58.行って参ります
一礼して退室したシスターの足音が遠ざかるのを待ってから、ローレンツはゆっくりと口を開いた。
「これでトレーガー枢機卿だけでなく、イザーク・メルツァーも連れ去られたわけだね。」
予定通りだ。
小会議室の円卓には彼の弟達も着席しており、ローレンツの傍にはダニエラが控えている。
自分の護衛だった男の裏切りに、ディートリヒはテーブルの上に置いた拳を固く握り締めた。
イザークがシスターに告げた「鳥達の事を頼む」とは、王子達に伝えてほしいという意味だ。
計画の事を知らない彼女は、ディートリヒ殿下に呼ばれたなら何の意味があるのかと戸惑った。
しかし指示通りに来てみれば、どうやらディートリヒが呼んだというのはツァイスの嘘で。
他言無用と口止めをされ、シスターは教会へ戻ったのだ。
「あちらの狙いは二人の殺害だ。各所にこちらの手の者は配置しているけれど、ここからの動きは各自慎重にね。」
「「はい」」
僅かに緊張を滲ませたエドゥアルトとディートリヒが頷く。
部屋の窓が小さく叩かれダニエラが鍵を開けると、仕事着のユリアがするりと室内へ降り立った。ディートリヒが安堵の表情で迎える。
「戻ったか、ユリア。どうだった?」
「はい。トレーガー様と同じく、メルツァー様を乗せた馬車もノルデン子爵邸に向かっているようです。焚かれた香も事前情報と一致。丸薬を摂取したところまで確認して……」
はたと、ユリアが部屋の扉を見て止まる。
全員がまさかという顔でそちらを見やった。ディートリヒ達にとっては無音だが、ユリアの耳には衣擦れの音と呼吸が聞こえていた。
そっと、ユリア・シュミットが部屋を縦断する。
足音も、衣擦れすらもなく。
扉が開いた先にいたのはエルフリーデだった。ほんの一メートルほど後ろへ距離を空け、彼女の側仕え達も共にいる。
碧の瞳はユリアを見ていなかった。
「エルフリーデ様。どこまで聞かれましたか」
答えはない。
緊迫した空気に立ち上がったエドゥアルトが汗を滲ませ、ローレンツは苦笑いを浮かべる。
ノルデン子爵は末端とはいえアイレンベルクの派閥であるがゆえに、今回の計画について公爵家に情報共有はしていない。
それは第一王子ローレンツとアイレンベルク公爵との間で、既に承諾された事だった。
ノルデン子爵を捕えるのは騎士団の役目であり、公爵はそれに関わらない。
「…イザーク様が、……ノルデンに殺される」
相変わらずユリアを見ないまま、エルフリーデが呟いた。
聞かれた質問に答えたというより、まるで譫言のようだ。
イザークの笑顔を、温かな手を、くれた言葉を思い出して。
それを全て失うのかと思った時、エルフリーデの顔から表情が抜け落ちた。エドゥアルトとディートリヒが反射的に後ずさる。
――そんな未来、わたくしは耐えられない。
かつり、エルフリーデは踵を返して歩き出した。
ぼうっと立ち尽くしていたのが嘘のようにしっかりとした足取りで、視界は広がり頭は冴え渡っている。
走り去るシスターを不審に思って立ち止まり聞き耳を立てて以降、あまりの衝撃で王子達の会話は途中からろくに聞き取れなかったものの、敵はわかっていた。
エルフリーデにはそれで十分だ。
――最短でイザーク様を取り戻す。わたくしはどうするべきか。
「テレーゼ・ノルデンを連れて来なさい。今すぐに」
「はっ!」
「お父様とお兄様に伝令を。彼に手を出されたので出撃させますと」
「直ちに。」
「屋敷に控えている兵をノルデン子爵邸へ。赤花の持ち出しを許可します」
「承知致しました!」
彼女が歩き出してすぐにディートリヒは入口に佇むユリアの傍に駆け寄ったが、その時にはもう、エルフリーデは廊下の角を曲がった後だった。
冷や汗が背を伝い、呼吸は浅く、先程見えた表情がかつてのものと重なる。
『――消えてくださいな、殿下。』
「っ……」
「ディートリヒ様?顔色が…」
「大丈夫だ、ユリア。…彼女に聞かれるのは、予想外だったから」
「追って気絶させますか?」
「……それは、しなくていいかな。」
こてりと首を傾げたユリアはとても可愛らしいのに、質問は物騒だ。
思わずくすりと笑って、少し平静さを取り戻したディートリヒは円卓へ戻った。
ユリアが扉を閉め、エドゥアルトは悪い夢でも見たように額の汗をハンカチで拭う。
不思議そうに瞬くローレンツの赤い瞳が、弟達をきょろりと見回した。
「ふむ。こちらで助けるから手を出すな、とは言えなかったか?」
「…あの状態では、恐らく聞く耳を持ちません。兄上」
「私も同意です。」
「そうか……私よりお前達の方が、彼女との付き合いは長いからね。信じよう」
「ですが、放っておくわけにはいきませんでしょう?あんなエルフリーデ様、初めて見ましたわ…。」
心配そうに眉尻を下げ、ダニエラは閉じた扉の向こうを見つめた。
どう考えても、エルフリーデが素直に騎士団へ通報しに行ったわけがない。自ら行動するために立ち去ったのだ。
こつりとテーブルを叩いて、ローレンツは「仕方ないね」と笑った。
元々の計画を少々変更し、王子達は今後の動きを確認する。
しばらくしてディートリヒとユリアが廊下へ出たところで、アイスラーを連れたリリアンと鉢合わせた。
「あれ?殿下達、どこ行くんですか?」
「ご機嫌よう、リリアン様。それは内緒でございます。わたくし達は少々――秘密の仕事に、行って参りますので。」
ふわりと微笑んで、ユリアはディートリヒと共に走り出した。
リリアンはきょとんと瞬いてからすぐ笑顔になり、大きく手を振って二人を見送る。
「行ってらっしゃい、殿下!ユリア様!気を付けてくださいねー!」
学園の正面で用意されていた馬にそれぞれ乗り、ユリアとディートリヒはノルデン子爵邸へ直行した。
道中で協力者から寄せられた情報によれば、エルフリーデもあのまま子爵邸へ出発し、向かう馬車にノルデン子爵令嬢テレーゼや兵を届けさせているらしい。
かなり強引だが、アイレンベルクにはそれができる。
「報告書によれば、『赤花を持て』とも指示があったそうでございます。爆薬の隠語ですね」
「まさか、屋敷を爆破してあぶり出す気か?そんな事をすれば、いくらあいつでも死んでしまうぞ!」
「エルフリーデ様の目的はメルツァー様の救出。多少冷静さを欠いたとて、倒壊まではさせないように思いますが…確証はございませんね。」
「くっ……」
馬を走らせるディートリヒの額に汗が滲んだ。
エドゥアルトが最初に辿った人生において、イザークの死因は倒壊する建物の瓦礫だった。
それを今回はエルフリーデが起こすなど、あの二人の関係を思えば決してあってはならない事だ。
どく、どくと自分の心臓の音が聞こえるような緊張の中で、ユリアの声が飛んだ。
「前方に数十名。子爵家の手の者かと――通り抜けはできないようでございます。」
馬がやられては格段に速度が落ちる。
先に下りて近付くと、一様に同じ衣服をまとった者達が手に刃物を構えた。五、六人は地面に伸びており、道を通すまいと幾本もの縄が張られている。
彼らが「今度こそ通すな」と言い合っている辺り、エルフリーデの馬車は縄が張られる前に突撃していったようだ。轍が残っている。
ディートリヒが剣を抜き、ユリアも慣れた手つきでナイフを握った。
貴族令嬢にあるまじき手捌きに敵の一部は動揺した様子だが、諦める気はないらしい。ここにいるのが第三王子という事にも気付いていないようだ。
ディートリヒは敵との距離を測り、ほんの一瞬、ユリアと目が合う。
――ご命令を。
ユリア・シュミットは待っている。
こんな事は余裕ですとばかりに微笑みを浮かべて。ディートリヒが自分を信じて命じてくれる瞬間を、今か今かと待っている。
「貴方様と行きましょう」と、「共に戦いましょう」と、思っている。
それがわかっているから、ディートリヒは微笑んで命じた。
「私達の道を開こうか。ユリア」
「はい!それはもう――喜んで!」
「あ、でもあまりやり過ぎないように…」
ユリアは舞い降りた天使の如く輝かしい笑顔で飛び出し、ディートリヒの声は断末魔に遮られる。
一分も待たずに全てが終わっていた。
かろうじて全員息はあるらしく、咳き込んだり呻いたりする声が聞こえてくる。
ディートリヒの役に立てたユリアは誇らしげに微笑み、倒れ伏した者達に言葉をかける。
「次は、お間違いなきよう。」
手加減も完璧だとユリアを褒めてやって、ディートリヒは縛り上げた彼らを置いて先へ進んだ。
「ねぇ、テレーゼ。わたくしそんなに難しい事を言っているかしら?」
愁いを帯びた目を細め、あまりに甘美なため息をついて。
エルフリーデ・アイレンベルクは、地面に這いつくばる男を見やった。子爵邸の家令だ。
テレーゼと呼ばれた麦色の髪の令嬢はエルフリーデが座る椅子の横にいる。
アイレンベルク兵によって後ろ手に拘束され跪かされたまま、彼女はそれでも恍惚の笑みを浮かべてエルフリーデを見上げていた。
「いいえ、いいえ!エルフリーデ様、貴女の要求は全て通らなければ――マクシミリアン、いつまでエルフリーデ様を待たせるのッ!!傷ひとつ付けていないでしょうね、早くここへお連れしなさい!」
「で、ですがお嬢様。目的が目的ですから、その。下手をすると、あの方はもう」
「――花を。」
エルフリーデの唇がたった一言を紡ぐと、兵の一人が屋敷に向かって赤く塗られた球を投擲する。
それは外壁に当たった瞬間に爆発した。衝撃で地面が揺れ風が舞い、その外壁に面していた一階の窓が割れる。家令の男が悲鳴を上げた。
そうして派手な行動をとる裏で、エルフリーデは兵の一部を屋敷に忍ばせ、テレーゼから聞き出した牢部屋へ向かわせている。
裏口や抜け道も塞ぎ終え、後は朗報を待つばかりだった。
そんな中、屋敷の三階中央にある窓が内側から乱暴に開かれる。
音に反応したエルフリーデがそちらを見上げると、聞き覚えのある声がした。
「いいから早く顔を出せ!頼むから!」
「何なんだよ、一体……、うん?」
窓枠に肘をついて下を覗き込んだのは――見間違えるわけもない、イザーク・メルツァーその人だ。
思わず立ち上がったエルフリーデは、ひどく驚いたらしい彼が破顔するのを見た。
「ふっ――あはははは!何だよ、エル!来てくれたのか?」
「ひゅっ――」
無事でよかったと、何を攫われているのですかと言うはずが、エルフリーデの喉は短い音を立てたきり声など出ない。
イザークの笑顔と嬉しそうな声が頭から離れず、身体は硬直し目をそらす事もできなかった。柔らかく微笑んで、イザークはひらりと手を振る。
「ありがとう、ちょっと待っててな。すぐ行く」
「っは、はい……」
喉が絞り出したのは蚊の鳴くような声だった。三階にいるイザークまで届くはずはない。
そんなエルフリーデ様も麗しいと言いながらテレーゼは馬車に押し込まれ、玄関からは何かの集団に変装していたらしい騎士や、なぜか楽しげなトレーガー枢機卿が出てきた。
真っ青なリーデルシュタインや喚き散らすノルデン子爵などは手に縄をかけられている。
彼らを見てエルフリーデは表情を消した。続けてやってきたツァイスは俯きがちだったが、自分達を眺める彼女に気付いて目を見開く。
足が止まってしまったその男にエルフリーデが数歩近付くと、彼は苦渋に満ちた顔をした。
「――…申し訳ありません。アイレンベルク公爵令嬢」
「そう。わたくしに謝るのね」
「貴女が……彼に、惑わされているのではと。今となっては信じて頂けないでしょうが、殺すつもりはありませんでした。」
なんと、図々しい男なのか。
エルフリーデは心から不思議だった。惑わされている?すなわち、自分はエルフリーデよりも判断力があるという認識だったのか。
信じてほしいという我儘が透けて見える言葉、相手の違う謝罪。
「俺はただ……貴女を、助けたかった。」
いつまで、どこまで勘違いをしているのか。
目を伏せて被害者ぶって、ツァイスは何もかも間違えた正義を振りかざしている。エルフリーデからイザークを引き離そうとしたくせに、イザークがどれほどエルフリーデの心を助けたかも知らずに、烏滸がましい。
――壊してあげましょうか。
今。エルフリーデが微笑んでその頬に触れれば。
目を合わせて「わたくしのために死ねる?」と甘やかに問えば。「今生で無理なら来世ね」と囁いてやれば。
この男は自ら命を絶つだろう。そんな確信があった。
正義に殉ずるのだという顔をしているが、その奥底には気に入った相手への劣情があるから。
命を失うその瞬間、エルフリーデはもう一度彼を見てやるのだ。
救いようのない屑を見る目で。静かな絶望を与えて、「独りで死ね」と――…
薄く微笑んで手を伸ばせば、ツァイスが目を見開いた。
期待に心を震わせているのが手に取るようにわかる。浅ましい、悍ましい。ツァイスの頬が紅潮し、ぎこちなく口を開く。許されてもいない呼称を吐き出して。
「え、エルフリーデさ――ま゛っ!!」
横から飛んできた聖書が側頭部に直撃し、気絶したらしいツァイスは崩れ落ちた。
瞬いたエルフリーデは反射的に手を引っ込め、飛んできた方向を振り返る。
わざとらしいほど申し訳なさそうな顔をしたイザークが、アイレンベルクの兵やディートリヒ達と共に歩いてきた。
「これは失礼、うっかり手が滑ってしまいまして。」
「イザーク様…」
「…うっかり、でしょうか?」
「ユリア。今のはうっかりだ」
「ディートリヒ様がそう仰るのでしたら。」
「こらーっ!そこの学生達!」
トレーガーを馬車へ案内していたホルストが走ってくる。
イザークはしれっと聖書を拾い上げて懐にしまった。
「いや、イザーク君。何も無かった事になってないからな?見てたから俺は。」
「ドジを踏んだところを見られるとは、なんともお恥ずかしい。」
「清々しいな、本当に。それと、アイレンベルク公爵令嬢?知らなかったとはいえ、騎士団の任務に乱入されては困ります。」
「…騎士団の、任務ですって?」
エルフリーデが目を丸くして聞き返す。
考えてみれば、王子達が何の対策もなしにイザーク達の殺害計画を話題にするはずもない。
変装していた騎士は潜入だったのだろうし、目の前の騎士は外見情報からして、ギレスベルガー公爵家の次男だ。
ぱちりと瞬いて、隣にいるイザークを見上げた。にこりと微笑みを返される。
「いわば囮捜査ですね。私は自分が狙われていると知っていて、そのまま攫われたという事です」
「……な、何をしてっ、わたくしは!」
「心配をかけてすみませんでした。でも…貴女が来てくださって、とても嬉しかったですよ。」
「…そういうところが!貴方は!!」
「え?なん、何です?」
胸に湧いた怒りのぶつけ方がわからず、エルフリーデがハンカチでぺしぺしとイザークを叩く。
首を傾げるイザークとのやり取りを終わらせようと、ホルストが手を叩いた。
「私語はやめてください、全員それぞれ事情聴取!まったく……城まで同行願います!」




