45.あまりお勧めは致しません
涼やかな風が吹く秋の日に、第二王子エドゥアルトは王都へ帰還した。
貧乏伯爵令嬢に入れ込んだせいで国王から謹慎を命じられたとも噂されていた彼は、実際には騎士団と共にヴァイゼンボルン子爵領へ向かっていたのだ。
子爵は武器の密輸によって多額の利を得ており、エドゥアルトはその証拠を一つ一つ正確に押さえ、誘導した先で協力者もろとも子爵を捕えた。
「学生の身で騎士を率いてこれほどの成果を……殿下を疑っていた自分が恥ずかしいよ。」
「カルク伯爵令嬢との事も、姿を消す間、相手に警戒させないための布石だったというわけか。」
「すっかり騙されてしまったわ。本気のはずがないわよね」
「リリアン様は知っていたのかしら、それとも無知な協力者だった?」
「さあ。どの道、殿下からの寵愛は終わりだろうな…」
ぱらぱらと聞こえてくる話し声が聞こえないふりをして、リリアンは背筋を伸ばして歩く。前より随分姿勢がよくなったと、そう言ってくれた皆の声を思い出して。
ダニエラとの特訓のお陰か、昨日にはあのエルフリーデさえ「見る事はできますわね」と言ってくれたのだ。それまでは見ていられない程度だったとも言われているわけだが、リリアンは己の成長を実感して涙したものである。
放課後で人の減った学園、向かっているのはディートリヒに指定されたサロンだ。
エドゥアルトが学園の授業に復帰するのは明日からだが、今日、そこで先に会える予定になっていた。数か月ぶりの再会に抱くのは喜びと、緊張と、不安。
――…エドゥアルト様、怪我してないわよね。私、場違いじゃない?
もしかすると、「妙な演技で巻き込んですまない」と、「これからは君は自由だ」と、言われるのかもしれない。贈り物は巻き込んでしまう事への対価だったのかもしれない。
リリアンの名を呼ぶエドゥアルトの声に宿った熱を覚えているのに、邪推する人々の声がささくれのように心へ傷をつけていた。
――本当に私を心配してくれてた。好きだって言ってくれた。そう思うけど、もし私が演技に気付けてなかったってだけだったら?向こうでどこかのご令嬢と、いい感じになってたら?
考え始めると思考はぐるぐると宛てもなく彷徨う。
元々リリアンは、エドゥアルトが自分に惚れたという話自体が信じがたい出来事だったのだ。数か月離れていた事で、今更ながら「やっぱり全部夢かも」という考えすら浮かんでくる。
ダニエラに連れられてサロンの扉の前に立っても、中からディートリヒの返事が聞こえても、心の準備は終わらなかった。
――どうしよう、どうしよう。久し振りに会うエドゥアルト様に、私はどんな顔で何を言えばいいんだろう。
視線を床に落としてしまったリリアンの前で扉は開き、ダニエラがそっと彼女の背を押す。
後ろから扉が閉まる音がして、前方に立つ誰かの足元が視界に入って、胸元を手で押さえたリリアンは緊張のあまり目を泳がせながら顔を上げた。
「久し振りだな。」
彼は、出立の日より背が伸びたように見える。
燃えるような赤髪と、リリアンを愛おしそうに見つめる眼差しは変わらない。騎士団と共に過ごしたゆえなのか身体つきは前よりがっしりとして、同じ十五歳なのに一気に大人の男性になったように感じられた。
「…エドゥアルト様」
「ああ」
「ほ、本物?」
何を言おうかどうしようかと迷っていたのに、考えていたのに、恐れてすらいたのに、リリアンの口から漏れたのはそんな間抜けな一言で。
くすりと笑って頷いてくれたこの人に、自分はずっとずっと会いたかったのだと理解した。
見開いた目に涙を浮かべ、駆け出したリリアンはエドゥアルトの腕の中へ飛び込む。しっかりと抱き留められ、懐かしい手が頭を撫でた。
「よかった……よかったです、ご無事で。っまた、会えてよかった…」
「ただいま。リリアン」
「~~っ、おがえりなざいー!」
くしゃりと顔を歪めたリリアンは、ぼろぼろと泣きながらエドゥアルトの背中に手を回してしがみつく。
離れ離れになった恋人との再会というよりは、さながら、長旅に出ていた飼い主の帰還を喜ぶ子犬のようだった。
ぱちぱちぱち。
唐突に一人分の拍手が聞こえてきて、リリアンは鼻を啜って瞬いた。
そう、部屋には他にも人がいるのだ。ディートリヒとか、ユリアとか、ダニエラとか――…
「熱い抱擁だったね。再会おめでとう、二人とも。」
「……。」
どこかディートリヒに面影の似た、銀髪赤目の高貴そうな男子生徒とか。
やや呆れた様子でこちらを見ている、金髪碧眼の女子生徒とか。
「ひゅっ…」
一気に血の気が失せ、リリアンは真っ青になって即座に床へひれ伏――すのをエドゥアルトに止められ、ハッとして淑女の礼に切り替えた。がたがたがくがくと震えているけれど。
「しつ、失礼しました!だだだだいいいち王子殿下ならびにぁあアイレンベルク公爵令嬢におきゃれましては、ごごご機嫌うるわしく!」
「ご機嫌よう、そして初めまして。カルク伯爵令嬢」
ローレンツはソファに腰掛けたままにこりと微笑み、エルフリーデは黙ったままリリアンに軽く頷いてみせた。ローレンツの話を遮らないためだ。
「私がいて驚いたかな?ふふ、そろそろ君とも話しておきたくてね。」
「わ、私とですか……!?」
「兄上。俺はまだリリアンが足りていないのですが」
エドゥアルトが可愛い恋人を素早く抱きしめると、ローレンツはからからと笑った。
「まぁそう言わずに離してあげなさい。彼女真っ赤じゃないか」
一層きつく抱きしめられたリリアンの顔は湯気が出そうなほどに赤い。
エドゥアルトは渋々腕を解くと、リリアンの頬を手のひらで優しく撫でた。出立の朝にそこへ口付けられた事を思い出し、リリアンがぎしりと身体を固くしている。
「……ユリア、私の視界を遮らなくていい。流石にローレンツ兄上の前で何も起きないと思う。」
「そうでしょうか?警戒は怠らずにおかねば危険です。」
白いハンカチをかざす婚約者の手をそっと下ろさせ、ディートリヒは「大丈夫だから」と小声で念押しした。ダニエラが戯れる猫を見守るような目をして微笑んでいる。
以前ユリアがそうしたように、今度はリリアンが皆と離れてローレンツと対面に座った。
がちがちのリリアンをどうでもよさそうに見やって、エルフリーデは自分のいる円卓で二つ隣の椅子に腰かけた男――エドゥアルトを見やる。
「…アイレンベルクからの情報提供は助かった。」
「あら、お兄様とは仲良くしておいでですのね。」
「俺が何のために学園を離れるか、事情を知る者をとにかく制限したかったんだ。」
「そのお考えはわかりますが。わたくし、素人よりは口が堅い自信がありましてよ。」
わかりやすい嫌みを少々込めて、エルフリーデが微笑む。
碧の瞳と目が合って、エドゥアルトは彼女を見たのが随分と久し振りだと気が付いた。学園を旅立つよりも、ディートリヒが戻ってくるよりも前からだ。
未来での出来事が目を曇らせ、今のエルフリーデを真正面から見る事はできていなかったのではないか。
学生時代などエドゥアルトにとっては十年以上前の事だが、少なくとも「殺して差し上げます」と告げてきた時の彼女は、こんな目をしていなかった。
――…元々なのか、メルツァーが来た影響なのか、それはわからないが。
今のエルフリーデはまだ、敵ではない。
そうなる可能性はあったとしても、今は、まだ。
「俺が…意図的に、必要以上に君を避けたのは確かだ。すまなかった」
「……今になって、それを仰るのですか。」
エルフリーデが目を細める。
問いかけてもはぐらかしていた事をはっきり言ったのならば、それは「言って良い状況になったから」に他ならない。
避け始めた時期を思えば、その「状況」はヴァイゼンボルン子爵の捕縛ではなく、ローレンツがここまで回復した事にある。
ローレンツさえ元気になれば、エルフリーデを避ける必要はなかったという事だ。
つまり。
「それほどに玉座がお嫌とは存じませんでしたが……、いいえ。」
かつてエドゥアルトが、玉座につく事を納得していたのは間違いない。積極的に望んではいなかったが、嫌がるほどでもなかった。
だから「それほど玉座が嫌」は間違いだろう。
言いかけた言葉を途切れさせ、エルフリーデは小さくため息を吐いた。
「お言葉を信じるのであれば――それほどに、リリアン様を望まれるのですね。」
「ああ。」
「…あまり、お勧めは致しませんよ。」
「君はそうだろうな。」
アイレンベルクの娘として、未熟な令嬢を王子に勧める事などしない。
エドゥアルトの返しに「まったく」と心の中で呟いて、エルフリーデは碧色の瞳をローレンツとリリアンのテーブルへ向けた。
そんな彼女を、見ている。
王子達が相手でも物怖じせずに意見を言えるエルフリーデ。
気高く、美しく。ローレンツにも、エドゥアルトにも、ディートリヒに対しても、だらしなく見惚れるような事はない。
きっと誰と結ばれようとも彼女の心は彼女だけの物であり、愚かな男の手中に落ちる事などないのだ。
自分には触れる事すら許されないだろう、誇り高きアイレンベルクの華。
集まった貴人達の護衛の一人として黙って壁際に立ちながら、ツァイスはずっとエルフリーデを視界に入れていた。
夜――女子寮の自室に帰り着いて、しばらく。
かたんと封筒の落ちる音がして、彼女は部屋の入口を見やった。
もう夕食も過ぎた時間だというのに、手紙だか何だかが届いたらしい。ペンを置いて立ち上がり、扉に設えられたポストから封筒を取り出した。
表には彼女の名前と部屋番号が書かれており、裏に差出人の名前はない。
不思議に思いながら封を破ると、中には便箋一枚と簡単な地図が入っていた。かさりと広げて、息を呑む。
《家族の命が惜しければ、エルフリーデ・アイレンベルクを連れて来い。》




