50.嫌ではありません
夜が明けるよりも早く、ヴィルマとエルフリーデは学園に帰還した。
まったく動じた様子のないエルフリーデをツァイスは尊崇の眼差しで見つめ、ユリアは微笑んで礼を言うディートリヒの姿に心臓が止まりかけ、イザークは馬を返してくると言ってすぐその場を離れ、ヴィルマはニクラスが躊躇いなく抱きしめた事でようやく安心した様子だった。
エルフリーデの側仕え達は動けるまでに回復しており、既にディートリヒ達からの事情聴取も終えている。事態の収拾について打ち合わせた後、公爵家にはエルフリーデ自ら手紙を認めた。
ヨハン・クレンクは騎士団が拘束。
「令嬢を誘拐してやった」と言っているが牢に被害者の姿はなかった上に、牢番達は眠りこけるほど酒を飲んでいて証言の信用度は低かった。名を挙げられた令嬢は学園から出ていないと複数名が確認している。
側妃の義兄である騎士団長ギレスベルガー公爵は、ヨハンの主張を「妄言だ」と切り捨てた。
「殿下は、どこまで想定されていたのですか?」
ふわりと緩く微笑んで、ダニエラはティーテーブルの向かいに座っている男を見つめる。
カップからは湯気が立ち昇り、窓の外の青空を小鳥が飛んでいた。
「どこまでとは?」
「昨夜何が起きるのか、誰がどう動くのか。おおよそ全てわかっていたのではないかしらと思ったのです。」
「どうだろうね。」
輝く銀髪に赤い瞳、第一王子ローレンツはくすりと微笑んでいる。
明確な回答などしてくれないだろうと、ダニエラも当然わかってはいた。
デルプフェルト領から毒が持ち出されたとディートリヒに伝えたのは彼で、旧庭園に薔薇が咲いているとヴィルマに伝えたのは彼の友人だ。
エルフリーデと最後まで話していた、すなわち彼女の時間を調整できたのは彼自身。
可能だった、というだけのこと。
やった証拠はないし出ないだろう。
ローレンツはヴィルマに「エルフリーデを誘導しろ」などとは命じていない。エルフリーデに「この時間に旧庭園へ行け」とも命じていない。
手紙を見たリリアンが一人で暴走する可能性もあった、対処を任されたディートリヒが「騎士団に任せる」と言う可能性もあった――かもしれない。
「アイレンベルクは殿下達に感謝しますね。無かった事にするなんて、本来とても骨が折れますもの。」
「私達としても、彼女らの不名誉は望ましくない事だったからね。」
エルフリーデ達を攫う時に毒を扱った手練れは、誰だったのか。
犯人達は「あいつがやられると思わなかった」「毒の事もあいつに任せていた」と証言しており、騎士団によれば、その男は勝てないと察して自害したそうだ。
――本当のところは、わかりませんけれど。
事件の真相というものは、騎士団の公式発表が全てではない。
その男は捕まると察して騎士と交渉し、仲間を売って生き延びたかもしれないし、あるいは最初から仲間ではなかったかもしれない。
たとえば、ローレンツの命令で動いた誰かだった、とか。
もしかするとユリアやディートリヒも何か気付いているかもしれないが、特段、それについて話し合う事はしていない。
「メルツァー様を現地へ行かせたのは、エルフリーデ様と彼が結ばれるようにですか?」
「そうなってもいいと思っているけれど、それこそ本人達次第かな。」
「ふふ、否定はされないのですね。」
「私は君に婚約を申し込んでいる身だからね。アイレンベルクには他を見てもらいたい。」
さらりと言って、ローレンツはティーカップに指をかける。
エドゥアルトがローレンツに話を聞きに来た時、それはちょうど、ダニエラに婚約の話を持ちかけている時だった。
『これは、君の丈夫な身体が目当ての政略結婚だ。私を愛さなくても構わないよ』
浪漫もへったくれもない求婚の言葉、事件の報せで中断になる事すら想定していたのではとダニエラは思っている。
報せを聞いても感情的にならずにいられるか、結婚の話と今発生した急務のどちらをどう対処しようとするか。
きっと、全ては量るため。
「本音を隠す事の多い貴族社会で、メルツァーだけはその枠から外れた話し相手たりえる。もし事件によってエルフリーデ嬢の精神が崩れていたら、彼しか適任はいなかっただろう。」
イザークの同行を許可した時、ローレンツは「落ち着かせてあげてくれ」と頼んだ。
その言葉はそのまま真意だったという事だ。ダニエラはエルフリーデの姿を脳裏に浮かべ、確かに、彼女が弱音を吐ける場所などろくにないのだろうと思った。
あったとて、本人が望まないが故に。
「それで、君は婚約を受けてくれるのかな。そんなに悪くない話だと思うけれど。」
「もちろんお受け致します、殿下。」
「そう、ありがとう。よろしくね」
「はい。愛さなくても構わないと仰るのですから、愛しても構わないのですよね?」
スコーンに塗るジャムを選ぶ時のようにふんわりと微笑むダニエラに、ローレンツは初めて意外そうに目を見開いた。
予想外の返事だったのだろう、ぱちりと瞬いて口を開く。
「――推奨はしないよ。私は国の利になるなら、妻の不興を買ったとしても愛人を作れる人間だと思うし。」
「愛したらその分、私が悲しむ事になると。そのお心遣いは嬉しく思います。」
「……うーん。ちょっと、思っていたより積極的だな。君は」
微笑みを浮かべながら、ローレンツは困ったように眉尻を下げた。
テーブルの上で軽く、指先を組む。
「あら、ある程度は元からおわかりでしたでしょう。これくらいの事で不機嫌にはならないとか。」
「もう少し、私に対して無関心でいてくれると思っていた。良い意味でね」
「うふふ。尊敬や親しみの愛だけで終えるには素敵過ぎます。」
ガラスを扱うようにそっとティーカップを持ち上げて、ダニエラは優雅な仕草で紅茶を喉へと流した。
壊さないよう気を付けながらソーサーに戻す。
「殿下。整えた微笑みで過ごすより、私と思いきり笑って生きてみませんか。」
ローレンツが良しとした今回の被害も知った上で、ある程度仕組んだのだろう事も知った上でのこと。
策略と無縁ではいられない、敵を罠に嵌められるなら、多少の犠牲は甘んじて受け入れるような、そんな男を相手にして。
「もしよろしければ、王国史上もっとも楽しく生きた国王夫妻となりましょう。」
手を差し出して誘いをかけたダニエラに、ローレンツは「ふふっ」と笑い声を漏らした。
楽しい話だけで済むわけがない。
それがわかっていて彼女は、愛させてほしいと言っているのだ。
「魅力的な話だね。ありがとう」
困り顔で笑みを浮かべ、ローレンツは彼女の手を取った。
共に叶えようとは言わないまま。
「君が後悔しない事を祈るよ。」
「私、己の選択には自信がありますから。」
「ではこれからよろしくね、ダニエラ」
「はい!」
事件の明晩、学園では予定通り舞踏会が開かれた。
煌びやかなシャンデリアに照らされたダンスホールで、演奏家が奏でる曲に合わせて踊る。
一曲目は在学している王子達三組のみだ。
第一王子ローレンツはダニエラ・ラングハイム侯爵令嬢と。
これは多くの生徒にとって予想外だったようで、密かに囁き合う声が聞こえてくる。確かにダニエラ嬢は優秀だが備品を壊す事が多く、王子のパートナーとしてはどうなのか。
またある者は、未だ完全には回復していない王子だからこそ、彼を守れる令嬢が護衛に選ばれただけだと言った。
楽しげに笑っているのは両者いつもの事で、婚約者として発表されたわけではないのだから。
「それに、ほら。ダニエラ様は殿下の色の装飾を身に着けていませんし。」
「とはいえ、それが選んでいない証明にはならないでしょう?」
「俺なら嫌だけどね、自分とそう変わらない背丈の令嬢なんて。」
「……貴方、ダニエラ様より遥かに低いじゃない。」
第二王子エドゥアルトはエルフリーデ・アイレンベルク公爵令嬢と。
上級者同士息の合った動きを見て、やはりリリアンの事は周囲を欺くための嘘だったのではないかと囁く者もいたが、二人の間には甘い雰囲気など微塵もない。
けれど互いへの確かな敬意が窺える素晴らしいダンスだった。
「ああ、なんて美しいの。やっぱりエドゥアルト殿下はこうでなくちゃ!」
「エルフリーデ嬢、第一王子殿下達を気にする様子もないな。どういう心境なんだか」
「…負けを認めたくないだけでは?」
「なんて事を――貴女、冗談でも言うものじゃないわ。身を滅ぼすわよ」
第三王子ディートリヒは婚約者であるユリア・シュミット侯爵令嬢と。
この二人も婚約当時は突然過ぎると騒がれていたが、今や相思相愛を疑う者はない。
入学当初は「男など僅かの興味もない」と言わんばかりの様子だったユリアが、ほんのりと頬を染めてディートリヒを見つめている。
ディートリヒもまた愛しげに眼差しを和らげてユリアを見つめ、他人を寄せ付けない二人の世界を形成していた。
「ユリア様ってあんな方だったかしら?もっと淡白だと思っていたわ。」
「ディートリヒ殿下はお優しいですもの。あの方に愛されたら、女性はきっと誰だってああなります。」
「…この前、向こうに殿下がいるな~って見ながら廊下歩いてたら、急に背後から『殿下に御用ですか』って話しかけられたんだよ…ユリア嬢でさ。驚いてペーパーナイフ取り落とした。」
「そんな物握って見てるから……」
曲が終わると自然と拍手が起こり、六人は丁寧に礼をする。
誰より大きな拍手を送っているのはリリアンだった。瞳を輝かせ、いつかは自分もあれくらい上手にエドゥアルトと踊りたいと希望を抱いている。
「――じゃ、俺らも踊るか。ヴィルマ」
「ええ、ニクラス。丁寧にお願いね」
「もちろん。」
二曲目が始まる前に他のペアも次々とホールの中央へ進み出た。
王子達は相手を変えて、ローレンツはエルフリーデと、エドゥアルトはユリアと、ディートリヒはダニエラと踊る。
会場には令嬢に囲まれるイザークの姿もあったが、穏やかに微笑んで話しながらも、ダンスの誘いはきっぱり断っているようだ。
「気になる人でも?」
ローレンツに問いかけられ、エルフリーデは「いえ、そんな事は」と否定した。
偶然見回していただけで、特定の誰かの様子を見たかったわけではない。
「では後で、私に時間をもらえるかな。」
「…はい。」
「頼みがあってね。君の伝手を借りたい」
少しだけ低まった声にこれは依頼だと悟っても、彼女は完璧な微笑みを維持していた。何を頼まれるかとここで動揺するようでは、第一王子の協力者になどなれないから。
「はい、殿下。光栄ですわ」
落ち着いた返事に、ローレンツは「頼もしいね」と朗らかに笑った。
公爵令嬢として、エルフリーデは忙しく仕事に励む。
相手を変えて幾度も踊り、休憩がてら飲み物を取っては令嬢令息と話をして。誰が何に興味を持っているか、何を探ろうとしてくるか。身の装飾からは各家の財政状況も窺える。
一通りの対応を終えた頃、遠くから侯爵家の長男が近付いてくるのが見えた。
先程既に挨拶はしたが、疲れているか聞かれたのでダンスがしたかったのだろう。エルフリーデがしばらく休んだから、いよいよ誘いに来るのだ。
――気分ではないけれど、仕方無いわね。
そちらへ向き直って会釈するか、そう考えたところで遮るように影が落ちる。
誰が来たかと見上げれば、にこりと微笑むイザークがいた。一緒に話していた令嬢達が頬を染めて後退し、エルフリーデとイザークを交互に見る。
「良い夜ですね、エルフリーデ嬢。私と話でもいかがですか。」
「…もちろん、構いませんわ。」
エルフリーデも美しく微笑み返す。
ちらと令嬢達を見やると、「どうぞお二人で」とばかり何度も頷いて引き下がった。視界の端では侯爵令息が引き返していく。
イザークに連れられて隅の二人席に向かうと、テーブルには既に軽食を盛った皿が置かれていた。勧められるまま椅子に座る。
「よろしければどうぞ。食事はまだ何も口にされていないのでは?」
「ありがとうございます。せっかくのお気遣いですから、頂きますわ」
ローレンツが最初にダニエラと踊った事で、気遣いや探り、親切に見せかけた皮肉まで、エルフリーデと直接話しに来る生徒が多かった。確かに食事はとれていないし、事件のせいで睡眠時間も足りず、身体には余計に疲れが溜まっている。
「ここで好きなだけ休まれてください。私がいれば、早々割り込む者もいないでしょう。」
「貴方は踊らなくていいのですか?誘いは多かったはずですが。」
「誘いたい相手はいますが、無理をさせたくないので。」
そう言うイザークはダンスを踊る人々の方を見ていたが、誰の事を言っているかは明白だった。
心の中で恥じらってしまいそうで、つい見惚れてしまいそうで、エルフリーデは彼の横顔から目をそらす。
――まやかしだわ。似ているから、縋りたくなってしまうだけ。それではいけないのよ。
「難しく考えないでいいんですよ、エルフリーデ嬢。」
「…どういう意味でしょう。」
聞きながら、エルフリーデはいつの間にか眉間に皺が寄っていた事を自覚して力を抜いた。
不機嫌な顔に見えただろうに、イザークは「貴女は真面目な方だから」と微笑む。
「少しくらい、細かい事は気にしなくていいという事です。何か恩に感じる事があったとしても、嫌だと思うなら――」
「嫌では、ありません。」
口走ってしまったエルフリーデに、イザークはぱちりと瞬いた。眼鏡の奥で瑠璃色の瞳が丸くなっている。
エルフリーデはさっと扇子を開いて赤くなった頬を隠し、目をそらした。
――わたくしは、今、なにを。
「……嫌ではない、か。ふふ」
「…それだけで、他意はありません。」
「もちろん。わかっていますよ」
イザークがどんな表情をしているのか、エルフリーデには見えていない。
ただ、低く落ち着いたその声は温かい何かに満ちていて。
「後ほど、私と一曲いかがでしょうか。」
自分だけに向けられた心地良い熱に触れ、エルフリーデはゆっくりと頷いた。
会場の片隅で、ツァイスは呆然と立ち尽くしている。
先程まで視界に捕えていたのはイザークと一緒にいるエルフリーデの姿。
一瞬だけ見えた頬の赤さが目に焼き付いていて、掠れた声で「なぜ」と呟いた。
――イザーク様が、ユリア様と共に助けに行ったからか?……それだけの事で?馬鹿な。違う、違う。貴女はそんな簡単になびくような人じゃない。
あってはならない事だと、彼は考えた。
エルフリーデ・アイレンベルクは、高貴にして高潔な存在なのだから。
だから、
「…そんな貴女は、貴女じゃない。」
変わりきってしまう前に手を打たなければ。
正しい方へ、元のように、戻して差し上げなければならない。
元凶を排除して。
五章 完
六章(最終章)開始まで、少し間が空きます。




