうとホームを見回すと、自販機が目に留まる。

 

 たくさん歩いて、汗もかいていた。冷たいものでも飲もうと、自販機に近付く。すると、吸い込まれるように、一つの商品の前に目が止まる。可愛らしい髭の絵柄の冷たいカフェラテの缶。再びそれを見る事ができた懐かしさと嬉しさで、思わずその商品を購入する。


「あ……」


 カフェイン。ダメなんだ……。買っちゃった。どうしよう。

 そんな事を考えながらカフェラテに描かれた髭を眺めていたら……あまりにも微笑ましくて、無性に、あの頃に帰りたくなった。

 



◆◆◆

 

『委員長、これおねぁーしぁす』


 日本語くらい、きちんと喋れ。そう言い返せない自分が憎い……。私は何も言わずそれを受け取り、手元の束に加える。渡して来た彼は、一仕事終えたとばかりに仲間達の元へと帰る。


『終わった~。なあ、夏休みどこか行く? 怜は、またバイト?』

『ん~……まあ、そうな』

 

 同級生達の会話を、何気なしに聞く。怜と呼ばれる彼は、みんなの憧れ。いつも人の輪の中心にいる。少し派手な綺麗な顔立ちに、高い身長……バイトをしていて、どこかクールで落ち着いている、そんな人。

 私とは、住んでいる世界も、生きている時間も違う……そんな人。


 あの頃も、私には決められたルーティーンがあった。朝起きて、学校に来て、授業を受けて……放課後は図書室に行って本を借りて、それを校内で少しだけ読んで、まっすぐお家に帰る。

 

 それが、自分で決めた私のルーティーン。砂時計をひっくり返すみたいに、ただ単調に、上から下へ、下から上へ、あるべき場所に流れて行く。そんな日々が好きだった。寂しくないのかと母や友人に言われたけど、どこで寂しさを感じれば良いのかと思うくらい、淡々と毎日が充実していた。


 

 そんなある日の事だった。

 

『はい』

 

 図書室で借りた本を抱えて、校内のベンチで読んでいたら、急に目の前に差し出された。ひんやり冷たい、可愛い髭の絵柄の入ったカフェラテの缶。視線をあげると、怜と呼ばれる彼がいた。


『……え?』

『……よかったら』


 無意識に受け取る。大した事のない出来事かもしれないけれど、私にとっては、まるで突然異世界に飛ばされてしまったみたいに馴染みのない出来事だった。


『……え? え? なんで?』

『いいじゃん、別に。美味しいよ? コレ』


 そういうと、何故か怜も隣に座る。わけがわからないけど、貰ったら、お礼を言わなくちゃいけない。


『……ありがとう』


 プシッと小気味いい音を立てて、缶が開く。思っていたよりも大きな音が出て、何だかドキドキしてしまう。

 その時、初めて飲んだそれは、ほんのり甘くて、ほんのり苦くて、とても美味しかった。


『美味しい……』


 思わず零せば、怜はとても嬉しそうに笑った。いつものクールな雰囲気とは違う……とてもあどけない笑顔で。


『でしょ? 俺、コレ、すっげぇ好きなんだ』






 

◇◇◇


 

 ――…………ピリリリリリリリリッ


 電車が発車する予告音に、はっと意識を戻される。電車、乗らなくちゃ。カフェラテを鞄に入れて、電車に飛び乗る。慌てた自分の様子が、何だか少し恥ずかしい。


 ――……プシュゥ


 扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。窓の外で、さっきまで座っていたベンチが、ゆっくりと横に流れだす。なんだか……また自分を一人、そこに置いてきたような気分になった。



 



◆◆◆

 

 あれから、怜によく声を掛けられるようになった。登校した時、授業の合間、お昼休みや放課後。

 周りの人は、不思議そうに私達を見て来る。人の注目を浴びるのは苦手。そっとしておいて欲しい、私はオポッサム。でも、私が表情を変えずに淡々と挨拶だけ返していると、大体が興味なさそうに視線を逸らす。

 

 そして時々、放課後二人きりになるとカフェラテをくれる。何度目かにはその状況にも慣れて、異世界から元の世界に戻って来られた。カフェラテを飲む時間だけ、私は怜の話を聞く。

 

 大抵が他愛もない事で、どの授業が好きで、どの授業が辛いとか。どのドラマが好きで、どの女優さんが好きで……だから何だと言うような事ばかり。でも、怜がとても楽しそうに話すから、私はただ聞いていた。その日も、カフェラテを飲む私の隣に怜がいた。


『委員長はさ、何でいつも一人でいんの?』

『別にいつも一人ってわけじゃない』

『でも基本一人で本読んでんじゃん。寂しくねーの?』

『本は一人じゃないと読みにくいよ?』


 私は思わず笑ってしまう。怜は、少しむくれる。

 

『ちゃかすなよ』

『ちゃかしてない。何が言いたいの?』

『だからさ。毎日、誰かと遊びに行ったり、話したり、連絡取り合ったり……そういうのがさ、俺達の“普通”じゃん。ケータイ開いて誰かから連絡来てたら、“あ、こいつ俺の事覚えてくれてるな”って安心するじゃん。そーいうの、ねーのかなって……』


 私は少し考える。怜の言っている事も、わからなくはない。毎日誰かと連絡を取り合って、楽しい時間を過ごせたら、どんなに素敵だろうと私だって思う事もある。でも、それをしない理由はなんだろう?

 

『……たぶん、私と岡田君は、怖がっている事は一緒でもアプローチが違うんだと思う』

『怖がってる? 俺、何も怖がってないよ?』

『でも、安心するって言ったじゃない。それって、逆を言えば不安に思う事があるって事でしょう?』


 怜の言葉が途切れた。私の言葉を、考えているようだった。


『一人は、怖い。これは、私も一緒だよ。でも、私は……私の場合は、それを誰かと一緒にいる事では解決できない様な気がするの。人と居る事で、益々一人の時間が怖くなってしまう気がする』

『……どうしたら、怖くなくなるかな?』

『それは……私にも、わからないや。でもね、怖いと思う気持ちは、どこかもう仕方のないものでしょう? なら、私は私なりの方法で抵抗するだけ。私は、誰にも私のペースを乱されたくないの』


 私は、手に握っていたカフェラテの僅かな残りを、ぐっと飲み干す。もう本当は、粒ほどしか入っていなかった。


『本当……いつもマイペースだよな』


 呟くような怜の言葉に、少しむっとしてしまう。確かにマイペースだけれども、人に言われると違う響きに聞こえるし、何より何故か怜にはそう言われたくないと思ってしまった。だけど、怒るのは苦手。だから、次に続く言葉は少し冗談めかして聞こえてしまったかもしれない。


『……だって、私の心臓も、脈も、全部私のペースで動いているのに。今更、私以外のペースでなんて動けません?』


 怜はまた笑った。今度は酷く楽しそうに。


『そういうとこだよな』

『どういうところ?』

『いや~、そういうとこ。滅茶苦茶カッコいいと思う』

 

 思えば、カッコいいと言われたのは、後にも先にもこの時だけだ。なんて面倒くさい奴なんだと、自分で自分を評価していたのに。私は、途端に心がむず痒くなり、口を噤んで怜から視線を逸らす。すると、日差しが傾いているのに(ようや)く気が付く。そろそろ、この()()()()()()()を終えなければいけない。空のカフェラテの、その空白を埋める様に、蝉の声が木霊する。

 

『もうすぐ……夏休みだな』

『うん』


 その時は、いつもの怜と何だか少しだけ雰囲気が違う気がした。

 

『なあ、夏休みさ……』

『うん』


 怜が、言葉を不自然に止める。少し待っても声が返って来ない事を不思議に思い、イントネーションを変えてもう一度言う。

 

『うん?』

『…………何でもない』


 怜が、少し気落ちした声を出す。ふと、ポケットを探るとチョコレートを持っていた。だから、それを一つあげた。


『え……』

『いつも、貰ってばっかで悪いから。美味しいよ? ソレ』


 怜は、またあのあどけない顔で笑う。たった一粒のチョコレートに、『ありがとう』と、嬉しそうに。






◇◇◇

 

 ――――……「次は、○×駅、○×駅……」

 

 はっと気が付くと、目的の駅を降りはぐってしまっていた。カフェラテの所為で、昔の事ばかり思い出す。早く飲んでしまいたいのに、それもできない。どこで引き返そう?

 このまま、この電車に乗っていると……地元に、辿り着いてしまう。彼と私が暮らすあの家に、帰らなくてはと頭で思う。なのに、何故だろう。立ち上がれる気がしない。

 

 

 そもそも、あの家は、本当に“私の家”なのだろうか?


 

 ”家”とは、なんだろう?

 毎日帰る場所? 家族の暮らす場所? 自分だけの寛げる場所?

 彼と共に過ごすあの家は、本来の所有者は別の人で、家賃を払いレンタルしている借り物に過ぎない。壁に穴をあけようものなら、出て行く際に相応の金銭が発生する。


 じゃあ、彼の居る場所が、私の帰る場所?

 でも彼は……私の家族じゃない。“家族”って、何なんだろう。“夫婦”って……何なんだろう?


 折り返さなければいけないと、頭で思う。お家に帰りたいと、心が叫ぶ。でも、私は、どこに“帰りたい”と思っているんだろう……。

 

 電車の動きに合わせて、傾いた日差しが車内に差しこみ、その眩しさに私は思わず視線を伏せる。折角だから。そう、折角だから。今日はこのまま、過去に探しに行くのも良いのかもしれない。

 

 





◆◆◆

 

『……お父さん、もう5年もお付き合いしてる人がいるんですって』

 

 そんな事、今更驚きもしない。どこかで拗れてしまった夫婦の形。幼い頃から繰り返される、嘆きの応酬。

 だけど、その日はいつもと何だか様子が違っていて……。

 

『そうなんだ』

『もう……最近は、家にお金も入れてくれないし……お母さんも、限界で』


 父は、極端に外面の良い人だった。気前の良いふりをして、身の丈に合わない事を平気でしてしまう。仕事は、出来る人だと聞いている。けれどそれ以上に、この世のあらゆる“遊び”に身も心も興じてしまう……そんな人だった。

 母が、頭を垂れて力なく座り、ひたすらに涙を零す。こんな時、自分は何と言うのが正解なんだろう。強がることしか知らなくて。本当の強さは知らなくて。その後が、どう大変なのかもよくわからないのに……。


『……なら、別れちゃいなよ』

 

 ただ、そう言うことしかできなかった。


 イレギュラーな事は……好きじゃない。大体において、良い事なんて一つもないから。

 

 未来に、希望が溢れてるなんて、どうしてみんな言うんだろう。ただ、ただ、無為な時間が広がっているだけかもしれないのに……。人生なんて、楽しい事より辛い事の方が遥かに多いのにって……私は何だか達観した気持ちでそう思っていた。





『……なあ。引っ越すって本当?』


 怜が、カフェラテを渡しながら、聞いて来る。

 あの後、私と母はすぐに祖父母の家に居を移した。だから、正確に言うと、()()()()()()()()()

 

 父の物だけを家に残して……夜逃げ同然。昼間だから、昼逃げ? 数日のうちにすぐに引越し屋も手配して、母と私、二人の物を持って家を出た。後は、弁護士さんに任せれば良い。父は滅多に帰って来ないから……父に隠れて行うそれは、拍子抜けするほど容易かった。

 

 子供の頃から住んでいたその家は、がらんと不自然に隙間が開いていて、私はその時、初めて少し寂しいと感じた。家を離れる時、なんだか少し涙が零れた。


 怜に、何と返して良いかわからなかった。説明をすると長くなる。夏休み中に、学校も変わる。

 今思えば、隣町に移るだけ。ただそれだけの距離が、まだまだ子供の私にとっては永遠に等しい距離だった。もう会う事もなくなるだろうこの人に、我が家の事情を話す事も憚れた。だから、一言。


『……うん』

『そっ……か、……』


 怜は、気まずそうに視線を伏せる。他の家の事情なんて、そうそう立ち入りたいものではないだろう。

 私は、溜息を零しながら、本を纏めて立ち上がる。この本は、多分もう夏休み前に読み切れない。

 色々と忙しくなるから……。もう、返しちゃおう。


『……今日は、もう行くね。岡田君も、元気でね』


 私は、その日初めてカフェラテを受け取らなかった。彼は、その日以降、話しかけて来なくなった。

 


 その後は、あれよあれよと言う間に時が過ぎた。



 私は、無事編入手続きも済ませ、夏休み明けには祖父母の家から新しい学校に通う事が決まった。

 けれど、予想外な事が、また起きた。父が、平謝りして来たのだ。逃げ出した私達を見て、いつもみたいに逆上するかと思ったのに……。

 

 がらんと空間の開いた家を見て、何をしでかしたのかわかったと。申し訳なかったと、ひたすら祖父母の家で土下座をしていた。……その土下座に、何の意味があるんだろう。


 私は、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 傷つけた時間は、なくならないのに。どんなにきちんと着飾っても、母にも、その恋人? にも、不誠実でしかないのに。あまりにも馬鹿馬鹿しい、茶番劇。


 もちろん、母は突っぱねると思った。何を今更と……。それだけの覚悟で、家を飛び出したのだと、そう思っていた。


 だけど……母は、父を許した。


 結局、編入手続きを済ませてしまった私だけが、居を移し、新しい生活に入った。呆れてものも言えない。父と顔を合わせたくない私には、丁度良かったけど。





◇◇◇

 

 ――――……「□□駅、□□駅」


 

 電車を降りると、懐かしい香りがした。長年使ったこの駅は、どこも変わっていなかった。

 

 どうしよう……。とにかく、昔住んでいた辺りに行ってみようか?

 

 小高い坂の上にある駅を離れると、長い長い坂道が広がっている。


 もう空は、半分夜だった。夕日に照らされた家々が、遠くまで良く見える。

 線路沿いを歩き、坂を下っていく。風が吹き抜け、アスファルトの隙間に生える小さな花を揺らす。




◆◆◆


『お父さん……もう、長くないんですって』


 祖父母の家で過ごすようになって、暫く経ったある夜、母が電話でそう言った。何故だか、ああ、そう言う事だったんだ……って。そんな風に、妙に納得したのを覚えてる。

 運命って、不思議。ちゃんと上手く歯車が回るようになっている。



 何故、母が再構築の道を選んだのか、何故、父があんなにも必死に謝っていたのか……。

 本人達も、その時はまだ知らなかった筈なのに、まるで予め知っていたかのように、二人は残された僅かな時を、二人でいる事を選んだ。

 “夫婦”って、不思議。どんな事をされても許してしまえるくらい、私には見えない、刻んできた時間があるのだろうか?


 私は、傍観者である事を選んだ。二人の行く末を静かに見守る。

 

 母を手伝い、私も何度か病院に通った。

 入院中、久しぶりに父とゆっくりと話して、この人はこんな人だったんだ……と、何だか初めて父を知った気がした。


 父は、私達以外、他の誰とも会おうとしなかった。長年付き合っていたと言う、その恋人とも。

 何故、誰とも会おうとしないのかと父に聞いた。

 

 父は言った。

 『決して治る事は無いのに、お大事に……と言って帰る後ろ姿を見送るのが、忍びない』と。


 私は、思わず小さく笑ってしまった。普通は、泣くところ? ……なんて、弱虫なんだろう。私は、この人の血を半分引いているのか。そんな風に思ってしまって。


 お医者様の見立て通り、父の闘病生活は、そう長くは続かなかった。

 


 





◇◇◇

 

 ――――……ガタンガタンガタン


 電車の音が通り過ぎる。暫く歩くとこじんまりとした黄色いお家が見えてくる。長年住んでいた私の家。今は、違う人が暮らしている。


 あれ? と首を傾げる。思ったより、懐かしさを感じなかった。


 なら……学校の方は?


 少しドキドキしながら、学校に向かう。通いなれた通学路。古いお煎餅屋さんの角を曲がると見えてくる。学校は……すっかり形を変えていた。



 

 改修工事? 校門には、通いなれた学校の名前が入っているのに……。

 とにかく、校舎の周りをぐるりと巡ってみる。なんだか……近未来。ビルみたいになってる。


 すっかり拍子抜けだ。そんな間抜けな自分に、また少し笑えて来る。


 いる場所もなく、歩き疲れて、ふと……小さな公園が目に留まる。もう空は、すっかり暗くなっていた。公園には、誰もいない。普段なら夜の公園なんて、怖くて一番入りたくない場所だった。

 

 でも見覚えのある公園だった事もあって……何故かとても優しい空間に感じて、そこで休んで行く事にした。公園に入り、ブランコに座る。


 ブランコって、こんなに低いんだっけ……。


 あまり覚えていないけど、多分、小さい頃は私もここでよく遊んだんだと思う。

 少しだけ、ブランコを漕いでみる。 キー、キーと、無機質な音が響く。

  

 ああ。確かに、こんな音だった。子供の頃、聞いていたのは。誰も座らないベンチが目に入る。おぼろげではあるけれど、そこには、私を見守る両親の笑顔があった気がする。私は、いつの間にこんなに大人になってしまったんだろう。

 

 私も、両親のように、公園に通うようになるのかな。まだ、実感もわかない。どちらかというと、不安の方が大きい。乗り越える事が、出来るだろうか……? 愛する事が、できるだろうか? 生まれてきて良かったと……思ってもらえるだろうか?


 そこまで思い、私はううんと一人頭を振る。

 一人で、悩んでいても仕方ない。一人で、乗り越える様な事でもない。とにかく、彼に連絡しなきゃと思い、鞄に手を伸ばす。すると、手に触れる冷たい感触。私は、思わず鞄の中から、携帯電話で無くまたあの冷たいカフェラテを取り出していた。もう、買ったばかりの冷たさは無くなってしまっていたけれど、暑い中ずっと歩いて来たから、その優しい冷たさが心地よくて、そっと頬につけてみた。そしてまた、思い出す。あれは、父の葬儀の日。





◆◆◆

 

 父が他界したのは、冬の寒い日だった。どこから聞きつけたのか、数名の友人と一緒に、怜は来ていた。いつものように着崩していない、きちんとした制服姿で。私は、喪主である母の隣で、ご来賓の皆さま? のお見送りをしていた。


『あの……』


 怜が、意を決したように母に声を掛けた。何故、母なのか。


『少しだけ、その……』


 怜が、ちらっと私を見る。私は、何故かその様子に頬が熱くなり、落ち着かない気持ちになる。母は、何かを察したように、頷きながら言う。


『行っておいで。もう、後は大丈夫だから』


 怜と、少しだけ話す事になった。


 葬儀場の裏手に行くと、自販機があった。怜が、急に慌てたようにそこに向かうが、『ああ!』と声を上げた。私はびっくりして、肩を跳ねさせる。


『……カフェラテがない』


 なんだそんなことか。思わず笑ってしまう。


『なんで、カフェラテじゃないとダメなの? 他のでも良いじゃない』


 怜は、少し口を噤み、零すように言った。


『……他のじゃ、ダメだった』

『ん?』

『何でもない』


 結局怜は、何も買わなかった。その後、気恥かしそうに頭を掻いて……何て言ったんだっけ?










「……ああ! やっと見つけた!」


 馴染み深い声が聞こえて、驚いて目を向ける。何故、彼がここにいるのか。相当走ったようで、彼はスーツ姿のまま、ぜーはー肩で息をしている。


「今日、病院の日だからって……会社、早退して……でも、家に帰ってもいないし……、携帯も……もう、絶対愛想つかされたかと……」


 ふうと息を吐き、立ち上がる彼の姿が、昔の面影と重なる。そうだ……あの時も彼は、少しはにかむように、でも本当に嬉しそうに笑って、そう言ったんだ。


 

 


「『やっと会えた』」




 

 私の前で、クールで大人だった事なんて一度もない。いつも肝心な事が言えない、ただのかっこつけ。なのに、いとも簡単に私を異世界に連れて行って、私のペースを大きく乱す。……それが一つも嫌じゃないのが、また不思議。


 私は、思わず笑ってしまう。瞳にほんの少しの涙を滲ませながら。気が付けば随分と長い時間、色々な事に気が付かない振りをして……確かな気持ちを返せずに、ふらふらとここまで来てしまった。両親の事に(かこつ)けて、本気で生きる事から目を背けてしまっていたのかもしれない。強がってばかりで、傷付く事を恐れて、大切な彼への気持ちすら曖昧にしてしまっていた。

 

 過去を一歩一歩振り返ってみて、漸く気がついた。私が帰りたいと思っていた場所は、たぶん、ずっと私の中にあったんだ。


 彼が、いつの間にか私のすぐ側に来ていた。私はブランコに座ったまま顔を上げる。彼は、私の前にすっと手を差し出して来る。


「帰ろう。体、冷えると良くないだろ?」


 こんな時ばかり頼もしく見えて、本当にずるい。私は、思わず熱くなる頬を隠す為に俯く。視線が、手に持ったままのカフェラテを捉える。

 今日得たこの気持ちを、彼にどこから話せば良いんだろう。少し、緊張してくる。胸が高鳴り、手にじんわり汗を掻く。今、私はどんな姿をしている?暗くてよかった。たくさん歩いて、きっともうよれよれだ。彼の目に、少しでも可愛く写っていると良いな。


 


「ねえ、怜」

「ん?」


 私は、怜を見る。彼の後ろには、ぽつぽつと星が光る夜空が広がっていた。あの時、何故、彼がカフェラテを渡して来たのか……今になってやっとわかった。私も、彼と同じ。大事な言葉が言えない弱虫だから。



「これ……」


 私は、差し出された手にカフェラテを渡す。ほんの少し、勇気を出すまでの時間を、貰う為に。


「怜、わたしね……」


 もうすぐまた、夏が来る。




貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。

まだまだ未熟な作家ですが、今後ともよろしくお願いします。

近日、相手の男の子サイドアップ予定です。

よければ、いいねお願いいたします。

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