55.直球過ぎましたか?
日曜の午後、エルフリーデは街中にあるレストランの個室に来ていた。
一目見て貴人向けとわかる調度品の質、壁と席の間には充分な広さがあり、扉の外には護衛と共にウエイターが控えている。
室内にいるのはエルフリーデと向かいに座るイザークの二人だけだが、手元のベルを鳴らせばすぐに人が来られる状況だ。
「イザーク様は卒業まで学園にいらっしゃると聞きましたが、聖地の祭りはどうなさるのです?貴家は必ず出席して舞を披露するとか。」
「メルツァーが参加必須なのは仰る通りですが、全員ではありません。在学中は父に任せるつもりです」
最初は少し緊張していたエルフリーデだったが、好みの紅茶を飲み、甘すぎない菓子を摘まんで話す内に自然と力が抜けてきていた。
馬車を乗り降りする際のエスコートも、馬車の中でも、この個室に入ってからもずっと、イザークの態度は変わらない。
過度に触れる事なく紳士であり、穏やかな微笑みと温かみのある声、落ち着いた仕草がエルフリーデの緊張を解きほぐしてくれる。警戒しなくていいと言外に安心させてくれる。
「祭りでは皆が動物を模した仮面をつける。それはご存じかと思いますが、当家は必ず本人が仮面を手彫りします。」
「本人が……では貴方も?」
「ええ。ですが幼少期の私が作った面など……ふ、くく。それはひどい有様でしたよ」
堪えきれなかったらしいイザークが笑い、白い歯がちらりと見える。
その笑顔は敬虔な神の信徒たるメルツァー公爵家にしては少々悪くにやりとしていて、彼の素が見え隠れしていた。話し方だって元は少し粗雑らしい事は、エルフリーデも既に知っている。
「…絵はお上手なように見受けましたが、そんなにひどかったのですか?」
「少なくとも父はわかってくれませんでしたね。私が何の動物を模して彫ったのか」
「まぁ。…どんな造形だったのか、少し見てみたかった気もしますわ。」
自然と、エルフリーデは微笑みを浮かべている。
淑女として作り上げたものではなく、心穏やかな感情のままに――アイレンベルク公爵令嬢としてではなく、ただのエルフリーデとして。
「もちろん、今はきちんと様になるものを作れますよ。……祭りにお越し頂ける際はぜひ、私に貴女の仮面を作らせてください。」
「メルツァー公爵家の後継たる貴方が、自ら?高くつきそうですわね。」
「対価とまで申しませんが、案内役は私が務めても?」
「…それでは、わたくしが頂いてばかりではありませんか。」
「ふふ」
くすりと笑って、イザークは紅茶を一口飲み下す。
ディートリヒと同じでエルフリーデより一つ年下なのに、常に自然で堂々としている彼には頼りなさを感じた事がない。
エルフリーデにとって、イザークという存在は予想外の連続だ。
平然と敵地に乗り込んで助けにくるし、ただの移動で窓から木へ飛び移るし、王子達の変化を聞けば公爵の指示を待たず即座に留学をやめてくる。
自分にない行動力、安定した精神の強さ。
そしてどういうわけか、エルフリーデに好意を持っている。
財力を欲しがる意地汚い目でも、色香に欲を抱いた卑しい目でもなく、ただ温かな愛がある眼差しは心地よかった。
冗談のように聞き流してきたけれど、イザークの瑠璃色の瞳にはどうやら本当に、エルフリーデが「可愛いひと」として映っているようなのだ。
――…本当に、不思議な方。
それはのどかな午後のひとときで、部屋には穏やかな空気が流れていて、まるで平和そのもので。エルフリーデは公爵令嬢として気を張る事なく、自然体で過ごしていられた。
気が緩んだところを見られたとしても、イザークはそれを言い触らすような真似をしない。そう信じられたからだ。自身の心にある信頼を実感して、エルフリーデはすとん、と納得した。
――わたくしは……わたくしも、イザーク様を好ましく思っているのね。この方と過ごしていたいと。
自身の気持ちを認めづらかったのは、幼いディートリヒとの約束を捨てる事になるから。約束のために生きてきた八年間を否定してしまう気がしたから。王妃になれない自分を父がどう思うか恐れる心があったから。
エルフリーデは、「イザーク様に頼るのは逃げではないか」と踏み止まっていたのではなかった。
既に逃げていたのだ、現実を直視するのが怖くて。踏み込まない事で逃げていた。
情けない事だと心の中で自嘲する。イザークが姿勢を正した。
「じきに報せが届くでしょうが、当家から正式に縁談の申し込みをさせて頂きました。」
「…わたくしと、貴方の?」
答えがわかりきった問いに対し、イザークが「ええ」と頷く。
「理由を聞いてもよろしくて?」
敢えての駆け引きという事もない、率直な問いだった。
イザークは照れもせずに瞬いて、長考する素振りもなしに答える。
「俺が貴女を愛していて、共に生きてほしいと思うから。」
冗談でも、嘘でもなく。
欲が滲む事すらなく、イザークはただ真摯にエルフリーデを見つめていた。エルフリーデの胸の奥がじわりと熱くなり、涙が浮かびそうな目を瞬く。イザークが微笑んだ。
「ふふ、直球過ぎましたか?」
「っ……あな、あなた、俺なんて言うの。」
精一杯の話題転換だった。
今目を合わせたら顔が真っ赤になってしまいそうだと、エルフリーデは目をそらしている。
「ん?……今、俺と言ってましたか?失礼、元はそちらなもので。」
少し失敗したなとイザークが言う。
エルフリーデは決して「不快だからやめなさい」と言ったつもりはなかったが、それを伝える余裕はなかった。
――そんなところまで、あの頃の殿下に似なくていいのよ。どうして思い出させるの。
「わたくしは…」
王妃にならないといけない。だから、貴方の手は取れない。
エルフリーデはそう言いかけて、言えなかった。
とっくにそれが望める状況ではない事くらいわかっている。エルフリーデがその場所に立つなら、誰かを落とさなければならない。場合によっては殺さなければならないのだ。
何がなんでも王妃になってみせると、その気概があれば彼女はこのような状況にはしなかった。事前に動いていただろう、整えていただろう、自らが歩む道を。
けれど、そのための力を。ディートリヒと共に頂点へ立つ気持ちを失ったから、こうなっている。
出会いを忘れたディートリヒはユリアの手を取り、エルフリーデは一人で置いて行かれて、自分の足で立てても行くべき方向はわからなかった。
――そこに、貴方は手を差し伸べて。強引に連れ去る事なく、わたくしの意思を待ってくれた。
エルフリーデの苦悩に気付いて話を聞き、無理に距離を詰めることなく時を待ち、伝える努力をして良いかと聞いた。
嫌がる事は決してしない。尊重した上で誘い、エルフリーデが頷いたなら嬉しそうに笑ってくれる。
とくりと、心臓が鳴った。
「……父の説得ができたら、かっ…考えて差し上げなくも…ないですわ。」
高貴な令嬢らしく、落ち着いた微笑みで「父にも確認し、検討させて頂きます」と言うつもりで。
実際には頬が染まり目は少し泳いで、なぜだか偉そうに上から目線で挑発的な言葉になってしまった。エルフリーデは今すぐ扇子を広げて顔を隠したい気持ちになったが、それこそ照れているのが丸わかりではないのか。
どうすべきか悩む数秒のうちに、イザークが嬉しそうに笑った。
「わかりました。くく……ああ、本当に貴女は可愛いな。」
とうとう堪えきれなくなり、目をそらしたエルフリーデが扇子を広げる。
それでも赤い耳は隠せておらず、頬杖をついたイザークは愛おしそうに彼女を眺めていた。
◇
「まったく……あの薬師、何度言っても同じミスをするな。」
街を歩きながら苦々しい顔で呟き、ツァイスはため息をついた。
同い年の第三王子ディートリヒに仕える彼は朽葉色の髪を襟足で一つに結っており、その瞳は濃い灰色をしている。腰の帯剣ベルトには使い慣れた愛剣を納めていて、今はまだ見習い扱いだが、将来は護衛騎士となる予定の男である。
今はディートリヒの指示で薬師コンラート・バーデンの研究所に寄り、彼の様子を見てきたところだ。
相変わらず――しばらく前までリリアン・カルクが手伝っていた頃に比べるとひどく――散らかっていて、経費として申請が必要なものも放置が多い。本人いわく、放置したのではなく失念してしまっただけらしいけれど。
――シュミット侯爵令嬢の名を出すとしばらくはきちんとするが、ひと月ももたない。やはりあの男の元々の性質なのだろうな…。
「足元にお気を付けください。」
「わ、わかっていますわ」
雑踏の中、不意にそんな会話が聞こえて足を止める。
聞き覚えのある声だった。護衛として、ツァイスはディートリヒと関わった者達の顔や名前、声を全て覚えている。そちらを見やれば、ローブのフードをかぶった男女が馬車に乗り込むところだった。
男は女に手を貸してやり、ちらりと見えた女の頬は恥じらうように染まっている。
ツァイスがいる場所と馬車の中を断絶するように、扉がバタンと閉じられた。
動き出す馬車に追従していく者達は彼らの護衛だろう。不審がられないよう咄嗟に顔を背けた。馬車の音はゆっくりと遠ざかっていく。
「……エルフリーデ様……」
建物の壁を見つめたまま、呆然とした彼の唇からその名が零れ落ちた。
呼ぶ事を許可されていない、貴い名が。イザーク・メルツァーのような男に心を奪われてはならない、至高のお方の名が。
「俺の対応が遅かったからだ……穏便にとか考えてる場合じゃない。あいつを引き剥がさないと……」
口の中で喋るようにぼそぼそと呟きながら、ツァイスは剣の鍔を固く握りしめた。
こつりこつりと聞こえる足音が自分に向かっていると気付き、ハッとして振り返る。そこにいたのはひょろりと背の高い面長の男だった。カーキ色の長髪を揺らして立ち止まったその男にも、ツァイスは覚えがある。
「貴方は…リーデルシュタイン卿。」
「知ってしまわれたのですね、ツァイス殿……メルツァー公爵家にあるまじき、イザーク様の悪癖を。」
ツァイスは黙って眉を顰めた。
リーデルシュタインは残念そうに眉尻と口角を下げて語り続ける。
「あの若さで恐ろしく女性好きでして、聖地ではそういう関係の娘がもう何人もおるのです。中には脅され、強引に関係を迫られた不憫な娘もいて…」
「…何ですって。」
「学園では控えると父君に約束されたようですが、アイレンベルク公爵令嬢の美しさには、どうしても欲が勝ってしまったのでしょうな。何せあの美貌です」
「それを知っていて、貴方がたは咎めもしないと?」
怒気を滲ませたツァイスにリーデルシュタインは一瞬怯み、「どうか落ち着いてください」と慌てた様子で手を横に振った。正義感で殴られでもしたら堪らない。
「教会関係者の間では有名な話なのです。残念な事にメルツァー公やトレーガー枢機卿はこれを黙認し、むしろ美女がオーナーを務める飲食店へ共に出入りする始末。立場が弱い私どもの言う事は聞いてくださらない!」
「騎士団に通報しようとは思わなかったのですか。」
「騎士団の上層部も、この事態を知って憂いていますが……メルツァー公爵家は聖地を守る一族。表立っては手を出しにくいのです。そこでどうでしょう、ツァイス殿」
歪んだ笑みは心に隠し、リーデルシュタインが申し訳なさそうな顔でツァイスを見やる。
「我々と協力してくださいませんか?騎士団での評価にも繋がりますし、何より……ギレスベルガー公爵は、貴方個人に爵位を与えてもよいと仰っています。」
「騎士団長閣下が、お、俺個人に?そんなはずは」
ありえないとばかり頭を振るツァイスの肩をリーデルシュタインが掴んだ。
真剣な瞳で彼を見据え、深く頷く。
――もちろん、そんなはずはないだろうが!馬鹿な男め、貴様程度に公爵家の断罪など叶うものか。用済みになったらお前も処分だ。捕まりでもして私の名を出されては困るからな。
「相手は大物なのです!成功すれば伯爵位も望めるでしょう。そうなれば――…悪い夢から醒めたご令嬢達も……ねぇ?」
「……俺が、伯爵に……」
ごくりと唾を飲み、ツァイスは懸命に考えた。
イザークの悪癖について、独断で動くよりもディートリヒに言うべきではないのか。
――だが、殿下は俺の進言を聞いてくださらなかったじゃないか。それにもし、本当に伯爵になれたら…
頭に浮かぶのはエルフリーデの姿だった。
自分ごときでは触れる事すら叶わない、誰に心を奪われる事もないだろう高貴な花。
――子爵家と公爵家の縁談はろくに聞いた事もないが、伯爵家と公爵家の婚姻ならありえる。
たとえそうならなくとも、イザーク・メルツァーを一刻も早くエルフリーデから引き離すべきである事は、かの男が有害である事はツァイスにはわかっていた。
ディートリヒには、わからなくとも。




