8.殿下、わたくしに慣れましょう。
「あの、一つ聞いていいだろうか。」
シュミット侯爵邸の応接室にて、わたくしの契約者たるディートリヒ殿下が仰います。
今日も輝く銀の御髪に、なぜだか目が合わない深い青色の瞳。少し緊張されたご様子です。
「はい、何なりと。」
「なぜ…人払いをしたのだろう……?」
なぜ、そんな事を聞くのでしょう。ここにはわたくしと殿下の二人きり。
ティーセットを用意した侍女も、頂いた花束を預けた侍女も、既に全員下げております。
当然の事ですよ?
「勿論、人目を気にせずにわたくしへご依頼頂けるようにです。」
「今日は、婚約の書類を書くだけだと伝えたはずだが…」
「はい。ですが殿下がいつどのような依頼をしたくなっても大丈夫なよう、万全の態勢を整えております。ご安心ください。この部屋でどんな事があろうと、聞き耳を立てる者はおりませんから。」
「っ何もない。何もないからな、ユリア嬢……!」
本当に書いてもらうだけだからとつれない念押しをして、殿下は書類をテーブルへ広げました。
……欲しいのですが、依頼。とても。
悩ましく思ってため息をつくと、殿下がそっと視線をそらしました。
依頼を与えられずわたくしに申し訳ない、などと思わせてしまったでしょうか?これはいけません。気持ちを切り替えて書類を見下ろしました。
どうやらなんの毒も仕掛けられていない普通の紙ですね。国王陛下とお父様、殿下と三人の署名があります。
わたくしは用意していたペンの先をインクに浸し、さらりと己の署名を足しました。
殿下の瞳が、わたくしの名を見つめている。
安堵したように僅か、頬が緩んでおられます。そんなにもエルフリーデ様とのご結婚は嫌だったのでしょうか、それとも彼女を娶ればほぼ確定であろう玉座の方でしょうか。
「これで本当に…私達は婚約者だな。」
「はい、殿下。」
わたくしが貴方様を見限るか、貴方様がわたくしを不要と断じない限り。
契約が続き、殿下がわたくしの配置を《婚約者》と定める限り。
頂いた花束は、茎に水溶性の毒が塗布されていました。
蒸発した気体を吸い込むと喉の炎症を起こすもの。自室にでも置けば明日には喉が痛んでいたでしょう。殿下は気付いていないご様子だったので――と言っても、香りの強い花に紛れた微かな毒の匂いなど、知っていなければ気付きようもないのですが――侍女には、内密に処理するよう頼みました。
わたくしと殿下が結婚しては困る方の仕業でしょう。
個人的な情か、シュミット侯爵家とディートリヒ殿下の結びつきを恐れたかはわかりませんが。
「今後の事なんだが、その……し、城へ来ないか。部屋を用意させる」
「まぁ、よろしいのですか?ありがとうございます。」
「…いいのか?そんなにあっさりと」
「勿論です。夜もずっとお傍に」
「いや当然部屋と言っても私と続き部屋ではなくやや距離はあるんだホラ私達はあくまで婚約しただけで結婚したわけではないから、君の名誉を守るためにも一定の距離は必要だと思う。」
なんという早口。されど聞き取りやすい完璧な発音です。
そうですね、部屋の距離はあってもよろしいでしょう。
「はい、殿下。夜は自室で休んだように見せかけ、内密にお傍へ参りますね。」
「っ!?護衛――護衛か?ユリア嬢。護衛のためにだな?」
「えぇ。…勿論、お仕事を頂いても構いませんが…」
片頬に手を添えてこてりと首を傾げてみましたが、殿下はやはり首を横に振りました。まずは護衛の仕事で腕を見て頂くしかなさそうです。
あのような毒が仕込まれていた事を考えると、何かしらその機会はありそうですね。わたくしが目当てならば多少煽るのも良いでしょう。
「殿下。仮にもわたくし達は『恋が実った』という事になっておりますから、外では親しげに振舞ってみるのはいかがでしょうか。」
「…それもそうだな。下手に怪しまれて探られたくはない……互いに名で呼んでみようか。殿下とつけなくていい」
「承知致しました。わたくしの事は、如何なる時も呼び捨てて頂いて結構です。」
「わかった。ユリア」
「はい。ディートリヒ様」
仲の良い婚約者のように、わたくし達は互いを見つめ合って名を呼びました。美しい微笑みを保ったまま、殿下はご自身の胸に片手をあてています。
「……とりあえず、心臓は動いている。」
「何よりでございます。」
決して止まる事のないよう、わたくしが全力でお守り致します。
殿下はややぎこちない仕草で紅茶を飲もうとなさって、盛大に噎せました。大丈夫でしょうか。背中をさすって差し上げた方がよろしいかと腰を浮かせましたが、殿下が手振りで「平気だ」と示されるのでやめておきましょう。
「こほっ、失礼……ユリア。先程の…《外では親しげに》の具体例としては、君の考えでは何が挙げられるだろうか。」
「そうですね、やはり…腕を組んでみるとか、恋人らしく愛の言葉を囁いてみる…というのはどうでしょう?」
「ん゛っ、ぐ……」
殿下はなぜか口元に拳をかざし、何か耐えるようなお顔です。
今の提案には過不足があったのでしょうか。
「――もっと、先のコトを致しますか?」
「いいいやいやいや充分!充分だ。ありがとう、ユリア。」
たとえば人前でハグをしてみるとか、と言う暇もなく否定されました。先程の提案で問題ないようです。しかし即決されなかったあたり、多少は議論の余地があるのでしょう。
殿下は懸命に考えていらっしゃるのか、お顔が少し赤くなっています。
「ただ……いきなりで驚いてしまうと、私が上手く対応できない可能性がある、かもしれない。」
「では何か、合図を考えた方が良いかもしれませんね。」
「そうだな……何より、君という存在に慣れる必要もあるだろう。その、これまで殆ど話した事などなかったし。仕事については知ったばかりという事もあって…まだすんなりと、君がそうだとは……」
軽く腕組みをして、殿下は歯切れ悪く仰います。
確かに、本来ならば《暗殺者》に近付く事を避けねばならないお方です。相手が敵なら、ですが。
立ち上がり、殿下の傍に膝をついて主従を示します。
「殿下は、わたくしが恐ろしいでしょうか?」
そうだと言われても無理はありません。
人、殺しておりますから。手にした武器の利用法を知るという事は、その武器の恐ろしさを知る事です。己が駒を恐れてはならぬなど、完全には無理な話でございます。
「――…怖くはない。ユリア」
殿下はどうしてか、わたくしと目線が同じになるよう膝をつかれました。
そんな事をさせてはなりません。わたくしは慌ててソファに座って頂くよう誘導しようとして、「君も座ってくれ」と手を引かれ、殿下の隣に納まりました。
「君が……そういう仕事をしていると知って、驚きはした。だが、私の意にそぐわぬ事をするわけではないだろう?」
「勿論です。殿下のお望みのままに」
「私にとってはまだまだ未知の世界だ。君の言動に驚き、戸惑う事はあるかもしれない。しかし恐ろしいとまで思う事はない」
「……わたくしに、貴方様のお命を奪う力があっても?」
深い青色の瞳を真っすぐに見つめ、問いかけます。
殿下は意外な質問だったとばかり僅かに目を見開き、くすりと笑いました。
「私の寝首を掻くのか?」
「いいえ。お望みでない限りは」
「仮に君にそんな事を望む時がくるなら、余程の事態なのだろうが…」
現場を見た事がなくとも、わたくしが暗殺者だと知っているのに。
殿下はまるで、本当に怖くないかのような顔をしてわたくしを見つめるのです。深い青色の瞳から、どうしてか目を離す事ができない。暗殺者失格、かもしれません。
「――君のような、美しい人が終わらせてくれるのなら」
ぴくりと、わたくしの指先が勝手に動きかける。
「悪くはな――……ユリア。今のは決して、やましい気持ちで君を口説こうとしたわけではなく。」
「存じております」
「本当に、その。客観的事実として言ったに過ぎないんだ。」
「大丈夫です、殿下。わかっております」
殿下には、レヴィン様が仰っていた「天使ちゃん」様がいらっしゃいますから。
婚約は仮初のもの、愛の言葉は中身の無い台詞。
理解しております、きちんと。
この一年は、わたくしという武器の置き場が決まるかどうか……それだけの話なのです。
「恐ろしくないとのこと、ありがとうございます。では今後のために、わたくしとの距離に慣れて頂かなくてはなりませんね。」
「んっ?距離…距離か。」
殿下がちらりと視線を泳がせる。はい、予行演習と致しましょう。
きちんと背筋を伸ばし、殿下を驚かさぬようじっと目を見つめてみます。やりますよという合図です。
そして穏やかに、温かさを感じさせるような声色で。
けれど少し所有欲を出すようなつもりで――主君に対し所有欲とは誠に失礼ですが、恋とはその人が欲しくなることだと母が申しておりましたので――いざ。
「お傍にいられて幸せです、ディートリヒ様……」
微笑んで肩口に頬を擦り寄せ、身体ごとぴったりと殿下の腕にしがみつく。こんな感じでしょうか?
シャツ越しに殿下の体温が伝わって温かいです。あ、この辺りに太い動脈血管がありますね。お守りする時のために頭にしっかりメモしておきましょう。
殿下が相手とはいえ、身体に潜めた暗器の場所を悟られぬよう気を付けております。触れて固ければ何か持っているとわかりますからね。
……それにしても、一切反応がありません。
上出来だとか、改善の余地があるとか、過分かもしれないとか。ご意見が欲しいところなのですが。
くっついたままではお顔を見れませんから、手は触れたままに身体を少し離してみました。
なんと、殿下は私から顔をそむけていたようです。銀髪の隙間から赤いお耳が見えています。腕を強張らせているあたり、今すぐ慣れるのは無理そうですね。
「殿下」
「な…何だろうか……」
掠れたお声です。呆れる程に駄目だったのかもしれません。
少しだけ自信を無くしつつ殿下の腕を離しました。
「わたくしの演技…下手でしたでしょうか?」
「演っ――…、スーッ……いや。充分だったと思う。」
「左様でございますか。」
「ただ、そこまで身体をその…見せかけだけならば、さほど触れずとも良いのでは」
「お嫌ですか?」
「嫌ではないです。あ、いや、むしろ君が無理をしていないかと…」
なぜ一瞬敬語になったのでしょう。
わたくしは何も無理しておりませんとお伝えすれば、ひどく複雑そうなお顔をされました。
「君は君で…慣れなくていい事に、慣れているからな……」
「…わたくしは仕事人と申しましたでしょう。殿下がお心を痛めるような事はないのです。」
むしろ、さっくりと仕事をこなせるときちんと達成感があります。
恐怖し怯えていた依頼主様はホッとして笑顔になられます。
無礼な方もたまにいらっしゃいましたが、わたくしは「シュミット家に生まれなければ良かった」などと思った事はないのです。
「そ、そうか…。」
「父兄と比べればどうしても年数は劣りますが、経験人数は」
「流石に聞きたくないッ!!」




