59.では、改めて。
一夜明けた休日の昼下がり。
ようやく事情聴取から解放されたエルフリーデは、日傘を差して一人、城の庭を訪れていた。先に終えたイザークがそこで待っていると兄に教えられたからだ。
肌寒い季節ではあるが、今日はよく晴れていて日差しが温かい。
庭と言っても庭のどこにいるのよと唇を尖らせながら、エルフリーデは昨日の事を思い返した。
『ふっ――あはははは!何だよ、エル!来てくれたのか?』
嬉しそうに笑ってくれた事が、愛称で呼んでくれた事が、心臓が止まりそうなほど幸せで。
エルフリーデはその愛称をたった一人にしか許していなかったのに、断って父を落ち込ませた程なのに、イザークに呼ばれるのは不思議と違和感がなかった。
――あの頃の殿下と重ねるのは、よくない事だと思っていたのに。
否定する暇もない。
イザークが呼んだ瞬間、その声に込められた感情が、笑顔が、エルフリーデの胸に真っすぐ届いてしまったのだ。
戸惑って虚勢を張るよりも、自分がいかに愛されているか、どれほどイザークを好きなのか自覚する方が早かった。
この恋心の存在は既に知っていたはずなのに、「思っていた以上に貴方が好き」だと、エルフリーデは会う度に理解させられて。
――そもそも、彼はずるいのです。わたくしが動揺する事ばかり言って。
心の中で文句を言ってみるが、イザークの言動に喜んでしまっている自覚もあった。
頬が熱くなってきた気がして頭を軽く振り、ふと、離れた場所にある噴水に目を留める。
『お庭を見ていても、いいでしょうか。』
『構わないが、あの噴水までの間にしなさい。そこから出てはいけないよ。』
「……懐かしいですわね。」
あの時はディートリヒが、庭の低木の下に入り込んで寝ていたのだ。
もう忘れたいくらいで、それでもエルフリーデを支えた大事な記憶で、吹き抜けた風が冷たく感じられる。
二の腕を少し擦って、エルフリーデはイザークを探そうと顔を上げた。探し人がすぐそこにいるとは知らずに。
「………嘘でしょう、貴方……」
仮にも十四歳。もう数年で成人する公爵家の――それも、昨日命を狙われていた――令息が、芝生に仰向けで寝転がってすやすやと眠りこけている。
あまりにも無防備だ。せめてテーブルセットの椅子で眠ればいいものを、彼はその近くに生えている木の下で枕も無しに眠っていた。
「木の葉が日差し避けになって良い、じゃないでしょう……!」
言ってやりたかったのに、眠りを邪魔するのもどうかと悩んだのか、寝顔を見たいという心があったのか、エルフリーデの声は小さい。
規則正しく上下する胸には彼の眼鏡が置かれ、そのチェーンはいつも通り首にかかっている。
危ないと思わないのだろうかと、エルフリーデは少しだけ心配になった。起きないか確かめるようにそろりと近付いて、傍らに膝をついてみる。
――眼鏡がないと、少し幼く見えますわね………、あら?そういえばこの方、一体いつからわたくしを待っているの?
「…イザーク様?」
ぽそりと名前を呼んでみるが、様子はまったく変わらない。
エルフリーデは肩を叩いてみようかと手を伸ばし、寝ている殿方に触れて良いものなのか悩んで引っ込めた。辺りを見回し、他に誰もいない事を確かめる。
もう少し大きい声でないとイザークは起きないのかもしれない。
そして本当にいつから居たのだと、もし冷え切っていたらどうしようかと、少し焦ったエルフリーデは困り顔になっていた。
「あの、風邪を引いてしまいます、よ……」
「………ん…?」
不覚にも、ディートリヒにかけたのと同じ言葉だ。
そう気付いたエルフリーデは口ごもり、僅かに顔を顰めたイザークは眩しそうに瞬いた。ちらちらと降り注ぐ木漏れ日が、彼のシルバーブロンドに反射している。
瑠璃色の瞳と目が合って、エルフリーデはあまりの既視感に息を呑んだ。
――…これ、は……?
似ているだけだと、重ねているだけだと、エルフリーデは自分に言い聞かせていた。
けれど、自分を見上げる彼の姿はあまりにも。
――あなたは、
「…天使……」
「え?」
「……ああ…失礼。あまりに綺麗なので、見間違えました」
まだ眠気の残る声で笑って、イザークは身を起こす。
眼鏡をかける横顔がどこか寂しげな苦笑に見えるのは、エルフリーデの見間違いだろうか。心臓がどくり、どくりと鳴っている。
――わたくしのことを、言っているのですか?
聞いてしまいたい、聞いた方がいい。
わかっているのに、声が出なかった。
「予想以上に長いものですね、事情聴取とは。昨夜は眠れましたか?」
「……はい。」
「それはよかった。」
「あの、イザーク様」
「はい?」
日傘の持ち手を固く握り、エルフリーデの頭では浮かんでしまった問いがぐるぐると回っている。
なぜ、ディートリヒは忘れているのか。
なぜ、自分は《彼》をディートリヒだと思ったのか。探しに来た者がそう呼んだからだ。
――そうだわ。あの時アルトナー卿は……彼を見て「ディートリヒ殿下」と呼んだわけではない。でも、彼が言ったのよ。自分の名は……あら?言いかけただけ、だったかもしれない……でも、「ディー」で始まる名前なんて…偽名を伝える気だった、とか?あの状況で?
エルフリーデが何も言わないせいだろう、イザークが不思議そうに瞬いている。
少し可愛いわ、などという感想が浮かんでしまって、エルフリーデは心の中で自分の口を塞いでやりたくなった。
「……エルフリーデ嬢?」
「なっ、名前……」
「うん?」
「貴方の名前を、教えてください。」
数秒、沈黙が漂った。
当然だ。イザークからすればあまりに唐突で、わけの分からない要求だろう。
エルフリーデの頬がじわりと赤く染まった。
――わたくしは、一体何を…
「…俺は、ディーツェル伯んとこのイザーク。」
まさかの返答に、エルフリーデは俯きかけた顔を上げる。
ディーツェル伯爵、それは彼の祖父だ。
全てを理解したエルフリーデは口をぱかりと開けそうなのを全力で堪え、「それはないでしょう」と叫びたい気持ちも堪えて、ぱちぱちと瞬いた。
あの日のディートリヒに重ねるのは失礼ではと考えた事もあったが、重ねるも何も、失礼も何も。似ていて当たり前なのだ。
エルフリーデの苦悩は何だったのか。
文句を言ってやりたいのに、ふざけないでと言ってやりたいのに。
イザークが嬉しそうに目を細めるものだから、責められない。
「…エルって呼んでいいか?」
「か…勝手を、言わないで。」
エルフリーデの声は震えていた。
無意識に喉が締まり、言葉がつかえてしまう。
「わたくしの名はっ、お父様と、お母様がつけた…格式ある、もので」
視界は波のように揺らいでいて、瞬くと涙がこぼれた。驚かないイザークはきっと、思い出をなぞった事に気付いている。
頬に優しくハンカチをあてられて、エルフリーデの手から日傘が落ちた。
――ぎんいろのかみで、あおいひとみの彼が……あなたが、わたくしを見ている。
限界だった。
迷子になった子供のように眉尻を下げ、エルフリーデは涙を拭ってくれるイザークの手に触れる。
遠いあの日と同じ、温かい手だ。
「……本当に、貴方なのですか。」
「思い出した?」
そう問いかける声はどこまでも優しく、からかう様子もなければ、責める様子もない。
涙はとめどなく溢れ出し、ハンカチを濡らしていく。
本当は、エルフリーデはずっと苦しかった。
彼に忘れられたと思っていたからだ。
けれど実際は、どうか。
『良い夜だな、エルフリーデ嬢。私と一曲どうだろう』
初対面だと思っていたあの夜。イザークはきっと、エルフリーデを迎えに来たつもりだったのだ。
それを、王家に嫁ぐから貴方は不要だと突きつけて。まともに向き合おうともしないで、追い払って。
彼はどれほど傷付いただろうと考えて、エルフリーデの胸は締め付けられるように痛んだ。
忘れられた者の苦しみは知っている。
「っ……思い出すも、何も!わたくしは一度も…ほんのひとときだって、あの日を忘れたことなどありません!」
「え」
「でも、貴方だと思わなかったのです!…貴方が、ちゃんと名乗らないから……」
涙声で話しながら、これでは責任のなすり付けだとも思う。エルフリーデの視線は下がり、声は尻すぼみになっていった。
イザークは名乗ろうとしたし、遮られたのは彼のせいではない。勝手に思い込んだエルフリーデだけが悪いのではないか。
――なんて女だと嫌われてしまったら、わたくしは、どうすれば…
怯えながら視線を上げると、イザークは呆気に取られたように瞳を丸くしていた。
予想外という顔で瞬いて、彼は口を開く。
「……あれ、俺名乗ってなかった?」
「ないですわ!アルトナー卿の声に、遮られて……きちんとは、名乗れていませんでした。」
「そっか……それは悪かったな」
握ったままのハンカチを涙の跡に優しく添え、眼差しを和らげたイザークはエルフリーデの手を取り「ごめんな」と囁いた。
たったそれだけで今までの苦しみ全てが報われた気になって、エルフリーデは再びこみ上げた涙を堪えて頷いた。
「では、改めて。」
上着の裾を後ろへ払い、イザークが片膝をつく。
エルフリーデの手を握り、その瞳を真っ直ぐに見つめて。
「もしお嫌でなければ……私に、貴女を妻に迎える栄誉をくださいませんか。お姫様」
微笑む彼を見て、エルフリーデは理解した。
既に、父であるアイレンベルク公爵の許可を得たのだと。後はもう、エルフリーデ自身が承諾するだけなのだと。
喜んでと笑って頷きたかった。あるいは、当然のように微笑んで格好よく許可してもよかった。
けれど、どうしても声が震える。
「本当に……わたくしで、良いのですか?」
「なぜ?」
「それは、」
後悔してほしくないからと言いかけて、止まる。
言えば嘘になるという確信があった。結局のところエルフリーデは、いつか「選ばなければよかった」と言われて傷付くのが怖いのだ。
――なんて、アイレンベルクに相応しくない弱さ。けれどわたくしは……他の誰に嫌われようと、どれだけ憎まれようと、貴方にだけは。
こくりと唾を飲み込んだエルフリーデの言葉を、イザークは待っている。
暗に「大丈夫だ」と言われた気がして、エルフリーデはゆっくりと口を開いた。
「わたくし……どこへでも行ける、貴方のその強さが好きです。けれど、たとえ仕事でも……遠くへ行かないでほしい。…黙って出かけてしまっても嫌」
「…うん」
「女性がいる所に、一人で参加しないで。…貴方の隣を狙う人を、近寄らせないで。何をしてしまうかわからない…」
「うん、それから?」
エルフリーデには、狭量な事を言っている自覚があった。
学園の教会がそうであるように、聖職者の集まりに女性がいるのはまったく珍しくない。イザークに気のある女性を近付けないというのだって、本人にできる事は限度があるだろう。
苦い顔をして、「それは厳しいな」と言ってくれたら、エルフリーデも少しは我慢をするかもしれないのに。秘めていようと思った「それ以上」を、言わずに済んだかもしれないのに。
イザークが優しく促すものだから、エルフリーデは心の奥底にあるものを吐き出してしまった。
「も、もし万が一にも浮気なんてされたら……わたくしきっと、相手を八つ裂きにしてしまいます。貴方を閉じ込めてしまうわ。他の女性を見る事ができないように」
「うん……っ、ふふ。」
「何が可笑しいの!わたくしは、わたくしはもう二度と、貴方を見失いたくない……!」
「失礼、あまりに愛らしくて。」
「な…」
何を言っているのだろう。まったく理解できないまま、エルフリーデの頬がさっと赤くなる。
たった今晒け出したのは醜悪な独占欲だ。愛らしさなどではない。
それなのにイザークは相変わらず、愛しいものを見るようにエルフリーデを目に映す。握ったままの手に、少し力を込めて。
「浮気の予定はないから、そのつもりでいてくれて構わない。」
「…決して、そういう人に見えると言いたいわけではないの。」
「わかってる。もしあるとしたら誤解だな、それだけは怖い。君が疑った時点で問い質してくれ、納得いくまで説明しよう。他に心配事が出たら、その都度言ってくれたらいい。」
「…貴方は……嫌では、ありませんか?わたくし、その…面倒では。」
「なにも?」
あっさりとそう言って、イザークは滑らかな手の甲に唇を触れさせた。
「君がそれほど、俺を好きになってくれたって事だからな。」
「イザーク様…」
嬉しそうに笑う彼が眩しくて、受け入れられた事に心から安堵して、涙声になったエルフリーデの肩から力が抜ける。
温かな手を握り返し、ようやく彼女は微笑んだ。
ふわりと柔らかく、まるで天使のように。




