幕間 邂逅の誓い
『初めまして。私はニクラス・レヴィンと申します。』
陽光に照らされたような新緑の髪は柔らかそうで、薄茶の瞳は日にかざした琥珀のよう。
着慣れた様子の紳士服はきちりとボタンを留めていて、姿勢も仕草も落ち着いていて、綺麗。
私を見て微笑む彼はとても優しそうで、私、思ったわ。
ああ、なんて嘘つきなのって。
私の事をどう聞いていたのかしら、本が大好きでろくに外に出ないような、大人しい女の子?言う事をよく聞く賢い子?淑やかなご令嬢?
物語だって沢山読んでいるのよ、私。
結婚がどれだけ人生で重要な出来事なのか知っているの。どんな相手かによって、大きく変わってしまうでしょう?
今日という日の計画はね、よく立てたの。
お見合いの時だけ丁寧なんてありふれた事だけど、結婚したら全然別人と思う程に隠されるのは困るわ。
できる事なら最初から、結婚した後もずっと、一緒にいたいと思える相手がいい。
そういう人と婚約して、結婚して、生きていく方が絶対に良いから。見定めなくてはと思ったの。
だから少しだけ早めに来て、お手洗いを探して迷ってしまった私が、偶然貴方を見かけても不思議はないわ。
知っているのよ、私に会う直前までシャツのボタンを一つ開けていたこと。
足を組んで座ること、考え事をすると眉間に皺が寄ること、真剣な表情が格好良くて、恐らくとても頭が良いこと、私は三番目の候補者で、あと二人お見合いの予定があること。
私ではなく「俺」と言うこと、本当の笑顔はこんな紳士的じゃなくて、もっと男の子っぽい笑い方をすることも。
だから言ってみたの、二人きりになってから。
『ニクラス様。あなた、えがおがウソっぽいですわ。』
怒るかしら、苦笑いするかしら、驚いて声も出ないかしら。
どうするか見ていたら、ニクラスは目を丸くして、それから笑ったの。
『ははっ、マジか……結構がんばったんだけどな。今の笑い方だめ?』
『だめではありませんわ、すてきよ。でも私、思っていたのとちがうけっこんせいかつになるのはイヤです。』
『なるほど、素で来いって事ね……わかった、ヴィルマ嬢。ちょっと雑に思われるかもだけど、それでもいいか?』
『本当にざつにしないなら。』
ニクラスは、私を選んでくれた。
レヴィン伯爵家にとっては、縁を繋ぐのにもっと有益な家もあったでしょうけれど。婚約者になって何年も経つ頃には、私は彼の事がすっかり好きになっていたわ。
紳士だけどちょっと粗雑なところがあって、明るくて、私が本に夢中でも「閉じろ」とは言わないし、つい語ってしまっても聞いてくれるし、私が持つ知識や人脈を信用して頼ってくれるところも好きだった。
手紙をやり取りすると、ニクラスはたまに返事が遅れたし、文章は私より短い。
でも私の手紙を最後まできちんと読んでくれているのがわかって、身の回りで起きた事や自分が思った事を簡潔にまとめて書かれた彼の手紙が、私は好きで。
手紙の言葉は丁寧だから、会って話す時とで印象が違っている。そんなところも好きだった。
間違えたのは、学園の卒業が近付いた夜のこと。
その頃、婚約者を持つ同級生の令嬢達は皆、いつ頃に結婚するとか、まだ決まってないとか、初夜を上手くできるか不安だという話をしていた。
令息の中には娼館へ行って「練習」する人がいるらしい、という話もあって。
女性側もその方が安心かもしれないとか、パートナーが他の人と触れ合うのは嫌だとか。
……ニクラスは、行ってないわよね。
そんな不安を抱えてしまったのが、始まりだった。
練習といっても、剣の練習で木偶人形を叩くのとは大違い。本物の女性を相手にそういう触れ合いをするなんて。
どこまでするのかしら、口付けもしてしまうの?私とだってしていないのに。
たとえ私を傷付けないための練習でも、他の女性とそんな行為をされたら私の心は傷ついてしまう。
でも「行った?」なんて聞くのは、行っていなかったら失礼だわ。
きっと行っていないだろうと思うし、聞くなら直球は避けた方がいい。
『――そういう噂があるけど、本当なの?』
結局私は、他の令嬢が心配しているという事実を盾にして探りをかけた。
ニクラスは私からそんな話題が出ると思わなかったみたいで、苦い顔をしていて。余計に不安になる。
『…行く奴は、いる。俺は行ってない』
『そう』
良かった。
安心して、私は「変な事聞いてごめんなさい」と言おうとした。それで終わるはずだった。
『……今のうちに言っとくと、兄上はたまに行ってる。』
驚き過ぎて声も出ない。
ニクラスのお兄様はとても仲の良いご夫婦で、そんな事は考えもしなかった。
『これは義姉上も承知してて、相手は兄上が卒業前に…勉強させてもらった人だ。』
『……許してる、のね。どうして?』
『夫婦ではあんまりする気にならないらしい。…まぁ、もう子供はいるし、外野がとやかく言う事じゃないからな……』
する気にならない。
あんなに仲の良い夫婦でも?
……私の身体を見たら、ニクラスはどう思うかしら。
恐ろしくなった。
結婚しても、そういう気になれないから離婚する人だっている。
期待外れだとか、そういう気になれないとか、ニクラスはそんな事思っても口にはしないでしょうけれど、困ったような顔をさせてしまったら、されてしまったら――…離婚されるよりは。
『……貴方も、行ってきたら。』
空気が凍りついた。
私は何を言っているの?
沈黙が痛い。
違うの、ニクラス、私はただ怖くて、ごめんなさい。違うのに、声が出ない。
行かないで、嘘、行かないでほしい。
そう思うのに、彼の方を見れない。
どんな顔で見られているかと思うと、貴方を見る事ができない。
息が苦しくて、血の気が引いて、唇の裏を噛む。
『……お前がそう言うなら、考えとく。』
目の前が真っ暗になった気がした。声が出ない。
怖くて振り返れなかった私を置いて足音が遠ざかって、部屋から出て行く。涙が零れ落ちた。追いかけて謝らないといけないのに、足に力が入らない。
その日から、ニクラスは私に触れなくなった。
普通に話してくれるけれど、パーティーに出席する時は最低限、手に触れてエスコートしてくれるけれど、それだけ。
あの話題を避けたまま、月日は流れていく。
行ってきたと言われるのが嫌で、本当に行ったか聞く事もできなかった。知りたくない事実があるかもしれないなら、わからないままでいい。
賢明だったはずの第二王子殿下はカルク伯爵令嬢を選び、何事も慎重派だったディートリヒ殿下は唐突にシュミット侯爵令嬢を選んだ。
この国はどこへ向かっていくのかしら。
ニクラスが言うには、ユリア様は殿下が忘れられない初恋の人らしいけれど。
私達は、このまま結婚していいのかしら。
ニクラスと離れるなんて嫌だけど、他の人と結婚したくないししてほしくないけれど、私はニクラスを幸せにできるのか。
『ヴィルマ嬢』
我が家の庭で一人考え込んでいたら、いるはずのない人の声がした。
ディートリヒ殿下の護衛騎士。ニクラスではなく私のところへ?使用人が通したにしては、誰も連れていない。
『…ツァイス様ですわね。一体…』
『一緒に来てもらいます』
『っ!?』
身構えた時には口を布で押さえつけられ、咄嗟にできたのはテーブルのティーカップを倒す事だけだった。
声も上げる事なく連れ去られ、猿轡を噛ませて後ろ手に縛られた私はどこか森の中で下ろされた。
何のために?心臓がばくばくと音を立て呼吸が浅くなる。
それでも懸命に、移動距離からしてあの山だろうかと考えを巡らせた。
私の腕を縛った縄は地面に打たれた楔に固く結び付けられて、ツァイスは小屋から誰かを引きずり出してくる。
『……ヴィルマか』
苦々しく私を呼んだニクラスは血だらけだった。
明らかに暴行を受けていて、思わず駆け寄ろうとしたけど縄がぴんと張っただけで距離が縮まらない。ニクラスも腕を縛られてるようで、シャツやズボンには赤黒いものが広く滲んでいる。
恐ろしくて、気を抜くと意識が飛んでしまいそうだった。彼はもうどれだけ失血しているの。
『騎士とは思えねぇ腐れようだな、ツァイス。』
『俺はあの方のために動いているだけ。貴方が従順であれば、彼女にも何もしませんよ。』
『…お前を信じた俺らが、馬鹿だったよ。』
『殿下の印章はどこです。』
ツァイスはニクラスの喉元にナイフを突きつけた。
ちらりと私を見やって、答えなければどうなるかを示唆する。私は首を横に振った。ディートリヒ殿下を裏切らないためにあんな姿になったニクラスを、私のせいで裏切らせたくない。
ニクラスの頬を汗が伝い落ちた。
『……言うから、ヴィルマには手ぇ出すな。』
『賢明な判断ですね。』
『…執務机の右側三段目の引き出し、外すと裏側から開けられるようになってる。』
『三段目…』
ツァイスが思い返すように呟いた瞬間、ニクラスがツァイスの後方を見て目を見開いた。
『こっちだ、ディートリヒ!』
『何ッ!?』
そこには誰もいない。
けれど咄嗟に振り返ったツァイス目掛けて、ニクラスが突進する。後ろ手に彼を縛っていたはずの縄は落ちていて。
ニクラスはナイフを奪い取り、ツァイスを地面に押し倒した。
『ヴィルマ、目ぇ瞑ってろ!!』
『っ…!』
『ぐぁあああッ!!』
言われるがまま顔をそむけて目を閉じ、恐ろしい断末魔が聞こえた。
幾度か嫌な音がして、どちらのものかもわからないくぐもった声がして、静かになる。私は震えていた。
『っ……どっちも嘘だ、馬鹿。』
ニクラスの声だ。
ほっとしてそちらを振り返ろうとして、「見るな」と止められる。私は顔をそむけたまま、息も絶え絶えのニクラスが猿轡を解いてくれた。
『ニクラス、貴方傷は…』
『おいツァイス様、いるのか!』
『さっきの声はどうした!』
誰かが駆けてくる。
ニクラスは私を縛っていた縄を切り、手を引いて走り出した。足がふらついたけれど今は、今は走るしかない。道もわからない山の中を駆けていく。
『男はどうせ死ぬんだ、女捕まえようぜ!』
『そうだな、あいつが死んだならもう好きにしていいだろ!』
嫌だ、嫌だ。
このままではニクラスが死んでしまう焦りと捕まりたくない恐怖で思考は回らなかった。
どうにか藪の中へ隠れて一時はやり過ごしたけれど、男達は辺りをずっと探している。逃げた先があまりに悪く、そこは切り立った崖の上だった。
『ニクラス、ニクラス……!』
勝手に流れてくる涙を拭う暇もなく、半狂乱で彼の名を呼ぶ。
もみ合った時にやられたのか元からあった傷が開いたか、ニクラスの身体からはどろりと血が流れていた。
彼を支える私のドレスも赤く染まって……これだけの血を失ったら、もう助からない。
『血の跡があった!こっちだ!!』
遠く歓喜の声が聞こえて、咄嗟に後ずさる。
崖は途方もなく高くて、落ちたら即死だろう。私は震えながらニクラスを抱きしめた。彼と離れるくらいなら、知らない男に触れられるくらいなら――
頬に手が触れて、唇が重なった。
きつく抱きしめられて、嬉しくて、悲しくて、深い口付けを受け入れる。
初めてのキスは血の味がした。
涙が溢れて止まらない。
最後に優しく私の頭を撫でて、ニクラスは唇を離した。
『――悪い、ヴィルマ。あいつらに渡すくらいなら、俺と死んでほしい。』
答えなんて決まってるわ。
唇を軽く触れ合わせ、私は精一杯の笑顔を浮かべた。
『当たり前でしょう?』
『…ありがとう。』
ふらつく彼を支えて、崖へと一歩踏み出す。
『来世、でも……会おう。ヴィルマ』
『絶対よ。』
『ああ…』
何も怖くないように、絶対に離れる事がないように抱きしめて。
『愛してるわ。ニクラス』
返事がない意味を、力の抜けた腕の意味を知りながら、私は目を閉じた。




