43.安全かつ平和的な計画
紳士淑女の皆々様、ご機嫌よう。
本日も健康に生きておいででしょうか?
わたくしはシュミット侯爵家のユリア。
この国の第三王子であらせられるディートリヒ様の婚約者、今もこうして、贈って頂いたドレスを堂々身に纏っている未来の妻でございます。
しかし……だからと言って。
「これは、よくない事です。」
レストランの個室、ソファでぴたりと横並びに座るのは良いのです、大歓迎です。あわよくばディートリヒ様をそっと抱きしめて差し上げたいと、少々邪な気持ちを抱いた事も否定できません。
ですが、わたくしが。
わたくしが貴方様に肩を抱いて頂いて、空いた手を繋いだ上に、お身体にもたれかからせて頂くのは、ちょっと。
「よくないです、ディートリヒ様。」
顔に熱が集まるのを感じながら、繰り返します。
力技で強引に抜け出す事はできるのですが、優しく繋がれた手が、わたくしを胸元へ寄せる腕が、「ここに居てほしい」と、そう仰っていて。
拒絶する事がひどく難しいのです、心臓がどくどくと歓喜に震えて、じわじわと薬が染みていくように動けない。
「大丈夫、もう少しだけ」
そんなにも甘やかな声で囁かれては、まったく何も一切合切すべてがまるきり僅かたりとも大丈夫ではなく、わたくしは危うく意識が遠のきそうになりました。
ディートリヒ様の最大の盾であり矛であるわたくしがこの有様では、御身が危険です。
指を深く絡めてしまいたい、もっと触れていたいと望んでしまう自分を叱りつけ、どうにか声を振り絞りました。
「殿下…その、本当に」
「呼び方。戻っているよ」
「……ディートリヒ様…」
「うん。」
穏やかに返事をしながら、わたくしの頭に頬を寄せて。
一体どうすればいいのでしょう。「好き」という気持ちが心臓のあたりで爆発して、そのまま身体が四散してしまいそうです。この愛くるしい、まさに苦しいほどに愛しいこの方を、もう、一体どうしてくれましょう。自然と声が漏れてしまう。
「すきです…」
「私も。君が好きだよ」
「っいけません、そのような追い打ちをされては、わたくしがもちませんから…!」
「先に追い打ちをかけたのは、君だと思うけど……ふふ」
顔を上げてしまったら、目が合ってしまったらもうどうにかなってしまいそうで、わたくしは顔を伏せたまま、ディートリヒ様の腕から抜け出す事もできずに。
せめて、この方のお声だけ聴いていたい、などという甘えた考えだけは振り払わなければ。周囲の警戒をするのです、わたくし。他ならぬディートリヒ様のために。
「おち、落ち着く時間を頂きたいのです。今のわたくしでは、廊下でレヴィン様がヴィルマ様と話しておられる事くらいしか察知できず――」
「うん?二人が来たのか。」
ディートリヒ様の声から甘さが抜けて、いつもの落ち着いたお声になりました。
わたくしの身体をそっと離してくださって、自分が望んだのに名残惜しく感じてしまう。それでも鈍っていた五感はみるみる正常さを取り戻し、それならば。まだ繋いでくださっている手を持ち上げて、甲に口付けを。
わたくしは貴方様のためにあると、示すために。
「メルツァー様もいらしたようです。」
「…ありがとう、ユリア。」
きちんと役割を果たしたわたくしの微笑みに、ディートリヒ様が頬を緩める。
その温かな笑顔が嬉しくて、今すぐ後ろ手に拘束した上でじっくりと、頬に幾度か口付けをしてしまいたいくらいですが――我慢、致します。来客が、ありますので。
名残惜しさを振り払うように素早く後ろへ跳び退り、方向転換して扉を開けました。
休日のティータイム。
ヴィルマ・フューラー様をエスコートするニクラス・レヴィン様と、教会からそのまま来たのでしょう神父服のイザーク・メルツァー様がいらっしゃいました。
ディートリヒ様とレヴィン様、メルツァー様は幼馴染であり、気の置けない仲でございます。単に王子殿下と側近と公爵令息、という肩書きのみでは終わりません。ディートリヒ様に対して気安く話す事を許された方々でございます。
ちなみに、リリアン様は本日ダニエラ様から《淑女教育》を受けておられます。
常日頃から心身を鍛えるラングハイムの教え、普通の令嬢には少々厳しいものかと存じますが……しぶとく食らいつく根性、という面では、リリアン様は他の令嬢より優れておりますから。
頑張っておられる事でしょう、この青空の下。悲鳴を上げながら。
挨拶もそこそこに、レヴィン様達はわたくし達の向かいに、メルツァー様は遠慮なく上座の一人席に座られました。
店員が人数分の飲み物と軽食を用意すると、誰からともなく雑談が始まります。
バルヒェット領で鉱山事故の報告があったけれど虚偽らしいですとか、馬術の授業で振り落とされた生徒がいたとか、王都の郊外では空き家の鍵をこじ開けられる被害が複数報告されているとか。
大まかには殿方三人が話され、時折わたくしやヴィルマ様も加わりました。レヴィン様と婚約して長いだけあって、ヴィルマ様はメルツァー様がディートリヒ様に敬語でなくとも気にした様子がありませんね。
「イザーク、教会はまだ忙しいのか?ローレンツ兄上が元気になった分、皆もだいぶ落ち着いた頃かと思うが。」
「国の未来を不安がる奴はほとんどいなくなったな。祈るのが趣味みたいな者は変わらず来るが」
「おい、そんな言い方していいのか?メルツァー様が。」
「悪く言ったつもりはない。神への祈りは登山や釣りのような、自然との対話に近しいもんだろ。」
「…どこが?」
「ハ、お前は祈らないからな。」
首を傾げたレヴィン様にメルツァー様が笑い、ディートリヒ様も「確かに」とばかり、くすりと微笑んでおられます。
ヴィルマ様は顔を正面に向けたまま、けれど瞳はレヴィン様の横顔をじっと見て。その唇は微かに笑っていました。けれどレヴィン様の視線が自分に向きそうとわかるや否や、テーブルに目を落として自然な仕草でお菓子をつまむ。
レヴィン様がいらっしゃると、彼女はいつもそのようにしています。あの視線にレヴィン様は気付いていないかもしれませんね。
「私はこのところ月に幾度か、情報交換を兼ねてエルフリーデ嬢と昼食を共にしているんだが。教会が空いてきたならお前もどうだろう。」
「やめておく。昼は思う存分だらけたいからな。」
「まだあんま寝れてないのか?」
「寝ちゃいるが、ほら。……私も、猫を数匹かぶって生活しておりますから。」
メルツァー様がにこりと微笑みを作って胸に手をあて、さながら穏やかで優しい理想的な神父様のようでございます。
レヴィン様が声を上げて笑うのを、ヴィルマ様はやはり横目でじっと見ておいでです。わかります、好きな殿方のお顔を見つめていたい気持ち。大きく頷いてしまいたい程に。
その方がその方らしく生き、反応し、話している姿を近くで見られる……それはとても幸せな事です。
「猫をかぶらずに話してみてはどうだ?」
「相手はアイレンベルク公爵令嬢だぞ?『馴れ馴れしい』って言われるだけだろ」
メルツァー様はそう言って軽く肩をすくめる。
確かにその通りでございましょう。さして親しくもない殿方から砕けた口調で話されても、エルフリーデ様は好ましく思わない。
ですからディートリヒ様の提案は、昔の話が前提です。
『向こうは覚えてなさそうだったけどな。』
エルフリーデ様が忘れてしまったという、メルツァー様との幼い日の出会い。
今この場にいる中では、ヴィルマ様だけはご存知ないのかもしれませんが、エルフリーデ様とメルツァー様は城の庭で偶然出会ったのが初対面なのだそうです。
だからメルツァー様がその時のように話したら、当時を思い出してくれるのではないか、というご提案なのでしょう。
それがわかった上で、メルツァー様はやはり、わたくし達とエルフリーデ様との会食には顔を出さないと。
……いっそ、「昔に会った事は覚えていますか」と聞かれては?
『再会したとて……もし片方が約束を忘れていたら、それほど虚しい事もないですわね。』
あの時のエルフリーデ様の言葉は、忘れられた方への同情がこもっておりました。
記憶にない出会いの話を聞いたとして、仮に思い出せずとも――もちろん、それが虚構でないと信じた上で不快に思わないだけの信用が、メルツァー様にあってこそ――無下にはされないと思うのですが。
提案してみようかと口を開きかけましたが、わたくし自身がそうはしなかったという事実を思い出す。
ディートリヒ様が初めて会った夜の事を忘れていても、わたくしは「思い出してください」と言う気にはなりませんでした。お伝えしようと思う事すらなかった。
そう――…そうですね、メルツァー様。
思い出して頂けたらどんなにか嬉しいけれど、でも、思い出されなくてもいい。以前の自分に重なるものがあって……わたくしなんだか少し、彼を応援したい気持ちになって参りました。
「メルツァー様。」
「ん?」
「もしよろしければ、エルフリーデ様を秘密裏に拉…お連れしましょうか。」
「拉致って言いかけなかったか?」
レヴィン様がぼそりと呟きました。これは言い間違えただけでございます、本当に。誤解なきよう。
「いえ勿論、口の利ける状態で。」
「口の利ける状態…?」
ヴィルマ様が目を丸くしていますが、わたくしは当然とばかり頷きました。口が利けないとお話ができませんから。
「お二人でゆっくり話ができたらよいかと思いまして…エルフリーデ様の側仕えはこちらで対処すれば、問題なく時間が作れるかと。」
「聞いた感じ問題しかないな、ディートリヒ。」
「うん、ユリア。君の提案は間違っていないけれど、やり方が少し誤解を招いてるかもしれない。」
「左様でございますか…」
ディートリヒ様がそう仰るのなら、ひとまず引きましょう。
メルツァー様が食事会に来ないと仰るのは、わたくし達を含め他の者がいる場ならやめておくと、そういう意味かと思ったのですが……やり方。側仕えを対処と言っても隔離するだけで、意識を失わせるより遥かに安全かつ平和的な計画のつもりで…。
「そもそも私は父上に彼女との縁談を頼んでないし、向こうには第一王子殿下との話が持ち上がってるだろう今、焦りもせず何ら積極的に動いてもない状態だ。周りがそう気を回す必要はないだろ。」
「…イザーク様。なぜ動かないかは、私達がお聞きしてもよろしくて?」
少しそわりとして、ヴィルマ様が熱心な目をして仰います。
メルツァー様は軽い調子で頷きました。
「ニクラスとディートリヒは知ってる話だが、まぁ、一度きっぱり断られてるからな。自分は王家に嫁ぐと」
「……うぅん…」
ディートリヒ様が非常に苦々しい気持ちを飲み下したかのように、それはそれは複雑そうに唸りました。あまり見ないお顔です、目に焼き付けておかなくては。眉間に寄った皺までもがお可愛らしい。好きです。
「うちがアイレンベルク公と仲が悪いという事はないし、話を持ちかけたら、納得頂くのはそう難しくないと思ってる。ただ本人が嫌だと思うなら、私はそれを尊重する。」
「…ん~、お前らしいな。」
レヴィン様が苦笑し、ディートリヒ様は…悩ましいお顔ですね。今はもうこれ以上言っても無駄とわかっているのでしょう、唇を閉じておられますが。何か言いたげではあります。
ヴィルマ様がこほんと咳を一つ。
「再来週の舞踏会……エルフリーデ様が第一王子殿下に選ばれたのなら、最初に踊られるはずです。数代前にはそこで婚約を正式発表した例もありますし、…本気なのでしたら、後悔なきように。」
「ははは。お気遣いありがとう、ヴィルマ嬢。そう深く考える事でもないさ」
メルツァー様はけらけらと軽やかに笑っておりました。まるで悩む必要などないとばかり。
神の声を聞くとも言われるメルツァー公爵家ですが……この方に神の言葉が必要かどうかは、疑問でございますね。
「殿下の隣に立った時、彼女が笑えていたらそれでいい。」




