6.殿下、全てはこれからです
少々荒いノックの音がして、エドゥアルトは「予想より早かったな」と考えた。
「第三王子殿下がお見えですが…」
声をかけてきた護衛に手振りで許可を出すと、険しい顔をした異母弟が入って来る。その後ろから顔を出したニクラス・レヴィンが、エドゥアルトの護衛を連れて廊下へ引き下がった。
扉が閉まり人払いされたと同時、ディートリヒはエドゥアルトを鋭く睨みつける。
「兄上、なぜあんな発表をしたのですか。説明して頂きたい!」
「静かにしろ。リリィが起きる」
唇に人差し指をかざして言えば、ディートリヒはエドゥアルトの上着をかけられたリリアンをじろりと見やり、深く眠っていると見て兄へと視線を戻した。
「事前の根回しもなく――」
「先に言えば納得したのか?」
「それはっ…しないでしょうが……」
ディートリヒは自身が拳を固く握った事に気付き、落ち着けと心に言い聞かせてゆっくりと解く。
深い青色の瞳に浮かぶのは怒りではなくやるせなさだった。
「……これでは、貴方はまるきり愚か者だ。」
「そうだ。俺はこの娘の事しか考えてねぇ愚か者だよ。王はお前の方が向いてる。」
眉間に皺を寄せて眠るリリアンを見つめ、エドゥアルトは正直に言う。
余裕たっぷりにソファの背もたれに身を預け、軽く笑ってみせた。
「エルフリーデと婚約したんだろう?」
「…まさか組んでいたのですか。」
「組めるか。予想がつくだけだ」
――アイレンベルクは元から俺を見切る時期を窺っていた。ディートリヒに能力がある事もわかっている。何より…
「生憎ですが兄上、私が婚約するのは別の女性です。」
「――…何だと?」
初めて、エドゥアルトが顔色を変える。
ディートリヒの相手がエルフリーデでない事は完全に予想外だったようだ。
「…俺が逃げた以上、エルフリーデはお前を王に推すと思ったんだがな。」
「そうなりそうだったので、私はシュミット侯爵令嬢を呼んで婚約を申し込みました。」
「ユリア・シュミットを?」
「えぇ。故に、兄上の婚約発表は少々曖昧になっています。父上達が戻られたら――…」
ため息混じりに話していたディートリヒがぴたりと止まった。
意外そうに目を見開いているエドゥアルトに辛辣な眼差しを送る。
「彼女をご存知なのですか?……まさか、何か頼んだのではないでしょうね。」
「何がだ?名前は知ってても関わった事はねぇぞ。」
「……それなら良いのですが。」
兄は人目をはばからず女を侍らせてきたが、それはリリアンに限っての事だ。
ユリアを買った事はないという言葉を信じる事にして、ディートリヒは冷静になろうと数秒、目を閉じた。
同じく数秒、エドゥアルトは眉根を寄せる。
あのディートリヒがそんな突発的な行動に出るとは思いもしなかった。エルフリーデも面食らった事だろう。
相手はユリア・シュミット。
脳裏に浮かぶのは美しい黒の長髪、煌めく赤紫の瞳にすらりと長い手足を持つ女だ。
心臓が嫌な音を立てる。
――…他ならぬお前が、邪魔になるとはな。
「私は、父上に婚約の許可を貰うつもりです。」
「エルフリーデを振るとは…アイレンベルクも黙ってねぇだろうな。」
「誰のせいだと…」
「ディートリヒ。まさかとは思うが、お前もうシュミット侯の娘に惚れてんのか?」
「っ……」
僅かに目を見開いて言葉に詰まった弟を見て、エドゥアルトはそれが浅いものではないと理解した。
――ユリアの事を少し聞いただけでこれか。
これまで気付かれないようほんの時折、ディートリヒとエルフリーデが偶然会うよう仕向けてきたが、彼女が様子を窺うように僅か粉をかけてみせても、ディートリヒは魅せられるどころか気付きもしなかった。
あの美貌を前によく無反応を貫けるものだとエドゥアルトは内心弟を堅物扱いしていたが、どうやら本当にまるきり、エルフリーデをそういう目で見ていなかっただけらしい。
「…私がユリア嬢に惚れていたら、何だと言うのです。」
「……いや。」
きつく自分を睨みつけるディートリヒから目を離し、エドゥアルトは膝の上で両手を組む。
知るのが遅かった、それだけの事だ。
エドゥアルトはリリアンを愛し、ディートリヒはユリアに惚れていた。
――…そりゃ、上手くいかねぇか。
ディートリヒがユリアを呼んだ以上、エルフリーデはそこで騒ぐような無様は見せなかっただろう。
しかし貴族達からどう見られたか。実質、彼女を妃にする事を拒否したようなものだと一部の者は気付いたはずだ。
侮辱を許す女では無い、しかし。
「自分がこのザマで、お前に諦めろとは言わねぇよ。」
眠るリリアンを見つめ、エドゥアルトは静かに言った。
予想外に真摯な声を聞いたディートリヒは一瞬当惑して視線を泳がせたが、気を取り直したように兄を見据える。
「……父上達はもう二時間もなく戻られます。どう話をするか…よく、お考え下さい。」
「お前もな。」
「わかっています。…では。」
ディートリヒが部屋を出て扉が閉まり、廊下から微かに話し声が漏れ聞こえてくる。
護衛はすぐに戻るだろう。
「うぅん…エド様……か、考え直して…」
むにゃむにゃとしかめっ面で魘されるリリアンを見つめ、エドゥアルトは立ち上がる。
顔にかかる横髪をよけてやり、柔らかな頬を撫でようとして――自分の手が少し、震えていると気付いた。
伸ばした手を引っ込めて軽く握る。
胸の奥からじわりと滲む不安を飲み下し、一歩離れて自嘲気味に笑った。
リリアンは決して、心からエドゥアルトに惚れているわけではない。
彼女は家族のために金が欲しいのだ。
わかっている。
馬鹿らしい振舞いをする王子でも、リリアンは家族のために傍にいる。
何が起きているかわからなくても、リリアンは自分にできる事をしようとする。
頭脳も器用さも足りなくて、それでも金を稼ごうとした。
わかっている。
「…許せ。リリアン」
公爵家ほどの血筋ではなくとも、シュミット侯爵家も長年堅実に国へ仕えてきた一族だ。
一年間の契約――婚約の申し入れが偽りだと知らない者達からすれば、ディートリヒがこのままユリアを娶って王となる未来も、充分に有り得るもの。
支援か、排除か、静観か。
国も、人も。
各々の未来の分かれ目である。
優雅に進む馬車の中。
さっぱりわからないという顔で、フェリクス・シュミットは首を傾げている。
「俺を見るディートリヒ殿下の目に、敵意と憐憫のようなものがあった気がするんだが。」
「敵意と憐憫」
フェリクスの隣でユリアが繰り返す。そんなはずはなかろうと思い、瞬いた。
自分を鍛えてくれたのは父兄だと尊敬を込めて語りはしたけれど、それがディートリヒが敵意を抱く理由になるわけはないのだから。
「お兄様の観察眼を疑ってはおりませんが、そのような目で見られるお心当たりが?」
「特にないな。」
「でしたら……だいぶお疲れのご様子でしたので、お兄様を見つつも、殿下は別の事を考えていらしたのかもしれませんね。」
なにせ、廊下にいたフェリクスに驚いて扉を蹴り閉めてしまった程だ。紳士的な第三王子殿下らしからぬ振る舞いは疲労のせいに違いないとユリアは思っていた。
今夜もっともディートリヒの精神に負担をかけただろう人物を思い浮かべ、フェリクスは長い脚をゆったりと組む。
「例えば、第二王子殿下の事か?」
「そうでしょうとも。まさか、本気でリリアン様をお連れになるとはわたくしも想像しておりませんでした。……せいぜい、妾にされるものとばかり。」
ユリアの赤紫色の瞳が兄へ向く。
あの時、フェリクスは「馬鹿ここに極まれり」と呟いて姿を消していた。誰の元に行ったかなど考えるまでもない。
「宰相閣下はなんと?」
「さてな。ディートリヒ殿下はなんと?」
「一目見た時からずっと、わたくしを忘れられなかったと。」
「それはそれは。お熱いことだ」
美しい兄妹は微笑み合う。
暗殺者たるもの、依頼主の思惑をやたらと明かすような真似はしない。政治――どころか、王位継承が絡むなら猶更である。
表向き――第三王子ディートリヒはユリア・シュミット侯爵令嬢に夢中であり、今晩ようやく想いを告げた。ユリアがそれを受け入れた以上、後は国王とシュミット侯爵の許しを得るだけだ。
窓に揺れるカーテンを見つめながら、フェリクスは王子達の姿を脳裏に思い浮かべる。
元より病弱だったが、もう何年も寝たきりの第一王子。
学園でリリアン・カルクに出会い、堕落してしまった第二王子。
次兄の再起を信じて政務を支えた第三王子。
短期か長期か永年かは不明だが、ユリアは第三王子ディートリヒについた。
上二人がそのような状況でなければ、「側妃が産んだ第三王子」ごときには過ぎた戦力だろう。
ユリアはシュミット侯爵家の最高傑作である。
一対一の勝負であればまだ互角だが、殺し合いなら自分は負けるだろうとフェリクスは確信していた。
今のところ有り得ない事だが――もしも宰相とディートリヒが決別した暁には、フェリクスは本気で妹の消し方を考えねばならない。
仮に二人を引き離してディートリヒを消す事ができても、ユリアは必ず仇を討つ。主君を守れなかった暗殺者の、最後の誇りにかけて。
――それも結局は、ユリアの忠誠心を繋いでおけるかどうかだ。……殿下、全てはこれからですよ。
馬車が止まり、扉が開く。
兄が心に秘める懸念も知らぬまま、ユリアはフェリクスにエスコートされて足台を降りた。本当はこの程度、ひょいと着地できるけれど。
雲の向こうに月が隠れた夜のこと、ランプに照らされたシュミット侯爵邸の門が左右に開かれていく。
ユリアはフェリクスの手を離れ、一歩先を歩き出した。
「ユリア」
謳うような呼び声に振り返ると、美しい兄は機嫌良さそうに口角を上げている。
「忘れられなかったのは、お前もだろう?」
「――…えぇ、お兄様」
依頼主の可愛らしい顔を思い浮かべ、ユリアは薄く微笑んだ。
「これからが楽しみです。」




