40.必ず殿下に会いましょう
休日の早朝、演習場では剣戟の音が響いていた。
金属製と同じ重量に調整した木剣を構え、互いに上着を脱いで軽装となったユリアとディートリヒが向かい合っている。
「はぁ…はぁっ……」
ディートリヒが呼吸を乱し額に汗が滲んでいるのに対し、ユリアは平常時となんら変わらぬ落ち着いた様子だった。
他に誰の姿もない、二人きりの鍛錬。
一呼吸置いて駆け出したディートリヒに合わせてユリアも地面を蹴った。
木剣がぶつかり合う音は高らかに、時として重く打ち鳴らされる。
ディートリヒは決して弱くない。基本を踏まえつつも馬鹿の一つ覚えのようながむしゃらな振り方はせず、相手をよく見て対応し、時に意表を突く事もしてみせる。
ただ、ユリアが強過ぎた。
連撃に混ぜた渾身の一振りは見抜かれ受け流され勢いを利用され、観察と思考で動きが遅れると確実にその隙を突かれ、守りは堅く打ち崩せない。
一度も攻撃を当てられないまま、やがてユリアが「時間ですね」と終わりを告げた。ディートリヒが力を抜き、剣先が地面につく。
「はぁっ、はぁ……わかってはいたつもりだったが、ここまで通らないか。」
「シュミット侯爵家の者として、お兄様とも渡り合うくらいには腕を上げておりますので。」
ユリアは暗殺者の家系に生まれ、超実践的かつ実戦ありきの修練を積んできたのだ。
ディートリヒとは学んだ内容も練度も段違いで当然である。
――今でこの有様では、三年後のユリアにとって私はどれほど庇護対象だったことか。ここまで実力差があっては、過保護に扱われている事にも頷けるな。
「付き合ってくれてありがとう、ユリア。自分の弱さがよくわかった」
「殿下も流石の手腕でございました。生半可な者では相手にならないでしょう」
ユリアはそう言ったが、その相手とはせいぜいが街のごろつきや素人上がりの新人騎士程度だろう。
驕る事なく自分の実力を弁え――たとえ男として少々思うところがあろうとも――、彼女に任せるべき所は任せねばならない。
「加減をしてくれたと思うが、実際どれくらい隙があっただろうか。」
「わたくしが本気なら、殿下は八――…五十回ほどは、命を落としております。」
「…八十と言いかけなかったか?嘘は無しではっきり言ってくれ。何度殺せた?」
ディートリヒが真剣な目で問うと、数秒黙ったユリアはそっと目をそらした。
「……百二十六回です」
「甘やかすな!私を!」
「ううっ…甘やかしたいのですが、駄目でしょうか。」
「駄目だ。」
しゅんとしてこちらを見つめるユリアに胸が痛まなくもなかったが、ディートリヒはきっぱりと言い切る。褒めて伸ばすやり方もあるとはいえ、実力の過信に繋がるべきではない。
そもそも五十回と百二十六回では相当な差がある。
――ユリアはやはり、「自分が守ればいい」という思いが強いのだろうな。強者ならではの考えだが…。
自己鍛錬は続けようと胸に誓い、ディートリヒは先程までの打ち合いを反芻した。
ああすればよかった、と既に理解している事もあれば、あれはどうするのが正解だったのかと悩む事もあった。
清々しい朝の空気が、心地良い風となって流れていく。
ユリアの澄んだ赤紫色の瞳が、ディートリヒをじっと見つめていた。
――殿下がわたくしを見つめる眼差しが、お優しかったりお可愛らしかったり、素敵だったりする普段とはまた違って……こちらの隙を窺うあの真剣な目、胸が高鳴りますね。またその内、こうしてお付き合いするのもいいかもしれません。他の者に依頼されたくはないですし…。
反省点を考えているのか、どこともない空中を見つめるディートリヒは少し眉に力が入っている。
その横顔も、汗ばんでふわりと乱れた銀髪も、無意識にか暑そうにシャツの襟にかけた指先も、ユリアは自然と見とれてしまう。ちらりと演習場を見回し、他に気配がない事を確認した。
「殿下」
「ああ、すまない。考え込んでいた…君からも何か、」
言いかけたディートリヒは、期待に目を輝かせたユリアがそっと腕を広げるのを見て思わず一歩後退した。
まさかの拒否にユリアの瞳から光が消えかけたが、ディートリヒの表情から拒絶ではないと気付いて瞬く。腕を広げたまま半歩距離を詰め、首を傾げた。
「お嫌ですか。」
「嫌ではない。ただ今はほら、汗をかいたから――」
「失礼致します。」
そんな理由なら問答無用とばかり、ユリアは素早く、かつ丁寧にディートリヒを抱きしめる。声にならない悲鳴を上げる未来の夫を無視して、ぎゅうと胸元に擦り寄った。
上着がないため普段より肌の温かさも感じられるし、筋肉の付き方もわかるし、ユリアの好きな香りがして心地よいし、トクトクと鳴っている心臓の位置も正確にわかる。
ちなみに、ディートリヒに抱きしめられるとユリアの五感が著しく衰えるため、彼にそんな事ができぬよう両腕をきちんと後ろへ拘束する形で抱きしめていた。
ユリアは心の中で「抜かりなし」と呟き満足そうにしているが、甘えてくる婚約者を抱きしめ返せないディートリヒには困った時間である。
「…あの、ユリア。腕を解い」
「駄目でございます。これが一番安全なのです」
「そ、そうか……。」
果たしてそうだろうかと疑問に思う気持ちはあったものの、ディートリヒは大人しくされるがままになった。
渋る彼女を説得して付き合ってもらったのだから、これくらいは好きにさせるべきだろう。
ディートリヒの胸に頬を寄せ、ユリアは目を閉じている。
――…殿下が思い出さなくても構わない……わたくしは、確かにそう思っていたはずなのに。
姿を見る度、目が合う度、微笑みをもらう度、触れる度に、ユリアの中にあるディートリヒへの想いは深まるばかりだった。
彼が立派に成長し、結婚して子を成し、やがて引退して一生に満足するまで、約束通りこの手で最期を差し上げるまで見守ろうと、そう考えていたはずなのに。
――自分の気持ちを、この温もりを知った今となっては。貴方様が他の誰かと結ばれるなど……ああ、考えたくもない。心臓を千々に引き裂かれるような心地です。
きっと、知らないユリアならその状況でも依頼を成し遂げただろう。
ディートリヒの人生において、隣に居るのが自分ではなくとも。彼を守り続けて依頼を、約束を果たす事こそ使命だと。
『相手が思い出さないなら、惨めなだけでは?』
茶会で聞いたエルフリーデの言葉を思い出したが、ユリアは心の中で変わらず首を横に振る。
何が、惨め。仮にもしユリアが自分の気持ちに気付いた上で、ディートリヒが約束を思い出さなくとも。
たとえ恋焦がれて苦しい思いをしようとも、それは彼を想う気持ちが確かである事の証明だ。
「――…殿下」
「うん?」
「先日、エルフリーデ様の茶会についてご報告致しましたね。」
貴族令嬢らしく、エルフリーデは雑談の中でそれぞれの知識や態度を量っていた。
第三王子ディートリヒの婚約者であるユリアは、エルフリーデならびにアイレンベルクに対して敵意や悪意、猜疑心を持っているかどうか。側近ニクラス・レヴィンの婚約者であるヴィルマはどうか。
第二王子エドゥアルトがご執心らしいリリアンは果たして、王族の妻に相応しい器があるのかどうか。天然なのかそれとも、実際はとんだ曲者でただとぼけているだけなのか。
結果はお察しの通りだったが。
ダニエラは潤滑油として呼ばれたのだろう。エルフリーデともディートリヒ一派とも付き合いがあり、仮に茶会で何かあったとしても、面白おかしく言い触らさないと信用できる。
彼女がいるといないでは会話も違ったはずだ。
「政治的なものは何も関係がないのですが……あの時、少し気になる話がございました。」
「何だろうか。」
ようやく腕の力を緩め、ユリアは一歩離れてディートリヒを見上げた。
ここから一秒もなく殺せてしまう距離なのに、それを知っているのに、ユリアを信じている彼の目には僅かたりとも怯えがない。
「《神は常に我らを見守り、正しき者には天使を遣わす》……悪しき罪を犯さなければ…あるいは、犯しても贖罪を完遂していれば。人はまた新たな生を戴ける、そう言われておりますね。」
「……そうだな。私達人間の魂…すなわち命は、そうして生死を巡っているものだ。」
「かつての人生の記憶が残るわけではありません。それでも……もし、どのように生まれても必ず出会う相手がいるのなら。それこそは《運命》と呼べるのだろうと…そんな話があったのです。」
ヴィルマが話した物語に、エルフリーデが仮定を加えて言った事だ。
運命とは人間の意思如何に関わらず訪れるもの。
つまりそれは人が何を目指そうと、たとえ何かを間違えようとも必ず起きる。
――貴方様が命を終えるその時まで、必ずわたくしがお守りすると。そう考えておりましたが……どうやら少し、欲深くなってしまったようです。殿下との繋がりがそこまでで終わるのは嫌だと。
「もし貴方様に運命があるのなら、それすらも他の者に譲りたくありません。」
ユリアの赤紫色の瞳が、真っ直ぐにディートリヒを見つめていた。
自分の胸に手をあて、まるで宣誓するように彼女は言う。
「わたくしが、貴方の運命でありたい。」
その瞳と声に宿る意志の強さに、ディートリヒは僅かに目を見開いた。
譲りたくないと言うユリアの想いに、胸の奥がじわりと熱くなる。
「たとえ今生を終えようとも、来世もし結ばれることはなくとも。幸福や苦難のあるなしに関わらず……この世界に生まれたのなら、必ずまた貴方に会いたいと。そう思いました」
言葉を続けながらゆっくりと頷き、ユリアは少し目を伏せた。
胸元の手をきゅっと拳の形に変え、こみ上げる想いのままに微笑む。
「――…それ程までにわたくしは、貴方が好きです。ディートリヒ様」
ぶわっと顔を真っ赤にした婚約者を見て、嬉しそうに破顔したユリアは足を踏み出した。
半端に腕を広げたディートリヒの懐に飛び込み、
「ユリア、」
何か言いかけた彼の首筋に手を添えて、無防備な頬にキスをした。
泉のように澄んだ青空には、ゆっくりと太陽が昇っていく。
四章 完
五章開始まで、少し間が空きます。




