終幕 最期の邂逅
紳士淑女の皆々様、ご機嫌よう。
今宵も健康に生きておいででしょうか?
わたくしは第三王子ディートリヒ殿下の妃となりました、名をユリアと申します。
背中まで伸びた真っすぐな黒髪、吊り目でも垂れ目でもない平凡な目に赤みの強い紫の瞳。
本日は城の夜会へ参加すべく、白地をベースに艶のある銀の布地や青のフリルを大胆にあしらったドレスを着ております。身を飾るネックレスやイヤリング、髪飾りなどは深い青色のもの――これはもちろん、夫であるディートリヒ様の瞳の色に合わせております。
「うん……とても綺麗だよ。ユリア」
「ありがとうございます。ディートリヒ様も、本当に素敵です」
うっとりとため息をつきたいところを堪えて申し上げれば、わたくしの旦那様ははにかんで「ありがとう」と仰います。少し照れておられるのが伝わってきて、ああ、なんと愛しいのでしょうか。
普段よりも額を見せるヘアセット、明かりを反射して輝く銀髪が綺麗です。黒の燕尾服は裏地がわたくしのドレスと合わせた銀色で、タイリングには赤紫色の宝石が使われています。
今朝の寝起きは御髪が少しくしゃりとして、眠たそうに目を瞬いて…寝衣だって、ややはだけていたのを先に起きたわたくしがそっと直して差し上げたのですが。今のぴしっとした姿も、無意識に布団にもぐったお可愛らしい姿も、どちらもあまりに魅力的すぎます。
毎日どころか毎分毎秒が幸福の連続ですけれど、わたくしは旦那様を守る矛でもあり盾でもある。
代々優秀な暗殺者であるシュミット侯爵家に生まれた者として、ディートリヒ様を愛しながらも常に周囲を警戒しています。
「では、行こうか。」
「はい」
エスコートして頂きながら会場へ。
ディートリヒ様の横顔は穏やかですが……どこか真剣で、僅かな緊張が感じ取れました。やはり思うところがあるのか、朝から時折、物思いにふけっておられます。
今日は夜会と言っても特別で、第二王子であるエドゥアルト殿下の十八歳の誕生日会です。
物理的な意味で派手に祝おうとした王太子のローレンツ殿下をお止めするのは少々、いえかなり骨が折れたものでございます。
王太子妃のダニエラ様も乗り気だった上に、声をかけられた薬師バーデンなど、大盛り上がりで虹色火薬の開発をして……などと、済んだ話はもう不要でしょうか。
会場には既に多くの客人が集まっています。
わたくし達は国王夫妻と側妃殿下、ローレンツ殿下達に挨拶を済ませて席につきました。
側妃殿下は極秘に庶民向けの料理店を営んでおられるのですが、その時と今とで笑顔や化粧、話し方に仕草まで完璧に使い分けていらっしゃいます。
自ら振るってくださる料理の腕は大変素晴らしく、なのにお手頃価格で人柄もよいと評判なのでございます。
さて、この座席は会場を見回せる位置ですから、遠くからお父様が笑いかけてくださったのも見えました。お兄様は宰相閣下と共に歓談中ですね。
ディートリヒ様の側近であるニクラス様は、婚約者のヴィルマ様と挨拶周りを。この二人も来年には式を挙げる予定と聞いております。
「…ああ、イザーク達も間に合ったか。」
ディートリヒ様の呟きに視線を向ければ、皆様が今しがたいらしたご夫婦のために進路を空けていくのが見えました。
聖地レラクを守るメルツァー公爵家のイザーク様と、夫人のエルフリーデ様です。わたくしとディートリヒ様は学園を卒業してすぐに結婚しましたが、それを遥かに超える早さ――卒業の翌日に結婚したのがこのお二人です。
エルフリーデ様は一学年上ですので、既に卒業されていました。
結婚は焦らず聖地に慣れてからでもよいと言ったイザーク様に、エルフリーデ様は「すぐが良いです」と即答したそうでございます。
式の相談、教会の手伝い、先生がたとの面談、卒業後もあらゆる理由で学園を訪れていた彼女は、より長くイザーク様と過ごせるよう即座に結婚なさったのです。
わたくしも大層ディートリヒ様を愛している自覚がございますが、エルフリーデ様の愛も中々の大きさかと存じます。
絶対に手放さぬという気迫すら感じられ、時折周囲を驚かせるほどなのですが……夫であるイザーク様はといえば、圧倒される気迫ではなく健気な愛らしさを感じているご様子で。エドゥアルト殿下に言わせれば、あの方は「大物」でございます。
などと考えていたら、ちょうどエドゥアルト殿下がいらっしゃいました。
主役の登場でございます。皆の視線が集まったのは殿下――の腕に手を添えている、ピンクブロンドのご令嬢。今日その場所にいるのは彼女であろうと、皆が思っていた通り。
かつてと比べれば歩容も非常に落ち着いて、緊張しているようですが躓く事もなくこちらへいらっしゃいました。
やがて楽隊の音色が始まりを告げ、会場に拍手が響く中でわたくし達は立ち上がります。
陛下が皆の前へ出て手振りをすれば、揃った動きで拍手が止む。
「皆、よくぞ集まってくれた。今日は他でもない、我が息子エドゥアルトの生誕を祝う会である」
お話の間、誰もが身じろぎもせずに聞いていました。
会場からの視線は陛下やエドゥアルト殿下達だけでなく、王妃殿下にも向いています。エドゥアルト殿下だけが、陛下と王妃殿下の子供だからです。王太子殿下とディートリヒ様は側妃殿下の子。
側妃殿下の出生には少々秘密があるのですが、それは世間から隠された事実。ゆえに王妃殿下の子である第二王子殿下だけが正当な血筋、そう言う者達もおりました。
エドゥアルト殿下が選んだ相手に対し、貴族院から反対意見が多かった事は確かです。
「紹介しよう。婚約者となる――…リリアン・カルク伯爵令嬢だ。」
会場のほぼ全員から拍手を送られ、エドゥアルト殿下とリリアン様が進み出ました。
わたわたオドオドしていた頃が嘘のように、リリアン様は落ち着いた微笑みを浮かべておられます。素は変わっていないのですが、お行儀は本当によくなって。
長いものでした。
エドゥアルト殿下が唐突にリリアン様に惹かれてから、正式に婚約が認められるまで。わたくしとディートリヒ様や、ローレンツ殿下とダニエラ様が認められるのとは大違いだったのです。
カルク伯爵家の財政状況は悪く、リリアン様の淑女教育も少々粗末なものだったがゆえに、殿下の告白から婚約まで四年以上の時間がかかってしまった。
「――…兄上……」
拍手の音に掻き消され、他の誰にも聞こえていないでしょう。
わたくしにだけは、ディートリヒ様が感慨深げに呼んだ声が届いていました。その目には薄く涙の膜が張っているようにさえ見えます。
拍手の止んだ会場でエドゥアルト殿下の挨拶が始まりました。
わたくしは皆の死角を理解した上で、そっとディートリヒ様の手を握ります。そうしたいと思ったからです。
ありがとうと言うように優しく握り返してくださった彼と共に、わたくしは殿下達の背中を見つめていました。
ダンスも挨拶も一通りを終えて、休憩のために一度控え室へ戻ります。
わたくしが飲み物を手配する間に、ディートリヒ様はカーテンを開けバルコニーへ出ておられました。護衛が一人の時に自ら離れる事はあまりないのですが、どうしたのでしょう。
誰もいない隣室のバルコニーを見ていた彼は、わたくしが近付くと目を合わせて微笑んでくださいました。自然とわたくしも微笑んで、口を開きます。
「どうなさったのですか?今日は朝からずっと、何か考えておられますね。」
「わかるのか?……いや、そうか。君にはわかってしまうよな」
「愛する貴方様の事ですから。」
他の方よりずっと、見て察する力は高まっているものと存じます。
ディートリヒ様が笑い、その銀髪を風がふわりと撫でていく。
「――今日は私にとって、節目の日なんだ。」
「初耳でございます。」
「ああ、初めて言った。……救えたものも、救えなかった人も…成功も失敗も、予想外の事だって沢山起きたが……これまでの歩みに、満足はしていると思う。」
エドゥアルト殿下の誕生日である事以外、暦の上では何事もない日ではありますね。
今までを振り返るように星空を見上げて、ディートリヒ様はぽつり、「天使が現れそうな夜だな」と呟きました。
天使。
亡くなった人のもとに来るそうなので、ここにはまだ来なくて結構なのですが。こつりとまた一歩近づいたわたくしを迎え、ディートリヒ様は手を支えてくださいました。
深い青色の瞳が、わたくしを真っすぐに見つめている。
「ユリア。今の私があるのは間違いなく君のお陰であり、神の導きによるものでもある。」
「神様、ですか。」
聞き返すと、彼は聖書の有名な一節を口にしました。《神は常に我らを見守り、正しき者には天使を遣わす》――…人が死ぬ時、どう生きたかによって来世への救いがあるという話でございます。
「いくつも間違えた私が《正しき者》と言えるかどうか、わからないけれど……神の導きがなければ、きっと君の笑顔も失っていただろう。」
「そうでしょうか?貴方はいつでも、わたくしの全てでございます。何があったとて、笑えていたと思いますよ。」
「…ありがとう」
くすりと微笑んだ彼の唇がわたくしの頬に触れました。
優しくてささやかな幸せに浸る自分と、ディートリヒ様を守る存在として周囲の警戒を怠らぬ自分とをそれぞれ働かせます。
近い距離で目を合わせ、瞳にこもった熱を見る。愛しい指先がわたくしの唇をなぞって。
「こちらにもいいだろうか。」
もちろんですと微笑んで距離を縮めれば、ようやく唇が重なった。
毎日幾度交わしても飽きる事ない、胸に溢れる愛を確かめ合う行為。互いの存在を味わって甘美に溶けていくような、幸福を分かち合うひととき。
軽い音を立てて唇が離れると、いつも名残惜しい気持ちになる。
頬を寄せて抱きしめられ、そんな心が満たされて。その度にわたくしは思うのです。
誰にも――神にさえも、この方の命を渡してなるものかと。
「愛しています。ディートリヒ様」
「私もだ、ユリア。君を心から愛している」
いつか今生を終えたとて、次の生でもわたくしはきっと貴方に巡り合う。
覚えていてもいなくても、必ず。
そうしてまた、二人にとって良い選択を致しましょう。
最期まで一緒にいられるように…
◇ ◇ ◇
風が吹いている。
目を開けると、わたくしはどこかの草原で横になっていました。
きっと夢なのでしょう、老いたはずの身体が随分と軽い――…かざした手に皺がない。ああやはり夢ですね。
身を起こすのもすぐに済んで、わたくしは全盛期のようにあっさりと立ち上がる。
もう色を失ったはずの黒髪がさらりと胸元に流れた。
「おお、来たか。」
どこか懐かしい声に振り返ると、心地よく晴れた空の下、木陰にイザーク様が座っていました。夢で会うならディートリヒ様がよいものを、なんなのでしょう。
彼はまるでメルツァー公爵を継いだ頃のように若々しく、傍らにはとても美しい金色の鳥が寄り添っていました。
見覚えのない種類の彼女はレースのついたケープを纏っていて、碧の瞳でわたくしをじっと見つめると、会釈のように頭を下げる。妙に品を感じますね。
「…ご機嫌よう、イザーク様。貴方が亡くなって以来でございますね。」
「ふははは!変わらないな、貴女も。ディートリヒに会わせてやれなくて悪いが、まぁそんなに時間は取らないらしいから。」
そう言って彼が見やった先へ視線を流すと、まったく知らない男性が歩いてきます。
腰まで伸びた金色の髪、顔を隠す布地の面に厳かな衣服、装飾のついた杖まで持っていて。夢の中の存在ですから、誰であろうと実害はないのでしょうけれど。
「どちら様でしょうか。只者ではないように見受けますが」
「それは君が僕を、《優れた導き手》だと思っているせいだ。今回は特別招待だよ」
誰なのかと聞いたのですが。
答える気がないらしい男性は杖で地面をさくりと突き、視線を遠くへ投げました。ディートリヒ様に会えないなら、さっさと現実に帰してほしいのですが。
「歴代のシュミットの中でも君は厄介だった。文句ばかりだし」
「帰ってよろしいでしょうか。夫の墓参りがありますので」
「ああ、もうそれはできないよ。君は眠りの中で命を終えてね……次の生へ行く前に少しだけ会っておこうと思って呼んだ、そういう状況だ。」
「…死んだという事でしょうか。」
男性は事もなげに頷きました。
それは、嬉しいことでございます。
夢から醒めたら少し気落ちするかもしれませんが、もしこれが本当で、ひと月前に逝ってしまわれた彼をようやく追えるのなら。
やっと…やっと、という気持ちです。
ディートリヒ様本人や子供達、そして孫達に止められていなければ、すぐに後を追いたかったわたくしですので。
「今生を振り返って、君は自分が『良い選択をしてきた』と思えるかな。」
そんな事より来世に行きたいのですがと、思わなくもありませんでしたけれど。
わたくしは腹の前で手を揃え、きちんとお答えしました。
「全てがそうであったとは申しません、一つも後悔がないとも言えません。……ですが、生涯を通して答えるのであれば。良い人生を送れたわたくしはきっと、良い選択をしてきたのでしょう。」
「……なるほどね。」
「もうよろしいでしょうか?」
「本当に君は目指すところがブレないな。いいよ、さようなら。もう会う事はないだろうけれど」
結局誰かわかりませんでしたが、そんな事よりディートリヒ様です。
早く探しに行って差し上げなくては。
金色の鳥を撫でながら、イザーク様が笑う。
「じゃあな、覚えてたらディートリヒによろしく。」
「承知致しました。では」
軽く頭を下げて言うと、雲へ飛び込んだかのように視界が白く染まる。
余計な時間を取られた事で、年齢差が発生していたりするでしょうか。それとも、夢だから関係がないのでしょうか。
夢でなかったら、わたくしは死んでいる。
ようやく、貴方のもとへ行けるのです。
◇ ◇ ◇
「とうっ」
木の枝から元気よく飛び出して、風を受けた私のスカートがはためく。
離れたところでガシャーンと器が割れる音がして。
「うわあああっ!お嬢様あぁああ!!」
「んぐっ」
まだ小さな体は、全力で走ってきた従僕の腕にぽすんと受け止められて。口が勝手にくぐもった声を出した。ぜぇぜぇと息をする彼の胸は、どっくどっくと鳴っている。大丈夫かしら。
彼は私より五つも年上だけど、お父様みたいなむきむきじゃないから少し心配になる。
「どうして木から飛び降りたんですか!?いえ、登らないでくださいそもそも!」
「大丈夫よ、私たぶん着地できると思うの。こう、すたっと」
「できませんから!ああっしまった、奥様お気に入りの茶器が!」
「私はね、特訓が必要なのよ。貴方を守るために」
使用人見習いとして彼を紹介されたのは私が三歳くらいの時だったけれど、見た瞬間にピピッときたの。私が守るべき人だって。
そう言ったら、私が彼の護衛になるんじゃなくて、なんと彼が私専属の従僕になった。今考えると、確かにそれが普通なのだけど。
「いつも言っていますが、役目が逆ですから。大人しくお淑やかにしていてください、本当に。」
「後ね、誰かがよろしくって言っていたわ。貴方によ」
「いつ誰に会いましたって!?まさか侵入者……?」
「綺麗な鳥さんもいた気がするの。喋らなかったけど」
「……さては夢ですね?」
呆れたように言いながら、彼は乱れた髪もそのままに私を地面に下ろしてくれる。
手を伸ばして、私が髪を整えてあげた。すっかり見慣れた苦笑する顔は優しくて。
「大丈夫、貴方は絶対に私が守るわ。」
「むしろ僕が今守ったはずなんですが……ふふ、わかりましたよ。いつかお心が変わるまでは、僕を傍に置いてくださいね。」
「ええ、もちろん。任せておいて」
「つまり、勝手にどこかへ行っては駄目ですからね?目の届く場所にいてくださらないと、お嬢様ときたら…」
「傍にいるわ。」
心が変わらないから、ずっとよ。
そう気持ちをこめて頬にキスしたら、彼はなぜか後ろ向きに転がって頭を打ち付けてしまった。
こんな事態が起きてもしっかり守れるように、私にはやはり特訓が必要だわ。
「待っててね、まずは強くなるから。」
「い゛った……な、何が起きて…っからかわないでください!」
「至って真面目よ?」
「旦那様に殺される……」
「…迎え撃ちましょうか?」
「お嬢様は黙っててください!」




