46.救ってほしいと浮かぶのは
肌寒い夜風が旧庭園の芝生を揺らしている。
――…これは、わたくしの失態ね。
目元以外を布で覆い隠した男達に囲まれ、エルフリーデは心の中で呟いた。
護衛を兼ねていた側仕え達は倒れ伏し、軽傷のはずだが呻くばかりでろくに動かない。頭を揺らされたのではなく切り傷なので、恐らくは毒だろう。
しばらく動けない程度のものか、じわじわと殺すものか、回復が見込めないものか、それはわからない。
「見ろよ。すっかり怯えて声も出ねぇ。所詮は小娘か」
「お友達がこうなったら、そりゃあな。」
叫んで助けを求めようとしたため、一緒にいた令嬢――ヴィルマは気絶させられていた。
男の一人がぐったりとした彼女を担ぎ上げ、エルフリーデは一歩後退する。その足で芝生に生えていた雑草の茎を踏み折って、地面にあった栞を葉が隠すようにした。ヴィルマがエルフリーデを庇って前に出た時に落ちた物だ。
視線は男達を見据えたまま。
「エルフリーデ・アイレンベルク。俺達と来てもらおうか」
数も力も不利、抵抗は暴力に繋がる。
この人数が侵入している事から、学園内に協力者がいる可能性も高い。
余裕を見せつけるように、エルフリーデは優雅な手つきで扇を広げた。
相手の視線を誘導しながら美しく微笑む。
「どうぞ、丁重になさってね。傷の無い方が高く売れましてよ」
月の光を雲が遮る暗い夜のこと、エルフリーデとヴィルマは王立学園から連れ去られた。
荷馬車の中で猿轡を噛まされ、後ろ手に拘束される。
目が覚めたヴィルマと共に、見張りで同乗している男からできるだけ距離を取っていた。足は縛られていないが、脱出は難しいだろう。怪我をするだけだ。
話す事はできないながら、ヴィルマは涙を浮かべて何度も頭を下げる。
王子達との夕食を兼ねた会議を終えて女子寮へ戻る道すがら、旧庭園で鮮やかな秋薔薇が咲いているらしいと話したのはヴィルマだった。日中ではなく今見に行くと決めたのはエルフリーデだが、ヴィルマが言い出さなければあの場所に行く事はなかった。
エルフリーデは首を横に振る。
――きっと、いつからか尾行されていたのでしょう。現場がどこであっても同じこと。
護衛がいるからと呑気に出歩いたエルフリーデの落ち度だ。
以前ふらふらと一人で散歩した事もあるが、そこで捕まっていたら本当に痕跡が残らなかったかもしれない。
馬車が止まった。
学園からはだいぶ遠ざかった気もするが、時計はなく、緊張で時間の感覚は掴めない。一時間経ったのか、あるいは二時間か。
知らない屋敷の裏口のようだった。口元と手を縛られたまま歩かされ、ヴィルマと別れて応接室に入る。
「ようこそお越しくださいました、アイレンベルク公爵令嬢。」
脚を組んだまま立ち上がりもせずにそう言って、紳士服を着崩した男はにやりと口角を上げた。
歳は二十代前半といったところか、「知らない男だと思ったでしょう?」と続けて彼は笑い、テーブルに置かれていたティーカップを手に取ると、もったいぶった動きで一口飲んでからソーサーに戻す。
「僕はヨハン。ボニファーツ・クレンクの息子ですよ。」
ドムス大橋に居着いた傭兵崩れと協力関係にあった男爵の名だ。エルフリーデの兄が騎士団と連携して追い詰め、捕縛した。
どうやらその逆恨みでこんな暴挙に至ったらしい。
ヨハンは家から持ち出した金で人を雇っており、エルフリーデを売る事で何倍もの金を得ようという浅い考えをぺらぺらと話した。
「アイレンベルクを恨む輩がどれだけいると思う?貴女には最大の屈辱を味わいながら男達の慰み者になってもらいます。品のない言葉で男に媚び、喜んで娼婦の真似事をするようになるまで、どれくらいかかりますかね。」
タオルを詰めて口を縛られたままのエルフリーデは、何も答えない。
恐怖に顔を歪めるでも恥に思って泣き出すでもなく、冷めた目でヨハンを見ている。
「…その生意気な目。自分が誇りを失う事はないと思ってますか、助けが来るとでも?」
ひくりと目元を引きつらせ、立ち上がったヨハンがエルフリーデに手を伸ばした。
首か頬を掴んでやろうとしたらしいその手を、エルフリーデを攫った男の一人が止める。ヨハンは舌打ちして手を引っ込めた。
「本当なら今すぐにでも衣服を剥いて顔を踏み床に擦りつけ、貴女の立場をわからせて差し上げたいところですが……僕も忙しいのでね。まずは牢で思う存分、アイレンベルクに生まれた不幸を呪っていてください。」
地下牢へ押し込まれてようやく、エルフリーデの猿轡は外された。
先に入れられていたらしいヴィルマが名を呼んで駆けてくる。衣服の乱れなどはなく、彼女もその身は無事のようだ。
囚われの令嬢にさしてそういう興味はないのか、真面目なのか、顔を隠したままの男は一言も喋らずに牢に鍵を掛けて去っていく。扉の閉まる音がした。
「申し訳ありません、エルフリーデ様。こんな事になるなんて…!」
「貴女のせいではなくてよ。今は助けを待ちましょう」
ヴィルマの目を見てしっかりと頷いてやり、エルフリーデは牢部屋を見回す。
換気のためだろう、かなり高い位置に窓はあるものの恐らく叫んでも無駄だし、あそこまで登れたとしても、格子があるため脱出は叶わない。
助けを待とうとは言ったものの、誘拐されたという事実は非常に重かった。
貴族令嬢が男に襲われるなどあってはならない事だ。傷が付く前に救出されたとしても、誘拐の事実が公のものとなれば、その令嬢の純潔は疑惑の目で見られる事となる。
――時間勝負ですが……お父様やお兄様が事態を知る頃には、手遅れかもしれませんわね。
なにしろ現場は王立学園で、倒された側仕え達があのまま事切れていたら発覚するのは明日の日中、偶然にも誰か通る者がいればの話になるだろう。
あるいは警備で見回る人間が通るかどうかだが、現場の後始末をされていたらそれも怪しい。
ヴィルマも状況がわかっているのだろう、顔は真っ青で目には涙が浮かんでいた。
「よりによって今日だなんて……ああせめて、週末であれば。」
「……理想は、夜明け前に戻る事ですわね。」
できる限り、不在を知られないこと。誘拐を無かった事にする。
ヴィルマの言う通り、週末ならば不在の言い訳ができたかもしれない。しかし今日は平日で、おまけに明日は舞踏会だ。
秋の豊穣に感謝を捧げる名目で開かれるパーティーで、学生達は楽しく飲み食いしながら時にはダンスを踊る。
貴族の子息子女にとってはダンスの相手選びも非常に重要で、不在はもっともあり得ない。
在学中にこの舞踏会に参加しない貴族令嬢など、訳あり以外の何でもないのだ。
「……ニクラス…」
祈るように両手を胸の前で組み、ヴィルマは震えていた。
婚約者の名を呟いたのはどうやら無意識のようで、エルフリーデはその肩に手を添える。ヴィルマの頬を涙が伝った。
一人でなくて、よかったのかもしれない。
エルフリーデは唐突にそう思った。
狙われたのは自分でヴィルマは巻き込んでしまったのだが、彼女を守ってやらなければ、励ましてやらなければと思うからこそ落ち着けている自分がいる。
アイレンベルク公爵家の娘として、諦めず誇り高く立っている事がこの者の支えにもなるから。
一人だったら、諦めていただろうか。
彼に会えないならもういいと、考えた事がある。
嫌になってふらふらと夜に出歩いたあの日は、間違いなく自棄になっていたはずだ。あの時に一人攫われていたのなら、エルフリーデは本当に何も抵抗しなかったかもしれない。
ヴィルマは一心に祈りを捧げている。
神に祈ったところで状況は変わらないのに。
けれど、それは「学園の誰かが気付いて動いてくれている」なんて希望的予測を立てる事と、何が違うだろう。
エルフリーデもまた、この場を打開する策など持ち合わせていないのだ。
『神は、懸命に生きる人が迷う事も、逃げる事も禁じていない。…無論、誰かの手を借りる事もね。』
誰かが助けてくれなければ、エルフリーデ達はここから出られない。
神が助けてくれるはずはないけれど。
実家の父兄の指示を待っては遅いけれど。
学園にいる誰かが気付いたのなら、もしかしたら――。
『こんにちは、エルフリーデ嬢。私を見つけるのがお上手ですね』
自分を見て嬉しそうに手を振ったイザークの笑顔を思い出して、エルフリーデはスカートの裾を握り締めた。
――…わたくしは、見つけてほしいと……救ってほしいと、思っているの?彼に?
『では、貴女のもとに私が伺いましょうか。天使の翼でも借りて』
あり得ない事だと、エルフリーデは心の中で首を横に振った。
イザークはきっと今夜も教会にいて、旧庭園の騒ぎになど気付かないし、気付いたところでこの屋敷がわかるわけがない。
万が一にもわかったとして、彼が来たところで何になるというのか。
――ヴィルマ様のように神に祈っている方が、まだいいかもしれませんわね。
両手を組んで目を閉じ、彼女はじっと祈りを捧げている。
牢の中には粗末ながら椅子とベッドが一つずつ置かれていて、エルフリーデは「座りましょうか」と声をかけるべく口を開きかけた。
「ユリア様が、見つけてくださいますように…」
「……ヴィルマ様?」
なぜ、そちらなのか。神に祈っていたのではないのか。
瞬いたエルフリーデを見上げて、真剣な顔をしたヴィルマが頷く。
「あの方が来てくだされば、きっと助かりますわ。」
「それはどういう――」
バキン、と音がした。
エルフリーデ達が音の方を見上げると、先程まで確かにあったはずの窓の格子が消えている。
声を上げる間もなく、黒い影が飛び込んできた。




