41.本日も素晴らしく
第二王子エドゥアルトが休学してから、既に三か月が経つ。
彼が寵愛するリリアン・カルクは、日中の護衛を引き受けてくれた生徒達と話すようになり、やっと同学年の友を得た。
ぎこちなくも淑女教育の遅れを取り戻そうと必死なリリアンを見て、令嬢達の目も多少は好意的・同情的なものが増えてきたようである。
薬師コンラート・バーデンは、キンケル侯爵の協力のもと、東国から取り寄せた薬草によって新薬を開発。
これは第一王子ローレンツの慢性的な体調不良を一気に改善させ、バーデンは王家から褒賞を賜った。
第三王子ディートリヒを通じて与えられていた研究予算の増額もあり、妬みから彼の研究室に放火しようとした者もいたが、これは即座に騎士が捕えて事なきを得ている。
「まさかバーデンさんが狙われるなんてね。すっかり有名になっちゃって…」
こんなにトボケた人なのにとため息をつくのはリリアンだ。
愛らしい顔立ちにふわりとしたピンクブロンドが特徴の彼女は、今日もまた薬作りを眺めたり、危なっかしい事態に悲鳴を上げたり、在庫が尽きそうな素材を教えてやったりと、放課後の時間をバーデンの研究室で過ごしている。
雑談しながらも美しい姿勢を心掛け背筋を伸ばしているが、必要な筋肉はまだ未熟。疲れては背を曲げ、休憩してはまた姿勢を正すという事を繰り返していた。
「いやァ~ははは。まさか火を放たれそうになるとは、ワタクシもびっくりでして。」
呑気に首の後ろを掻く薬師バーデンはボサボサの短い茶髪に細い目で、浮かべた笑顔はあまりにも胡散臭い。今にもリリアンに「お嬢さん、君に良い仕事があってね」と言い出しそうな雰囲気の男だった。
「買い物から戻ったら、なんだか騒がしくって。いつもの騎士さんが誰かを押さえつけてまして……誰だったんでしょ、あの人。」
「えぇっ、犯人のこと新聞とかで読んでないの?騎士団の人から聞いたり…」
「聞いたような、ないような。はて。」
「ここに放火しようとしたのよ。普通は気にならない?」
「ワタクシが一番気になるのは、新しい素材からどんな薬が作れるかという事。あとは――…近くに、ユリア様がいるかどうかです。」
頷きながら語るバーデンの手は既に、次の実験を始めている。
乾燥させた植物の粉末が試験官の水の中で揺らされるのを見ながら、リリアンは「確かに」と頷いた。
ディートリヒの婚約者であるユリア・シュミット侯爵令嬢は時折、突拍子もないところに現れるのだ。バーデンの背後とか。
「あの方も、本当に謎よね……すらっとして落ち着いてて、まさに淑女!って感じなのに、バーデンさんを片手で持ち上げちゃうし。」
「アハハ、今度リリアンさんもやってもらったらどうですか?」
「嫌よ!」
「怖いですよォ~、足がつかないの。もがいてもビクともしませんし。」
「私はバーデンさんと違って、ユリア様に怒られるような事はしないから。」
「ワタクシも、怒られたくて怒られているわけではないのですが……なぜいつもああなるんでしょう?」
不思議でならないと首を傾げるバーデンは広げた手まで傾けてしまい、そこから落ちた小さな実が十個ほどテーブルを転がって床へ飛び出した。
カラカラと全部こぼしてようやく気付いたのか、「あわわ」と言いながら拾い集めようとして、実を踏んづけて盛大に滑る。ドシンと音がした。
「……そういうところよね。」
呟くリリアンは残念なものを見る目をしている。
床の上で腰を押さえるバーデンを放置し、あちこちへ転がった実を拾い始めた。
扉が開いたままの隣室からこつりこつりと足音が近付いてきて、姿を現した令嬢が静かに身を屈める。日焼けのない白い手は床に落ちていた実を一つ摘まみ、リリアンへと差し出した。
「ちょっと抜けている男性が好きという女性もいるけれど、何事も限度がありますわね。」
立ち上がった彼女――ヴィルマ・フューラー伯爵令嬢は、今日もキャロットオレンジのボブヘアを耳にかけ、左のサイドは編み込んで後ろへ流している。
実を受け取ってテーブル上の小さなザルに入れながら、リリアンは大きく頷いた。
「ですよね。バーデンさんのはちょっと、度を越えてるっていうか。いつかそのまま身を滅ぼしそう。」
「ひ、否定できませんね…ははは……おォ、痛い…」
「授与式の間何も起こさずにもったのは奇跡的でしたわね。」
自身の顎に軽く手をあて、思い返すように視線を横へ流してヴィルマが言う。
王城で授与式が行われた際、正装させられヘアスタイルもキチッと固められたバーデンはそれでも若干の胡散臭さを残し、冷や汗をだらだら流してはいたものの、声が裏返ったりだらしなく体を掻いたりする事はなかったのだ。彼にしては頑張った方である。
「ユリア様の懸命な指導が効いたのかしら。」
ヴィルマの言葉に、バーデンは自然とその姿を思い浮かべた。
艶やかで真っ直ぐな長い黒髪、玉のような白い肌。しなやかな指先で閉じた扇を構え、桃色の唇はにこりともせず、バーデンを見据える赤紫色の瞳といったら、凍えそうなほど冷ややかで。
『成果を出したのは貴方ですが、そもそもはディートリヒ様が貴方をここへ呼び、十分な研究設備と費用を与え、健康管理も命じ、今回褒賞を賜る事となった薬の素材に至っては、自らキンケル侯爵に話をつけてくださったからこそ輸入が叶ったのです。』
『ハイ…』
『貴方一人では到底成し得なかったものであり、ディートリヒ様がいらしたからこその全てである。そんな事情はとうに頭の先から爪先に至るまでみっちりと理解し、ディートリヒ様に深い感謝を覚えておられるかと存じますが。』
『ハイ……』
『その上で授与式に臨む貴方が、万が一にもディートリヒ様に恥をかかせたり、お顔に泥を塗るような真似をなさったら…当然、わたくしが許しません。これから叩き込む最低限の作法を是が非でも習得して頂きます――できますね、バーデン。』
『ハイッ』
圧。
ユリアの「指導」ときたらそれはもう、凄まじいほどの「圧」だった。バーデンが冷や汗を流したのは国王に謁見する緊張ではなく、何かやらかせばユリアが黙ってはいないという恐怖。
暴力を振るわれこそしなかったが、どうしてか彼女の持つ扇の先端が抜き身の刃のように思えたものだ。バーデンは身震いして両腕を擦り、頭を横に振った。
「そも、お二人とも危機感が無さ過ぎですわ。」
リリアン、バーデンと順に目を合わせ、眉を顰めたヴィルマが言う。
「いくら第三王子殿下のお墨付きと言えど、平民の薬師が成果を上げれば貴族出身の薬師は気にいらないというもの。」
「うーん…そうなんですかねェ。」
「そして、いくら第二王子殿下の寵愛を得ていようとも。作法の覚束ない方が妃になろうとすれば、その座を狙っていた方から邪魔に思われても仕方がないでしょう?」
「それは…そのぉ……もちろん。」
リリアンがもごもごと同意する。確かにエドゥアルトは自分を残して行く事を心配していたし、ディートリヒ達に留守を頼んでいた。
だからこそリリアンはこうしてヴィルマやバーデンと共にいて、日中もダニエラ・ラングハイムを通じて護衛を引き受けてくれた者達に見守られているのだ。
――でも……でも、今のところ何も、起きてないんだけど。
ヴィルマが来た部屋の方から扉が開く音が聞こえ、三人の視線がそちらへ向く。足音が近づいてきて、書類を片手に入ってきたのは新緑の髪を短く整えた男子生徒だ。
レヴィン伯爵家次男、ニクラス。普段は隣室のソファで読書しているヴィルマが研究室側にいるのを見て、彼は少し意外そうに薄茶の瞳を丸くした。
「何かあったのか?」
「いいえ、特には。木の実がバラ撒かれた程度よ」
「そいつは大事件だな。」
苦笑したニクラスが部屋を見回し、各設備の無事を確認する。今日は少なくとも、爆発やら破裂やらは起きていないようだ。
リリアンと目を合わせ、ニクラスは紳士的な笑みを浮かべた。
「では行きましょうか、カルク伯爵令嬢。」
自分には決して向けてこない類のものであるその微笑みを、ヴィルマは彼の横からちらりと見ている。
リリアンは素直に返事して隣室に置いた鞄を取りに行き、上機嫌のバーデンは木の実を磨り潰す作業に移行した。
ヴィルマがほんの一歩ニクラスに近付けば、彼は少しだけ背を曲げて彼女に耳を傾ける。人がいるからわざとらしく向き直ったりはせず、横目で見やるだけにして。
恐らくそんなつもりはないのだろうが、仕事中のニクラスは普段より少し冷たい印象に見えていた。ヴィルマと目が合う今、にこりとも笑っていない事も原因の一つだろう。
自身も笑わずにその視線を受け止め、ヴィルマは心の中でだけ、ひっそりと口角を上げる。
ニクラスの真剣な表情を見られたのだ、この近さで。それだけでもここへ滞在した甲斐があるというもの。
そんな気持ちは秘めたまま、ヴィルマは少しだけ扇を広げて「またなの?」と囁いた。
何も知らないリリアンと違って、自分は察する事ができるから。
ニクラスは否定しない。
「まぁな」と言わんばかりの、眉を下げて少しだけ困ったような笑みをヴィルマにだけ見せて。よそ行きの紳士な笑みを張り付けて、ヴィルマと共にリリアンを連れ出した。
リリアンは知らない――否、知らされていない。
エドゥアルトが不在となってから幾度自分が狙われ、守られてきたのか。
口をつける予定の食事に何が混ざっていたか、通る予定の場所で誰が待ち構えていたか。寮部屋の合鍵が作られたせいで、急遽鍵の交換が行われた事も。そのために手持ちの鍵がいつの間にか、新しい物にすり替わった事も。
三人が通った廊下の曲がり角。
長い黒髪がさらりと揺れた瞬間も、物音一つ立てる事を許されなかった襲撃者の存在も、リリアンは気付かない。
気付く前に全てが終わっているから。
「見るからに呑気で、無防備で無警戒――…ええ、本日も素晴らしく良い囮でございます。リリアン様」




