44.そして彼女は目をそらす
白雲の浮かぶ青空はいかにも呑気で、廊下をすれ違う生徒達の会話も平穏そのもの。
薄暗い灰色の雲を胸中に留まらせているのは、わたくしぐらいなものかしら。
「エルフリーデ様、本日の昼食はどこに致しましょう。」
バスケットを持った側仕えに聞かれ、幾人かの令嬢の行き先を思い浮かべる。
サロンに集まる方、中庭の東屋を使う方、教室や食堂に行く方…特段、今日必ず接触するべきという方はいないわね。
「…今日は日差しも柔らかいし、外で食べようかしら。」
「承知致しました。お供します」
わたくしの今後について、まだお父様から手紙はない。
エドゥアルト殿下が姿を消しても、ローレンツ殿下が毎日登校できるようになっても。
どちらに近付け、どちらを見張れと言われる事もない。
けれど、ローレンツ殿下が本当に快復されるのなら、彼が王になるべきでしょう。
ならわたくしをその妻にと、お父様は考えるのではないの?
なぜ、何も言ってこないのか。
きっと少しずつ、少しずつ、何かが動いている。
わたくしが与り知らぬ外側で、何かが。
……知ろうとすれば、簡単にわかるのかもしれないけれど。
すれ違う生徒達と挨拶を交わしながら歩いていく。
エドゥアルト殿下が休学されてすぐの頃は皆、彼がいなくなった事や、ディートリヒ殿下によるリリアン様の庇護に目が向いていた。
数か月経った今では明らかにローレンツ殿下へと興味関心の先が移っている。鉢合わせたわたくしと殿下が挨拶するだけで、周囲の生徒が囁き合い顔を見合わせて。
不躾な視線を向けられるのは慣れているけれど、少し煩わしくはあった。
……旧庭園の方にでも行こうかしら。あそこなら早々、人は寄り付かないでしょう。
途中に使えるベンチの一つや二つはあるはずと、そう思って移動する途中で教会の前を通りかかった。
門は開かれていて、以前図書室で聞いた声が思い出される。
『疲れたと感じる事があれば、どうぞ気軽に教会へいらしてください。』
メルツァー公爵家の次期当主、イザーク様……あれから時折、彼はわたくしの前に現れた。
なんのことはない。挨拶の他にはほんの二言、三言、交わす程度の事だけれど。
『人目を避けたければ裏手にも入口がありますし』
「エルフリーデ様?」
側仕えの戸惑った声に振り返る事もなく、教会を囲う生垣に沿って歩き出した。
ほんの些細な寄り道。
決して、彼に会おうと思ったわけではないわ。
これまでわざわざ裏に回る事などなかったから、彼の言う「裏手の入口」をわたくしは知らなくて。それを見ておこうと思っただけ。
『何も問題はありませんので。教会へ伺う事はありませんわ』
大丈夫、イザーク様は今ここに居ない。
昼食の時間は教会を訪れても絶対に不在だと、どうしても捕まらないと令嬢達が噂していたもの。
わたくしが来ていたなんて、あの方に知られる事はない。
角を曲がった先、白塗りのガーデンアーチの向こうで小鳥が鳴いた。
芝生の庭には三人席のテーブルセットがあり、片手に持ったサンドイッチを小鳥達につつかれながら、なぜか居るイザーク様が脚を組み背もたれに寄り掛かり、緩く微笑んで空を眺めている。
……どうして、いるの。
つつかれているのは無視?不在という話は?一人で何を?
幾つも疑問が浮かんでしまって、引き返すのが遅れたわたくしとイザーク様の目が合った。
驚いた顔で瞬いた彼は人が来ると思っていなかったのでしょうに、どうしてか歓迎するように笑って、向かいにどうぞとばかりに手振りをする。
「まぁ…!いつの間にか、お約束されていたのですね?」
目を輝かせた側仕えが戸を開けながらそう囁いた。
偶然と返しても信じないでしょうから、肯定も否定もせず曖昧な返事をする。
邪魔になってはいけないからと、側仕え達は教会の庭へ入ってすぐのところで待機した。昼食の入ったバスケットを受け取り、わたくしは仕方なしにイザーク様の方へ歩く。
ここでようやく椅子の背もたれから身を起こし、組んでいた脚を解いて、彼はわたくしを見上げた。
「こんにちは、エルフリーデ嬢。私を見つけるのがお上手ですね」
「こんにちは、イザーク様。探してはおりませんわ。入口の把握だけしに来たつもりでしたの。」
「ふふ、そうでしょうね。まぁせっかくですから、どうぞ。」
急に現れておきながら不本意を示したのに、イザーク様は気分を害した様子もない。いつも信徒にするのだろう慣れた手つきで、立ち止まったわたくしに椅子を勧めた。
椅子まではまだ、一メートルほど距離があって。バスケットの持ち手を握り直す。
「大丈夫ですよ、掛けて頂いて。」
本当にそうかしら?
彼の腕や肩、テーブルに留まっている小鳥達がわたくしを見ている。近付いたら、怯えて飛び立ってしまうのではないか。
ほら、一羽が首を傾げている。
「大丈夫に見えません。」
「ふっ、大丈夫だって」
「笑いましたか?」
「笑いましたね、これは失礼を。」
そう言うイザーク様が立ち上がったけれど、それでも小鳥達は彼の上からどいただけで、飛び去る様子はなかった。
ここまで慣れているのならもしかして、野鳥ではなく教会で飼っているとか。
イザーク様がわたくしに近い椅子を軽く引き、手振りと共に「どうぞ」と言って自分の席に戻る。
さして親しくもないのに随分と丁寧だ。
王族でもないわたくしに対して、次期メルツァー公爵たる貴方自ら、そこまでせずともいいでしょうに。
「…ありがとうございます。」
「貴女とご一緒できて光栄ですよ。」
大人しく座ってバスケットをテーブルに置きながら、イザーク様の方をちらと見る。未だ逃げない小鳥達が、彼がちぎり渡したパンくずをつついていた。
眼鏡の奥で、瑠璃色の瞳がそれを見ている。弱者を慈しむ心、メルツァーの慈悲。
「随分と貴方に懐いていますが、ここで飼育を?」
「いえ、野鳥です。」
「…それほど慣れているのに?」
「聖地は自然が多いですからね。野生動物との距離感や接し方も、いつの間にか身に付くものですよ。」
イザーク様はそう言ってサンドイッチを食べる。
その一口は、公爵令息がするには少々豪快に見えた。無作法とまでいかないけれど。
以前図書室で話した時に比べると、今ここにいる彼の方がずっと年相応に思える。
「…聖地は、王都とはだいぶ違うのですか?」
わたくしも食べようかと、先程渡されたバスケットを開いた。
こちらは最初から一口サイズにカットされていて、中身は野菜が多く、深皿にフルーツが添えてある。
「ええ。お越しになる際は喜んでご案内しますよ」
「そうですね、機会があれば。」
メルツァー公爵領、聖地レラク……生まれてこの方、直接訪れた事はない。
今後機会があるとも思えなかった。わたくしは王都で生きていくでしょうし、どなたに嫁ぐ事になろうとも、それなりに忙しい日々が待っている。
だから社交辞令で終えたのだけれど。
「招待しましょうか?よろしければ、ご友人も一緒に。」
イザーク様はそう言った。
それなら話が変わる、貴方と縁を繋ぎたい者は多いでしょうから。
メルツァー公爵領の広さや特産品に隣国との主な交易品、本に載っていた風景画、歴史上の記録…知っている情報が頭の中を巡った。
欲しがるのは、誰か。仲介の対価は。
考えながら、目の前の青年を見る。
対応に間違いがないように。
「…本気で仰っているのなら、興味がありますけれど。敬虔な信徒というわけでも、相談事があるのでもない者が多く訪れるのは、貴方にとって不本意ではなくて?」
「そう見えますか?」
「昼食に誘いたくても捕まらないと聞きます、そういった者を避けるためでしょう。いつもなら教会にもいないとか?」
「いますよ。」
そう答えた彼はにこりとして、悪びれた風もない。
「対応した者に嘘をつかせたと?」
「まさか。彼女達が建物を訪れるので、そこにいないと正確に答えているだけです。私がいるのは庭ですから」
「……呆れた理屈ですが、ともかく。彼女達を避けたいなら、先程の発言はご冗談でしょう。」
「そんな事はありませんよ。貴女が来てくださるなら何でも良いので」
多少賑やかなくらい問題ないと言うイザーク様の手に、小鳥がテーブルの上を跳ねて寄っていく。
彼は思わせぶりにわたくしを見るでもなく、利権をちらつかせるでもなく、呑気にもその鳥を撫でていた。
「……そうですか。」
微笑みを張り付けて返したけれど、どういう意図の発言かわからない。
わたくしが王都を離れる事に意味が?それとも聖地で誰かに接触させる?隣国との境、イザーク様はごく短期間とはいえ留学していた。あちらは随分と引き留めたがったと聞く。
思惑があって呼ぶのだと、敢えてわたくしに告げたのはなぜ?
「…ああ、考えさせたか。失礼、深い理由や政治絡みの意図はありません」
「それを素直に信じろと?」
「ええ。信じられなければ仕方ありませんが、まぁ、私は故郷が好きなので。貴女にも見て欲しいと思っただけです。」
「イザーク様は、わたくしを何だとお思いで?」
敢えて冷たい声を出した。目を細め、相手を見据えて。
アイレンベルクの娘を相手に、貴方は「気分転換になるでしょう」とでも言いたいのかしら。気落ちした者への慰めのように。
「…何かと言われると、そうですね」
その瞳にわたくしはどう映っているのか。
愚かにさ迷う羊?それとも、哀れに助けを求める弱者?
冗談じゃない。
ここにいるのは
「可愛い方だな、と。」
………、そういう事ではない。
わたくしが怒りを滲ませた事くらい、想定した答えの種類くらい、わかっているでしょう。
「外見の話ではありません。」
「もちろん性格も含めて、貴女をどんな方だと思っているかの回答ですよ。」
イザーク様の微笑みにはどこか、からかうような含みがあった。
ならばこれは嘘で、つまらない冗談のはずで。楽しげな眼差しに喜びが滲んでいるように見えるのは、見間違いに決まっている。
「軽口は結構です。」
「嘘偽りなく本心ですよ。」
「到底信じられません。」
「…では、努力しましょうか。信じて頂けるように」
妙に穏やかな声でそう返したイザーク様が見つめる先で、首を傾げた小鳥が彼の手のひらへ寄り添った。
今ここで席を立てば、拒絶できる。
そんな確信があった。
初めて会った夜、馴れ馴れしかった彼を拒絶したように。
貴方の努力など無用だと示そうか。
そう考えたのに、あの日差し伸べられた手が脳裏に浮かぶ。
『お嫌でなければ、貴女をお連れしましょうか。』
この手を取れば自分は弱くなると、そう確信した時の恐怖が蘇った。
きっとわたくしは、この方と深く関わるべきではない。
弱さを見透かされる事は、それを受け入れられる事は、アイレンベルクに相応しくないから。
築き上げてきた自分が崩されてしまいそうで、怖い。
だから、立ち上がらなければ。
そう思うのに脚が動かないのは、堕落なのか。
それとも、弱くなどならないと証明したいのか。
「……そうですか。」
呟いた言葉は拒絶には程遠く、好きになさればいいわと言ったも同然だった。
見なくてもわかる、きっとイザーク様は微笑んでいる。
弱者を労わるように?不幸を慰めるように?
あの瑠璃色に自分がどう映るか知りたくなくて、羽を繕う小鳥を見ていた。




