57.では殺しましょう
「メルツァー様。ディートリヒ殿下がお呼びです」
換気のために開け放った扉から誰か入ってきた事は、イザークの耳にも聞こえていた。
それが真っ直ぐ自分に近付いてきたのもわかっていたが、ひとまず布巾で椅子を拭く作業を続けていたのだ。声の主はディートリヒの護衛であるエーリック・ツァイスだ。
きりの良いところまで拭けたイザークが振り返ると、目が合ったツァイスはほんの僅かに身を後退させた。そういえば一対一で話す機会は中々なかったかもしれない、そう思いながらイザークは口を開いた。
「これはどうも。もう一度よろしいですか、今なんと?」
「ディートリヒ殿下がお呼びです。」
「そうですか」
言伝ありがとうございますとばかり、イザークは微笑んでそう返す。
ツァイスの声が歪んで聞こえていたとしても。
――相手がディートリヒなのも、呼ばれてるのも嘘だな。
「…ご覧の通り皆で掃除中なのですが、仕方ありませんね。」
道具を他の者に渡して手を洗い、イザークは上着を羽織った。
何事だろうかと少し不安げな面持ちの皆を見回し、にこりと笑ってみせる。
「行ってきますね。シスター、鳥達の事を頼みます。」
「えっ?でも…」
「もう五分ほど後で構いませんから。では」
共に教会を出て歩きながら、イザークはツァイスの背中を見つめた。
違うと知っていて王族の名を出すのは重罪である。脅されたなど致し方ない理由でもない限り情状酌量の余地はなく、良くても一族諸共国外追放だろう。
――…私が何も知らなければ、「今のうちにやめておけ」と言ってもよかったが。
イザークはこの後馬車でノルデン子爵邸に運ばれ、トレーガー枢機卿と共に囚われる。
この計画は既に王子達にも知られていた。
『リーデルシュタイン卿については、ゼッフェルンに動向を探らせるつもりでいる。』
ディートリヒがユリアに告げたその言葉を、任務を、ツァイスは知らなかった。
リーデルシュタインが自分に声をかけてきた時、近くでゼッフェルンが聞き耳を立てていた事には気付けなかったのだ。
元は信頼できる護衛だったのだろうが、「実行したならそれまで」。ディートリヒの判断は間違ってはいない。
それでも、ツァイスがもし緊張に震え裏切りの恐怖に苛まれた様子でいるなら、忠告をしても良いかと思っていた。
そうでないのなら、イザークが慈悲を与える事もない。
「少し距離がありますので、こちらの馬車へどうぞ。自分はこの馬で並走します」
馬車の床には香炉が置かれていた。
眠気を誘う薬草で練られた物らしいが、イザークはユリアからその効果を打ち消す丸薬を貰っている。袖口から取り出してゴリゴリと噛み砕きながら、組んだ脚の上で聖書を開いた。
長い指先でページを軽く叩く。
「――《神は常に我らを見守り、正しき者には天使を遣わす》。」
長らく揺られた先で馬車が停まる頃には、イザークは座席に横たわって眠るフリをしていた。扉を開けた誰かが「おお、ばっちり寝てるな」と呟く。せいぜい二十代くらいだろう男の声だ。
どこかで聞いた気もするが、イザークはすぐには思い出せなかった。
手足を縛って肩に担ぎ上げられ、腹部の圧迫に「うぐ」とでも声をあげたくなる。
それでも堪えて薄目を開けてみると、騎士団の制服と地面が見えた。森の木々の香りが漂い、空気はひやりとして、時間は夕暮れ時らしい。
男はイザークを担いだまま屋敷に入り、奥まった部屋にある鉄格子の中でようやく下ろされた。
「おお、イザーク様…まさか貴方までこのような……!」
トレーガー枢機卿の声だ。どうやら計画はそのまま進んでいるらしいと察しながら、イザークは男の足音が遠ざかり部屋を出るまで目を閉じていた。
「神よ、どうか我らをお救いください……」
トレーガーのその言葉が終わらぬうちに扉が閉まり、部屋には数秒だけ静寂が漂う。
「もうよいですぞ。」
呟く声に目を開き、イザークはのそりと身を起こした。
それなりに温かい部屋、ベッドやテーブルなど最低限の調度品に絨毯張りの床、天井まで伸びた鉄格子。どこからどう見ても貴人用の牢屋だった。
牢の中、イザークの他には見慣れた老人が一人だけ。
いつも通りに白髪の長い三つ編みを体の前に流し、後ろ手に縛られたトレーガーはしわくちゃの顔でぱちんと片目を瞑った。さすが、「誘拐を体験してみたい」という理由で囮作戦に手を上げたご老人である。
ここで会うだろうと知ってはいたが、イザークは呆れ果てた顔で頭を振った。
「本当にいるし……あまり無茶しないでください、トレーガー様。チェルハ神父の胃がもたない」
「ほっほっほ。中々すりるがあって面白いですなぁ。」
「まったく…それより、私を連れてきた男はどんな外見でした?騎士服でしたが、声に聞き覚えがあった気がします。」
「彼はあの店の常連です。先日ご一緒した時も隅でちびちびと呑んでおりましたぞ」
「そういう事ですか。」
トレーガー達が学園に来た初日の事だ。
共に行ったその店で騎士服を見た覚えはなかったが、もちろん男は私服で来ていたのだろう。
イザークが軽く腕を動かしてみると、どうやら縄抜けできるように縛られているようだ。緊急時は少なくとも手の拘束を外す事はできる。
――さて。予定ではしばらくしたら突入し、現行犯で捕えるという事だったが…
廊下から足音が近付いてきて、イザークは床に座ったままベッドに寄り掛かった。あの香は目覚めてもしばらくは全身の脱力感が残ると聞いている。
やがて乱暴に開けられた扉から入ってきたのは、ツァイスとリーデルシュタイン卿、そして紳士服を着た麦色の髪の中年男性だった。変装のつもりか仮面をしているが、あれが恐らくノルデン子爵だろう。
「おお、まさしくメルツァーの小僧だ!よくやった」
子爵は顔を輝かせ、後ろからは衣服を統一した私兵がぞろぞろと入ってくる。顔を隠すためか頭部は目元以外が布で覆われており、中には女性もいるようだが全員武器を持っていた。
額に血管を浮かせた子爵は唾をまき散らしながら叫び始める。
「何が聖地!国の端に位置するド田舎出身の男など、高潔なアイレンベルクのご令嬢たるエルフリーデ様に相応しいわけがないッ!近付く事すら不敬、不敬、不敬ぃい!!それを唆した枢機卿も同罪である!!」
「…ええ。公爵家にあるまじき行いをしたのですから、罪は罪かと。お心当たりがあるでしょう、メルツァー様。枢機卿も、大人しく証言なさるべきです。」
子爵の勢いにやや引き気味ながら、ツァイスも険しい表情でそう言い渡す。
どちらも「己が信じる正義を貫いている」という顔だった。にこやかなのはリーデルシュタインだけだ。彼は「その通り」と手を叩いて言う。
「では、殺しましょう!」
爽やかに言い放たれた言葉に、ノルデン子爵とツァイスが目を見開いてリーデルシュタインを凝視する。
怒気で赤く染まっていた子爵の顔が青ざめ、ツァイスの眉間に寄っていた皺はなくなって、言われた意味がわからないとばかり唖然とする二人は同時に話し始めた。
「何を…何を言っている?顔に消えない傷でも残せばいいという話では……っ!?」
「こ、殺すとは?騎士の前で自白させるという話だったではありませんか…っ!?」
互いに相手が言った内容を聞いて顔を見合わせ、一体どういう事かとリーデルシュタインを振り返った。動揺しているのは子爵とツァイスだけで、笑っているのはリーデルシュタインだけだ。
「ははは、あはははは!随分とぬるい話をしておられる。邪魔者は殺してしまうのが一番でしょう」
「聞いていないぞ!殺人を行う現場としてここを貸したつもりは――ヒッ!」
近くにいた私兵が一斉に子爵へ剣を向ける。彼らの雇い主はリーデルシュタインのようだ。
ツァイスも咄嗟に剣の柄へ手をかけたが、多勢に無勢。下手に抜かない方がいいだろう。呼吸が浅くなり、惑ったツァイスの瞳がイザークに向けられた。
こんなはずではなかったという目だ。誰かに助けてほしいという目だ。殺してしまうなら逃がさなければという目だ。それは自分にはできそうにないという目だ。だから動かず流れに身を任せるしかないんだと言い訳している、そんな目だ。
心の声など聞こえないけれど、イザークにはツァイスという男の心情が手に取るようにわかった。ここで「そうだ、殺そう」とならない程度には、彼の中にも残っている光があるのだろう。ほんの僅かだけれど。
ふっと笑ってみせれば、ツァイスはぎくりとして固まった。
「わた、私は御免だぞ、騎士団に捕まるなど……!やるなら、ぜっ、絶対にバレるんじゃない。」
「ご安心を、絶対に見つかりませんよ。なにせ、ええ。ギレスベルガー公爵家の協力があるのは本当の事ですからねぇ。ふふ…そうでしょう、ホルスト様?」
「そうだとも!」
子爵に剣を突き付けていた私兵の一人が、頭と顔の下半分を覆っていた布を取って放り捨てる。
ライラック色の癖毛に妖艶な垂れ目、青紫色の瞳。ホルスト・ギレスベルガーだ。その声を聞いて、イザークは自分を運んだ男は彼だったと確信した。トレーガーと行った店にあの顔がいた事も覚えている。
「ここまでの行い、俺と部下達は確かに見届けた。よって断罪されるのは――…リ」
爆音と共に屋敷が揺れた。
「どぁーっ!」
「うお!?」
「何だ一体!?」
立っていた者達は衝撃にバランスを崩し、ある者は持ちこたえある者は転倒し、イザークは頭をぶつけそうになったトレーガーの身体を支える。長い話の間に、手足の縄は既に解いていた。
ガラガラと屋敷のどこかが崩れる音が聞こえ、天上からパラパラと埃が降ってくる。
「おお、すみませぬ。ありがとう」
「それはいいが、爆発って!あいつらやり過ぎだろ」
「ちょーっと待ったぁ!本当に何の騒ぎ!?誰が何してんだ!」
ホルストが叫んだ事で第三者の攻撃だと察し、イザークは眉根を寄せた。
牢の鍵を開けるか壊すかしなければ、自分とトレーガーは脱出できないのだ。聖書に隠したピッキングツールを使おうにも、大きな音や揺れは作業を遅らせる。通常ならホルストが見捨てる事はないだろうが、他の対処に時間を割かれたり、次の砲撃が部屋を直撃でもすれば終わりだ。
「ひぃいい!助けろ、誰でもいい私を助けろーッ!!」
「ホルスト様、どうなってるんですかこれは!?説明しろ!おい!」
「黙ってろ!一班対象全員の保護、二班邸内の通路確保――」
「紳士淑女の皆々様、ご機嫌よう。本日も健康に生きておいででしょうか?」
場違いなほど冷静な声がした。
全員がそちらを一斉に見ると、いつの間にか扉は開かれていて、部屋の中央に誰かが立っている。イザーク達を閉じ込めていた鉄格子の扉がバキリと外れ、床に倒れた。
さらりと揺れる長い黒髪に赤紫の瞳、返り血に塗れた衣服。
「――どうやら、怪我人はいないようでございますね。」
「シュミット侯爵令嬢!……と、ディートリヒ。何でお前まで」
「色々あってね…」
ユリアから移ったのか少し血に汚れた姿で、部屋を見回したディートリヒはホルストを見つけた。
私兵の一部――ホルストの部下が子爵達を拘束済みだと確認して頷き、空中を薙ぐように腕を振る。
「皆とにかく脱出を優先だ!イザーク以外!!」
「何でだよ」
突っ込みと共に再び爆発音がして、屋敷が揺れた。




