49.気付かれたくない涙
地下牢の床から通気口まで、四メートルはある。
そんな場所から飛び込んできた黒い影は壁を蹴り、また対側の壁を蹴ってから着地した。
口をぱくぱく動かして声も出ないヴィルマを後ろに下がらせ、エルフリーデは警戒を込めて侵入者を見据える。
暗色のローブを着ているせいで体型はわかりにくいが、少なくとも筋骨隆々の大男ではなかった。
扉から入らなかった以上はヨハン・クレンクの手先ではないだろうけれど、敵の敵が味方とは限らない。今しがた見せつけられた身体能力からして、エルフリーデ達ではこの人物に敵わない事は明白だった。
恐らくは細身の男だろうと考え、静かに問いかける。
「何者です。」
侵入者が暗がりから一歩進み出て、蝋燭の明かりが届く。
顔を上げた彼女の瞳は赤紫色をしていた。細い輪郭も、フードに隠れていた黒髪もはっきりと見えて。驚愕に目を見開いたエルフリーデは、無意識に後退しそうになって踏み止まる。
「貴女は…」
「ユリア・シュミットでございます。エルフリーデ様、ヴィルマ様」
この場において正体を伏せる事は二人に恐怖を与え混乱を招く。
わかりやすく名を名乗り、ユリアは何も問題ないと示すように、余裕ある仕草で淑女の礼をした。ヴィルマが安堵した様子で肩の力を抜く。
「ああ、よかった…!ですが、どうやってこの場所を?」
声を潜めるヴィルマに、ユリアは牢の鍵穴に何か金属を差し込みながら簡単に説明を始める。
彼女が高い身体能力を見せ、明らかに普通の令嬢ではない格好と行動をしているというのに、ヴィルマは動揺した様子がない。
黙って聞いていたエルフリーデは、ユリア・シュミットが只者ではなく、ディートリヒはその能力も込みで彼女を選んだのだろうと理解した。
カチリと音がしてユリアが手を離し、牢の扉が開く。
「…ユリア様。来ているのは貴女だけではないでしょう?騎士もいるのかしら。」
誰も後に続かない通気口を見上げて聞きながら、エルフリーデは頭に浮かぶ顔を振り払おうとした。
彼がいるわけはないし、万が一にもいたらそれは采配がおかしいのだ。指示した者を問い質すべきだろう。ユリアが来ている時点で、ディートリヒないしはそれより上の者が指示しているはずである。
エルフリーデとヴィルマが牢から出た事を確認し、ユリアは部屋の扉に手をかけた。
「あと数分で騎士が正面玄関から入ります。先に脱出を目指しますので、移動はお早めに」
「だ、大丈夫でしょうか。この先は見張りがいたはずですわ」
「問題ありません。」
敵がいるという訴えもさして気にせず、ユリアは躊躇いなく扉を開ける。
そこにいた暗色のローブを纏う人物にヴィルマは息を呑んで身を固くし、エルフリーデは無意識に小さく息を吐いた。
肩を越す長さのシルバーブロンドを一つにまとめ、チェーンのついた眼鏡の奥には瑠璃色の瞳がある。持っていた酒瓶をテーブルに置いて、イザーク・メルツァーは明るく笑った。
「ご無事でしたか。エルフリーデ嬢、ヴィルマ嬢。」
「え、えぇ…」
ユリアに続いてその部屋に入りながら、ヴィルマは瞬いてぎこちなく中を見回す。
扉が開いただけの視界ではわからなかったが、手前側の壁には男がもたれかかっているし、テーブルの奥にも一人倒れている。イザークがやったのか、彼らの口元からはだらだらと酒が零れていた。
「お、驚きましたわ……私一瞬てっきり、貴方が裏切って攫わせたかと。」
「はあ?んなわけないだろ――っと、失礼。今は急ぎましょう」
言いながらイザークはローブを脱ぎ、エルフリーデに羽織らせる。ユリアが着ていたものはヴィルマに着せ、フードをかぶらせた。
エルフリーデは黙ってローブの袖に腕を通しながら、口を開けずにいる。
――確かに、ヴィルマ様の言うように勘違いしてもおかしくなかった。イザーク様がいる方がおかしいのだから。なのにわたくしは、少しもその可能性を考えなかった。
ユリアに連れられて現れたエルフリーデ達を見た時の、動揺のないイザークの姿。
安堵が滲む表情、警戒のない仕草、笑みに変わる顔、それらを冷静に観察しての判断とも言えるが、果たしてそれだけだろうか。
状況的に言えばエルフリーデは、僅かでも彼を警戒すべきだったのだ。
四人で廊下を駆けていく。
転ばないよう繋いでくれた手は力強く、温かかった。
もう助かる、助かったのだと、そんな風に気を抜けば今すぐにでもへたり込んでしまいそうだ。そんな事は許されない。
前を走るヴィルマが転びそうになってしまい、手を引いていたユリアがすぐに支えた。
今転びかけたら、まるであのように支えてほしいから敢えてそうしたように見えるかもしれない。エルフリーデは絶対に転んでなるものかと気を付けて走った。
「この先に裏口があります。馬を連れているので、それで――」
「ああっ!あいつら逃げてやが」
説明途中だったユリアがヴィルマの手を離し、瞬時に後ろへ取って返した。
反射的に後ろを見ようとしたヴィルマが振り返らないよう、その肩をイザークが前へと押す。立ち止まっている場合ではないのだ。
男の声が途切れた理由も知らないまま、即座に追いついたユリアと共に裏口を出る。
「くそ!あいつ、あいつはどこ行ったんだ!」
「それがもうやられたようで、」
「馬鹿な!そんなはずは…」
騎士が踏み込んだのだろう、喚き声と乱闘の音が遠く聞こえてきた。
ユリアはヴィルマを、イザークはエルフリーデを前に乗せて、それぞれ馬を走らせる。学園に向かって。
「…ユリア様の手際も気になりますが、どうして貴方がいらしたのです?」
「ニクラスと一緒にいて事件を知ったのですが、そこで同行許可が出たものですから。」
「信じがたい判断です。」
「ふふ、同感です。まぁ何か思う事があったのでしょう。」
イザークの話からその場にいた人物を知り、エルフリーデは目を伏せた。
助ける相手が二人、身軽に移動するには馬車でなく単騎が良い。その時点で、ユリア以外に誰かもう一人欲しいのは確かだっただろう。後は口を噤める騎士を選ぶか、居合わせた中から選ぶかだ。
現地で二手に分かれて牢へ来たのは、イザーク側から行ってもし牢側に既に敵がいた場合、二人を人質に取られる可能性が高かったから。
そしてユリアより背幅のあるイザークでは、格子を取ったところで通気口は通れなかった。
「エルフリーデ嬢、主犯には会ったのですか?」
「ヨハン・クレンクと名乗っていましたわ。わたくしを売り物にするつもりだったようですけれど…」
浅はかな男だと笑おうとして、笑えずに口を閉じる。
リリアンがユリアに連絡しなければ、事態の発覚はもっと遅かった。ディートリヒが内密に救出しようと言わなければ、誘拐され騎士に救われたという事実が世間に広まっていただろう。
どんな目で見られたか。
何があったと思われるか。
――ああ、悍ましい。
ヨハンが語っていた計画を思い返し、エルフリーデは苦く顔を顰めた。
ヴィルマの心を折らないためにも気丈に振舞っていたけれど、もう彼女はユリアと馬に乗っていてこちらを見ていない。足がもつれて転ばないようにと自分で走っていたけれど、もうエルフリーデはイザークが操る馬に乗っているだけだ。
もう、気を張らなくていい。
そんな風に考えてしまって、けれどそれでは駄目だとも考える。
気を緩めるのは自室に帰ってから、一人きりになってからだと、
「よく頑張ったな。」
不意に聞こえた声はあまりに温かく、エルフリーデの目から涙が零れ落ちた。
胸がじわりと熱くなり、イザークに寄り掛かってしまいたい気持ちを懸命に堪える。そんな真似はできない。
「…わたくし、アイレンベルクの娘ですから。このくらいで動じませんわ」
「そっか。私はだいぶ心配した」
「……」
「本当に、君が無事でよかった。」
フードを深くかぶったまま、エルフリーデは顔を俯けた。
涙の跡を袖で押さえ、早く乾いてほしいと願う。泣いてしまった事を気付かれたくなかった。
イザークの言葉は、声は、そこに宿った感情は、本心のように聞こえる。
いくらメルツァー公爵家が慈悲深いとされていようとも、ただ知り合いだからといって誰彼構わず助けるわけではない。イザークがそこまで博愛的ではない事くらい、エルフリーデにもわかっていた。
「イザーク様」
「何だ?」
蹄の音に掻き消されてしまいそうなほど小さい声だったのに、イザークは返事をする。
エルフリーデは開きかけた唇を一度閉じた。
――貴方にとって、わたくしは何なの、なんて。
まるで愛の言葉を欲しているようで、到底言えないと考える。
君が大事だから来たんだと、そう言ってほしがっているかのようで、それは弱者がする事だ。
今イザークに本気の愛を示されたら、代わりにしてしまいそうな自分も怖かった。
ディートリヒの銀髪と色合いが近いシルバーブロンド、瑠璃色の瞳はディートリヒの深い青色とは少し違って、紫混じりの濃い青で。
今のディートリヒとイザークは顔立ちも性格も違うのに、イザークの気質にはどこか、幼い頃のディートリヒと重なるところがある。
あるいは、失った寂しさと孤独感のあまり、似ていると思い込みたいのか。
エルフリーデは迷い、別の事を口にした。
「…言葉が乱れていますよ。」
「ああ失礼、気を付けます。……寒くはありませんか?」
「平気です。」
「ならよかった。もうしばらくはご辛抱を」
手綱を握る手はすぐそこにあって、もし触れたとしても、後ろの胸板に寄りかかっても、彼は拒否しないだろう。
もし邪な気持ちでエルフリーデを助けたのなら、強欲に触れる機会はあった。
今も「危ないので自分に寄り掛かって」と言う事もできるし、「急ぐから」と女性が怯えてしがみつくくらいに速度を出す事もできるはずだ。
「……イザーク様」
「何でしょう」
どうしてなのかはわからない。
いつからなのかもわからない。
けれど、
「助けてくださって、ありがとうございます。」
「…どういたしまして。」
大事にされていると、気付いてしまった。




