7.殿下、おやすみなさいませ。
学園に入ってしばらく、私は居心地の悪さを感じていた。
二年生の異母兄は一人の伯爵令嬢を侍らせるようになり、婚約者候補の筆頭だったエルフリーデとの時間を明らかに減らしている。どうしてこんな事になっているのか。
兄が夢中らしい令嬢の様子を探らせたが、外見の愛らしさはあれど品も教養も足りないらしかった。あの兄上が人前でべたべたと令嬢に密着し、薄っぺらい台詞を吐いている。何度自分の目を疑っても変わらない。
エルフリーデと共に幾度か苦言を呈してみたが、それも効果はなかった。
王家の品位を心中で問い、皆が私を見ている。
心身ともに疲労を覚え、ある夜中にひっそりと寮を抜け出した。
日中もろくに人が来ない旧庭園は手入れされなくなって久しいようで、東屋は雑草だらけの芝生の上にあり、周囲は雑木林に囲まれている。
小さな火を灯したランタン片手に歩き、東屋に近付いた時だった。
一陣の風が吹き、木々がざわめく中で異質な音がする。
上から聞こえたそれは靴音で間違いはなく、月明かりが遮られて影が落ちる。
私は自然とそちらを見上げ――…
『こんばんは。』
天使が、舞い降りてきた。
長い黒髪をなびかせ、無垢に輝く赤紫の瞳で私を見つめて、東屋の屋根から飛び降りたらしい彼女は微笑んでいた。
見惚れる私は固まってしまい、「危ない」と叫ぶ事も、助けようと手を伸ばす事もできない。
こんな真夜中に令嬢が飛び降りてくるなんてありえないから、現実のものと思えなかったのかもしれない。
猫のように軽やかに着地して、天使は長い睫毛を重ね合わせて瞬いた。
『お一人で夜に出歩かれるなど、危ないですよ。』
『……、君は…?』
声を聞き、これが現実だと理解して私はようやく、目の前の天使に見覚えがある事に気付く。同級生だったはずだ。
心臓は落ち着かないが記憶を辿り、ユリア・シュミット侯爵令嬢ではないかと思いあたった。
名を呼ぶより早く、彼女は人差し指を唇の前へかざす。秘める仕草に心臓がどきりとした。
『おやすみなさいませ、殿下。――風邪など、引かれませんように。』
これ以上ここにいる事はできない。
そんな事をすれば気遣ってくれた彼女に失礼だし、困らせたり悲しい思いをさせるかもしれない。「せっかくだから話さないか」など、ひどく緊張していた当時の私に言えるはずもなかった。
『あ、…あぁ。おやすみ……君も、気を付けて。』
ぎこちなく頷いて、掠れた声でそう言うのが精一杯だった。
女子寮と男子寮では方向が違う。くるりと踵を返し、私は歩き出した。
振り向いて、まだ彼女が同じ場所で見送っていたらどうしようか。
去り際で向こうもこちらを見たところだったら、どうしようか。
じろじろと見てくる嫌な男だと思われはしないか、目が合った彼女が、私に手を振ってくれはしないだろうか。
振り向くべきか、振り向かずに去るか、悩むうちにだいぶ歩いていた。
意を決して振り返ると、木々の向こう、遠く離れた東屋には誰もいない。
私は立ち止まり、少しだけその場所を見つめていた。
明日…あるいは明後日、シュミット侯爵令嬢に会えたらいい。話せたらいいなと思いながら。
私が夜に出歩いていたのは内緒にしてほしい。ところで君は、どうしてあそこに?
たったそれだけで良かったのに――…私の周りには常に誰かいて、彼女は賑やかな場所を避けていた。妃候補に挙がっていれば、話す機会も作れたんだが……。
遠目に見かけるだけの日々、やがて「声をかけても今更なのでは」と思う程に月日が過ぎていく。
卒業まで三年もの間、私はついぞあの天使に話しかける事ができなかった。
「…遠くにいる彼女を少し目で追っては、気付かれまいとすぐ逸らすだけの日々だった……」
「知ってら。」
執務机で深々とため息をつく私をちらとも見ず、ニクラスは書類の束をめくる。
「えー、次はバルヒェット伯爵領の鉱山事故による減税金額不服申し立てに対する、財務プレーデル卿の棄却処理承認申請。ほい資料。こいつらいつも喧嘩してんな…」
「…どうしたらいいと思う、ニクラス。」
「あー、ゼッフェルンが内偵から戻」
「これは保留三日以内に結論を出す。そうじゃない、ユリアの事だ。」
資料にざっと目を通し、簡易指示を書きつけて突き返しながら言う。
昨夜、寝耳に水だったろう私からユリアへの求婚を――私達の婚約を、陛下はなぜか許したのだ。
『随分急な話だな。ディートリヒ』
『それについては申し訳ありません。』
玉座の間にて。
国王夫妻の傍らにはユリアの父であるシュミット侯爵――陛下の愛人(男)にして、実の娘を虐待し調教したらしい万死に値する狂人――も控えていた。
私は侯爵への義憤を堪えようと努力したが、愛想よくする事はできていなかっただろう。
『陛下に挙げて頂いた候補には含まれておりませんでしたので、これまでお伝えする事もありませんでしたが……私は以前からユリア嬢を想っておりました。兄上の騒動さえなければこうは早まる事なく、手順を踏むつもりだったのです。彼女とは正式に婚約し、いずれ妃となって私と共に国を支えて欲しいと考えております。』
『ふ……人を魅了する腕は血かしら。ねぇ?』
扇子の裏で笑い、目を細めた王妃殿下が思わせぶりな様子でシュミット侯爵を見やった。
まだ四十歳手前の彼は老いた気配もなく、朗らかに微笑む唇の上には清潔に整えた髭がある。息子のフェリクスは生真面目な仕事人という印象が強いが、侯爵は穏やかで寛容な人物……だと思っていた。
――ユリアは貴方とは違う!!
侯爵を一喝し父上を問い質したい衝動に駆られたが、奥歯を噛みしめて耐えた。私はユリアとの婚約を許してもらわねばならない立場なのだからと。
拳を固く握りしめ、こればかりは譲らないという気持ちで頭を下げた。
『どうか、婚約の許可を頂きたく。』
『……ふむ。シュミット、お前はどうだ?』
『娘本人が合意したのであれば、私からは何も。我らはそういう一族ですので。』
侯爵はユリアから「殿下と契約してみたい」と聞いていたはずだ。
これが「契約」によるものとわかっているのかもしれない。長期契約と決めたのは私だから、一年という期間までは知らないだろうが…
私は必ず、ユリアをふしだらな仕事から解放してみせる。
『よかろう』
陛下は深く聞かなかった。
それがあまりに意外で、私は僅か目を見開く。アイレンベルクの事はどうする気か、王位を継ぐ気はあるのかと、せめてその二点は聞かれると思っていたのに。
『そなたとユリア嬢の婚約を認める。』
謁見は十分もなく終わった。
困惑しそうな程にあっさりと許され、私は陛下や侯爵と共に婚約書類へ署名した。後はユリア本人に書いてもらうだけだ。
それだけ、なのだが。
「今日ッ、果たしてサインしてくれるものだろうか…!?」
未だに信じられない!
侯爵邸へ遣いをやって訪問すると伝えてあり、待っていますとユリア直筆の返信も届いているが(生涯の宝にしよう)、いざその時になって「やっぱり殿下とはちょっと…」とか言われないだろうか?
私相手では手加減が…あくまで契約で…手腕とは……ぐっ。
「ヴァイゼンボルン卿に頼んでた件、責任者が直接来るらしいから十六日の十四時に面談入れた。いいよな?」
「ああ、シンデルマイサーも同席するよう言っておいてくれ。ユリアに花束を用意したのは普通だよな、ニクラス」
「わかった、普通。キンケル侯がギーゼンの説得に力貸してほしいって言ってきてるが、どうする?」
「イルケールの漁業組合か。私が言ったところでどうにかなるものではないだろう…意地を張らず、グナイスト男爵夫人に協力を頼めと。ドレスを用意できなかったのは情けないと思うか?既製品を贈る気になれなくてな…」
「了解。翌日ドレスはむしろキモいだろ。」
「きっ……婚約者になるのにか!?」
あまりの言い草に愕然として顔を上げたが、ニクラスは私の指示をメモしていてこちらを見ない。
だってお前これまで接触なかったし、と続けられて呻く。
そう、何年もユリアに話しかけられなかった愚図だ、私は。昨夜は天使の過剰摂取で心臓の負担がひどかったものだ。
ドレスや装飾品は通常の納期でしっかりと作らせる事にして、ニクラスからどさりと渡された書類をめくって一枚を抜き出す。
「この経費報告、計算は合ってるが先々週の申請ではもう一品あった気がする。見直させておいてくれ。提出日…これアイスラーが休んだ日だろう?彼が見てないのも気にかかる。」
「確かにな。……ま、ユリア嬢は大丈夫じゃないか?昨日は良い雰囲気だっただろ。」
「そう見えたか?」
「お前が『今夜は貴女を帰したくない…』なんて言うから驚いたわ。」
「そッ、そうは言ってないだろう!」
わざとらしいポージングで声色を変えるニクラスを叱りつける。
私はよろしくない教育を施すシュミット侯爵邸に彼女を帰すのが嫌だったのであって、断じて…断じて、そういう目的で言ったわけではない!!
「何が違うんだよ?正式な婚約者になるからって、王城にわざわざ部屋用意させてんのはどこのどいつだって。」
「それはっ…だから、彼女が心配なだけなんだ。」
「夜這いの時はちゃんと――」
「本気で怒るぞ」
「失礼致しました。」
私が表情を消して言えば、ニクラスは即座に顔と姿勢を正して頭を下げた。
ため息混じりに時計を見やる。
契約は一年。
期限がきてしまう前に、彼女が二度と侯爵のもとへ戻らず、変な客も取らずに済むようにしなければならない。
それについては、生涯仕える相手として私を選んでもらうのが一番早いはずだ。
『生涯仕えるとは、婚姻の意味で?』
『……場合によりましょう。』
ユリアはそう言っていた。
だから、選ばれた上で…場合によっては……このまま、婚約を真のものとしていいはずだ。
私は決して彼女をそういう事の道具にするつもりはない。
主君になったとしても、彼女が本心で私を夫として求めてくれない限り手も出さない。
……ただその場合、どうやって「生涯仕えたい」と思ってもらえばいいのだろうか?
手腕?を、どう認めてもらえばいい?
私は断じて、ユリアに不埒な真似などしたくなくて――
『想像して…くださらないのですか?』
しゅんと眉を下げ、じっと私を見上げる彼女の姿を思い出してしまった。
距離が、香りが、表情が、視線が、吐息が、すべて煽情的で。
頬にじわりと熱が宿る。
「…お前やっぱ、ちょっとはそういう事考え」
「うるさいっ!!」




