60.望むのならば
イザークとエルフリーデの婚約はすぐに発表された。
彼は秋の舞踏会で他の令嬢と踊る事はなかったため、この組み合わせ自体に驚いた生徒はほとんどいない。
エルフリーデとて、王家と結ばれないなら同格以上に嫁入りしなければ面目が立たない。口さがない者達は「彼の好意はアイレンベルクにとって都合が良い」などと囁いた。
「打算で選ばれるなんてイザーク様が可哀想」と泣いてみせる者もいれば、「聖地とは名ばかりの田舎に嫁ぐなんて、おいたわしい」と扇子の裏で口角を上げる者もいる。
しかし実際に二人揃った姿を見ると、誰もが己の目を疑う事となった。
「イザーク様。祭の際はわたくしに仮面を作ってくださるというお話でしたが……これまでも、どなたかに作って差し上げた事があるのですか?」
「いいえ。メルツァーが作るのは自分と、伴侶となる相手の物だけですから」
「はっ……そ、そうですのね。」
「ふふ」
頬を染めるエルフリーデは見るからに恋する乙女で、イザークはそんな彼女を大切に慈しんでいる、そんな間柄に見えるのだ。
彼の隣にいるだけでエルフリーデは満足そうに――どころか、幸福感すら窺える微笑みを浮かべていて、雰囲気が柔らかくなった彼女を慕い憧れる者は男女問わず増えていった。
アイレンベルクの娘をあそこまで骨抜きにするなんてと、令息達からイザークへの視線は畏敬が嫉妬を上回る。
なぜか教会に来る男子の割合が増えて目的はもっぱら恋愛相談なのだと、イザークは至極不思議そうに首を傾げた。ディートリヒは「どう考えても彼女を落としたからだろう」と思ったけれど、曖昧な苦笑を浮かべるに留めておく。
「…イザーク。本当に…絶対に、必ず、エルフリーデ嬢を幸せにするんだぞ……!」
「気持ちが悪いぐらいに真剣だな。エドゥアルト殿下にも妙に念を押されたぞ」
「私達は心から二人の幸せを祈っているんだ。お前は特に健康にも事故にも気を付けて、とにかく長生きをだな…」
「本当になんなんだよ」
新年を迎え、学園ではパーティーが開かれた。
そこで発表されたのはローレンツとダニエラの婚約だ。
なるほど病弱だった王子は自らの子にその特性が遺伝する可能性を憂慮し、妻となる女性には病知らずの屈強な者を選んだのである。
王族らしい実に合理的な判断だと言う者もいたが、ダンスの際に放り投げられようが横抱きに受け止められようが楽しそうにしているローレンツの姿を見ると、単に一緒にはしゃいでくれる嫁を選んだのではとも思えてくる。
ローレンツとダニエラの間にはいじらしい恋情も燃えるような愛情も見受けられないが、心から楽しんで笑っているらしい二人はただ、互いが最高のパートナーだと証明していた。
「結局のところ……ローレンツ殿下のお心など、わたくし達に量れるものではないのでしょうね。」
一人の令嬢が呟いた。
なにせ職員に変装したり草むらから飛び出したり、妙に光り輝く衣装をまとったりと、第一王子殿下は意外にも好き放題になさる御仁のようだから。
そこに付き合える女性も中々おるまいと、令嬢達は素直に祝福の拍手を送った。
「考えてみれば、ローレンツ殿下はあと二ヶ月で卒業なんですよね。」
パーティーの翌日、サロンを貸し切ってのティータイムにリリアンがぽつりと言う。
女性陣が集まったテーブルには香り高い紅茶や美味しそうな菓子類が並んでいた。
「ダニエラ様はあと二年学園に残るから、その間は離れ離れかぁ」
「うふふ。でも、そんなに遠く離れるわけではありませんから。会おうと思えば幾らでも会えますわ~。」
「そうですね。ダニエラ様の体力であれば容易い事かと存じます」
ほんわりと微笑むダニエラに、ごく僅かな微笑を浮かべて断言するユリア。
まさか馬車ではなく走って行くつもりなのだろうか。聞くべきか悩んで唾を飲み込むリリアンから目を離し、エルフリーデは話題を切り替える。
「ヴィルマ様、どうかしまして?」
「っ……すみません、考え事を」
先程からずっと、ヴィルマはぼんやりテーブルの菓子を見ているようで、見ていなかった。
何か思い悩んでいるのは明らかであり、「何でもありません」が通らない空気と察した彼女は視線を泳がせた。
そうっと振り返り、もう一つのテーブルにいるニクラスや王子達が話し込んでいるのを確認する。
「その……パーティーで聞いた噂が、なんと言えばよろしいのか…こほん。」
改めて自分の周囲を見回せば、そこにいるのは第一王子の婚約者と第二王子の恋人、第三王子の婚約者と公爵令息の婚約者だ。
大変に言いづらい。四人の視線が自分に集中しているのを感じながら、ヴィルマは頬を赤らめて口を開いた。
「婚約者がいる男性の中には……卒業前に、その。しっ娼館で、勉強…というか」
「あーっ、それ私も聞きました!三年生だと、娼館行って練習する男がいる!…って……」
最後だけ声を落としても遅すぎる。
リリアンは挙動不審に部屋を見回しながら冷や汗を流し、ヴィルマは青ざめて口元に手を添え、エルフリーデは呆れたように困り眉で扇子を広げる。
男性陣のテーブルはすっかり声が止んで全員こちらを見ていて、ダニエラは「あらあら」と片頬に手をあてて微笑み、ユリアがひとつ頷いて口を開いた。
「事実、でございますね。座学のみでは不安で実践したいという方もいれば、女性の意見を聞いておきたいですとか、中には、回数をこなせば男性としての格が上がる……という考えの方もいらっしゃるようです。」
「…どうしてそんなに詳しいんだ」
できれば知らずにいてほしかったディートリヒが小さく頭を振る。
「昨夜のパーティー…日頃もですが、わたくしには男性側の噂も聞こえておりますので。」
ユリアは耳がよいのだ。
ディートリヒはなんとも言えない顔で「そうか…」と頷き、イザークは素直に感心した様子で、ローレンツは考えを読ませぬ微笑みだ。一度目の人生でも様々な例を聞き知っているエドゥアルトは、苦い顔で沈黙を守っている。
「な、なんか生々しいけど、思ったよりまともな理由の人もいるんですね。こう…下心な感じのあれかなって思ってました。」
精一杯のフォローをしたリリアンだが、エルフリーデは内心「そこは繋ぐのではなく、この話題を終わらせるべきでしょう」とこめかみを押さえた。先程の声量といい、リリアンの淑女教育はまだ時間がかかるようである。
「もちろん全員が行くわけではありませんし、誰にも知られないように行く方もいるでしょう。そして練習に留まらず、そのまま心を移して愛妾にする場合もあるのだとか。」
「…一応言っておくけれど、私は行く気などないからな。」
「はい、ディートリヒ様。心得ております」
当然とばかりに微笑んで返され、ディートリヒはほっと胸を撫で下ろした。
ユリアが真面目な顔に戻って話を続ける。
「そも、学びや鍛錬が必要なら男性に限らないはずです。時が近付きましたら、お手間をかける事がないようわたくしが各種知識と技術を――」
「ユリア、後で話そうか。とても異議がある」
そんなやり取りを半端に聞きながら、ヴィルマはニクラスから目が離せなかった。
何かを言うか言うまいか悩む、そんな顔をしていたからだ。「まさか」という思いで心臓が嫌な音を立てる。
目が合った。
「ヴィルマ」
「…はい。」
「いつか知るだろうから今のうちに言っとくと、…兄上はたまに行ってる。」
ヴィルマは目を見開いたが、知っていたのかディートリヒ達は動じなかった。
他の男などどうでもよいエルフリーデはただ目を細め、リリアンは下手に大声を出さぬよう唇をきゅっと閉じる。ダニエラとユリアに動揺はなかった。
「これは義姉上も承知してて、相手は兄上が卒業前に…勉強させてもらった人だ。さして隠さないもんだから、知ってる奴は知ってる。」
「……許してる、のね。どうして?」
「夫婦ではあんまりする気にならないらしい。…まぁ、もう子供はいるし、外野がとやかく言う事じゃないからな……」
ヴィルマが自身の服を軽く握りしめた音に、ユリアだけは気が付いた。その瞳には緊張と怯えが見て取れる。
難しい顔をしたディートリヒが顎に手を添えて唸った。
「他人がどうこう言うものではない事なのはわかるが……愛する人に他の女性を勧められるというのは、さぞ複雑だろうな。」
自分の身に置き換えると、ユリアに「そういう行為は店でどうぞ」と言われるわけである。
想像するだけで少し傷ついたディートリヒは、言われた意味がわからないとばかり目を丸くしたヴィルマに気付かない。
「そもそも、卒業前に娼か――勉強を勧めたのも、相手を指定したのも義姉上だからな。兄上はもう慣れて割り切ってるよ」
ニクラスが補足する。
信用する相手に夫を預けている、と考えれば邪険にはしていないのだろうが、愛し合う夫婦の中では珍しい形式なのは確かだ。
呆気にとられた様子のヴィルマを見て、ニクラスは苦い顔で目をそらした。
「……俺だって、お前が嫌なら無理強いしない。」
「っ!?わ、私は別にっ、何も……!」
顔を赤くしてしどろもどろになるヴィルマを横目に、エルフリーデは心の中でなるほどと呟く。どうやら次期レヴィン伯爵夫妻の「する気にならない」は夫側ではなく、妻側の意見だったようだ。
音もなく扇子を閉じた瞬間、ふと自身の婚約者と目が合ってぎくりとする。
――ここで目が合うのは、彼に何か誤解を与えはしないかしら。
焦りで急に暑さを感じる。エルフリーデはイザークが無理強いする事などないと知っているし、自分が他の女性を勧める事だってありえない。
しかし大丈夫と伝えようにも他に人がいる上に、声を潜めて届く距離ではなかった。
――違うのです、わたくしはただ。
イザークが近くにいると、それを実感したくてつい事あるごとに見てしまうのだ。この茶会だって、先に来ていたイザークがよく見える席を選んで座っている。
じわりと焦ったエルフリーデの何もかもを見透かしてか、あるいは何も知らずに偶然か。イザークは愛おしそうに目を細め、微笑んでひらりと手を振った。
――っそういう、ところが!貴方は!!
胸のあたりがぐっと締め付けられ、エルフリーデは咄嗟に目をそらす。
人に見られるかもしれない中で手を振り返す事などもちろんできず、心のままに駆け寄ってハグを要求する事だって到底できず、とはいえ無視する事だってできなかった。
閉じた扇子がぴこ、ぴこ、とごく小さく振られるのを見て、イザークは笑いを堪えて口元をひくつかせている。
――エルは今日も可愛いな。後で、手に触れるくらいは許してくれるか?
機嫌のよいイザークの横を、リリアンがちょこちょこと通り過ぎた。
エドゥアルトの傍に来た彼女は頬を赤らめながらも口の横に手をあて、ぽそりと問いかける。
「…あ、あの。エドゥアルト様は、その。練習のご予定とか」
「お前にしか興味ない。」
「ひゃいっ!?あっ、う、わわ、わかりました……」
耳に吐息があたり肩を跳ねさせたリリアンの声は上ずっていて、皆の注目を集めたと気付いた彼女はそそくさと自席へ戻った。リンゴのように赤い頬からはぷしゅうと湯気が出ている。
聖人のごとき微笑みを浮かべ、ローレンツはからりと笑った。
「うんうん、合意なしの強行は何事も揉めやすいからね。意見のすり合わせは大切…」
不意に、窓に視線をはしらせたユリアが立ち上がる。
それを見てダニエラは即座に横に置いていた剣を取り、唐突に窓ガラスが割れた。ヴィルマが短い悲鳴を上げた時にはもう、飛び込んできた矢などユリアが叩き落としている。ダニエラは既にローレンツの前に立ちふさがっていて、リリアンは硬直し、ほんの数秒で平静さを取り戻したエルフリーデは割れた窓を見た。追撃はないようだ。
ダニエラに「もういいよ」と合図して、ローレンツは薄く微笑む。
部屋にいる誰もが、自然と居住まいを正していた。
「――またちょっと、忙しくなるかな?」
ディートリヒが「追いますか」と問いかければ、ローレンツは「やれる?」と聞き返してくる。
ぱきりと破片を踏みつけて、ユリアは窓を背に振り返った。最初からそのタイミングがわかっていたかのように、視線を戻したディートリヒと目が合う。
「ユリア。頼めるだろうか」
「もちろんです。ディートリヒ様」
――わたくしの貴方。始まりにして唯一のお方。貴方が望むのならば、何であろうと
「その依頼、お受け致します。」
この世の至福とばかりに微笑んで、ユリア・シュミットは軽やかに飛び降りた。
勘違いから始まった皆のドタバタ劇でした!
読んで頂いてありがとうございました。
後は少しだけ、先の話を。




