54.逃げなくなっても
演習場でディートリヒ様と対峙するのも、今日で十回目になりました。
寒空の下、木製の剣を持って。
ディートリヒ様は時間の許す限り向かってきます。わたくしは彼の攻撃をいなし、捌き、時に人体の急所へあと一歩というところで止め、もう一度距離を取り直す。
剣を交える間、わたくしはディートリヒ様の動きをよく見ています。
万一にもこの方が自ら戦わねばならない時、どこに隙が生まれてしまうのか。思考や動きのクセ、得意と不得意。そしてわたくしが口で説明せずとも、敢えて深く打ち込めば……それ即ち隙であるとお伝えできる。
こちらが繰り出した最後の一手を、ディートリヒ様は重さに顔を歪めながらも剣で受け止め、後方へ跳び退りました。今ので手が痺れておられるので、追撃すれば剣を落とせますが……
「――時間でございます。」
「そうか……今日もありがとう、ユリア。」
乱れた呼吸を整えながら、ディートリヒ様は剣を下ろして微笑んでくださいました。
上気した頬も、流れる汗も、疲れの滲む表情でさえ、わたくしの心を掴んで離しません。今すぐ駆け寄って、思う存分あの頬に唇を触れさせてもよろしいでしょうか。愛でていたいです、半刻ほど。手を繋ぎがてら、後ろ手にして差し上げて――…
「それは後にしよう。」
手のひらをスッとこちらへ向け、ディートリヒ様がつれない事を仰います。
おかしいですね、まだ見ていただけのはずですが。
「…わたくし、何か口に出しましたでしょうか。」
「言ってはいないが、今私の手を拘束しようと考えなかったか?」
察しがついていたようでございます。
我慢できず毎度そうしていたせいでしょうか。数秒の間を置いてしまったものの、素直に「はい」と答えます。
「安全のためですから。」
「君がそう言うのも一理あるが……互いに、手を即座に動かす事ができないだろう?」
痛いところを突かれてしまいました。
…と言いますか、これまでディートリヒ様が言わずにいてくださった事、と言いますか。それはもちろん、わたくしもわかっていた懸念点ではございます。
ただそれよりも、貴方様に抱きしめて頂いた時の、わたくしの五感の鈍化が危ういと。そういう事なのです。地面を踏みしめて歩み寄り、深い青色の瞳を見上げました。
「五感が鈍るのだったね。」
「……はい。他の守り手も近くにいるなら、まだしも…」
「訓練しようか。」
「――、はい?」
仰っている意味がわからず、いえ。いいえ、わかるのですが、そんな。
この会話における《訓練》が示す数秒後の未来を予想して、わたくしの全身が緊張する。幼い頃にお父様の殺気を披露して頂いた時にも似た、けれど心情はまったく異なっていて。
血の気が引くどころか顔に熱が集まり、ああ殿下。抱きしめる直前にそんな優しい微笑みを見せるなんて、あまりに――ぎゅうと抱きしめて頂いて、心臓が破裂しそうなほどの歓喜が湧き上がる。
「そろそろ私に慣れてくれ。ユリア」
耳元で囁く声が脳を痺れさせ、微かにあたった吐息は身体中から力を奪う。
これは、非常によくないものです。
わた、わたくしは今どこまで耳が聞こえていますか?視界がはっきりしない、焦点はどこへ合わせれば?思考がディートリヒ様の事で埋め尽くされて、己の全能力が著しく低下しているのを感じます。
だからいけないのです、今すぐ離れなくてはならないのに――初めて抱きしめて頂いた時よりもずっと、ずっと、離れがたくて。勝手に動いた腕は欲望のままに彼の背へ回る。
あと何時間でもこうして抱きしめられていたい、貴方様の胸の鼓動を感じていたい、温もりを分かち合っていたい。美しい銀色の髪に頬擦りをして、その肌に口付けてしまいたい。頬にも、瞼にも、額にもなんて、それほど欲張っては少し、はしたないでしょうか――…
殺気。
暗器に手をかけディートリヒ様を庇いながら前へ出ます。
飛んできたのはナイフ。この数と範囲は片手では避けきれない――ディートリヒ様の身体を支え、共に後方へ跳びました。着地はご自身でしてくださるので、わたくしが抱え上げる必要はない。
相手は一人。
問題なのは、それがお兄様であること。
こちらが跳び退ると同時、高く跳んだ人影の動きに合わせてナイフを三本放っていましたが…いずれも防がれました。体格、動き、フードの下から見える顔立ちは、間違えようもなくわたくしの兄。
フェリクスお兄様。貴方ならば、防げて当然でございますね。
命じたのは宰相閣下か、ローレンツ殿下か、まさか小悪党に使われる貴方ではないでしょう。
わたくしはお兄様を殺すだけの技量があるでしょうか――…あろうとも、なかろうとも。ディートリヒ様を狙うなら、貴方は敵でございます。まずは着地の瞬間を狙って…
「もういい。そこまでだ」
ディートリヒ様のお声に、わたくしは動きを止めました。
地面に降り立ったお兄様はフードを脱いで笑みを浮かべ、手袋を外し両手を上げる。今この手には武器を持っていないという意思表示。
投げナイフの狙いこそ本気でしたが……どうやら、暗殺そのものは本気ではなかった様子。わたくしは毒を塗ろうとしたナイフをケースに納め、姿勢を正しました。
「…わたくしが腑抜けていないか、確かめてくださったのですね。」
「ああ。きちんと殿下を守れたじゃないか、ユリア。」
きっと依頼人は宰相閣下でも、ローレンツ殿下でもない。
斜め後方へ視線を移せば、ディートリヒ様が苦笑してわたくしの手を取ります。
「すまない、私が頼んだんだ。――君なら必ずできると思ったから、フェリクス殿にも本気で仕掛けるように言った。」
貴方様に触れられては五感が鈍って危険だと、わたくしが言うから…ですね。それが嘘偽りなく本心だとわかっていても、「そんな事はない」と示したかったと。
わたくしの腕を信じてくださったディートリヒ様の手を、そっと両手で包む。
「…少々焦りました。わたくしはお兄様に勝つ絶対の自信まではありませんし……ですが、試して頂いてよかった。そう思います」
結果だけ見ればわたくしは先程、自らの懸念を自ら打ち破ったのです。
たとえあれほどまでに思考がとろけていようとも、必ずディートリヒ様をお守りするという一点……それだけは何よりも優先し、この身体は即座に反応できるのだと。そう証明してみせた。
「謝る事はありません、ディートリヒ様。気遣って頂きありがとうございました。」
「私はなにも。フェリクス殿の協力あっての事だしな」
「くく。お前が本気で警戒するには、俺はちょうど良い相手だったろう?」
「…ええ、まったく。」
相手がお兄様だからといって、油断するわけには参りませんでした。第一にわたくし達はシュミット侯爵家。互いの主が敵になれば殺し合いもありえると、幼い頃より言い聞かされております。
そして恐らく――…エルフリーデ様とヴィルマ様が攫われた一件。
あれで毒を扱ったのは他国の人間ではなく……お兄様、貴方なのでしょう。アイレンベルクの護衛が、あれしきの小物が従える者達に敗れるわけはありません。
ですから余計に、お兄様が敵になったという仮定は充分にあり得る話だったのです。
「では、俺はここで失礼致します。殿下」
「協力感謝します。ありがとう――…、ん?」
お兄様が少し身を屈めて口元に手をかざし、ディートリヒ様が耳を傾けました。何でしょう、わたくしの前で堂々と内緒話ですか?さしたる距離もない状況ですから、お兄様はごく小さいお声で仰いました。
わたくしの聴覚の良さをご存じのディートリヒ様が、これなら流石に聞こえないのではと思うだろう程度のお声、ですね。
「…妹が逃げなくなっても、婚前交渉はお控えくださいね。」
「っな、何を!?違う、私は決してそういうつもりで頼んだわけでは!」
当然わかっていて冗談を仰ったでしょうお兄様を、一歩離れたディートリヒ様が目を丸くして凝視しています。まぁ、頬があんなに赤らんで…なんと愛おしいのでしょうか。この腕に抱いて愛でていたいです、三時間ほど。
お兄様が普通の声量で笑っておられます。
「あるいは、ええ。バレないように。」
「フェリクス殿、からかわないでください。」
「お兄様」
わたくしが呼びかけると、お兄様はこちらを見やって目を細めました。
――お前が、本当に気を付けなさい。
……ええ、もちろん。
目をそらそうか少し悩みましたが、きちんと頷き返します。お兄様の冗談はディートリヒ様に向けたものではなく、最初からわたくしに対してなのでしょう。
なにせわたくしは、ディートリヒ様を力ずくで押さえつけ拘束する事ができますから。
あまりの愛おしさについ、抱きしめて眠りたいと思う事もありましょう。血潮の熱を心臓の鼓動をもっと感じていたくて、布が邪魔に思える事もありましょう。
「私は早まった事をするつもりはありませんので、ご安心を。」
「もちろん信頼していますよ、殿下の事は。」
わたくしとて早まるつもりはございませんが、抱きしめて頂くとつい……思考がふわふわとしてしまいますので。気を付けなければ。
婚前ですし、まだ学生で、鍛錬中の未熟者でもありますから。卒業までも暗殺者としての腕を磨き、完璧に仕上げてからがよろしいでしょう。子を授かった女性は動きに制限がかかりますので。
それまでは子を授かる事がないように――…たとえばディートリヒ様が寝ておられるその傍らに、布団を隔ててわたくしがいるところまでなら、問題ないのではないでしょうか。
無論、裸体になる必要がないので衣服も着たままで。わたくしが寒がってはディートリヒ様がお気になさるでしょうし。
証明のためだけに誰かを同室させるのも気が進みませんから、もちろん実行の際には内密に行うとして。
ディートリヒ様の寝顔を見ながら眠りにつけ、一晩中お傍で護衛ができて、あわよくば手を握らせて頂いたりだとか…ああ、口元が緩んでしまいそうです。
ですが今はまだダメ、でしょうか?物理的に不可能ではありませんが、一応、男子寮は女子生徒禁制でございます。
「いつなら、どこまでならよろしいのでしょうか…」
「……ゆ、ユリア?」
「殿下には妹が暴走しないよう、手綱を握っておいて頂ければと思います。それでは、今度こそ失礼。」
丁寧に礼をして、踵を返したお兄様が演習場を出ていきました。
わたくしが隣を見やると、頬を赤らめたディートリヒ様が目をそらして。動かずにいる事は不可能でしたが、拘束するのは我慢してその手を取り、そっと口付けを。くすぐったかったのでしょうか、ぴくりと震えた指先までもが愛おしい。
「…お慕いしています、ディートリヒ様……」
耐えきれずに吐息を漏らして呟くと、なぜかその場に崩れ落ちたディートリヒ様は耳まで赤くして俯いてしまいました。なんて無防備な首筋でしょう。
そこへ口付ける事を想像しながら手の甲に頬を寄せ、もう一度唇を触れさせました。




