5.殿下、顔色が悪いようですが
――確かに…確かに、母上も王妃殿下も政略結婚だと聞いていたが!!
ディートリヒは目を閉じて俯き、やるせない気持ちで顔を押さえた。父がそっちの趣味だったとは初耳だ。一体何が悲しくて、初恋の令嬢から父親の性癖を知らされねばならないのか。
おまけに彼女の父親とそういう関係だったなんて。
――では今まで外交と言って侯爵と連れ立っていたのは…いや、やめろ考えるな。仕事と私事は分けていたはずだ……としても息子としては嫌だ。嫌すぎると思ってしまう私が狭量なのか?兄上達は知っているのだろうか…聞けるか、こんな話!
「殿下、大丈夫ですか?少し顔色が悪く見えますが」
「…問題ないよ。」
「左様でございますか。もし休まれたい時は仰ってくださいね。」
「ああ。ありが」
「安眠のために、きちんとしますので」
片手を緩く握って人差し指を唇にかざし、ユリアは目を細めて微笑んだ。
眠っている間に襲撃者が来ようとも安眠第一に静寂を守り、文字通り「瞬殺」でコトを終えてみせようという意気である。
ディートリヒは「口元で何かを握る仕草」をしたユリアの意図を考えようとして、考えるのをやめた。真顔で首を横に振る。仕草の正体が何であれ、ディートリヒにとっては刺激が強そうだ。
「しなくていい。」
「いいのですか?その方がゆっくりお休み頂け…」
「その、これまでの依頼がどうだったか知らないが…しなくていい。」
「…承知致しました。お望みのままに」
ユリアは感心して小さく頷いた。
たとえ寝ている時でも、異常があれば起きて自分の目で確かめたいという事か。ならユリアは敵が現れたら兎にも角にも捕縛し、すぐディートリヒに報せるのが仕事だ。
「ところで、君は仕事を公表してないだろう。仮に私が断ったらどうするつもりだったんだ?知られただけで終わってしまうが…」
「どうとも致しません。殿下ならば、言い触らすような真似はなさらないでしょうし。」
「それは勿論だが…」
シュミット侯爵家は暗殺者の一族である。
各々の主君以外にもそれを知る者はいるが、だからといってどうしようもない。
証拠がなければ告発はできないし、現国王が侯爵の主。
仮にターゲットがシュミット家の正体を知っていたとしても、優れた暗殺者の前では意味のないこと。
「君の父と…陛下の事も。本人達は隠しているのではないか。」
「一部の者は知っておりますから。」
「………そうか。」
ディートリヒは遠い目で部屋の天井を見つめた。
実父の性癖が一部の者には知られている。その者達は今まで、何も知らないディートリヒをどんな目で見ていたのだろうか。非常に気まずい。
「ただ、第二王子殿下はご存知ありません。もし何かしらの事情があって伝えたいと思われた際は、必ず父に確認をお取りください。」
「わかった。…もし、知っていたらでいいんだが」
「はい。」
「私達の父親同士の関係について…王妃殿下や側妃は」
「無論、ご存知でございます。」
「嘘だろう…」
王妃公認の愛人(男)がシュミット侯爵。
そして王子の自分は、知らず知らずの内に「王の愛人の娘」に惚れていたのだ。
ユリアに心を奪われたあの日、そんな複雑な恋の道に足を踏み入れたつもりはさらさらなかったのに。
――…良い方に考えよう。父上達がそういう状況なら、私がユリアに婚約を申し込み承諾された事について許され……駄目か。父上はユリアの仕事を知っているという事になる。愛人は許されても正式な妃は……真剣に愛していると、仕事を辞めさせたいと伝えれば…
「ともかく…陛下達が戻られたら、君との婚約について話してみよう。突然の事だ、すんなり許可が下りるかは怪しいが…」
「人払いをして内密にお話しされるのであれば、単年契約だとお伝えしても良いかもしれません。」
「…私が君を雇ったんだと?」
「無論、どうお伝えするのも殿下のご意向に沿いますが。」
息子が夫の愛人(男)の娘と同衾できる契約を結んだと言ってきたら、果たして母はどう思うか。王妃は何と言ってくるか。
流石のディートリヒも予想できず、少し眉根を寄せた。
「…王妃殿下達は、一体どんな思いで陛下と侯爵の事を……」
何も知らなかった自分にはまったくわからないと、憂いに目を伏せて呟く。
ユリアは心配する事は何もないとばかりに微笑んだ。
「それは勿論、ご安心頂けております。」
「…なぜそう言い切れる。」
「王妃殿下も側妃殿下も、父の腕はよくご存知ですので。なにせ、目の前で見ておりますから。」
「爛れている…」
「はい?」
「何でもない。」
恥じらいも躊躇も無しに語るあたり、ユリアの価値観は歪んでいる。
できるだけ早く侯爵家から引き離して常識を学んでほしい。
「やはり顔色が悪いようですが…」
「大丈夫だ。」
ディートリヒは大嘘をついた。
妃に見せるという父親の性癖も恐ろしいが、ここまでくるといっそ、国の頂点を掌握したシュミット侯爵の手腕が恐ろしい。
――よもや、国家転覆を目論んではいないだろうが。今夜だけで両親や侯爵を見る目が完全に変わってしまった。
全ては、ユリアがあのバルコニーを跳び越えてきてからだ。
舞い降りた天使の仕事を知り、過去は変えられずともせめて未来を守ろうとして今に至る。
視線を戻せば、婚約を受け入れてくれた初恋の君がディートリヒをじっと見つめ返してくれる――「御用は何でしょうか、お客様」と言わんばかりに。
ディートリヒは掠れた声で「手を」と求め、己の手を差し出した。
ユリアの白く細い手指が重ねられ、その存在を確かめるように握る。赤みの強い紫の瞳を見据えると、己の心臓がどくどくと鳴る音が耳の奥に響いた。
「…私は、君が好きだから婚約を申し込んだ。会場でも言った通り、一目見た時から忘れられなかったんだ」
だから仕事は関係ないと言おうとして、微笑んだユリアの美しさに息を呑む。
廊下から足音が聞こえてくる。
「はい、殿下。そのように致しましょう。」
――違う、そうじゃない。
「ディートリヒ様、レヴィンです。よろしいでしょうか?」
ノックの音と共に男の声がした。
誤解を解きたかったディートリヒは逡巡したが、ため息をついてユリアの手を離す。
「入れ」
「失礼致します。」
柔らかな新緑の髪に薄茶の瞳。
数時間前ディートリヒに気安い口を利いていたのが嘘のように、真面目な顔をしたニクラス・レヴィン伯爵令息が入室した。
ユリアがいる事はわかっていたのだろう、彼は驚いた様子もなくディートリヒの横まで進み出る。
「歓談中に申し訳ありません。陛下達は約二時間後にお戻りになるそうです。」
「二時間か……兄上はどうしている?」
「護衛と共に、カルク伯爵令嬢に付き添われたままです。」
ディートリヒは壁に掛けられた時計を見やった。
今日の所はユリアを侯爵家に帰さねばならないし、エドゥアルトと話をせねばならないし、アイレンベルク公爵家がどう出るかも含め、今後について考えをまとめた上で父王に謁見せねばならない。
「…ユリア嬢、日を改めてまた話そう。」
「承知致しました。ディートリヒ殿下」
ユリアは微笑んでそう返した。
ディートリヒは馬車まで送ると言ってくれたが、廊下から微かに聞こえる靴音は兄からの合図だ。部屋を出れば兄と合流する事になり、ディートリヒとはひとまずそこで別れる事になるだろう。
差し出された手に自分の手を重ね、ユリアは立ち上がった。
「――…本当は、貴女を侯爵家になど帰したくないのだが」
ぽつりと呟かれた声を聞き、ニクラスは全力で息を止めた。
咳き込むのも「何言ってんだ」と言うのも「マジかお前」と叫ぶのも、アウトだ。今すべきは気配を消す事である。
嬉しそうなユリアがディートリヒの瞳を見つめて囁いた。
「ずっとこの距離でいられたら、どれほど嬉しいかと思いますけれど……護衛の方の仕事を奪ってはいけませんね。」
「……そうだな。」
私も君と二人きりでもっと話していたい、という言葉を辛うじて飲み込み、ディートリヒは寂しげに微笑んだ。
ユリアがもっと家を嫌がっていれば、保護という名目も立てられたのに。
きちんと聞いてほしいという意思表示に、彼女の手を握り直す。
「相手が誰であっても……君は、他を受けないな?」
「勿論です、殿下。」
そういう契約ですから。
などという幻聴が聞こえそうなさっぱりとした微笑みだ。ディートリヒは頷いた。
「できるだけ早く会えるようにするから、待っていてくれ。」
「はい。何があっても良いよう、しっかりと準備してお待ちしております。」
「うんッ?うん、まぁ、程々に…無理せず……」
動揺して泳ぐ視線をごまかそうと踵を返し、柔らかな手の感触に緊張しながら部屋の扉へ向かった。
そっと進み出た二クラスが扉を開く。
黒髪の美丈夫が立っている。
「殿下。この度は我が妹――」
ガンッ バタン!
ディートリヒは真顔で扉を蹴り閉めた。
突然の暴挙に二クラスは呆気に取られ、ユリアはキョトンとしている。廊下側も沈黙が流れているようだ。
二クラスが些か焦りを滲ませて口を開く。
「ディートリヒ様。フェリクス様が何か?」
「………いや……」
フェリクス・シュミット。
艶やかな黒の短髪を後ろへ流した美形、ユリアの実兄であり、宰相補佐を務めている。
ディートリヒにとっては頭の回転が早く仕事が正確で、頼りになる男…だった。
今となっては、無垢なユリアにあんな事やそんな事を教え込んだらしい憎きクソ野郎である。実の妹にふしだらな真似をした変態野郎でもある。
――…いや、しかし……フェリクス殿もまた、そういう教育を施された被害者なのではないか?彼も侯爵に、そのように育てられ…
そこまで考えてディートリヒはハッとした。してしまった。
フェリクスの主君は誰なのか?
彼の上司である宰相は数年前、三十歳手前という異例の若さでその職に抜擢された男だ。フェリクスはその手腕に惚れ込んで仕えているとはよく知られた話。
つまり?
――こ、この国は…一体どこへ向かおうとしているんだ……。
「殿下?お顔が真っ青ですが…」
「大丈夫だ。」
ディートリヒは虚勢を張った。
尊敬する人々の気高いイメージがガラガラと崩れ落ちて粉々になっている。
今すぐにでも叫び散らしながら壁に頭をぶつけたい衝動があるけれど、そんな事はできなかった。
一つ深呼吸をして、まずは扉の向こうにいるフェリクスと一旦平常心で会おうと覚悟を決める。
扉を開けるよう合図するつもりで、困惑と心配の狭間にいる親友と目が合った。
ぽろりと本音が漏れる。
「ニクラス…お前は無事でいてくれよ……。」
「どうしたんだよ、マジで…」
つい素で返したニクラスと疲労の色濃いディートリヒとを見比べ、ユリアはこてりと首を傾げた。
「殿下。もしご命令とあらばわたくし、レヴィン様の事も」
「しなくていい!!」




