影
「神は我らを見放したか――」
深更に本営の大天幕へ招かれたバークレイが、そこに横臥する皇帝ラートイの遺体を見て発した第一声はそれだった。
「もとより頑健な御方ではありませんでしたから――」
遺体が眠る寝台に脇侍する医師は、艶を失った長い黒髪を散り花のように枕に広げ、深い隈を刻んだ目を閉じて眠る皇帝の白く削げ冷えた顔を見つめながら、絞るような声でそう答えた。
拳を握り締めるバークレイの背中が燭台の灯りに揺れる。
「ウド」
バークレイが後ろに立つ男を呼んだ。
「陛下は何か言い残していたか?」
しかし男はその問いに、すぐに応えることができなかった。
男は寝台に眠る皇帝と瓜二つの顔をしていた。長い黒髪に切れ長の目尻、細く尖った鼻の線に削げた頬、薄く白い肌に刻まれた皺の形まで同じに見える顔。彼は皇帝の影だった。影とは主人の顔貌と似たものから選び出され、主人を暗殺から守る身代わりとなるべく育てられた護衛のことである。
だがこの男は、皇帝を守る影として皇帝の代わりに死ぬために生きながら、その役を果たすことなく皇帝の最期に立ち会った。
それは彼にとって生きる意味が失われた瞬間だった。
影は光がなければ存在しえない。皇帝という光が消えれば、その影もまた消える運命である。まして主人の代わりに死ぬことを生きる目的とする影が、その主人の死を見舞うなど本来あってはならないことだった。
光を失った影であるこの男は、己の人生の無為と罪に立ち尽くしていた。
「ウド!」
怒りを帯びたバークレイの再度の呼び声に、ウドははっと顔を上げる。そして虚脱を払うように頭を振って、主人である皇帝の最期の言葉を必死に思い返した。
「陛下は――」
熱病に侵された皇帝はウドの手を握り、その青白く憔悴した顔とは対照的な燃えるように炯々と輝く両の眼で彼を見据えると、これから始まる楽しみにしていた演劇が見られないことを心底に残念がる子供のような悔し笑い浮かべて、ただ一言こう言った。
「勝て――と」
「ならば」
バークレイが振り返る。燭台の灯りを背に立つ彼の眼が、皇帝が最期に見せた眼光のように炯々と輝いた。
「ウド。今からお前が皇帝だ」
影が光になる。
それは神をも恐れぬ大逆だった。